蔵元便り   5月

 5月の風が心地よく、こいのぼりも元気に空を泳ぎ回っています。男の子の季節の始まりです。子供の頃、川の水が温むこの季節になるとザリガニ取りや魚釣りに走り回った(そしてザリガニや小鮒を取るために、田んぼの用水路の水量を変えてしまうので農家のおじさんによく怒られた)ものです。
 先々月に「弟がらみで不安な思いをたくさんした」と書いたところ、「それはどんなことだ」という質問をいただきましたので、今回はそのことについて書きたいと思います。読んでいただければ、なぜ私があの時、あんなにまで涙を流したのか、どうしてこんなにもウルトラマンを崇拝するのかが、ちょっとは分かってもらえると思います。
 私が今の息子より何ヶ月か大きくなったくらいの年齢の時だったと思います。ある時、「マスのつかみどり大会」があるというので家族で出かけました。私と父が池に入って獲っていると2歳の弟が「ボクも入る!」といって泣き始めました。まだまだ小さいですから、水に入れば服が濡れてしまいます。仕方なく、素っ裸で(親も親だ)池に入ることになりました。機嫌の直った弟は魚を見つけたのでしょう、その場にしゃがみこみました。次の瞬間、また泣き始めました。見れば腿の付け根から下が真っ赤です。
 血でした。
 しかもかなり大きく、深く切れていました。ドラム缶か何かの切れ端が沈んでいたようです。
 すぐにその施設の車で近くの大きな病院に向かいました。車の中で私は初めて、はっきりと弟の傷を見ました。傷口は、大きく、ぱっくりと口を開けていました。父は必死にその傷口をタオルで押さえていました。母は心配そうに見つめています。弟は、ぐったりしていました。
 病院に到着し、すぐに治療(手術?)が始まりました。父と母は診察室の中にいました。私は一人ぼっちで薄暗い病院の廊下にいました。何もできず、診察室のドアのすぐ近くに立ち、ただ泣き続けていました。
 
 「弟が死んじゃったらどうしよう。部屋の中にも入れないボクは、なにもしてあげられない。」

 それだけを考えていました。
 どれだけ時間が過ぎたでしょうか、私には恐ろしく長く感じました。やっと「入っていいよ。」と言われ、病室に入りました。そこで見た光景は、5歳の私にはまさに衝撃でした。チューブのようなもの(たぶん点滴だ)が何本も身体にめぐらされた弟の姿は、「ショッカーに改造人間にされている(5歳のボクが考えることだからね)」ようにも見えました。少し考えれば解ることですが、2歳児の身体で何十針も縫う怪我なのですから、まさに「生死の間をさまよう」大怪我だったことは確かです。(弟は「喜んで傷痕の写真を提供するよ。」と申し出てくれましたが、そんなもの誰も見たくはないだろうと判断し、却下させていただきました。)
 幸い、弟は何の後遺症もなく元気になり、兄弟ゲンカの絶えない私たちでしたが、あの日以来、死んでしまうかもしれない大怪我と小さな身体で懸命に戦う弟の姿は、私の胸にずっと残っていました。そして私に、ある決心をさせました。
 
 「コイツはボクの弟だ。これからは、ボクがウルトラマンになってコイツを守るんだ。」
 って。

 ウルトラマンの強さや力は憧れでした。ただそれまでは、表面上のカッコ良さや、強さに憧れていただけでした。私はこのとき初めて「力の強いものが弱い者のために戦う」ということを理解したのだと思います。「なぜボクはお兄ちゃんで、コイツよりも強いのか」ということを。小さな弟の大怪我を、どうしてやることもできなかったというくやしさが、「誰かを守るために戦うんだ」ということを自覚させたのです。妹が生まれてからもそう。「何かがあったときは、コイツらを守るために戦うんだ(しかしながら妹は「いじめられた記憶しかない。」と言っている)」、従兄弟達に対しても「一番大きなボクは、みんなを守るためにゾフィーのように強くなければならない。」と心に誓っていたのです。
 その後も弟には、私の願いもむなしく交通事故に遭ったり、頭をひどいことぶつけたり、何度も何度も不安な思いをさせられました。そのどれもが「死んでしまうのではないか」というほどの不安を。でも逆に、その心配事があったからこそ、いっそう僕らの絆が強くなったんだと思っています。

 さて、ここまでお読みいただいたら、もうお分かりかと思います。そうです、先々月に書いた息子の話と同じようなことを私は経験(でも弟は生死をさまよい、娘は軽いみずぼうそう)し、同じように表現しているのです。娘の病気のとき、休日の薄暗い待合室(これも一緒だ)のなかで、私は弟のあの怪我のことを思い出していました。息子の不安が痛いほど解りました。そんななかでの「ボクはセブンになる!」でしたから、一気に、不安に押しつぶされそうだった私のあの時の感情が溢れ出し、そして息子が初めて口にした「守りたい」に涙がとまらなくなったのです。
 二人とも同じような年頃で、同じことを、しかも同じ「ウルトラマン」で表現したこと。アホな親子、精神年齢の低い父親と思うかもしれないけれど、「不安なとき」「力を出したいとき」「何かに立ち向かわなければならないとき」に、どれだけウルトラマンは勇気を与えてくれたか私は覚えています。息子もきっと同じように感じているのでしょう。
 ただ、娘には生死の間をさまようような怪我は絶対にして欲しくないですし、息子には、「優しくしても、期待しちゃだめだよ。」と言いたくなります(絶対に言わないけどね)。どうせ、どんなに可愛がっても、大事に思っていても、「アタシにはいじめられた記憶しかない。」としか言われないに決まっていますから、ね。
 

大きな自信

 4月8〜14日のあいだ、ジェイアール京都伊勢丹でプロモーション販売を行わせていただき、前半の4日間は私が販売員として行って行ってまいりました。最近は滅多に着ることのなくなったスーツを着て、性格的に人見知りするタイプ(というか内弁慶?)の私にはなかなか大変で、精一杯やったつもりですが果たしてどうだったでしょうか?
 この時期の京都は桜の季節ということで、観光客の方が非常に多く、外国の方の姿も目立ちました。試飲をしてもらいながらのプロモーション販売ですから、当然外国の方にもきちんと説明しなければなりません。「吟醸」ってどう説明したらいいのか、「醪」って何ていえば・・・などと無い頭脳をフル回転させ、必死に説明をします。しかも彼らは矢継ぎ早に話しかけてきます。私の頭脳はオーバーレヴ寸前で悲鳴を上げていました。それでもなんとかその場を切り抜け、やっとのことお買上げいただくことができました。たくさんの外国の方と(こちらはドキドキしながら)お話しさせていただき、日本酒への関心の高さを改めて感じました。高校のとき、英語は(も?)いつも赤点スレスレ(先生のお情けで免れていただけ)で、大学に入っても苦しめられ続けた(文学部にとっては致命的な)経験を持つ私でも「その気になったら何とかなるもんだなぁ。」と、ひとり納得してしまいました。
 さて、タイトルの「大きな自信」とは「赤点の英語が通じた」自信ではありません。このたび、ジェイアール京都伊勢丹限定商品として、「純米大吟醸 丹州」というお酒を常時置いていただけることになりました。有名な百貨店に、私たちのお酒が並ぶなんて・・・。本当に涙が出るほど嬉しかったです。手前味噌になるかもしれませんが、それはずっとずっと以前からこの蔵が酒造りに正直で、自分たちの技術や「ココロ」を磨いていった結果だと思いました。一年一年では目に見えないほどの、ほんの少しの前進かもしれないけれど、積み上げていけば大きな一歩になり、大きな自信になるものですね。これからも、もっともっと美味しく、さらに心を込めたお酒を造っていこうと思っています。

        「純米大吟醸 丹州」

兄の心 弟(妹)知らず