福知山の栄枯盛衰〜福知山の歴史〜
2006年 Fujiメモ 9月号

福知山
〜福知山の歴史〜


このほど、福知山の御霊神社で「福知山城の故城図」がみつかった。

またNHKの大河ドラマ「功名が辻」を見て
「明智光秀は実によい人だったんですね」と
福知山城に全国から光秀ファンが訪れている。

 そこで「福知山の栄枯盛衰」をまとめてみる気になりました。

 平成8年(1996年)11月、福知山商工会議所の創立50周年記念誌の編集副
委員長(実質的編集長)として、福知山市の発展史を福知山市文化財保護審議
会委員の根本惟明氏ら史談会の皆様から聞いた話や、

「目でみる福知山の100年」(昭和51年(1976年)11月 編集委員:芦田金次郎氏他)

「目でみる福知山・綾部の100年」(1995年3月発行 葛ス土出版社)

「図説 福知山・綾部の歴史」(1998年4月発行 葛ス土出版社)

「京都府の地名」(1981年(昭和56年)3月発行 兜ス凡社)

「福知山市史 第4巻」(平成4年3月 福知山市役所発行)

「福知山の民話と昔ばなし集」(平成16年1月 民話昔語り郷土史研究会発行)

御霊神社ご鎮座三百年 新発見社宝図録」(平成18年9月14日 御霊神社三百年祭奉祝事業委員会)

などを参考にしました。


 間違いもあると思います。違っている点を教えてください。


                                平成18年9月28日
                               京都府福知山市字天田134
                                  
  FAX (0773)24-3480
                                E-mail :<fuji@mxe.nkansai.ne.jp>


由良川の流れThe flow of the Yura river.
福知山盆地Fukuchiyama valley.
福知山城Fukuchiyama castle.
福知山の商店街Shopping mall of Fukuchiyama.
福知山の土地の値段の動きReal estate of Fukuchiyama.
福知山の建物Construction of Fukuchiyama.
福知山 あのころMemories of old good time of Fukuchiyama.
 明治維新後の福知山Fukuchiyama after the Meiji Restoration.
 大正時代の福知山Fukuchiyama of Taisho Era.
 〜昭和Fukuchiyama of 〜Syowa Era.
 盆踊りFukuchiyama Bon festival dance.
 水害の記憶Record of the flood damage of Fukuchiyama.
あとがきPostscript







由良川の流れ
The flow of the Yura river.

 大昔は、由良川の水が綾部から長田野を通り、兵庫県の竹田石生(いそ)から、瀬戸内海の
加古川へ流れていた。

 この当時は、大江町公庄(ぐじょう)が分水嶺で、公庄からの水も長田野へ流れていた。

 ところが、丹波山地の度々の隆起と、大江町付近の沈降で、由良川の水は日本海へ流れるよ
うになった。この事実は最近、長田野工業団地の開発で地面が深く掘られ、福高の地学の小
滝先生が石の並び方を調べて解った。


 明智光秀が福知山城を建てる前までの由良川の水は「東方より真っ直ぐに、現在の福知山駅
付近に流れ、駅の西で流れを北に変えていた」

 光秀は「城の東北の麓で、西北に流れるように堤防を造った」


 京都宅建協会福知山支部長のとき、建設省の河川の技師に、「福知山の水害を根本的にな
くす方法はないのか」と尋ねたことがある。
 「由良川は、牧山の手前で向きを東北に変えている。このため大水のとき、福知山市内へ水
が逆流してくる。牧山を削って流れをスムースすればよいのだが、この工事をすると下流の大江
町以下が水没するのであきらめた」と。

 以来、由良川の堤防の補強と、各流域の両岸の堤防増設工事と、牧川の水をポンプアップし
て由良川へくみ出す方法で、水害を防ぐようになった。










福知山盆地
Fukuchiyama valley.



 大昔は「大江町公庄」が分水嶺で、
福知山の水は瀬戸内海へ流れていた。

 丹波山地のたびたびの隆起と、
大江町付近の沈降で、兵庫県の
氷上の石生が分水界となった。

 日本列島では一番低い、
標高95mの分水界である。









川の流れが逆になったのは、福知山だけではない。
和知町は、昔は由良川の上流で、長田野を通って瀬戸内海へ流れていた。
ところが、丹波山地の隆起によって胡麻付近が高くなり、
南の園部町から胡麻へ水が流れなくなり、さらに胡麻の隆起によって、
胡麻川も園部町へ流れるようになったという。(小滝篤夫)




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福知山城
Fukuchiyama castle.




 天正時代(1579年)織田信長の命で丹波を平定した明智光秀が築城した。



 光秀に滅ぼされた横山(塩見)頼氏が、横山(現:朝暉ヶ丘丘陵)の上に、掻上げ(空堀と土塁
で各曲輪の防備を固める形状)の、龍ヶ城(横山城)を建てていた。これを攻略した光秀は、こ
れに石垣を積み、天守閣を建て、堀を準備して、立派な城に変え、「福智山城」(現:福知山城)
と名づけた。(江戸時代の城主、朽木氏により「福知山」に改められた)


 また、「由良川」「土師川」「弘法川」「和久川」「牧川」の合流地点であった沼地の福知山に、
堤防を築き、排水路をあちこち造って灌漑し、城下町を造った。


 由良川は東方よりまっすぐに、現福知山駅方辺まで流れ、その西で流れを北に変えていた。
 光秀は城の東北麓で西北に流れるように変え、城下町の敷地を堤防の西南に設えた。



 光秀は土木工事の天才だった。
 京都嵐山から桂川の西側に、農耕用水路を、桂・向日町まで造っている。
京都の上桂にも御霊神社があり、光秀をこっそり祀っている。


 福知山城は、廃城令により明治5年(1872年)に取り壊されるまで三層の天守閣がそびえてい
た。この城の石垣は光秀の秀でた築城技術を示す野ヅラ組石垣≠ナ、400年後の今も風雪
に耐えている。その石垣には、光秀の石狩り≠偲ばせる。近隣寺院を破壊し、その墓石を
天守閣の石垣に使用した。

 また、城下町を造るために由良川の流れを変え、堤防を築き、福知山町に地子税免除の特
権を与え、三丹(丹波・丹後・但馬)一といわれる商都の基礎を作った。






 福知山藩は、有馬氏6万石(元和6年)、岡部氏5万石(寛永元年)、稲葉氏4万5900石(慶安
元年)、松平氏4万5900石(寛文9年)、朽木氏3万2000石(明治4年迄)。




なお、光秀が丹波を平定する前の福知山周辺の山には、いくつもお城があった。


◇現:福知山城の元となった上記、横山(現:朝山)の「横山城」(別名:臥龍城・八幡城など)

◇猪崎の城山の「猪崎城」(別名:八幡山城・橘城など)

◇姫髪山の「和久城」

◇上荒河の裏山の「置山城」

◇夜久野千原近くの小牧の「烏帽子山城」

◇三岳の「龍ヶ城」

◇報恩寺の「報恩寺城」

◇堀荒木の「荒木山城」

など




発見された「福知山故城之図」(部分)

(「御霊神社ご鎮座三百年 新発見社宝図録」平成18年9月14日 より)





故城図裏書

(「御霊神社ご鎮座三百年 新発見社宝図録」平成18年9月14日 より)






御霊さんと明智光秀


 「明智光秀丹波をひろめ、ひろめ丹波の福知山」と、福知山音頭に唄われた明智光秀と
福知山の因縁は深いものがあります。

 福知山は、おどりの町として広く知られており、又、商売の町、丹波の京ともいわれてい
ます。このため、明智光秀をまつった御霊神社の大祭りは商売まつりとも呼ばれ、三丹
(丹波・丹後・但馬)で最も賑やかな祭りとして昔から知れわたっております。

 実は御霊神社には宇気母智神(お稲荷さん)と、明智光秀公をおまつりしてあるので
す。お稲荷さんは、農業や商業の神様で、五穀豊穣・商売繁盛を守っていただくため、
明智光秀公はその善政に感謝しご恩に報いるために御神霊としておまつりしたのでありま
す。

 今から三百五十年ほどの昔、日本の国は戦国時代といって、強い英雄があちらこちらに
現れて、東の北条・今川・甲斐の武田、北陸の上杉、西の毛利などが力をきそっていまし
た。
 中でも尾張の織田信長は駿河の今川義元を破ってたちまち尾張・美濃・近江の国を平
らげました。勢いにのった信長は、京都に出て丹波の国も平らげようと、家臣の明智光秀
をさしむけました。光秀はまず丹波亀山城(現亀岡)を手に入れてここを足がかりとして丹
波全域へ進軍していきました。

 この時分の福知山地方は、宗部荘(そがべのしょう)と呼ばれ、横山頼氏が龍ヶ城(現福
知山城)という掻上げの城をかまえておりました。しかし、光秀の大軍に攻められるとひとた
まりもなく破れ、たちまち福知山は平定されてしまいました。

 山名の一族が、但馬竹田、出石などに強力な軍勢を置き、城を構えていたので、これに
対抗するため光秀公は掻上げ城であった城に石垣を積み、天守閣を建て、堀を準備し
てりっぱな城に変え、山陰地方に対する北丹の最前線の要害としました。

 また城下町には由良川堤防を築き、町並みを整理してりっぱに仕上げ、地名を「福智
山」と命名しました。そして福知山城には光秀の娘婿にあたる明智弥平次(秀満)を代官と
して置き、新福知山の守護に当たらせました。

 この時分、福知山地方は天災―おもに水害―と戦乱のために荒され、民、ひゃくしょう
はみな大へん疲弊してこまっておりましたので、光秀公は地子(上納)を免じて無税にして
くれました。

 その後九十年ほどたった寛文九年、朽木稙昌公が上州土浦から福知山へ転封となり、
福知山城主(三万二千石)になりました。

 その稙昌の時代、城下常照寺の檀家であった奈良屋喜左衛門という町人が、私邸の鎮
守として明智光秀公の御神霊をおまつりしていたのを、宝永二年常照寺第二十六世日遙
師が、光秀公に長存院殿明窓玄智日光大居士という法号を贈るとともに、改めて寺内に
祠堂を設けて手厚く供養することにしました。非業の死を遂げた光秀公の霊を慰め、災害
の多い福知山の守護をお願いするためです。これが御霊会のはじまりです。

 その朽木家五代玄綱公の時代の元文二年、藩が御霊会を公認したことから旧暦八月
十七、十八日のおまつりは年々盛大となり、余興も宵宮には各家の飾りものや子供相撲、
芝居それに作りものなどもでてきて、参詣人や見物人で大賑わいになりました。狭い常照
寺辺では応じきれません。遂に広小路の西端榎の森にあった宇気母智神(稲荷さん)の
お宮へ光秀公の御神霊を移して、御霊神社と呼ぶようになりました。それからはお祭りも
広小路いっぱいに行われるようになり、奉納行事もますます盛況になり、明治に入ってか
らは子供相撲が京・大阪の力士による大相撲になり、唐津の焼きものを使った造り人形
(ダシ)は三丹の名物となり、各町内が競作して、広小路に五、六ヵ所も展覧して祭りを盛り
あがらせました。

 また、子供芝居の屋台芸も五、六ヵ所に出ますし、いろんな店屋が軒を並べ、香具師
(やし)が人垣をつくるので、さしも広い広小路も歩けないほどの人手で大混雑の盛況であ
りました。大正、昭和に入ると奉納行事も年毎に変わってきましたので、お祭りの様相がす
っかり変わって、昔の面影はうすれてしまいました。

 今、御霊神社は、町の真中に榎の森にかこまれて、その屋根には光秀公の桔梗の紋を
ピカピカと輝かせて、一だんと高くそびえております。



            (「福知山の民話と昔ばなし集」平成十六年一月 民話昔語り郷土史研究会









福知山城下町図








(下)城主稲葉氏時代の「丹波国福知山城図」(福知山市史第2巻より)
原図は国立国会図書館蔵。
京街道を取り込み、さらに水運の要衝に城下町をを立地させて、
丹波において交通面で影響力を持ったことがうかがえる。








福知山町市外図 大正2年
















(「週刊 名城をゆく 39 福知山城・田辺城」 2004年11月16日発行 小学館  より)





(「週刊 名城をゆく 39 福知山城・田辺城」 2004年11月16日発行 小学館  より)





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福知山の商店街
Shopping mall of Fukuchiyama.






 大昔は由良川の水運で栄えた。由良川からの水運は、下天津から西へ曲がって大呂川の
「瘤木(コブノキ)」が終点だった。
 いまでも昔栄えた商店の面影が残っている。

 江戸時代から明治初期にかけて、「下柳町」「上柳町」「呉服町」は山陰街道であり、由良川船
便の荷揚げで繁盛した。

 明治30年(1896年)から、陸軍歩兵20連隊が駐屯し、お城の高台を切り崩して内記3丁目が南
北に貫通すると、広小路には劇場も出来たが、明治29年(1895年)8月31日と、明治40年(1906
年)8月24日の大水害で町全体が壊滅。
 以来、商人は水がついても商売の出来る町の中に住み、勤め人は岡の上に住み着くようにな
ったという。
 しかし日清戦争後の好況に助けられ、福知山は第一次発展期を迎えた。

 阪鶴鉄道(現在の福知山線)の開通。府立第三中学校(現在の府立福知山高等学校)や各
種銀行(後に統合され、現在の京都銀行に)、天田郡立女子工芸学校(後の高等女学校。現
在の市立南陵中学校)の創立。山陰家畜市場の開場(※このため、今でも福知山の肉はおい
しい)、町役場(現在の福祉会館)の新築など、産業、交通、教育、軍事施設が充実して、町が
活性化した。明治42年(1908年)には大堤防が完成。京都−福知山間の鉄道(山陰線)も開
通。京都・大阪と直結した福知山は、三丹地方の商業の中心となった。

 福知山は沼地だったので、氷上、和知、綾部、大江、夜久野、出石、播州……と、周辺から
やってきた人ばかり。ただ、氷上の人が人口の6割以上に達していたので、福知山の主要ポスト
をほぼ独占していた時代があったといわれている。
地方へ行くと、その地方の有力者がいて、その人には逆らえない大物の豪族がいるが、福知山
は土着の豪族は光秀に滅ぼされ、後に外から人が入ってきているので、ドングリの背比べで大
物がいないのが特徴。

 商店街は土手際から新町に移り、今はスーパーマーケットとコンビニエンスストア全盛時代に
変わっている。

 なお、内記稲荷は武士の、西本町の道官稲荷は町人のお稲荷さんとして、昔は栄えたとい
う。

 福知山の繁栄は、昭和23年(1948年)3月、吉田茂を抑えて第47代総理大臣となった、芦田
均の功績によるという人がいる。明治20年(1887年)、福知山市字宮の元大庄屋の家に生まれ
た。北丹鉄道開設に尽力した芦田鹿之助の息子。柏原中から一高。東大法科卒。民主党総
裁。昭和電工疑獄事件の責任をとり辞職(無罪決定)。

 福知山の発展は、歩兵20連隊・猪崎の遊郭・鉄道管理局の3本柱によるといわれていた。
 この中の福知山鉄道管理局(京都でなく福知山に)と、国道9号線の福知山経由(当初は須知
から和田山へのルートが検討されていた)は、芦田総理のおかげといわれている。




戸 数
人 口
明治42年(町)       
1,496戸
8,229名
大正 9 年(町)
2,980戸
18,759名
昭和 5 年(町)
4,436戸
22,086名
昭和12年(市)
32,600名
昭和51年
18,834戸
61,600名
平成17年
28,277戸
69,335名
平成18年(大江・夜久野・三和との一市三町合併)
33,847戸
83,737名





商店街
 
 流れ行く雲の如く移り変わった商店街の百年の動きは、社会情勢の変化に伴って起
きました。江戸時代から明治初期にかけて、下・上柳町、呉服町は、山陰街道であり、
由良川船便の都合もよく、繁栄を続け、一流の実力ある店舗が軒を並べていました。

 その繁栄につれ、明治30年から40年にかけて、連隊(今の自衛隊)が駐屯し、お城の
高台を切り崩して内記3丁目が開通すると、広小路には劇場も出来て、徐々に立地条
件の変化が生じてきましたが、明治40年の大水害は全町に壊滅的打撃を加えました。

 長町通り等も、大きな店構えが揃ってきていましたが、環境の整っていた新町通りへ
と中心が移ったのです。
 それからは、繁栄の中心は完全に新町通りに移り、終戦となったのです。政治も経済
も全て一からの出発となりましたが、職人町から元町通り、それからアオイ通りと名称が
変りましたが、この2つの大きな商店街と、広小路が中心となって復興してきました。
 
 その後、都市計画の実施、生活様式の変化、自動車の普及など、社会情勢は刻々
と変わった上に、商法にも新しいシステムが取り入れられるに及んで、経営と規模の大
型化が進み、駅前へと進出する事で、繁栄の中心がターミナルへ移動を始め、今日の
状態になりました。

 顧みると、繁栄の中心が、土手下町の下柳・上柳町、呉服町から始まり、京町、長町
へと西へ拡大されて、新町、アオイ通り、広小路へと中心が移りました。そして、一足飛
びに駅前へという風に、西へ西へと移行していった結果、今日では呉服町、長町、下
柳、上柳等に、昔の繁栄の面影はなく、栄枯盛衰は世の常と申せ感無量であります。

                                     横川弥兵衛


(「目でみる福知山の100年」昭和51年(1976年)11月 発行 より


P.S.  広小路は半分店が閉まっているし、新町通りにも駅前にも閑古鳥が鳴いています。
    さとう・ニシヤマ・三ツ丸・ジャスコなどのスーパーとコンビニの時代。
 





福知山の産業・生産物
 
 第二次世界大戦までの福知山は、牧歌的というよりも、由良川の水難史ともいえる
代表的農村地帯であった。産業的には、鉄製品・ガラス製品を除いては大半が農産
物であり、米麦・牛・蚕・清酒・漆が主参品である。米は地酒の他は灘にも出荷され、
牛は丹波牛として有名で、その市は日本三大牛市の一つであった。栗・松茸・筍等
はそれぞれ丹波の名を冠し、全国に出荷されている。
 蚕は多くの製糸工場をつくり出したが、大正時代、郡是・鐘紡が創られ吸収され
た。

 これらの農業の豊凶が住民の喜びと悲しみであり、一口にいって遅れた地帯であ
ったが、京都・大阪と日本海沿岸・山陰地方との交通の中継地として、関係官庁など
と共に、卸商が盛んであった。

 大戦後、世界経済と日本経済の高揚の中、交通・通信の一層の発展の中で、福知
山地方にも工業化への要求が起り、無公害を旗印に長田野工業団地が創設され、
豊かな農工地帯としての発展に夢が結ぼうとしている。

                                      足立 直


(「目でみる福知山の100年」昭和51年(1976年)11月 発行 より

P.S. 農産物は京都産として売られるようになりました。






広小路

 年配の人には、福知山の広小路は若い頃からの数々の懐かしい思い出の町で
す。殊に娯楽面での繁華街として、今の第一映画が明治期には常盤館(ときわか
ん)の名で歌舞伎や新派劇などの興行を見せ、またこの常盤館(当時は東向き)の
左側の道路(御霊神社高台の下)を西へ行くと福知館という芝居小屋もありました。

 御霊神社のお祭りには広小路一帯に大道商人が店を並べて声高に商品を売り、
宵宮には三丹名物のダシ(陶器を用いた造り物)数基で女子客を楽しませ、翌日に
は男客のために、今の枡清の前に高さ二米ほどの土俵を築き玄人相撲を見せたの
もお祭りの魅力でした。

 何しろ娯楽の少ない頃で夏の宵など広小路で薬草売りが、蛇使いの芸を見せ、
見物が寄った頃に商売をやるのや、ハッピ姿の大工道具売り。また角帽に着物ハ
カマの大学生姿で当時の流行歌をバイオリンをひき乍ら歌って本を売る男女。いま
の御霊公園入口で、のぞき≠ニ称するカラクリ絵を見せ(当時5銭)客を寄せた見
せ物もあり、主に「不如帰―ほととぎす」がよく出て「三府の一の東京で」と夫婦者が
両脇の高台で唄いつつ凸レンズからノゾき絵を見せるのが人気を呼んだ頃もありま
した。大正期以降には木下、矢野など大型曲芸団が来演し、思い出の数々は明
治、大正、昭和初期と続いています。

 夏の「按摩さんの夜店」も全国に知られた広小路の風物詩でした。


                                      福林政雄


(「目でみる福知山の100年」昭和51年(1976年)11月 発行 より






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福知山の土地の値段の動き
Real estate of Fukuchiyama.





 福知山は大阪と同じように、急上昇のあと、急に下落した。






大阪と福知山駅前と広小路が同じカーブを描いています。
このため「福知山地方ではいまだに不良債権を抱えている企業や商店が多く、金融機関
が抱え込んだ土地売却のため、当分地価は値下がりする」といっている人もいます。










 地下のハネ上がりが見られたのは、昭和50年の春からである。そのいい例が、市が競売した
土師区画整理地区の保留地。競売価格は、地元ではせいぜい坪4〜5万円どまりだと思われて
いたところに、京都・大阪の業者が坪8〜10万円でセリ落としてしまった。
 また、土師(はぜ)にあった重機メーカーの土地が競売されたときは、地元が坪40万円の応札
をしたのに対して、大阪の業者が58万円で落札。その後、大都市同様の「転売」が繰り返され
た。平成2年「ツチシに地形の素晴らしくよい180坪の土地(現在の家電量販店100万ボルトの土
地)があるんですが……」と、福知山の地名さえきちんと読めない京都市内の業者から福知山の
業者が転売の打診を受けた。この業者、なんと5人目の売主だった。

 一方、福知山駅裏の国道9号線を4車線に拡幅する、と当時の建設省が発表すると、坪50万
円であった地価がみるみる100万円、150万円と急上昇。ついに「250万円で買ってほしい」とい
う話まで。

 住宅地でも、岡ノのテレジア幼稚園の近くの土地を坪100万円で売りに来た人がいた。いまは
20万円〜30万円に下がっている。

 また、駅前の土地を坪1000万円で、と。これがいまは坪45万円前後に大幅下落。

 国道9号線沿いは坪200万円がピークで、いまは30万円前後。

 篠尾新町3丁目の、16m道路に面している土地も、坪200万円が、坪26〜28万円になってい
る。



 けれども、現在、大阪の福島のマンション用地は、路線価の3倍以上で取引されている。



 東京・京都でも都心部の土地はかなり値上りしている。






北近畿の主な市町の最高路線化の推移







一昔前までは、舞鶴と豊岡が北近畿の中心都市だった。
 ところが、大阪から福知山までの4車線の高速道路が完成すると、北近畿の中心都市は
福知山となった。

 また、西舞鶴が東舞鶴よりも随分力があったが、商工会議所会頭を長いことやっていた
人の会社が大赤字を出して、西舞鶴はさっぱり力がなくなった。

 北近畿では、福知山がまだ1番。2番が豊岡。3番が東舞鶴と城崎。
 これから伸びが著しいといわれている和田山は唯一の横ばい。けれどいまのところは、
綾部や宮津とどっこいどっこい。
 




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福知山の建物
Construction of Fukuchiyama.


  福知山で最初の高い建物は、広小路から新町へ入って右側の「三ツ丸百貨店」3階建て。
 大正時代に、綾部の人を中心に3人で建てたもの。
 福知山で初めてのエレベーターがついていたので、珍しがって大勢の人がやってきた。

 3階の見晴らしの良いところに食堂があり、関東大震災で職を失った東京のコックさんが、京
都四条通の高級洋食店のコックなどを誘い、東京・京都の味のトンカツや、ビーフステーキが大
好評だったという。

 その後、この建物を京都銀行が使用し、現在は、福知山鉄道ポッポランドと、福知山市文化
資料館になっている。

 現在の高さは5階建て。


 昭和になって、広小路の南側の、土手際の呉服町の「天橋」「若松屋」。広小路の北側の下柳
町の「森田」「川菊」。(いずれも土手から由良川が眺められた)。御霊会館(木造3階建て)の料
理旅館が賑わった。しかしいまはいずれも、跡形もない。

 昭和35年には広小路の洋食レストラン「田中食堂」5階建て。
 昭和42年に福知山駅前に鉄道管理局の6階建て。
 昭和45年にケヤキ通りの冨士原病院(現京都ルネス病院)。10階建て。
 昭和51年に内記の福知山市役所。6階建て。
 平成18年6月厚中問屋町に福知山市民病院。7階建て。
 福知山では初めてのヘリポート付き。

 平成19年末には、篠尾新町の製材所跡に
 15階建ての高層分譲マンションが完成する。





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福知山 あのころ
Memories of old good time
of Fukuchiyama.


















高架になる前の、地平時代の福知山駅(北側)







高架になった新しい福知山駅(南側)







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明治維新後の福知山
Fukuchiyama after the Meiji Restoration.





 明治維新後、経済現象の顕著な点は、米から銭へと貨幣経済に変わったことである。江戸時
代は現物による経済で、可能な範囲で自給自足を中心にして、貨幣に助けられていたのであ
る。明治になると地租改正とともに地租金納制になったので、日本中の農村は大量の米穀を一
度は市場に売出し貨幣化して納税せざるを得なくなった。自然に日本の大小の都市は出回っ
て来た米によって繁栄を助長され都市人口も増加していった。次に欧米の機械文明が早く入
ってきた都市は、金さえあれば美しい生活様式が手早く入手できた。農村部でも手織り木綿か
ら紡績綿布に変り、酒造業の発達で自家酒は自然と減少し、自家用醸造禁止令で醸造酒のみ
になった。茅屋根は、火災に安全度の高い瓦屋根へと変わっていった。手引きの小麦粉より
も、安く輸入されるきめの細かい米利堅粉を買って、小麦を売った。蓑笠や合羽は、トンビやマ
ントに漸次変わっていった。即ち衣食住費を捻出する為には、自己の手になる農作物を必ず
一度は商人の手に渡して貨幣と交換してから、その金銭で購入せずには生活できなくなってい
くのである。

 小都市の小売業や仲買人、問屋街が発達し、市街繁栄・都市膨張の現象を生み、農村が疲
弊し、夜逃げをして大都市への潜入が目立ってくるのであった。また、公然と頼母子講に頼み、
分散(家財競売)を行うのはめずらしくなかった。

 福知山は、明治30年に工兵隊、31年に歩兵20連隊が移駐し、32年には郡制公布、同年阪鶴
鉄道(大阪から福知山まで)が開通し、37年には舞鶴まで達した。42年に京都・福知山間の鉄
道開通。44年には和田山までの鉄道が開通した。山陰家畜市場が開設され、大正元年に山陰
線全線が開通する。
 ここに、福知山が郡の中心であるだけでなく、軍都・鉄道都市として、また、牧畜業推進の中
心地として、単なる山陰東部の交通都市以上の地方中心都市となったのである。




 明治20年3月の福知山町高所得者は、
◇吉田三右衛門:二千二十七円 
◇佐藤治兵衛:千三百二十円 
◇高木半兵衛:千百六十六円 
◇片岡久兵衛:千九十八円 
◇中井久兵衛:千七十七円 
◇高木重兵衛千二円。




養蚕業
明治41年と大正5年を比べると、桑園は二〇二町歩、産繭量五三〇七八石、蚕種製造高四八
〇三四三枚、生糸製造高二六四八一貫、増加となっている。

 (※蚕を飼うときは、近在から親戚縁者がわんさと手伝いにやってきて賑わったという。
  いまは大江町に1軒だけ蚕農家があるだけ。



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大正時代の福知山
Fukuchiyama of Taisho Era.




 大正5年、それまで紺屋町角までであった広小路を西へ延長し、その西端に御霊神社及び
現グンゼを含む広大な土地を嵩上げ造成する大計画を企て、即時実施に踏み切った。

 また、広小路から木村を経て福知山駅に達する道路(現正面通り)の開鑿も計画された。
 大正7年、木村・和久市・笹尾・南岡・堀が福知山町に合併された。

 特に、岡・堀を含む曽我井村の合併は、反対運動が激しく、難航の末、福知山町に合併され
た。
 曽我井村は、奈良時代、蘇我入鹿の一族の荘園だったところで、歴史的に王朝文化が色濃
く残っていて、商家と一緒になるのに反対したらしい。
 また、村長は明智光秀に滅ぼされた横山(塩見)氏一族。今でも光秀の祀られている御霊神
社には参拝しない横山姓が残っており、難航したのも理解できる。


 明治39年、40年の大水害の後、大正になっても大水害が絶えず、大正12年ごろ堤防が完成
した。しかし、由良川東側の庵我地区はたびたびの水害に懲りて、中村の、塩見精太郎元市長
など、岡へ移った人が多いという。

 また、もともと農村では、田は長男。残った畑を次男三男が相続していたが、
 福知山町の西の木村・笹尾(篠尾)では、町村の合併による発展と、それにともない、町が西
へ西へと広がってきたため、それまで見向きもされなかった畑が、宅地として飛ぶように売れ出
した。
「次男以下は税金のかからない畑を相続したが、この畑が高値で売れて、田を相続した長男が
羨ましがった」とか、
「畑が高く売れて、馬に乗って街の中で飲食、芸者遊びを覚えて破産した」
という話が伝わっている。


 商売が繁盛して財を作ると、長屋の借家を造って、その家賃で楽に生活する人が増えた。
 しかし、最近は時価より固定資産税評価が高くなって、土地持ちビル持ちは、青息吐息。
 ビルを壊すのにも規制が厳しくなって多額の費用がかかるようになって、頭を抱えている人が
増えている。

 福知山周辺は山どこで、冠婚葬祭や、子供の進学などにも、山の木をちょっと売れば大金が
入手出来たので、農山村は経済的に豊かだった。
 ところが田中角栄が通産大臣のとき、外材の輸入を認めてからは、国産材の需要が激減。山
は荒れ放題になって、農村の過疎化は急激に進んでいる。





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〜昭和












長田野・大野ケ原


明治元年(1868年)藩士が入植。縮緬工場を始め約50戸散在。
資金と水に困窮し、明治中頃には解散した。

写真は、明治43年(1910年)下六人部村から国が買上げ、
大阪師団演習場になり、演習時、目標となった一本松付近(昭和初期)。

昭和21年、海外引揚者が入植し、西瓜・りんごの試作に成功した昭和39年に、
長田野工業団地造成府事業施行が決定。昭和49年完工式が行われた。



     


























渡し舟







按摩の夜店


夏ともなれば按摩の人が屋台を作って待っていた。
人気があり、その頃季語にも使われる程有名だった。




朝臭通(あさくさ通)


アオイ通は現在のように下水道施設が完成するまでは、
毎朝豊富方面からお百姓さんが下肥汲取りに賑わい、
人は朝臭通(あさくさどうり)と言った。




昭和初期のPR商法


当時市内で初めて一・六夜店が開かれ、新しい商法として珍しがられた。
伏木屋という広告宣伝社(チンドン屋)が唯一の宣伝機関として人気を博し、
引っ張りだこだった。






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盆踊り
Fukuchiyama Bon festival dance.




猪崎新地
 三丹地方に有名な「猪崎新地」明治29年(1896年)の大水害後にこの地へ移転。明治末期に
は芸妓30余名、娼妓約100名を数え賑わった。全盛をきわめた同新地は、昭和34年(1959年)
売春防止法摘要と同時に廃止された。






 昭和20年の敗戦の頃は、他に娯楽がなく、夏の盆踊りになると近在からもたくさんの人々がや
ってきて、街の中全体が夜明けまで盆踊りで賑わった。
 最近は年寄たちが若者に対して「もっと正規に踊れ」とやかましくいうようになって、盆踊りは広
小路の一角で企業連だけとなり、10時にはひっそりとするほど寂れてしまった。

 ただ、いまでも8月15日の花火大会の日だけは、10万人を超す人たちが周辺から集まり、夜
12時ごろまで近郊からやって来た自家用車の渋滞がつづいている。












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水害の記憶
Record of the flood damage of Fukuchiyama.


(「台風13号から50年」 平成15年10月 国土交通省 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所






(「台風13号から50年」 平成15年10月 国土交通省 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所







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あとがき
Postscript


 福知山は、京都・大阪・神戸までの距離が、いずれもざっと100q。

 日本海の舞鶴・天の橋立までざっと50qの盆地。

 夏は蒸し暑く、冬は凍てつく寒さ。四方を山に囲まれた盆地特有の気象。

 亀岡と福知山は霧の深いことでも有名。

 快晴でも霧の濃いときは、由良川沿いの旧市内は霧で晴れない。これは経験した人でないと
解らない。

 昔は湿気が多いためか、結核に罹る人が多かったらしい。


   ◇


 長田野企業の工場長に聞いた話。「丹波福知山の人は、人懐こくて性格が良好。すごく粘り
強い。ただ、仕事中でもおしゃべり雑談が多く、噂話好き。流れ作業には適さないので、大阪の
工場で教育し直しているんです」


 地道も、1つ山を越えて兵庫県に入ると、道は真っ直ぐ。ところが福知山は、公共性よりも目先
の利益を優先するのか、道がクネクネと曲がっている。兵庫県は土地が広くゆったりしている
が、福知山など山陰は土地が狭いためケチなんだろう。


 福知山税務署長と、市の温水プールの小さいサウナ室で一緒になったことがある。

 「藤本君、福知山と柏原と、どちらがどれだけ経済力があるか」

 「そりゃあ福知山が柏原の3倍でしょう」

 「納税額が同じなんだが、どう説明する?」


 柏原など氷上の人は、よく働き、よく稼ぎ、パーッと使う。

 対して福知山の人は……。


   ◇


 福知山はまず農業と山林、そして蚕で栄えた。

 その後、小さい問屋、つまり商人の街となり、卸売業が盛ん。

 京都銀行の東舞鶴支店長から福知山の支店長としてやって来た某氏が、「福知山って不思
議な街ですね」と。いまから30年近く前の話。

 「なぜ?」と訊くと、「暮のボーナスで銀行からお金が出て行ったとき、東舞鶴は8割が返ってく
るのに、福知山は倍になって返ってくるんです」

 つまり商人は盆・暮に集金する時代だったので、暮にわんさと金が福知山に集まっていた。


 水害が多く、水がつく度に、商品が天災でダメになったと、商品の買掛金を値切るものだか
ら、
「大阪商人の上を行くのが福知山商人」との悪評も。


   ◇


 福知山も西へ西へと発展し、福知山駅の高架化で南北の行き来が可能となり、駅裏と呼ばれ
ていた駅南が、やっと発展しつつある。

 旧城下町は道路が狭く一方通行。この改善策は……。


 小さい商店の時代から、大型スーパー、コンビニの時代に入って、街の小売商は姿を消しつ
つある。

 そして平成の合併によって、周辺三町の年寄りを抱え込んだ福知山はどこへ行くのだろう
か?

 猪崎の三段池公園のテニスコートや体育館など数々のスポーツ施設に、全国から若い選手
がやってきて、小さい大衆的な旅館などが潤っているが、大型観光バスが駐車し、昼食を食べ
させるようなところがほとんどない。出石のように出来ないものか……。

 また、公私立の高校が7つ(福知山高校・府立工業高校(旧石原工業高校)・大江高校・成美高校
(旧福知山商業高校)・共栄学園高校・福知山女子高校(成美学園系列)・淑徳高校)もあって、大学
(四年制及び系列短大)も1つある教育の街。周辺から電車に乗って若者が福知山へやってき
ている。


   ◇


 福知山はかつては、按摩さんとお妾さんと美容室が多かった。今でも理容・美容室が人口比
率で多いところ。

 飲み屋の数も人口比率にして、とても多い。

 飲み屋は、兵庫県の氷上からやってくる人で潤っていたが、福知山の飲み屋はがめつく、時
代に合わせた改装をしない。この古くさい店のせいと、道路など交通アクセスがぐんと良くなっ
て、大阪・神戸へ行くようになった。このため福知山の店は、「静かなものです」と言っているとこ
ろが多くなっている。


   ◇


 福知山は、蚕・生糸がダメになったあと、「農耕具」「山林」「土建」「建築」「家具」「不動産」「自
動車」などのブームで潤った。

 とくに土地の値段は昭和50年より、京都・大阪の連中が、高値で買いあさり、大阪と同じ急カ
ーブで上昇後、急カーブで下落。篠尾や厚などは、土地の高騰で、貸家・アパートを経営する
人が急増。しかし土地ブームで儲けた人は5%程度。あとは高値でつかんだ土地価格が急落
し、これに市の固定資産税の重圧で苦しんでいる。

 福知山信用金庫も宮津信金に吸収されて、京都北都信用金庫になっている。

 いまは大型スーパー、コンビニ、先生を含む公務員と医者、そして老人介護施設の時代。


   ◇◇◇


 私は福知山の内記3丁目で生まれ、駅前、荒木、南本町と転々とした後、18歳から東京に20
年。京都の桂で18年生活した後、福知山へ帰ってきた75歳の年寄。

 山紫水明。野菜、タケノコ、栗、お米、魚、肉の本当に美味しいところ。

 そして人懐こくて人柄も良い。ねちっこく粘り強い。

 これらの良さを、いつまでも残して欲しいと願いつつ、福知山の栄枯盛衰記のペンを置きま
す。














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