日本で最初のちりめんは、16世紀後半ごろ堺の町で織られており堺縮緬と呼ばれていました。このちりめんは、秀吉の保護のもとに西陣に移され、友禅染の登場もあり染下生地にちりめんが使用されるようになると、ますます需要が盛んになっていきました。しかし、この製織の技術は西陣の限られた機屋のものとされ、他国者はもちろん奉公人にさえも肝心のところは容易に見せませんでした。ではそれほど厳しいちりめん技法がどのようにして丹後に伝わったのでしょうか。

丹後地方は、昔から養蚕の盛んな土地で、紬などの織物も織られていましたが、西陣のちりめん流行の余波をうけ、すっかり行き詰まってしまいました。
享保4年(1719年)丹後峰山の絹商人、絹屋佐平治は、その打開策として流行のちりめんを丹後で織り出す方法はないかと考え、西陣のちりめん技術を導入しました。また、佐平治の峰山藩は、小藩であり財政はいつも乏しく、これといった産業もなかった為、このちりめんを保護育成しました。

同じ頃、峰山藩の隣の加悦谷に木綿屋六兵衛という者がいました。彼は京都と加悦谷との中間問屋で、商売がら流行についての見聞も広く、佐平治と同じようにちりめん製織を考えていました。しかし、ちりめん製織の導入には成功したものの、当時この加悦谷が属していた宮津藩の藩主は大変な暴君で、機業についての理解がまったくなく、農耕を怠るという理由で圧迫をくわえ、そればかりか機業停止の弾圧という暴挙にでました。結局機業停止は免れたものの、そのかわり重い税金を徴収され、更にその次の領主も暴君で、遂に百姓一揆がおこるなど、その環境は厳しいものでした。

このような状況の中、丹後地方のちりめん機業が発展したのは享保15年(1730年)、京都西陣の大火災があったからだと言われています。当時、織機7000台が焼失し、それに代わり丹後のちりめん業者が発展していきました。丹後ばかりでなく、地方機業者もその恩恵にあずかり、それまで家伝の秘密とされていた技術が、焼け出されて生活に困った職工達の分散と共に、桐生などの地方産地にもたらされていったのです。