Q12 なぜ本願寺は西と東に別れているのか?
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そもそも本願寺は親鸞聖人の血脈を相続しており、東本願寺(真宗大谷派)、
西本願寺(浄土真宗本願寺派)ともに、二十数代を数えています。
まず、東西に分かれる以前の本願寺について話しましょう。
本願寺は七世の存如上人までは不振窮乏の中にありましたが、長禄元年(1457)に
蓮如上人が第8代の門主についてから、一気にその教線を拡充しました。
蓮如上人は山科に本地を構えましたが、第10代証如上人の時、細川・六角氏や
日蓮宗の攻撃を受け、山科は焼け落ち、証如上人は大坂に本願寺を再興します。
証如上人の息子の顕如上人が門主となっていた頃、大坂に寺地を構えていた
本願寺に対して、戦略上の要地である大坂を是非入手したい信長は、その退去を
要求してきます。ここにいわゆる石山合戦が始まります。反信長の各地の戦国大名や、
伊勢長島を初めとした各地の門徒などの抵抗や、鉄砲を多数入手していた紀伊
雑賀門徒が石山内で抵抗し、前後11年あまりの持久戦となりますが最終的に信長に屈しました。
本願寺は石山から和歌山県の鷺森へ退去しました。この間、顕如上人の長男教如上人は
信長との和議に反対し、父顕如上人と行動を異にします。ここにおいて、のちに
本願寺が二つに分かれる要因が生まれます。
本願寺が鷺森に退去してのち、信長は本能寺の変に倒れ、秀吉がその後継者
として地位を確立していきました。秀吉は大徳寺で信長の葬儀を営みますが、
本願寺は鷺森から香資を贈っています。
和泉の地が手狭であった本願寺は、秀吉から新たに天満の地、さらに京都六条に
土地を与えられました。現在の西本願寺の場所に当ります。
顕如上人は間もなく寂し、教如上人は第12代の伝統を継ぎますが、顕如上人は
三男准如への譲状を残しており、秀吉は教如上人に譲歩をすすめました。
結果、教如上人は退隠し、准如上人が第12代の伝統を継承しました。以後、
教如上人は裏方と呼ばれます。
豊臣氏に代わって徳川氏の覇権が成立する過程で、教如上人は次第にこれと接近し、
関ヶ原の役後、家康は教如上人に烏丸七条に寺地を与えます。教如上人は慶長八年、
この地に移り、本願寺12代の伝燈を称するにいたり、ここに本願寺は東西に分かれたのであります。
ちなみに、京都の西本願寺の正式名称は、「久遠実成阿弥陀本願寺」といいます。
一方の東本願寺は「真宗本廟」と称します。
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