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熊次小学校の桜と氷の山の残雪
但馬ふるさとづくり大学。養父市奈良尾130藤原文男提出論文。


氷の山1510M写真は鉢伏山山頂から映す。 荒御霊神社。養父市奈良尾奈良尾村祭り9月24日
はじめに
氷の山はそれを取り巻く、養父市、関宮町、大屋町横行、若杉峠、宍粟市、戸倉、鳥取県智頭郡若桜町ツキヨネ、八頭町、鳥取市、扇の仙、兵庫県香美町、美方町小代。など周辺の村々には独特の文化や遺跡が育っています。
その中で今回は、私の住む村養父市、関宮町奈良尾から取り上げました。氷の山はふるさとの山です。この山は冬は大雪がふり そこに住む村人を苦しめていました。子供のころから成長して大人になったころは、氷の山が無ければよい。と、呪っていました。が、この地に生きて生活しようと決心してから、山を利用し山とともに生きようと、氷の山を利用する方法を考えました。
支那事変戦争のころから、都会からスキーヤーが訪れ、戦後は観光地として変貌しました。山岳スキーから始まる。「ぶん回しスキーツアー。」「氷の山から鉢伏山にスキーツアーするときちょうど、コンパスを回す形でスキーツアーするところからこの呼称が生まれた。私の著書「しらにしの吹く頃」にかきました。 毎日眺めている氷のやまを今回の提出論文にまとめてみました。この文は私がインターネットで検索。転載しました。が、誰でも検索できます。写真を多くインターネットから転載、載せました。伊勢道としての氷の山、「氷の山神宮」今も残る「弘法が平。」弘法大師空海の歩いた遺跡の残る弘法水、氷の山。熊次村全村一ヶ寺の「真言宗日隆寺」など天照神宮と弘法大師。の足跡の残る山だと知りました。今まで、但馬や日本、世界の旅に出かけていましたが、もう年をとりましたのでふるさと回帰。記録としてまとめてみました。色々と書いた本は多いですがここでは写真を主として「いせみち。」「弘法大師の歩いた道」「氷の山神宮争奪戦の記録」など載せます。氷の山は因幡の国から京の都への近道、参勤交代の近道として、駒次、(こまつぐ)から熊次村に変化。因幡地方からの伊勢道。など多くの伝説や遺跡など多く残っています。
http--www5.nkansai.ne.jp-users-kusatani- 藤原文男。私のホームページアドレスです。検索ください。
氷ノ山(ひょうのせん)は、兵庫県養父市と鳥取県八頭郡若桜町の県境にある山。須賀ノ山と言う。ふるさと兵庫50山のひとつ。
私たちは「氷の山」という。奈良尾の字帳には「ひょうのやま」または「四ヶ国山」(しかのせん)とかかれています。「私はひょうのやま」といつも言います。
標高1,510mは兵庫県最高峰で、中国地方においても大山に次ぐ高峰。瀞川平や那岐山などとともに氷ノ山後山那岐山国定公園を形成する。日本二百名山、兵庫50山の一つ。成因は300万年ほど前に活動した海底火山と考えられ、山頂近くにある古生沼(こせぬま)が火口跡と言われているが確証はない。西麓の若桜町舂米(つくよね)ではビカリアなどの新生代の海生生物の化石を産する。標高800m以上のエリアにはブナの自然林が残り、天然記念物のイヌワシやツキノワグマが生息する。豪雪地帯に位置するため近代以降、西麓および東麓とその北隣の鉢伏山にかけて多くのスキー場が建設されているがそれ以外は原生林が保全されており、「21世紀に残したい日本の自然100選」や「日本の秘境100選」等に選ばれている。
「氷ノ山越」は鳥取の若桜と兵庫の熊次、関宮を結ぶ峠です。
ここには石仏が安置されています。自然石の表面を舟形に彫りくぼめ、その中に地蔵菩薩立像が肉彫りされています。キリッと切れ上がった眼が特徴的。両手で抱くように錫杖を抱えています。石の下部に彫られている『皆原村』は鳥取八東町にある村の名前。中央には『先達半平』左には『ゐ一切』とある。
実はこの氷ノ越は伊勢参りの道として利用されていたという。皆原村の半平さんはその先達。『ゐ一切』が先達に掛かる文字ならば私は一切を取り仕切るリーダーなのだ!という自負もうかがわれる。この半平さんはこの石仏以外にも数体の石仏を県内(鳥取)の伊勢道上に寄進しているという。
いせ道由来
そもそもなぜこの道を使って伊勢参りをするか疑問だったのだが、鳥取在住のブンタさんから私の掲示板に書き込んでもらった文章を引用すると『因幡誌の作者安部恭庵は俗にいう。天照太神宮征西の時、此山を通り玉う。・・・・・今に及んで諸国の人民、此山を越ゆるを伊勢詣の本道とす。』とある。その昔(神世の時代)天照大神は白兎の案内によりこの峠を越えたという。(白兎を祀る因幡堂がここにあったという。さらにその当時は現在の赤倉山が氷ノ山、現在の氷ノ山は須賀ノ山と呼ばれていた。その須賀ノ山は天照の弟であるスサノオが降臨して須賀の宮権現がありました。これも何かの関連があるのかな?)
人々は天照大神の足跡を自らも忠実にたどるためにこの峠を越えて伊勢へ参ったのだろう。その伊勢も現在の三重県の伊勢と言う人もあれば、京都府にある元伊勢だったと言う人もいる。実はその両方ともが正解だったらしく、先ほど文章の続きを紹介すると『そう謂えば予の母親なども、若い時伊勢参りしたのに、先ず用瀬から若桜に出て、氷の山を越えて、但馬、丹波に出て、もと伊勢に参拝し、天の橋立を見て京に出て、伊勢参宮をすませて帰ってきたと謂っていた。』そのほとんどは元伊勢だったと思うのだが、両方参拝した強者もいたようです。
この文はホームページ氷の山。より引用しました。
お伊勢参りの旧伊勢道が若桜町・氷ノ山(ひょうのせん)の山腹を通っている。氷ノ山は頂上が標高1510mとかなりの山岳である。伊勢道は、頂上の手前、氷ノ越(1200m)あたりを越えて 但馬(たじま)(今の兵庫県)熊次、関宮町方面へ続いている。
「そう謂えば予の母親なども、若い時伊勢まいりしたのに、まづ用ケ瀬(もちがせ)から若櫻に出で氷の山を越えて、但馬、丹波に出で、もと伊勢に参拝し、天の橋立を見て、京都に出で、伊勢参宮をすませて帰って来たと謂っていた。」(落花落城譜 荻原直正著 山陰文化選書 昭和29年6月1日発行)
氷ノ越から山頂方面。いせみち。
江戸時代・明治時代までは伊勢参りの氷ノ山越えの道だったそうです。 舂米には宿があったそうだ。この氷の山を馬で超えるのに参勤交代の殿様が馬を乗り換えました。「駒次」がいつの間にか熊次になりました。その後関宮村と熊次村が合併して関宮町ができました。氷の山越えは天下の難所。氷ノ山は頂上が標高1510mとかなりの山岳である。伊勢道は、頂上の手前、氷ノ山越(1200m)あたりを越えて
但馬(たじま)(今の兵庫県)方面へ続いているという。

頂上へ最後の上り 兵庫県側ではコシキ巌、鳥取県では「甑岩」と言う
素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨された
避難小屋の脇に須賀の宮神宮跡とあり、真新しい石祠(平成6年)があり、次のような説明板がある。 素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。 この宮を須賀の山神宮といった。因幡、但馬、美作、播磨四か国の総社で皇室が管理していた。 頂上と中腹に五十八ヶ所の宮跡と礎石が現存している。 茲に須賀山の古代遺跡を後世に伝えるため、之を建てる。(須賀ルーツを探る会)。氷の山直下の奈良尾村の神社は祭神、素戔嗚尊を祭っています。 古くは須賀の山と呼ばれ、主に因幡側の人の信仰の山であったようだ。 因幡側では北隣の赤倉山を氷の山(ひょうのせん)と呼んでいたが、但馬側の人は須賀の山を標の山(ひょうのやま)、豹の山(ひょうのせん)、氷の山(ひょうのやま)などとと呼んでいた。 大正初期陸軍省測測量部が地形図を作成するとき、但馬側の呼び名「氷の山」と記入した。因幡側では不満があっても軍にもの申すことができなかった。 第二次大戦後、因幡側から異議がでて昭和51年「須賀の山」と訂正されたが、やがて再びこれまで定着していた氷ノ山(ひょうのせん)(ひょうのやま)に戻された。
【氷ノ山 ひょうのせん】(抜粋)~「兵庫県大百科事典」(神戸新聞出版センター)
明治39年(1906)発行の高頭式編『日本山嶽誌』によると最高峰は菅[すが]ノ山[せん](須賀ノ山)に、氷ノ山越の峠の北のピーク赤倉の頭[かしら](1,332m)が氷ノ山となっている。 これは鳥取県側の呼び名で兵庫県側では「ひょうのやま」(豹[ひょう]の山[やま]・標[ひょう]の山[やま])と呼称していた。その昔、山頂に須賀の宮権現がまつられ、出雲文化の影響で一歩進んでいた因幡の住人の信仰が篤かった。今も山頂に群生するスズタケの陰に礎石が残っているという。
山頂直下にみたらしの池(みそぎ場)や灯籠岩の遺跡がある。近代スキー登山の対象になってからは、その当時の大正初年発行の陸軍陸地測量部の地形図と兵庫側の呼び名にしたがって、山の仲間は「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」と呼び、ついにそれが定着するようになった。
ところが第2次大戦後になり鳥取県側から苦情が出たため、新しい地図では須賀ノ山に訂正されることになったが、一般的に定着している「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」おされて、国土地理院においては、54年度から発行の地図で最高峰を「氷ノ山」に、1,332mのやまは「赤倉山」と訂正することになった。またNHKではその呼称を「ひょうのせん」に統一した。多田
繁次(ただしげじ)
電脳徘徊 より引用
弘法水。夏の日照りの日が続いても枯れない。弘法大師空海が歩いていて、杖で突いたところ水が出た。という言い伝えがある。


化粧された地蔵堂。 氷の山の地蔵堂。このお地蔵さんは右の布滝のある谷と左の不動滝のある谷の間の小さい尾根だが斜度はきつい。



氷の山越えの地蔵さん。 布滝 弘法の水
また神宮は私の村奈良尾神社にも素戔嗚尊を祭る荒御霊神社。須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。


奈良尾神社。祭神、素戔嗚尊。 観音堂と八大竜王の墓。後ろは観音様。地蔵堂。
奈良尾神社。祭神、素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。下記は、奈良尾村の観音堂と八大竜王の墓。何時の頃からか八岐の大蛇が大暴れし、明治年間にも山崩れ、八岐の大蛇が暴れ、奈良尾村の裏山が山崩れに見舞われました。そのとき墓をたてました。魔淵に降りた大蛇は氷の山方面に舞い上がり逃げてゆきました。それ以来村には平和が訪れました。素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治。八岐の大蛇を祭る墓。「八大竜王の墓」明治23年7月13日。奈良尾村の丘にあります。
須賀の宮神宮(氷ノ山)
名称由来
[編集] 稲羽誌によれば天照大神が旭日に映える樹氷を見て、ヒエの山と称されたことが名前の由来であるという。山麓の舂米集落には天照大神の御製が伝わる。鳥取県側では、伊勢道として、天照大神が実際に通られた道として、江戸時代には伊勢参りの際に利用された。伊勢道の途中に天照大神が腰掛けされたとされるさざれ石がある。(平成21年6月10日日本海新聞記事より)
「郷土と博物館通巻46号」によると、弘化2年(1845年)、当時45〜6歳だった加藤清右衛門は7月16日朝、槇原村を12名で出発、お伊勢参りにでかけた。コースは、八東町から若桜、氷ノ山越え、但馬の養父へ。関宮、福住、亀山、嵯峨、京都、大津、鈴鹿峠、津、松坂、伊勢神宮、長谷寺、奈良、藤井寺、大阪、尼崎、住吉、須磨寺、姫路、志戸坂峠越えし、8月9日に帰着した。途中、京都では案内人がついたというが、実に24日間の徒歩大旅行であった。このコースを見ていくと、お伊勢参りを兼ねた諸国漫遊、物見遊山の旅であったと言える。 さて、彼らが通った若桜宿は旧伊勢道(但馬道とも呼ぶ)と播磨街道が分岐する宿場町である。役場の近くに道標を見つけた。 氷ノ山 > 氷ノ山 地図 より引用
山頂に須賀の宮権現があった。 この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。
兵庫県養父市鵜縄には、志賀峰神社、
兵庫県養父市大屋町横行には、四ケ峰神社(しかのみねじんじゃ)
鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町大字舂米(つくよね)では、舂米神社(つくよね)となった。但馬側でも須賀の山に由来する神社名が使われている。
舂米とは、年料舂米(ねんりょうしょうまい)で、日本の律令制において、諸国より毎年一定量の舂米を中央に貢進させる制度、またその舂米そのもののこと。
避難小屋の脇に須賀の宮神宮跡とあり、真新しい石祠(平成6年)があり、次のような説明板がある。
奈良尾神社。祭神、素戔嗚尊。 素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。 この宮を須賀の山神宮といった。
因幡、但馬、美作、播磨四か国の総社で皇室が管理していた。 頂上と中腹に五十八ヶ所の宮跡と礎石が現存している。 茲に須賀山の古代遺跡を後世に伝えるため、之を建てる。
(須賀ルーツを探る会)。
古くは
須賀の山と呼ばれ、主に
因幡側の人の信仰の山であったようだ。 因幡側では北隣の
赤倉山を
氷の山(ひょうのせん)と呼んでいたが、但馬側の人は
須賀の山を
標の山(ひょうのせん)、
豹の山(ひょうのせん)、
氷の山(ひょうのせん)などとと呼んでいた。 大正初期陸軍省測測量部が地形図を作成するとき、但馬側の呼び名「氷の山」と記入した。因幡側では不満があっても軍にもの申すことができなかった。 第二次大戦後、因幡側から異議がでて昭和51年「
須賀の山」と訂正されたが、やがて再びこれまで定着していた
氷ノ山(ひょうのせん)に戻された。
若桜舂米(つくよね)神社 (鳥取県若桜町舂米)



鳥取県八頭郡若桜町舂米174番 御祭神 天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神 君が代のさざれ石
せおりつひめ(瀬織津姫)
舂米は、(つきよね)「臼」を充てているが、正しくは、「巻」の「己」を「旧」で置き換えた文字である。山頂に須賀の宮権現があった。
この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。祭神についてつぎのような伝説がある。「この神、往古は須賀の山(氷ノ山1,510mに鎮座し、山麓の因幡・但馬・播磨・美作の国々の神社(須賀神)であった。元歴の頃(1182~1184)兵乱のため衰退がめだち、山麓の14ケ村が下遷について争った。
この時ある古老いわく、「翌朝早く登った村に下遷す」これで一決す。舂米村の者達一計を案じ、翌朝をまたずに下山中途で引き返し、御神体を奉持して下遷す」と。本殿は弘化二年(1845年)に建て替えられる。毎年5月10日と旧暦9月3日の例祭では、古式ゆかしき祭礼行事が今に伝えられる。境内には鳥取県下でも有数のケヤキやヒノキ、杉の巨木もある。
御由来創立年代は不詳、古くから蔵王権現と呼ばれ、「安産守護の神」として参拝客が多い。私も若い頃、ここの大木の木の皮を少し剥がして頂き、妻の「乳房をなでると乳がよく出る」といわれていたので、乳を撫でたら、母乳がよく出ました。この記事は体験に基づく事実です。水戸黄門。
。


豊岡市日高町東構区舂米神社 養父市福定三叉路の標柱「いせみち」由来
日高町東構区舂米神社があります。
御祭神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
日高町で最も新しい神社です。東構区が発足する時に若桜町の舂米神社から分社されました。なぜそうなったのか経緯はわかりません。
さて、このルートは幻の山陰本線氷ノ山越えでもあり、国道482号になっています。巨木に囲まれた本殿。

鉢伏山とハチ高原。
鳥取県側から見た山々

鳥取県側から見た登山道
元伊勢内宮 皇大神社
丹後丹波を代表する
パワースポットといえば、大江の
元伊勢三社(
皇大神社、
豊受大神社、
天岩戸神社)が挙がります。
私は若い時から何回かこの元伊勢神社に興味をもち尋ねました。
伊勢神宮は現在地におさまるまでに、聖地を求めて20カ所以上も場所を移したといわれます。
紀元前59年に大和を離れ、4年間鎮座したのが大江のこの地。
その後「
元伊勢」として厚い信仰が続いてきました。
江戸〜明治時代には元伊勢参りが盛んで、たくさんの旅館が建ち並ぶほどだったそうですが、いまは静かな集落です。
神明鳥居をくぐり200段以上ある石段を登っていきます。 境内は巨木だらけです。 これは麻呂子親王お手植の杉。
珍しい黒木の鳥居はこの内宮・外宮と嵯峨野の野宮神社にしかないそうです。
巨木に囲まれた本殿。
本殿のかたわらには推定樹齢2000年の「龍灯の杉」。
節分の深夜に龍神が降りて来て灯を点すと伝えられています。
小さな末社84社が社殿を取り囲むように建ち並びます。
夕暮れの薄暗い境内で見るとちょっと怖かった絵。明治時代に奉納されたものですね。本殿から西へ少し歩けば、御神体山の遥拝所があります。
シャープな形のこの山は「日室ヶ嶽(岩戸山)」、ピラミッドともいわれています。 夕日で山頂から光を放ち、とても美しく神々しい姿でした。
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