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中国密教、弘法大師空海の研究

 真言密教救法、弘法大師空海の足跡をたどる旅。

    
弘法大師入唐1200年青龍寺の空海像。

今台風が台湾海峡から中国に上陸している。
2004年8月9日関空発。8月24日帰国です。今年は空海が真言密教を求め入唐してから、ちょうど1200年目になります。804年、摂津国難波津(現大阪市)を出港した4隻の遣唐使船団は台風に遭遇。2隻は行方不明に、大使と同乗した空海の船は、8月10日に福建省の赤岸鎮に漂着します。これが、本企画が1200年目の8月10日に赤岸鎮から始まる所以です。その後は長安までの空海の歩いたルートを、出来るだけ忠実に辿って行きます。翌805年の同じ8月10日、空海は長安で恵果阿闍梨より伝法灌頂を受け、「即身成仏」を主眼とする世界の密教の第八祖となります。そして、空海の帰国と同時に、2500年前の釈尊から始まり、部派仏教、大乗仏教、密教と発展してきた仏教の直流は日本に流れ込むのです。この文西遊旅行社、金子貴一氏


  2004年8月8日ー24日。私達は弘法大師が1200年前漂着した中国、福建省霞浦、赤岸村に到着した。時、丁度弘法大師空海が漂着、1200年後の、8月10日であった。そして西安城に1200年後の8月21日無事13名入ることが出来ました。そして、弘法大師空海が修業し、師、恵果和尚から青龍寺で真言密教を相承し日本に帰国したその同じ道を16日間かけて走破しました。福建省赤岸鎮から西安までの2400km。そこで見た中国内陸部の経済発展の風景をカメラに収めてきました。
空海は31歳の時{804年}、密教を求めて中国へ入唐、32歳で師恵果和尚に遇って、密教を相承した。弘法大師空海の名前は知っていた。私の家も真言宗である。四国八十八カ寺の旅や小豆島88か所めぐりで弘法大師を知らぬことも無かったが、信仰としての対象ではなく、旅行として適当なコースであるから行ったに過ぎない、今回の旅も仏教崇拝での旅行ではない、未知の世界の旅にロマンを求めての旅である。イスラム世界の旅は終えた、キリスト教文明の旅も終わった。近くの中国の内陸部の旅。弘法大師空海の旅2400kmの旅にロマンを感じた。そのすべてを書き記しておきたいと考えた。

真言密教救法、弘法大師空海の足跡をたどる旅。

 2004年8月9日関空発。8月24日帰国です。今年は空海が真言密教を求め入唐してから、ちょうど1200年目になります。804年、摂津国難波津(現大阪市)を出港した4隻の遣唐使船団は台風に遭遇。2隻は行方不明に、大使と同乗した空海の船は、8月10日に福建省の赤岸鎮に漂着します。これが、本企画が1200年目の8月10日に赤岸鎮から始まる所以です。その後は長安までの空海の歩いたルートを、出来るだけ忠実に辿って行きます。翌805年の同じ8月10日、空海は長安で恵果阿闍梨より伝法灌頂を受け、「即身成仏」を主眼とする世界の密教の第八祖となります。そして、空海の帰国と同時に、2500年前の釈尊から始まり、部派仏教、大乗仏教、密教と発展してきた仏教の直流は日本に流れ込むのです。この文西遊旅行社、金子貴一氏
 

 2004年8月8日ー24日。私達は弘法大師が1200年前漂着した中国、福建省霞浦、赤岸村に到着した。時、丁度弘法大師空海が漂着、1200年後の、8月10日であった。そして西安城に1200年後の8月21日無事13名入ることが出来ました。そして、弘法大師空海が修業し、師、恵果和尚から青龍寺で真言密教を相承し日本に帰国したその同じ道を16日間かけて走破しました。福建省赤岸鎮から西安までの2400km。そこで見た中国内陸部の経済発展の風景をカメラに収めてきました。
空海は31歳の時{804年}、密教を求めて中国へ入唐、32歳で師恵果和尚に遇って、密教を相承した。弘法大師空海の名前は知っていた。私の家も真言宗である。四国八十八カ寺の旅や小豆島88か所めぐりで弘法大師を知らぬことも無かったが、信仰としての対象ではなく、旅行として適当なコースであるから行ったに過ぎない、今回の旅も仏教崇拝での旅行ではない、未知の世界の旅にロマンを求めての旅である。イスラム世界の旅は終えた、キリスト教文明の旅も終わった。近くの中国の内陸部の旅。弘法大師空海の旅2400kmの旅にロマンを感じた。そのすべてを書き記しておきたいと考えた。

真言密教救法、弘法大師空海の足跡をたどる旅。

8月7日
厳密に言うと私が中国を訪問するのは3回目である。
 中国には10年前、1995年。兵庫県町議会議長会で公式訪問した、北京、天津、西安、上海の、中国の代表的都市を日本の中央の兵庫県の地方議会としての公式訪問であった。行く先々の大都市で、市長や議会の代表から歓迎の挨拶を受けた。日本経済の最盛期の公式訪問であった。中国共産党のトップとの会談であった。当時の中国は日本の代表に多くを期待していた。
中央アジアや、ウイグル自治区共和国に行く途中など飛行機で度々北京国際空港に休憩した、飛行場を出て北京の町のホテルに一度三年前に泊まった。そのときの北京の町の変貌に驚いた。今度は中国の内陸部の核心を旅する機会に恵まれた。きっといいたびになるだろう。

 福建省の省都福州から空海が遣唐使で漂着した霞裏、赤岸鎮、空海記念堂などを見学、福清、南平、裏城、二十八都鎮、江山、杭州では霊隠寺、紹興、寧波、まで行き引き返し、杭州、蘇州では寒山寺、常州、鎮江では金山寺、定慧寺、開封では相国寺、洛陽では白馬寺、函谷関、西安は二回目であるから一段と理解を深めることができるだろう。西安から関空に帰る予定である。
 
西安、シルクロードの旅、法門寺の棟。空海の求法の寺。西安、シルクロード。此処から始まる。

十年前には中国内陸部の旅は出来なかった。空海の足し跡をたどる旅であるが私の目的は、発展を続けている中国経済の内陸部の実態をこの眼で見て見たい。同時に歴代の英傑、武将たちの歴史の跡、中国民衆の暮らしを見たい、16日間の旅、旅人の見た中国、普通の観光地ではない仏教文明の中国の歴史を知りたい。そして、日本に伝来した中国仏教の思想の核心を知りたい。きっと中国の真髄が掴めるだろうことを期待しています。
第一日。8月9日{月曜日}
成田、関空から別々の飛行機で飛び立った。私たちは関空から14時発、台風の影響で北京空港に着陸不可能。青島に一時着陸、いつ出発できるのか不安であった。このとき四国愛媛県の堅田華さん、小松久美子さん、岡山市の岡野恵子さんを知った。愛知県の岡崎市、磯田、川田さんも同乗していた。ようやく30分遅れて飛びたった時、安堵の気持ちが機内に流れた。北京空港到着、ここで東京組みと合流できた。空海1200年前入唐のときも台風だった。北京から機を乗り換え漸く目的地福州についた。福州、金土頓酒店泊。旅の前半のスルーガイド、博丹青。{福建省世紀神船国際旅行社日本部長。}前半の運転手、赫東旭の出迎えをうける。

第二日。 8月10日{火曜日}
1、福州開元寺、西暦548年創建の現存する福州市最古の寺院。いり口を入って右側に石碑、「空海入唐の地」と弘法大師像がある。
本尊は宋代1083年鋳造の阿弥陀如来{鉄物}。遣唐使一行は、11月1日に長安に向けて出発するまでの2ヶ月間福州に滞在した。半世紀後に、後の天台坐主、智証大使円珍が同寺を訪れた際、時の住職が「五筆和尚{ごひつわじよう}はお元気か」との問いに「亡化せられた」と答えると、胸をたたいて非慕されたという。私たちは北上して霞浦へ。途中、竜眼を試食。
2、建善寺:484年創建の福建省最古寺院の一つ、禅宗の一つ。為仰宗{いぎょうしゅう}開祖、為山霊祐{いざんれいゆう}禅師が15歳のとき剃髪した寺。空海大師像がある。住職、世渡禅師によると、弘法大師と霊祐禅師がこの寺であったときの伝承が残るという。
話のあと、禅師は私たちのリクエストにお答えくださり、大雄宝殿での法要中、中国語で般若心経を読経してくださった。霞浦のガイドは徐国雄さん{中国語}
3、空海坊街門:1999年完成。横にムツゴロウ養殖地を発見。夕食に出すことに。
4、空海大師記念堂、弘法大師入唐1190年周年を記念して1994年に落慶。本尊は「入唐大師像」。記念堂裏の記念館には、村の人々のお参りする大師像もあった。
5、港:現在泥ハマの小港にして、丁度1200年まえの本日上陸した入唐の模様を偲ぶ。               
6、茶館:空海研究会福秘書長、孔慶栄氏の講演会「中国人からみた弘法大師」。同時に、サブテーマの中国茶、白豪銀針、ジャスミン茶、鉄観音茶、を試飲。霞浦。環島大酒店泊。
 夜、輪たくに乗る。茶店まで行き孔氏宅で中国式の茶会を味会う。孔氏は福健省で空海研究会の福秘書長である。空海の研究家であり空海について話てくれた。農家は田植えの準備をしていた。稲は二毛作であるが麦など3回とれる。水のあるところには「ムツゴロウ」が養殖されていた。松の木が多かった。

2004年第三日。[8月11日水曜日}。中国の旅。
朝から福建省赤岸鎮の開元寺に行った。空海記念堂など見る。高野山から大挙来寺し、多くの寄進を受け寺は大きくなってきていた。全部開扉し、見せてくれた。本尊を拝み、やがて僧侶が読きょうを始めた。空海は赤岸鎮に漂着し、ここに約40日間滞在したらしい。福健省の山野は日本の村々によく似ている。山林は日本のような植林がなされ、杉、松、ヒノキなど建築用材が栽培されていた。広い何処までも続く福建省の村々を見た。
 10年前に見た中国から様変わりの様相の中国をみてきました。台湾海峡の突端の村、高山鎮の村人たちとの交流、そこで見た中国の田舎芝居、京劇のような演劇、劇団の人たちと写真を撮った。福建省福清市から2時間、舗装しない曲がりくねった、でこぼこの道を車は半島の突端の村に来た。村に入ると道路は舗装され広々とした道路が港まで続いていた。立派な家々がつづいていた。

 台湾海峡を望む中国の軍事基地が山のテッペンに築かれていた。このあいだ軍事演習が行われていた太平洋に面した村々は、日本に出稼ぎにきて帰ってきた人たちが立派な高層ビルを建てていた。出稼ぎは日本だけでなく、東南アジア、シンガポール、香港、台湾などに出稼ぎし、村に帰り家を建てる、自分が如何に成功したかを誇示する、それがこの村人たちの誇りらしかった。

 日本名、小川さん一家の家は表通りから細い路地裏の道を下り、人家の前を横切り、細い排水溝の前、ニワトリや、犬が鳴き、歓迎なのか?警戒なのかワンワンと吠え立てていた。その辻を曲がったところに「楊」一族の家はあった。一家18人。日本人の血を引く村の人たちは後、数日で東京に帰るらしかった。この間、祖母を見送ったその墓は田んぼや畑の間の道を歩き、高山鎮の中国軍の要塞のすぐしたの、台湾海峡を見下ろす風光明媚な丘の上に、楊一族の墓があった。まだ生々しい花輪が墓の周囲に置かれていた。コンクリートの土蔵のような大きな墓は一族全部土葬するらしかった。死んだ人を土蔵の墓の中に入れてゆく、丁重に葬り、祖母の葬儀が終わり、その夜村の中央にある公民館で、楊さんが全額金を出して村人を招き、福州のまちから{福清市、五龍びん劇団} を招き演劇の一夜を開く、私達は広い公民館の中央に13名一列に座った。ビデオやデジカメで写真を撮った。日本の歌舞伎演技のような三番叟で幕が開かれた。
美人、美男子の劇団の人たちが舞台の横で化粧をしていた。村人数百人が集まってきた。パチパチ、ドカーンと打ち上げ花火が引っ切り無しに打ち上げられていた。午後9時もっと見たかったが帰りにまた2時間かかるので引き上げた。私達「真言密教、弘法大師、空海の足跡をたどる旅」 は台湾海峡を望む中国、高山鎮の村から始まった。
其処に日本の血を引く楊さん、日本名、小川一族18名の人々から、村を上げての大歓迎を受けた。そして16日間の旅が始まりました。


藤本さんの歩いた地方の地図

 福清市から900mの山上に湧泉寺:908年創建がある。空海滞在時には寺院は無かったようだが、当時も羅漢泉や東屋はあった。一つの山が全山、湧泉寺の境内となっていた。日本の比叡山のようだ。山の段々を利用し大きな寺院がいくつも建てられていた。開元寺と違いここは歴史ある寺院であった。一番奥の院まで登った。空海、弘法大師の像もある。仏教寺院としては、この地方最大の寺院であろう。
第4日。8月12日。[木曜日}
南平はこの地方の中心都市である。植林が進み、製材業など多く見られた。杉、ヒノキなど広大な面積の山々が続いている。高速道路から見られる山は雨も多く緑の山々は日本の風景と変わらない。福健省の人口は3000数百万人。衛州を通る、南宋官窟博物館の見学。

うだつの上がる家
ウダツの上がる村、28都鎮、世界遺産にもなるだろう。
福清市を朝7時30分出発、福健省の中央を走る。途中、南平の町から山を越え、昼食の場所に入った。林道から曲がりくねった道が続いた。最近開発したと思われる1コ立ての食堂が並んでいた。各戸ごとに食品を提供する施設があった。途中、食堂を案内する人相の悪い男が乗り込んできた。竹の子、山の花を取り入れ食品として出している。しいたけ、山菜などの料理であった。珍しい食品だがここまでの道が昼の食事としては長すぎる。結局夜遅くホテルに着く結果となり高齢者の旅としては苦痛だ。街中で昼にして、早く目的地に着くほうが旅行は楽である。

南平から浦城まで約6時間かかった。午後3時過ぎに出発、午後9時過ぎにホテルに着いた。南平から浦城まで6時間のあいだ中国林業の中心を通った。中国は全土が国有である。其々の村々に管理が委託されている。見渡す限りの人工造林地であった。行けども行けども福健省全体に人工造林地が広がっていた。青々と澄み切った川の流は山紫水明、清流であった。午後9時過ぎやっと浦城のホテルについた。

 「浦城賓館」とかいてあるがビジネスホテルだろう、夕食は別の酒店で二階に歩いて上った。エレベーターが無い、設備は今ひとつだが夕食にはビールのサービスがある。金子さんの特別の計らいで、昼と夜にはビールコップ一杯のサービスがついていた。夜はゆっくり出来た。明日の朝、出発は9時である。お休みなさい。
大型で強い台風13号は12日夜折江省を直撃、同省内での死者164人、行方不明者24人、被災者は省人口の三割にあたる1300万人に達した。{ 8月18日折江省発表、} 中国気象局によると、中国に上陸した台風の中では1956年以降では最も勢力が強かったという。同時期に被災地を何事も無く通過できたことへの感謝の気持ちと、共に、犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。後の8月下旬には、私たちが訪れた福建省福清市高山鎮に台風17号が上陸したが、犠牲者は無かったという。浦城、浦城賓館泊。


第五日。8月13日{金曜日}
浦城ホテル仙桜賓館9時出発、空海が越えたという仙霞嶺の山脈を通り、江山え、空海が非常食として教わったという伝説が残る村、28都鎮に立ち寄る。ウダツの上がる古い家並みの村を歩く、大雨の中で見た屋敷郡は一段と赴きを増していた。羨乗書旧宅、文昌宮、羨丙栄旧宅、楊瑞球旧宅、高野豆腐の原型をつくる豆腐やを見学。豆腐は夕食で試食、美味しかったです。ここから翌日まで元気な王霞がガイド、棚田の写真、仙霞嶺の写真、遣唐使一行も通った江郎山の麓で写真撮る。
 
浦城の天心勝果禅寺を見る。ビデオテープには詳細に写している。凄い雨降りとなった。台風の襲来、100年ぶりの台風らしかった。川の水は一気に増水し大変な大洪水となっていた。
夕食後、金子さんからイラク派遣、第二次民間人通訳を引き受け、イラクに入ったただ一人の日本人通訳としての話を聞いた。金子さんがサマワの現地人との用地交渉と、金額の決定に活躍した、自衛隊との中間にたってイラクの人達の信頼を得て交渉を妥結した、裏話など聞いた。鈴木さん、松岡さん、と藤原四人で一杯飲みながら話した。
江山市のホテル江山国際大酒店に泊まる。

第六日。8月14日{土曜日}

海会寺の像
1、海会寺、遣唐使一行が宿泊されたという寺。519年創建、1998年に江山旧市街移転を決定し、未完成。私たちが訪れると地元の信者たちが{南無阿弥陀仏}と合掌で迎えてくださり、お土産のお守りまで頂く。隣のお堂が唯一の正式な礼拝所。
2、孔氏南宋家廟:中国広しといえども、孔氏家廟は山東省曲阜とここのみ。各地の仏教寺院や、道教道院同様、文化大革命の嵐を免れることは出来なかった。
3、龍遊船付場跡:南宋淳祐年間、[1241年^1252年}創建の東閣橋から、船着場あとを眺める。福建省を船または馬で北上したご一行は、仙霞嶺を陸路で越え、折江省にはいり遅くともこの龍遊からは船で杭州まで北上したと考えられている。龍遊のみとガイドは寥銀霞。
4、白佛岩:中国で密教が崩壊するまで彫刻し続けたといわれる毘櫓舎那佛の仏頭があった場所だ。弘法大師もここでも修業されたという。麓には、龍遊石佛卿三門源村という明代創建の古村がある。1846年から20年かけて建築された叶天鶴の豪邸内を見学。
折江省友遊具石仏卿叶氏の故居訪問。バスは村の入り口まで進んだが其処から歩いた。叶氏住宅は28都鎮より凄い豪農の住まいだった。明治以前の年代に栄えた中国の豪農の住宅だった。彫刻、屋根瓦、大きな木材を存分に使った邸宅だった。
そのご、二人のガイドに分かれを告げ、台風の影響でなぎ倒された巨大看板を両側に見ながら、高速道路を寧波までひた走る。
途中、紹興で休憩、市内を見る。紹興酒を買う。毎食ともその地方の特色ある食事を出された。
折江省の真ん中を走ったが総体的にヨーロッパの家並み以上の綺麗な町並みに変わっていた。夜、寧波、金港酒店泊。ガイドは日本語の徐一明。
第七日目。8月15日{日曜日}

真言歴代祖師のご命日。真言附法第五祖、金剛智三蔵の祥月命日{741年8月15日ご遷化}
真言附法第七祖、恵果阿闇梨 {805年12月15日ご遷化。本年は1200回忌}15日は釈尊の月の命日でもあり、意義のある日でした。
1、寧波港跡:806年、弘法大師が日本に向けて出発した場所であると同時に、1223年4月、道元禅師が入宋した地でもある。「道元禅師入宋記念碑」がぽっつりと立つ、今回のサブテーマの一つは、承陽大師道元禅師だった。小白塔、太白寺写真撮る。

2、日本の道元禅師が得法した天童禅寺、大王山に参る。曹洞宗大本山永平寺管主の寄付になる碑が建てられていた。
如浄禅師が居眠りする参禅者に「参禅はすべからく、心身脱落なるべし」と一喝したのをきいて、道元禅師が大悟した。その様子を記した日本曹洞宗建立の石碑が残る。帰国後、如浄禅師の教えを厳格にまもり、天童寺の風致を再現したのが福井の永平寺である。
3、書聖、王義之墓に参る。{365年}の墓、やっと探り当てた墓であった。杉か松の並木道が植えられていたが、昨日の台風で木は横向きになっていた。同氏の書は弘法大師の書に大きな影響を与えた。弘法大師は帰国の際折江省紹興に4ヶ月滞在これらの墓もたずねられたことであろう。
王義之墓に参る。

王義之墓に参る
4、峰山道場、今回の旅で唯一の伝教大師最澄、関連の遺跡であるとともに一年の時差はあるものの、弘法大師との接点も考えられる場所。当時ここは、不空三蔵の弟子順暁大師がおり、日本の両大師はこのしたで修業したと考えられる。{弘法大師にかんしては確証はない。}裏山山頂付近には、842年の会昌の廃仏まで彫られた毘濾舎那仏頭部像が残る。
5、欄亭:353年王義之がここで、「蘭亭集序}という「天下第一行書」を書いた。夜遅く電灯を使って観光した。
6、大善寺塔:弘法大師が宿泊したと考えられる大善寺で唯一残った建物。504年創建、周りは市民が集う広場となっていた。
7、紹興酒蔵元:中榔紹興酒有限公司の酒蔵を見学。酒を買う、夜、杭州、皇冠大酒店泊。
杭州市に入る。紹興酒をつくる酒造店により酒を買う、

杭州市内観光に船のクルーズ
第八日目、8月16[日月曜日}
乾龍帝が運河を作った運河に遊んだ。よう帝が掘った大運河は北京から杭州まで1700km。北京、天津、河北省、山東省、江蘇省、折江省と6つの省都を結ぶ、西から東えと水が流れている。その杭州市内観光に船のクルーズ。今も京抗大運河は多くの資材運搬に使用されている。運河はトラック輸送より経費が大幅に安い、今も多くの物資が運ばれている。杭州の物産を上海や長江、黄河、方面の都市に運ぶ。素材、鉄鋼、原材料、農産物はトラック輸送より安くつく。その経済交流の様を多くの写真やビデオカメラに収めた。

京抗大運河を行く
1、清代の梨鴻章一族の屋敷、高家花園を特別に見学。船内では、折江省南部山岳地帯産の泰順茶を試飲。
2、霊隠寺:326年、インド僧。慧理和尚により創建された杭州最大の寺院。宋代彫刻の韋駄天像など本物の仏像が残る。  いり口にある「飛來峰」には、自然の72の洞窟に10^13世紀間の合計330余体の摩崖仏が刻まれているが、密教系の仏像が多く見られる。
3、南宋官窯博物館、:1992年オープンの新しい博物館。登り釜が圧巻だった。                    
4、浄慈寺。道元禅師の師匠の墓。如浄禅師塔を参拝。帰国後調べてみるとここも、文化大革命の当時破壊され、後に日本仏教会の支援で再建されたものであった。夕方、西湖の茶店に立ち寄る。お茶を沢山出してくれる。若い人たちは西湖の周辺に歩きに行ったが私たちは茶店に座ていた。やはり年だ。皇冠大酒店泊。

8月17日
朝、ガイドのフーさんとタクシーで寒山寺に向こう。朝、皆さんは西湖の見学と昨日暗くて見れなかった欄亭の見学に行った。私は体調を崩し遅く出発、高速道路の乗り場で待つこと久しい。鳥鎮:バスの空調が故障したため暑いバスで辛抱した。やっとたどり着いた鳥鎮では、船に乗り奥まで行ってから昼食、歩いてもどる。蒸留酒を試飲する。古い鳥鎮の町並みを散策。弘法大師一行の大運河の移動を彷彿とさせた。蘇州、冠雲楼大酒店泊。
2004年8月11日。中国の旅。

寒山寺
第十日。8月18日{水曜日}
朝、蘇州市冠雲桜酒店を出発する、午前中先ず空海が立ち寄った寒山寺の見学、本日からスルーガイドは宋小凡、翌日の鎮江駅までの運転士は林でした。蘇州のガイドはベテランの居梁洪だった。弘法大師一行は、開封まで水路を移動した。
1、寒山寺は中国の詩人の寺である。松岡さんが寒山寺の詩碑のまえで詩吟を唱えた。創建年代は定かではないが、六朝時代{220^589}である。唐の詩人。張継が詠じたため、日本でも有名になった。修行大師像、鑑真和上像、玄奘三蔵像、が「弘法堂」に安置されている。

寒山寺。詩を唱える松岡さん。撮影藤原。
2、拙政園:明代に中央政界で失脚した王献臣が造営した庭園。江南の名園、拙政園の観光、
3、北寺塔:高さ76m。三国時代の創建だが、現存するのは南宋時代のもの、全員高さ76mの塔まで登りました。昼食時に、日本の八目茶の起源、碧蝋春茶、[緑茶}を試飲、
4、常州の空海が留学した天寧寺を見学する。天寧寺の写真は仏像全部写真に収めた。カメラ、ビデオと思う存分に撮る。天寧寺の塔に登る。塔の頂上から常州の町を見る。649年の創建である。開放まえには門前に「弘法大師留学所」との看板が掲げられており、日本軍による破壊を免れたという。そのご鎮江に向こう、鎮江、国際大酒店泊。

致政園の観光。空海が留学した天寧寺の見学。常州、空海が留学した天寧禅寺。塔
第十日目。8月18日{水曜日}
 
夜、鎮江国際大酒店泊、夕食に行く途中、「宋」さんの話を聞く、私の出した質問に答える形で宋さんの話。
質問要旨。
 「この間、重慶や北京でのスポーツ競技などで中国の若者が様々な問題を提起されました。スポーツ競技である以上、熱狂することはある程度あっても、それが日本と中国の紛争の種になってはならないと考えています。中国の人たちは、日本や日本人に対して、どのような考えを持っているでしょうか? また、今後どのようにすれば友好関係を更に発展えと繋げてゆけるのでしょうか? 」

中国旅行社。宋さんの答え要旨。
中国は長い5000年の歴史のなかで、様々な民族に征服され圧迫され、服従されてきました。中国の歴史は長い戦争の歴史です。それは北からの侵略であり南から北への侵略の歴史はありません、北方諸民族の長年の侵略、圧迫、征服され続けてきました。しかし戦争には一時的に負けても中国はそれらの圧迫者をすべて 「飲み込み」同化してきました。近くは150年前、清国の満州族に侵略されました。しかし中国の文化は決して満州族に侵略されていません。むしろそれらの文化を全部取り入れ、同化し、長い年月の間にすべてを融合してきました。今、満州族は中国の何処にもいません、満州族の文化は何一つ残っていません。すべて一つの中国になっています。ある時期、中国は日本に侵略されました、私は旅行社の一員として日本のお客様のお世話をしていました。
 あるとき一人の日本人が私にこういいました。
「日本は中国に進出し勝っていた。アメリカとの戦争には負けたが若しあの時原爆の被害など受けずに、アメリカに日本が勝っていたら、中国との戦争には勝っていたはずだ。」
と言いました。私はそのとき何も答えず笑っていました。仮に日本が勝っていたとしても、当時の日本の人口7000万人が中国に進出してきていても中国は受け入れます。すべてを飲み込みます。そして、7000万人の日本人を中国の中に同化し、更に新しい中国が生まれてきます。中国は他国に侵略されても決して日本の文化が中国に広がり侵されはしません、すべてを飲み込んで行きます。中国は泥沼のような広い国です。いくら攻め込んでも中国の文化はすべてを同化してゆきます。
私は過去何回か日本に出稼ぎにゆきました。旅行社の仕事もありましたが、一人で出かけたこともあります。45万円の私の全財産をつぎ込み二年間勉強に行きました。大学の研究で無事その学業を終えることが出来ました。また、仕事を求めて日本に働きに行きました。仕事に就職は出来ましたが、住むところが求められませんでした。ある宿舎を求めて交渉したところ、其処の経営者は言いました。「私のところは外国人に貸す部屋はありません」そうしたところは数箇所、交渉しましたがすべて断られました。東京近郊にある「堺引越しセンター」の仕事にやっと就職できました。荷物の積み下ろしに私の強い力が引っ越しセンターの人たちに大変喜ばれました。日当1万円くれました。
日本人は上のほうの人、大学教授や下層社会の人たちは、私を暖かく迎えてくれました。電車に乗るとき、入るときにはお互い協力して入りますが、暫くすると私と日本人の間に、私の顔を見たとたんに、距離ができます。私と日本人との間にはいつも周囲がすきまができます。私の顔をじろじろと眺められます。日本人は長い間島国のためか他国に侵略された経験が無く、他の民族を受け入れることが出来ないのだと思います。

以上が宋さんの話の概要です、重慶でのスポーツ競技のもんだいについて、宋さんは更に話を続けた。

「日本のマスコミは戦争のことを何故いつまで、問題にするのでしょう、戦争のことはもう、忘れましょう。
中国5000年の歴史は戦争の歴史でした。いつも戦争が絶え間なく続いています。小泉総理の靖国参拝について、中国では昔から神は実在の人物です、歴史上の功績のあった人が神として祭られます。神とは人のあがめる象徴なのです。従って、中国人を苦しめた戦争犯罪人が靖国神社に神として祭られることは許しがたいことなのです。
中国人民を苦しめた人を日本の靖国神社に祭ることは許せないことなのです。その靖国神社に小泉総理大臣が参拝することは許せないことです。中国の人たちは靖国神社を認めることは出来ないが、その神社に日本の代表が参拝することは認められない。
 
シルクロードの道
此処まで話したとき、同じ旅行に来ていた青木さんが話題を変えるよう申し入れました。ここから私の意見、宋さん、に伝えました。
藤原の意見。
重慶でのサッカースポーツの祭典と競技会で群集が騒いだことが、日本のマスコミが大きく取り上げ、そうした中国国内で反日行動の起きている最中に、私達は中国国内旅行を敢行した。「そんな危ないところに何故ゆくの?」
「まあー怪我をしないように、大事に行ってくださいよー」多くの日本の友人は、私達の片田舎の隅々の人たちまで、私の中国旅行を心配してくれました。若し、これから中国旅行を選択する段階でしたら友人が引き止めるとき、無理してまで中国に来なかったでしょう。もう、料金を支払い、行く決心をしていたから中国に来ました。今後もスポーツの祭典で再びあのような騒ぎが報道されると日本人の中国旅行は影響を受けるでしょう。そうしたことは在日中国人の社会にも悪影響を及ぼすと思います。私は今後の日中関係は、其々の国には其々の国の文化と、宗教、国民性があります。お互いにその国の歴史的伝統の中から生まれた文化と、宗教、国民性を認めたうえで友好関係を築かなければなりません。私達は戦争中アメリカと闘いましたが中国に対する反中国的感情は、日本人はほとんど持っている人は少ないと思います。原爆投下で日本人は数十万人の犠牲者を出しましたが、戦争が終わった日、私達は心の中で喜び合いました。戦いは終わった。後三ヶ月戦争が長引いていたら私はこの世にいなかったでしょう。
兵隊にとられ、南方の海軍に送られ戦死していたでしょう。私の村は16戸の小さな村です。その16戸の村で15人戦争に引きずり出されました。そのうちの五人が戦死しました。私のおじいさんは日露戦争で戦死しました。戦争に巻き込まれたのは中国人だけではありません。日本人には中国人以上に戦争に反対する空気と世論があります。
靖国神社の問題は、そうした人々を神として祭っている神社なのです。数十万人の戦争の犠牲者を祭る神社なのです。戦争の悲劇を味わった人達の親や、兄弟、夫や、その遺族がいるから小泉総理は靖国神社の参拝を続けているのだと思います。総理大臣といえども一人の議員です。自分の政党が多数を得るため、あらゆる階層の支持を得ようと考えることは民主主義国の総理の行動としては止むを得ないことだと思います。
私は靖国神社への総理の参拝には反対です、しかし幼稚な総理の行動であっても自分の人気を高めるための一つのゼスチュアなのです。だから日本国民は反対する人はあっても黙認しているのです。
お互いに一般の日本人も中国人も大人として、あまり過去の個々の事に固執しないよう仲良くしてゆくことが大切だと思います。以上。
 
第十一日目。8月19日[木曜日]
朝、自由時間、鎮江見学、
1、金山寺:東晋時代{1600年以上まえ、]創建、入唐中の弘法大師の記録に残るとされる数すくない場所の一つ、弘法大師作とされる「金心{イ山]寺」と記された詩があるからだが、確証はない、唐代は、長江に浮かぶ島であった。遠く長江を眺め、慈壽塔に登る。
2、焦山。定慧寺:船で渡った寺で、清代の戦場跡、焦山古砲台、碑林を見学、戦場跡は遺跡らしい遺跡だった。北国山甘露寺で写真ストップ。
3、西津渡街:これまた遺跡らしい遺跡。雰囲気がよい。宋さんは骨董屋をまわってウンチクを披露してくれた。清代の皿の破片を発見、
鎮江駅から列車に乗った、寝台車は一室四人、私と、鈴木さん、青木さん、松岡さんの四人である。隣の部屋に女性グループが入っていた。紹興酒を飲みながら話を始めた。中国ガイドの宋さんが部屋に来た。
駅のホームから夫婦ものの、二人の赤帽が車を引いて荷物を運んでくれた。その中国人の夫婦が汽車に荷物を積み込んでくれた。親切な中国の人たちだ。みんなと協力して汽車に荷物を積み込んだ。
  鎮江の駅には4分間停まる。その間に14個の荷物と14人が乗り込む、打ち合わせどうりに素早く行動し、協力して荷物を積んだ。
開封で降りるときにも同じような行動が必要である。朝、五時過ぎに目が覚めた。目が覚めたといっても少しも眠れていない。顔も洗えない、開封の駅に着いたとき6時50分、順序よく人が降りる、荷物を降ろす。其々の荷物を持って駅に向った。駅にはガイドのキョーさん、ミょーさんが待っていた。早速食堂のホテルに向った。
食堂の湯をもらい歯を磨いた、沸騰していない湯だった。其の湯が悪たかっのだろうか?トイレ通いが始まった。
一日中、下痢ではなかったが何回もトイレに通った。あくる日まで続いたが視察は続けた。体の調子には最大の神経を使っていたつもりだったが、あの食堂の湯がいけなかった。金山寺、定慧寺の慈寿塔に登った。

第十二日目、8月20日[金曜日}
夜行列車開封着後、朝食。開封から函谷関までの河南省の日本語スルーガイドは徐志剛。開封のみの女性ガイドは苗茜。
1、大相国寺、南北朝時代の創建。清代造像の密教系四面千手千眼観自在菩薩像、と弘法大師空海銅像が安置されている。
2、鉄塔:開宝寺跡、に残る瑠璃瓦の塔、通称、「鉄塔」は、北宋時代の建立。みんなが多く登った。
3、開封博物館:今回の旅の中で、これほど本物の仏像がそろった場所はなかった。密教系の仏像、{不動明王等}も見られた。
4、白馬寺の見学。68年創建の中国最古の仏教寺院。文化大革命の破壊を免れた仏像がある。

白馬寺の像。明の時代。文化大革命の破壊を免れた。
黄土高原といえば草木の生えない黄土だと認識していたが、実際の黄土高原は青々とした段々畑の高原であった。洛陽から西安まで何処までも続く黄土高原、トウモロコシがよく出来ていた。緑ゆたかな黄土高原はインドのデカン高原に似ている。ところどころに太い煙突が二本たっている。火力発電所らしかった。最近の中国は急速に重工業の発達で電力が不足している。火力発電所の建設が急務となり、内陸部の高速道路の沿線のいたるところに発電所が建設されていた。道路の沿線の住宅は建て替えられ、特に折江省の農民は綺麗な住宅を建てていた。洛陽、牡丹城酒店泊。

人民軍に守られた、千年の古刹、広化寺

第十三日。8月21日{土曜日}洛陽の町は何となく落ち着いた雰囲気の漂うまちである。
1、広化寺を見た。善無畏三蔵廟跡に再建された寺。後の歴代の胎蔵界系の僧侶の墓地が作られた。善無畏三蔵碑がある。奥にはチベット仏教密教のお堂もある。広化寺は文化大革命の嵐の中、中国人民軍により守られていたことは、中国文明にとり貴重な文化遺産として、世界遺産の指定を受け、多くの観光客が訪れていた。其の近くに龍門石窟があり、この二つの寺院が観光地としての人気を呼んでいた。ほとんど原型のまま残されている、

 下記の広化寺と龍門石窟は文化大革命の嵐から、中国人民軍から守られた。然し、そのほか私が見た仏教遺跡は、多く破壊されていた。インドの仏象も、ネパールとセイロン島地方、ラダック地方にわずかに残るだけで、仏教はインド世界から姿を消している。パキスタン、アフガニスタンの仏像も多く破壊されていた。文化大革命後の中国では多くの寺院が再建され、仏像産業が栄え、どの寺も同じような顔をした仏像がカメラに映し出された。私達ほど同じような日程の間に多くの仏像写真を撮った旅行者は少ないだろう。残された古刹の写真は撮らせてくれないから下記のような写真は滅多にないだろう。龍門石窟の仏像は余りにも巨大で、多いいから、私のビデオテープでご覧ください。

破壊から守られた、広化寺


破壊から守られた、広化寺
写真は龍門石窟、文化大革命の嵐の中、中国人民軍に守られた。巨大な石窟郡であった。インドのデカン高原に広がるアジャンター石窟、それよりはるかに規模が大きいような龍門石窟であった。広化寺とともにこの寺院遺跡が破壊から免れたことは中国仏教遺跡の歴史にとり、幸いであった。勿論世界遺産に指定されている。多くの写真はビデオテープのほうにあります。

龍門石窟の像。文化大革命の破壊を免れた石窟像。広化寺の仏像。文化大革命の破壊を免れた。
2、龍門石窟はインドのデカン高原のアジャンター石窟寺院に匹敵する世界遺産である。素晴らしい広い大きい龍門石窟であった。その仏教遺跡が文化大革命の嵐の中で守りぬかれたことは中国の仏教界、遺跡にとり幸いであった。素晴らしいの一言である。唐代の諸仏を参拝、万仏洞、「奉先寺」、大万五仏洞見学後、マイクロバスで奉先寺跡、金剛智三蔵碑へ。金剛智三蔵碑。右善無畏三蔵碑

4、函谷関に着いた。黄土高原の続く長い道のりだったが漸く函谷関についた。老子の像が祭られている神社がある。古くから西安の都の守りのため作られた関所、函谷関は、黄土高原の続く山脈と黄河との間におかれた古くからの関所である。此処で写真を撮った。函谷関、周代に設置され、弘法大師一行も長安への最後の難関であった当地を通過。
5、長安城東門:弘法大師月のご命日。{805年3月21日ご入城}に、私たちは無事長安城の中に入った。感激だった。西安、建国飯店泊。ここに三泊する。やっと到着西安の城壁
                   
西安建国飯店に泊まった。三泊の始まりである。

第十四日。8月22日{日曜日}
朝、建国飯店で目が覚めたときは5時だった。フイルムが無くなっている。漸く体力が回復してきた。夜は焼酎の湯割りを飲んだ。
1、大雁塔:648年、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を保存するために建立した塔。金剛智三蔵が入唐後、初めて住んだ寺でもある。弘法大師もこの塔を横目にみて、青龍寺に通われた。
2、西安碑林博物館を見学、碑林博物館は一度見ていたから感慨はなかった。不空三蔵碑を見に行く、弟子が不空三蔵をたたえた石碑。
3、西安清真大寺はイスラム教の寺院だったが、中国式の建築であり、中東地方の建築様式とは異なる寺院だった。西安の繁華街の中にあり、門前市場ができていた。商店街など西安の町やスーパーを歩いて回った。
4、空海の宿所だった西明寺跡は高速道路となり、現在地は分からなかった。現在は西安南部、西安電子科技前だった。
5、西門:西門にのぼり自由時間。
6、大興善寺:中国密教発祥の地。唐代の長安城内仏典三大訳場の一つで、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵も数々の密教経典をここで訳出した。

西安に立つ玄奘三蔵像
夜、西遊旅行参加者ほぼ全員あつまり、歓談する。松岡さんの司会で始めた。16日間の長い旅もほぼ終わりに近づいた。いよいよ明日で全行程が終了である。二度目の西安訪問であるが10年前の西安市とは全く様相を異にしていた。町並みが綺麗になった。人々の服装が綺麗になっている。トイレが綺麗になっていた。自転車の大軍が車の流に変わっている。高層建築の壁はタイル張りとなり、道路は高速道路が整備されている。人々の暮らしが楽になり、商店街の商品も溢れている。女性の服装が特に綺麗になっている。西安はシルクロードの出発点である。10年前西安を訪れた私は何時かシルクロードの旅をしようと決意した。そして10年の歳月は流れ、世界の旅、シルクロードの旅を終えて再び西安の城壁にたった。感慨無量の思いであった。
ここから、シルクロードの旅出発西安。大雁塔
第十五日。8月23日{月曜日}
西安からシルクロード沿いに西に向こう。唐の長安城を出た地点にある「シルクロード基点群像」で写真撮影。
1、最後の日、朝から法門寺に行く、:後漢時代{147^189年}創建。1987年に仏舎利や唐代密教仏具、茶器などが発掘され、展示されていた。圧巻である。往復5時間かかった。法門寺の食堂で昼食、精進料理、仏像が欲しかったが金を持ってこなかったため買えなかったのが残念である、しかし仏像を中国の現地から持ち帰ることは大変である。

欲しかった仏像。     法門寺

法門寺は西安市から3時間走って訪れた。法門寺の塔は素晴らしい、博物館に並べられた仏像や貴重な品々、此処まで行く日本人観光客は少ないだろうが、是非みてください、ここの写真が取れなかったのは残念であるが、撮らせてくれなかった。監視の目が厳しく、それだけに貴重な遺産なのだろう。西安から往復6時間かけて見た価値はある。法門寺の絵葉書は買ってきた、また公開します。ビデオテープは約2時間かかります。ご希望の方にはお見せします。中国の貴重な真言密教、曹洞宗の寺院などの仏像や、山野の風景、鉄道、道路、町並み、建設進む内陸部の火力発電所、黄土高原、長江、黄河の風景など中国、2400kmの状況をあますところなく撮ってきました。
ビデオはDVDに編集し、パソコンとテープ、プロジェクター、白い幕などそろえています。何時でも公開します。

  
広化寺にて。            青龍寺の空海像
 漸くテープの編集が終わった。中国の旅から帰り、毎日旅行記の整理と、ビデオテープの短縮編集に取り組んだ。今日で13日、朝五時起床、夜11時ごろまでビデオの編集に没頭した。テープ一巻を15分くらいにまとめた。一度に削除は中々できない、思い出の記録、どれもこれも捨てたくない記録だが思い切って切り捨てた。これも「ふるさとづくりり大学」で、キャメルの大田社長の言葉に従った。ビデオは長くても15分以内にまとめること、これを原則として編集した。夢テーブル委員会で木村女史の「映像を核としたまちづくり」部会に入った。これはいいことだと考えたら即実行に移す、そのための投資は惜しまない、結局、テープ5本、1時間30分、劇団の歌劇約25分とて2時間くらいの時間がかかります。中国経済の実態、内陸部の火力発電所も黄土高原を横切る高速道路で多数みた。三年前、新疆、タクラマカン砂漠の中で石油採掘の現場も多数みた。肩がこる、やっと終わった中国の旅とそのまとめが、今年の冬ごろから世界史を読み、中東からヨーロッパのイスラム、キリスト教文明史と、ギリシア、ローマの旅で私の研究の旅はほぼ終わった。

広化寺    向って右端、金子さん。

まれ木県立宇都宮高校在学中、交換留学生と間留学。1988年、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒(

2、青龍寺:582年創建、弘法大師が恵果阿闇梨から密教のすべてを受け継ぐ。唐代に廃寺となったが、近年、日本の真言宗により再建された。
3、恵果阿闇梨墓塔跡:ここだと思われる場所で写真を映した。                            
4、杜文玉先生の講座:先生の中国語の原稿を頂く。                                     
 西安、建国飯店泊。
第十六日目。[8月24日]火曜日。
西安に別れを告げた。西安空港にて、成田組と関空組と別々の飛行機に乗る。スルーガイドの宋小凡さんが北京空港まで見送ってくれた。皆さん有難うございました。

シルクロードの道西安
「空海の道」静慈園、もう一冊、「空海入唐の道」同じく静慈園著である。大阪から帰りに阪急「紀の国屋」で求めた本を読んでいる。中国の旅を終えてから読むとよく理解できる。弘法大師空海の旅に出たが空海とは如何なる人物なのか、知らなかった。信仰の対象としての空海ではない、あくまで真言密教と仏教文化の歴史をより深く知りたいとの欲望に過ぎない、そして、中国仏教と現在の中国人の考え方を知りたいための旅行であった。
  今、中国経済は資本主義市場経済へと大きく転換し、アメリカと提携して躍進している。日本経済もアメリカは勿論、中国との貿易で伸びている。中国の発展は日本経済の景気回復にとって必要な、資本主義国となってきている。
10年前、私が見た、そして予測した中国、その予測は的中している。
私の中国訪問は三回目である。北京空港にはヨーロッパや中東の旅行のとき度々停まるが飛行場の外には出してくれない、オリンピックのアジア予選で重慶での日本排斥運動がおこっているらしいが、本当の中国民衆の声を聞きたい。中国は広大である。様々な民族が暮らしている。
中国の旅にご一緒だった鈴木さん、又、西安からの葉書がとどいた。私と中国に行き、8月24日帰ってから9月4日またまた、今度は関空発、中国西安から中央アジア、イラン、トルコなど2ヶ月の旅ある、鈴木さんはご自分からはっきり言わなかったが、中央大学法学部の教授をされているようであった。西安からイスタンブールまでの長旅、お元気で旅を続けてください。
 今日の便りでは、私がシルクロードの旅で、シリア、ヨルダン、レバノンの旅でご一緒した菅原健さんもご一緒のようであった。シルクロードの旅は、参加してみると皆、同じ穴のムジナのような人たちが多い、人の行かない、観光地でない、観光地には常連がいる。異国の旅で、出来た友達は生涯の友達になれる。その意味で、今回の「真言密教、弘法大師空海の足跡をたどる旅」はありふれた中国旅行とはいえ、滅多に行かれない中国内陸部の旅であった。真言密教、とともに、弘法大師空海の研究もしてみたい、仏教の仏像の顔も多く撮ってきた。
 信仰している人たちは、罰があたると滅多に仏様の顔など写真に撮らないだろう。私は仏像の表情をカメラに収める悪い癖がある。 この寺の仏像の顔と、あの寺の仏像の顔と、2000km離れた仏像の顔が皆同じである ? これは何を意味するのだろうか?信仰の対象として、仏を拝む場合はみな有りがたいだろう、が、私は冷静に今回のたびで、中国の仏教の仏像の顔を殆んど撮って回った。皆同じ顔をしている。これは、中国の仏像製造産業の大資本が背後で、大量生産しているのだろう?と、うがった見かたをする、ビルマから輸入された童顔の仏像、あの寺もこの寺も、数千キロ離れた寺の仏像もみな同じ顔をしていた。こんな仏像の顔をカメラやビデオテープに撮り、記録する人間は、日本の仏教会にも、中国の仏教界にもいないだろう。? と、そうした意味で私の今回の、中国仏教寺院の視察と、画像収集、ビデオカメラの収録の旅は中国仏教界の歴史に残る事実だろう?。2400kmもの中国の寺院を同じ時期にカメラに撮った人はいないだろう。水戸黄門

中国の文化大革命、仏像を全部破壊した。その後で、仏教寺院の仏像の復興が中国全土でなされている。
普通の人間は仏教の再興と喜ぶだろう?水戸黄門はそうは読まない?全部破壊し復興する、其処に仏像製造産業が必ず生まれる。頭のいい指導者が背後にいる。 中国の仏像製造はそうした指導者?業者?、事業家が大儲けしているのである。と、私は読む。郵政改革、何々改革、みな、ぶっ潰した後で儲ける事業家がいる?世の中変化のあるところに儲けるチャンスが生まれるのである。チャンスを掴み、チャンスに乗る、何時の時代も、頭のよいものが儲けるのである。織田信長、木下藤吉郎、急がば回れ、徳川家康なのである。よう儲けんものは文さんに聞けばよい。水戸黄門


善無畏三蔵碑
 金剛智三蔵の碑。龍門西山、広化寺跡。高知の堅田華さん提供。善無畏三蔵碑。金剛智は「金剛頂経」系の密教をはじめて中国に伝えた。インドのナーランダー大学に学び、海路唐の国に入る。741年洛陽の広福寺で入滅。
中国には10年前、兵庫県町議会議長会で公式訪問した、飛行機で度々北京国際空港に休憩した飛行場を出て北京の町のホテルに一度三年前に泊まった。そのときの北京の町の変貌に驚いた。今度は中国の内陸部の核心を旅する機会に恵まれた。きっといいたびになるだろう。

 
シルクロードの旅、西安から、タクラマカン砂漠を経て、中央アジアの旅をしました。玄奘三蔵のシルクロードの旅はパキスタン、インド、ネパールの釈迦の遺跡まで行きました。イスラーム世界のシルクロードの旅は、イラン、ヨルダン、シリア、レバノン、トルコのイスタンブール、東ローマ帝国、今年の春、ギリシア、ローマのバチカン市国で一応シルクロードの旅は終わりました。今度は、中国の核心に迫り、中心部の横断を試みたいと願い、中央アジアでお世話になった金子貴一氏のツアーに同行します。経済成長した中国、10年前見た北京や上海、西安の都と、今度行く中国の変貌。是非新しい発見があるだろうと思っています。家を出てから帰るまで18日間かかります。

8月18日
常州、空海が留学した天寧禅寺。塔
 江南の名園、拙政園の観光、常州の空海が留学した天寧寺を見学する。天寧寺の写真は仏像全部写真に収めた。カメラ、ビデオと思う存分に撮る。天寧寺の塔に登る。塔の頂上から常州の町を見る。そのご鎮江に向こう、夜、鎮江国際大酒店泊、夕食に行く途中、「宋」さんの話を聞く、私の出した質問に答える形で宋さんの話。2月24日
今、中国経済は資本主義市場経済えと大きく転換し、アメリカと提携して躍進している。日本経済もアメリカは勿論、中国との貿易で伸びている。中国の発展は日本経済の景気回復にとって必要な、資本主義国となってきている。10年前、私が見た、そして予測した中国、その予測は的中している。

9月9日
中国の仏像は文化大革命で殆ど破壊されていた。と、書いた、文化大革命は1960年代から1970年代のことである。そのときでも、中国人民軍により破壊から守られた多くの貴重な文化財があった。その貴重な世界遺産、龍門石窟の仏像はすばらしかった。文化大革命から30年以上過ぎている。私達が訪れた仏教寺院は新しい仏像文化の華が咲き、どの寺も美しい金ぴかの仏像が並んでいた。ほとんどの寺の仏像の写真を撮った。みな同じような顔をしている。仏像製造産業が大儲けしているなー、と、ビデオを撮りながら話したものだ。ビルマから輸入した仏像が若い綺麗な童顔の美少女だった。どの寺にも陳列されていた。2400km同じようなときにすべての仏像の写真を撮って回るなど物好きな人間はいないだろう?。今再生された中国の仏教界では、若いお坊さんが多いと、金子さんの説明であった。事実、真言密教の寺寺ではどの寺にも若いお坊さんが多く勤めていた。中国政府は破壊から建設えと、大きく右旋回している。日本のように檀家信仰はないだろう、みな其々の寺で、観光客や寄進の金で寺の振興を図らねばならないだろう。どの寺も商売繁盛していた。水戸黄門

9月27日
 中国、近くて遠い国、子供の頃から中国は其処にあった。だが近年、中国の歴史を研究したが、数千年、数百年昔の歴史が主流であった。シルクロードの旅もその一つである。今回の中国訪問、真言密教弘法大師空海の足跡をたどる旅、は、そうした私の見方を変えた。今の中国を歴史的に見つめなおそう、と思い立った。以下私の中国研究であるが、多くのインターネットの論文から借用した文も多い、
今回の旅でガイドを務めた「金子貴一氏」はイラク戦争の第二回自衛隊派遣隊、の日本人ただ一人の民間人通訳として、「アラブ語通訳」サマワの砂漠で現地イラク人との用地交渉などに活躍され、この間イラクでの任務を終え、今回の真言密教弘法大師の足跡をたどる旅に、旅行のガイドとして参加してくださいました。金子さんとは、アフガン戦争の終わった春、中央アジア、ウズベキスタンに日本人飛行機乗り入れ第一便で参加しました。それ以来彼の博学と研究熱心な態度にうたれ今回の旅にも是非にと、私も参加させていただきました。ビデオテープには、彼の説明も大はばに取り入れています。
 エジプト大学で研究され、特にアラブ問題は専門家です。日本や中国仏教の研究も相当深く研究されていまして驚きました。今回参加された方々は日本全国で13名でしたが、私以外は熱心な研究家ばかりでした。一般的な観光地以外の、世界の様々な地方に行かれた方がほとんどでした。ご希望の方にはビデオテープや、中国仏教の現状、などの話もいたします。またよろしく。

写真は金子貴一氏

「地球大学」の講師のひとり、ジャーナリストの金子貴一さんに、中国福建省に暮らす残留邦人の帰国を支援するボランティア活動について話していただいた。

 小泉総理の靖国神社参拝問題があるかぎり中国は国連の理事会に日本を推薦することは出来ない、との慎重な表現である。国連の20%の予算を支出し、理事になれない、子供じみた靖国参拝芝居?もう、いい加減に日本の全体の国益を考えた行動をとったらどうだろうか?と、中国の政変、江沢民が引退した。胡錦寿{フー、チンタオ}国家主席、が共産党軍事委員会主席に昇格した。変化の時にこそ提携のチャンスがある。小泉総理はチャンスを逃さず今、中国首脳に手を差し出すべきである。政権の浮揚。人気挽回の秘訣であり、チャンスである。水戸黄門
先ほどのニューヨークからのテレビ放送で、小泉総理が国連理事国参加を正式に表明した。国連予算の20%を支出しているわが国として当然である。私は賛成である。詳細が判明しないので詳しい論評は避けるが、今後の正式理事国としての出馬に万全を期していただきたい。尚、中国との摩擦も避けるよう外交努力をされたい。水戸黄門

中国の江沢民(チアン・ツォーミン)・共産党中央軍事委員会主席(前国家主席)(78)が辞任し、後任に同委副主席の胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席(党総書記)(61)が昇格した。2004年9月19日に閉会した党の第16期中央委員会第4回全体会議(4中全会)で決まった。党総書記や国家主席を退いた後も軍の最高指導者として権力を握っていた江氏が完全に引退し、胡氏に全権が移されたことで、中国は名実ともに胡氏や温家宝(ウェン・チアパオ)首相らを中心とする「革命第4世代」が指導する時代に入った。
 台湾問題では、台湾が自立化路線に進む一方、中国国内では強硬論が台頭しており、軍を含む全権を握った胡氏の手腕が問われそうだ。 また、胡指導部は日本との関係を重視する姿勢を鮮明にしているが、国民の対日感情が厳しいだけに、江氏の影響を離れた後も「小泉首相の靖国参拝問題がある限り、首脳往来には踏み出せない」(共産党筋)との見方が強い。

 私は中国や中東旅行から帰るたび毎に小泉総理にその国の情報をメールマガジンに送信しました。私たちは一人一人が民間の外交官です。日本人が外国の人たちと友好、好感を持たれることが日本の国益に貢献します。世界中の人々に仲良く友好の輪を広げましょう。藤原文男記。

しむ。日ビ局カイロ支局員を経て、1986年よりフリージャーナリスト、弊社の添乗員として活躍す 7月7日


 満州事変、支那事変、大東亜戦争で敗戦。鬼畜米英、竹槍でアメリカの飛行機と戦った私たちの年代は今、これくらいな兵器の北朝鮮のミサイルなど「ヘッチャラ」である。そんな北朝鮮など怖くないから、水戸黄門は「世界遺産の北朝鮮の高句麗遺蹟調査、」に是非行って見たいものである。日本の外務省の腰抜け役人どもの
「渡航延期勧告」などヘッチャらだよ。国土交通省も渡航禁止通告を出している。まあ、世の中が少し落ち着いたら、北朝鮮旅行も復活するだろう。もう、ええ加減に「拉致被害者」問題などもう全面に出さないほうがいいよ。「横田めぐみさん」もう、とっくの昔、病院で死んでるよ。夫の話、全く嘘でもなかろうなー。焼いた遺骨は取り違えることもあるよ。日本の焼き場でも間違うことあるよ。生まれた子供でも病院で取り間違えていた日本の病院もあった。マスコミさん、この問題はもう、幕引きにしてね。

10年前、私が見た、そして予測した中国、その予測は的中している。

私の中国訪問は三回目である。北京空港にはヨーロッパや中東の旅行のとき度々停まるが飛行場の外には出してくれない、オリンピックのアジア予選で重慶での日本排斥運動がおこっているらしいが、本当の中国民衆の声を聞きたい。中国は広大である。様々な民族が暮らしている。
中国の旅にご一緒だった鈴木さん、又、西安からの葉書がとどいた。私と中国に行き、8月24日帰ってから9月4日またまた、今度は関空発、中国西安から中央アジア、イラン、トルコなど2ヶ月の旅である、鈴木さんはご自分からはっきり言わなかったが、中央大学法学部の教授をされているようであった。西安からイスタンブールまでの長旅、お元気で旅を続けてください。
 今日の便りでは、私がシルクロードの旅で、シリア、ヨルダン、レバノンの旅でご一緒した菅原健さんもご一緒のようであった。シルクロードの旅は、参加してみると皆、同じ穴のムジナのような人たちが多い、人の行かない、観光地でない、観光地には常連がいる。異国の旅で、出来た友達は生涯の友達になれる。その意味で、今回の「真言密教、弘法大師空海の足跡をたどる旅」はありふれた中国旅行とはいえ、滅多に行かれない中国内陸部の旅であった。真言密教、とともに、弘法大師空海の研究もしてみたい、仏教の仏像の顔も多く撮ってきた。
 信仰している人たちは、罰があたると滅多に仏様の顔など写真に撮らないだろう。私は仏像の表情をカメラに収める悪い癖がある。 この寺の仏像の顔と、あの寺の仏像の顔と、2000km離れた仏像の顔が皆同じである ? これは何を意味するのだろうか?信仰の対象として、仏を拝む場合はみな有りがたいだろう、が、私は冷静に今回のたびで、中国の仏教の仏像の顔を殆んど撮って回った。皆同じ顔をしている。これは、中国の仏像製造産業の大資本が背後で、大量生産しているのだろう?と、うがった見かたをする、ビルマから輸入された童顔の仏像、あの寺もこの寺も、数千キロ離れた寺の仏像もみな同じ顔をしていた。こんな仏像の顔をカメラやビデオテープに撮り、記録する人間は、日本の仏教会にも、中国の仏教界にもいないだろう。? と、そうした意味で私の今回の、中国仏教寺院の視察と、画像収集、ビデオカメラの収録の旅は中国仏教界の歴史に残る事実だろう?。2400kmもの中国の寺院を同じ時期にカメラに撮った人はいないだろう。水戸黄門
中国の文化大革命、仏像を全部破壊した。その後で、仏教寺院の仏像の復興が中国全土でなされている。
普通の人間は仏教の再興と喜ぶだろう?私はそうは読まない?全部破壊し復興する、其処に仏像製造産業が必ず生まれる。頭のいい指導者が背後にいる。

 中国の仏像製造はそうした指導者?業者?、事業家が大儲けしているのである。と、私は読む。郵政改革、何々改革、みな、ぶっ潰した後で儲ける事業家がいる?世の中変化のあるところに儲けるチャンスが生まれるのである。チャンスを掴み、チャンスに乗る、何時の時代も、頭のよいものが儲けるのである。織田信長、木下藤吉郎、急がば回れ、徳川家康なのである。よう儲けんものは文さんに聞けばよい。水戸黄門

 弘法大師入唐1200年青龍寺の空海像。西安法門寺の棟


 中国の改革開放の研究、
 今回の中国訪問の旅は、紅衛兵と、それらを動かした文化大革命の嵐のなかで、中国の古い伝統と風習と、伝統に基ずくすべての文化的遺産のすべてを打ち砕き、特に今回私達が見学と研究に訪れていた「弘法大師、の足跡をたどる旅」で歩いた仏教遺産は全て破壊されていた。弘法大師、空海が訪れ、勉強したすべての寺院を金子貴一氏の研究で、たどったが、空海だけでなく曹洞宗大本山、杭州市の浄慈寺に如浄禅師之墓は山の岡の上にひっそりと立っていた、人郷離れた山中の墓は幸いにして、文化大革命の嵐の中も切り抜けて、破壊を免れた。
1000年以上昔の墓がそのままの姿で見られたことは、今回私達が中国を訪れた功績であると、自負している。
寧波から杭州市へ向こう途中、曹洞宗大本山天童禅寺を訪れた。ここの立派な仏像も破壊し尽くされていた
杭州市内観光では、{インドの僧慧理が健流立した杭州最大の寺院、「霊陰寺」の見学を済ませた。
これらの仏像の全てが破壊し尽くされていた。その後でそれらの仏像が中国革命以後急速に再建され、美しい見事な仏教、仏像文化の華が咲いていた。漸江省の仏教文化の殆どを訪れることの出来る旅であった。
その途中いくつかの他の日本人の旅行客とも話す機会に恵まれた。異郷とはいえ中国は日本の国の中を旅しているような錯覚に陥る旅であった。革命後の素晴らしい再建は、中国の土木建築技術の進歩と個人住宅の再生、高速道路の急速な整備、田舎の中の道路まで幅広く整備されている。全ての土地が国有地と言うことは、土地に対する不動産投資が必要ない、土地投資を伴わない設備投資が中国経済の発展に大きく繋がっていることは間違いない事実であろう。


龍門石窟の像。
文化大革命の破壊を免れた石窟像。広化寺の仏像。文化大革命の破壊を免れた。
2、龍門石窟はインドのデカン高原のアジャンター石窟寺院に匹敵する世界遺産である。素晴らしい広い大きい龍門石窟であった。その仏教遺跡が文化大革命の嵐の中で守りぬかれたことは中国の仏教界、遺跡にとり幸いであった。素晴らしいの一言である。唐代の諸仏を参拝、万仏洞、「奉先寺」、大万五仏洞見学後、マイクロバスで奉先寺跡、金剛智三蔵碑へ。金剛智三蔵碑。右善無畏三蔵碑

函谷関
4、函谷関に着いた。黄土高原の続く長い道のりだったが漸く函谷関についた。老子の像が祭られている神社がある。古くから西安の都の守りのため作られた関所、函谷関は、黄土高原の続く山脈と黄河との間におかれた古くからの関所である。此処で写真を撮った。函谷関、周代に設置され、弘法大師一行も長安への最後の難関であった当地を通過。
5、長安城東門:弘法大師月のご命日。{805年3月21日ご入城}に、私たちは無事長安城の中に入った。感激だった。西安、建国飯店泊。ここに三泊する。やっと到着西安の城壁

第十四日。8月22日{日曜日}
朝、建国飯店で目が覚めたときは5時だった。フイルムが無くなっている。漸く体力が回復してきた。夜は焼酎の湯割りを飲んだ。
1、大雁塔:648年、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を保存するために建立した塔。金剛智三蔵が入唐後、初めて住んだ寺でもある。弘法大師もこの塔を横目にみて、青龍寺に通われた。
2、西安碑林博物館を見学、碑林博物館は一度見ていたから感慨はなかった。不空三蔵碑を見に行く、弟子が不空三蔵をたたえた石碑。
3、西安清真大寺はイスラム教の寺院だったが、中国式の建築であり、中東地方の建築様式とは異なる寺院だった。西安の繁華街の中にあり、門前市場ができていた。商店街など西安の町やスーパーを歩いて回った。
4、空海の宿所だった西明寺跡は高速道路となり、現在地は分からなかった。現在は西安南部、西安電子科技前だった。
5、西門:西門にのぼり自由時間。
6、大興善寺:中国密教発祥の地。唐代の長安城内仏典三大訳場の一つで、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵も数々の密教経典をここで訳出した。


夜、西遊旅行参加者ほぼ全員あつまり、歓談する。松岡さんの司会で始めた。16日間の長い旅もほぼ終わりに近づいた。いよいよ明日で全行程が終了である。二度目の西安訪問であるが10年前の西安市とは全く様相を異にしていた。町並みが綺麗になった。人々の服装が綺麗になっている。トイレが綺麗になっていた。自転車の大軍が車の流に変わっている。高層建築の壁はタイル張りとなり、道路は高速道路が整備されている。人々の暮らしが楽になり、商店街の商品も溢れている。女性の服装が特に綺麗になっている。西安はシルクロードの出発点である。10年前西安を訪れた私は何時かシルクロードの旅をしようと決意した。そして10年の歳月は流れ、世界の旅、シルクロードの旅を終えて再び西安の城壁にたった。感慨無量の思いであった。
ここから、シルクロードの旅出発西安。大雁塔
第十五日。8月23日{月曜日}
西安からシルクロード沿いに西に向こう。唐の長安城を出た地点にある「シルクロード基点群像」で写真撮影。
1、最後の日、朝から法門寺に行く、:後漢時代{147^189年}創建。1987年に仏舎利や唐代密教仏具、茶器などが発掘され、展示されていた。圧巻である。往復5時間かかった。法門寺の食堂で昼食、精進料理、仏像が欲しかったが金を持ってこなかったため買えなかったのが残念である、しかし仏像を中国の現地から持ち帰ることは大変である。

弘法大師空海の思想と実践にみられる独自の視点について

私の弘法大師空海の研究論文です。2007年10月21日」藤原文男記

小乗や大乗の諸宗との対比の中で明らかにし、菩提心の展開を考えようとして、『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝ヤク』がある。これらの理論と実践の両面から詳細に論述したものが『即身成仏義』である。法身説法の実相を明らかにした『声字実相義』密教思想を具体的に解明する『ウン字義』と、般若心経を独特の解釈をしたものに『般若心経秘鍵』がある。これら弘法大師空海の思想を一言で表現するなら菩提心に基づく「即身成仏」である。その思想を実現するために十住心を説いた。密教思想を組織的にとらえ、密教思想の特徴を明らかにすることは、日本における弘法大師空海によって始めて成し遂げられた。

ここで空海の著作を取り上げてみたい。空海が二十四歳の時『三教指帰』を書いた。真言密教の相承と弘通の大綱を示すために、『秘密曼荼羅教付法伝』『真言付法伝』、密教の特色と顕教との対比を明らかにしたものに、『弁顕密二教論』がある。密教の特色を著作によって空海は菩提心、三味耶戒の思想についてもその真意を明らかにしている。その著作活動は人間観や仏陀観、密教思想の再検討と組織化、密教の日本的展開に貢献した。又空海は、顕教と密教の比較をして、どこがどう違うか?と、「教相判釈」の方法論を展開している。もう一つ、十住心の思想について、住心思想を根底としながらいろいろな思想、宗教を並べ、その上で密教の特徴と優位性を明確にする方法を取っている。空海の「教判」思想である。また能説の仏身について、顕教は報身とか応身の仏が説いたものであり、密教は法身大日如来である仏が説いたものだと新しい思想を説いた。従って顕教と密教とは能説の仏身について相違が認められるというのです。

顕教の教えは因分可説の立場をとり、密教のほうは果分可説といって悟りの内容、悟りの境地そのものを説いているという意味で、真実神秘の教えだと空海は理解している。修行の方法について、顕教のほうは、「六波羅密の修行」である。それに対して密教のほうは、「三密加持の修行で即身成仏」といい密教独自の修行である。そのほか、阿字観、月輪観など密教独自の修行方法がある。また、顕教では、長い修行をして始めて仏になれる、「三劫成仏」数え切れない時間の修行をする。が、密教では即身成仏を説いた。その後、弘仁六年頃に『弁顕密二教論』を著して、『大日経』『金剛頂経』に現生において速やかに成仏することを上げ、ついで『菩提心論』では、菩提心をおこし、菩提心戒をたもち、三摩地(定)に入れば、即身成仏すると説いたのです。その後空海は『三マ耶戒序』『即身成仏義』を著し、人には本来清らかなさとりの心(菩提心)があるから、わすれることなく日常生活でも正しく行動すれば三味の境地において仏と一体となる修行(三密加持)すれば速やかに成仏すると説いた。更に、教益の勝劣についても密教は、どんな悪い人でも罪深い人でもすべてを包んで救う力をもっている教えであると説いたのです。

空海は顕教、密教を知り尽くして比較し、その結論として自分が広める真言宗の優位性を、自信をもって説き、教判思想を用いて一宗の独立を宣言し、教えを広めて行きました。

空海の比較思想論的な方法論が晩年の『秘密曼荼羅十住心論』十巻『秘蔵宝ヤク』三巻の書物となり、この書物が天長の「六本宗書」の一つといわれている。十住心とは、第一異生テイ羊住心、第二愚童持斎住心、第三ヨウ童無畏住心、第四唯ウン無我住心、第五抜業因種住心、第六他縁大乗住心、第七覚心不生住心、第八一道無為住心、第九極無自性住心、第十秘密荘厳住心、最後の第十秘密荘厳住心が密教の修行を完遂した人のことで、いかにも密教的な言葉です。空海の即身成仏、心の曼荼羅、十住心思想が空海の思想である。以上。

参考文献

密教入門。勝又俊教。春秋社

密教学概論。生井智紹。高野山大学

密教。松長有慶。岩波新書

その他。日本の密教。密教の歴史。高野山大学など多数。

この論文を書き終えた「2007年10月21日」私の妻の13回忌を迎えた。それ以後、いやその何年か前から私は四国八十八箇所の旅を始めた。最後の旅に出発したのは妻の死の一週間前だった。四国八十八箇所、最後の完結寺は大窪寺だった。人間いつしか死を迎える。以後十年間、インドに始まり世界遺産の仏教遺跡や、弘法大師空海の足跡を辿る旅を続けた。然し、仏教を知っていても密教の何たるかを知らなかった。今回、高野山大学に入学。本格的な密教研究に打ち込むことが出来ました。まだ半年に過ぎない研究日程ですが、密教が少しわかり掛けてきました。まだまだ序の口、大学の資格など目的ではない。死ぬまで勉強、研究することに意義があると考えています。


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