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台風5号。日本の内陸部。襲う。特に京都内部を丁寧に襲う。僕の家に合宿に来ていた生徒たち無事家に帰れただろうか心配しています。

兵庫県知事表彰。9月21日日帰り。但馬蔵バス発。9時40分発。家を八時半発。

委嘱状
藤原睦幸殿
あなたを平成29年6月1日から平成31年5月31日までの間 兵庫県養父警察署の警察署協議会委員に委嘱します
平成29年5月18日
兵庫県公安委員会。
委嘱状が息子に届いていた。名誉なことである。

2017年 7月
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但馬史研究会。但馬文教府。一時三十分。
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ふるさとづくり大学生野町視察大西さん。但馬蔵9時
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奈良尾村老人会。
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遠藤眼科午後4時
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但馬県民局夢テーブル委員会但馬いかそう会。宿泊大丸
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京都のバレーボール運動合宿。熊次小学校にて

ふるさとづくり大学。8月5日但馬長寿の郷

2017年 8月
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ふるさとづくり大学午前10時但馬長寿の郷集合久保さん。
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但馬文教府夏季大学午前10時
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遠藤眼科3時40分診察
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高野山聖天さん予定35000円
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聖天さん帰る。
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8月5日ふるさとづくり大学但馬長寿の郷午前10時久保さん早く来い。

8月11日但馬楽座宿泊。13000円。

8月15日隣の護君帰る。
8月24日遠藤眼科
8月26日高野山参り、聖天さん申し込み必要。35000円

9月2日ふるさとづくり大学。但馬長寿の郷9時から12時午前中

9月16日但馬を楽しもう幹事宮部保さん香美町香住歴史めぐり昼食会場で合流。矢田川温泉に入る。

9月18日夢テーブル委員会中播との交流会神子畑明け述べでの交流会。宮部さんに連絡。

9月21日9時40分但馬蔵バス発。兵庫県知事表彰式参加。家八時半発。

11月13日ふるさとづくり大学但馬を食う会忘年会。豊岡田結の榎本民宿。豊岡港大橋。気比の浜。田結

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 ここから下のページは。草谷山荘のおじいさん藤原文男の創作です。批判精神。ますます政治評論。行政評論を書いて行きます。がすべて小説です。このホームページはフィクションです。営業のページは上のページクリックしてください。


文さんの日記
委嘱状
藤原睦幸殿
あなたを平成29年6月1日から平成31年5月31日までの間 兵庫県養父警察署の警察署協議会委員に委嘱します
平成29年5月18日
兵庫県公安委員会。
委嘱状が息子に届いていた。名誉なことである。
7月26日

啓発小学校の皆さん。
林間学校ありがとうございました。
7月15日
ふるさとづくり但馬を楽しもう会。16名参加しました。



7月11日

但馬史研究会。但馬文教府にて。発表


7月9日
 九州北部。台風による被害は何故起こったのか?
日本ゅ宇数の林業地。ひ田林業地。林業の先進地として視察に行った。が杉の植林がキバを剥いた。
昔からの雑木リンを切り払い。杉の植林を進めた地域。流木が人家を襲う。橋に流木が引っ掛かり川の流れを堰き止めた。川は橋に流木が堰き止められて。間伐材がほとんどである。流木は家を襲った。
これからも人工造林地の家を襲うだろう。自然の雑木リンを切り払い人工造林にしたつけが今。襲いかかっている・今さらどうにもならない。日本の林業政策の間違いである。


7月7日
養父市奈良尾130藤原文男
但馬県民局夢テーブル委員会。但馬をいかそう会。
自然工房熊田徳男。連絡係。
会合場所、豊岡市江野1426。畑中様宅。但馬生かそう会の砦。
次回会合。但馬県民局豊岡総合庁舎。多目的ルーム。
藤原文男も出席します。よろしく。インターネットに表示ください。



大変な研究である。水力発電。の研究。



画像は7月4日。撮影。自然工房熊田。場所畑中様宅。



 生きること[老いについて}ふるさとづくり大学提出論文。6月28日午前零時記
 僕がふるさとづくり大学に行きかけたのは第一回か?第二回か?忘れたがハチ高原の民宿このはな。田淵兼光君が奨めたからである。田淵君は何でも新しい情報を察知し、すぐ行動に移る性格の人間である。
ここで「このはな」の由来について書いておこう。このはなとは大本教の基本とする宗教用語らしい。が長くなるから省略する。調べたい人はインターネットで草谷山荘と検索してください。
 僕は現在88歳らしい、昭和5年2月24日生まれらしい。が僕は生まれた時の記憶などないのである。昭和5年とは満州事変が起こる前の年であるから歴史を紐解くとまあ何とか平和な日本が絶好調のころであったらしい。

 昭和五年生まれた。母は「日本勝ったニッポン勝った、ロシア負けた」と毎日歌っていた。子供心に残っている。
僕の母の父は日露戦争で戦死した。したがって母は父の顔をしらない。母の母は子供を残して再婚したらしい。
日露戦争で戦死。義理の弟に養われた母は再婚した母を求めて大屋町栗の下に歩いて行ったらしい。僕の母がひねくれているのは、そのためだろう。何時も父と意見が衝突していた。

 熊次小学校高等科卒業。その年熊次青年学校に入学したが青年学校とは毎日軍事教練、勉強などしなかった。
青年学校はアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル総理の模型をつくり毎日銃剣で突く練習をさせられた。
 一応三年間の青年学校を卒業したことになっているが当時シナ事変から大東亜戦争がはじまり日本は世界中を相手に戦争を始めていた。が日本は絶対戦争に勝つと信じていた。青年学校では銃剣でアメリカの飛行機を突く練習を毎日させられていた。今考えると嘘のような本当の話である。

 戦争に負けた日空虚な思いで奈良尾の村中、集まりラジオの天皇陛下の玉音放送を聞いていた。日本の国は絶対戦争に勝つ。と子供の時から教育させられていた。あれから88年の歳月大きくなり平和な日本にそだった。
僕は毎日温泉に車を運転して浸かりにでている。万灯の湯20分。天女の湯30分。但馬楽座40分。オジロン温泉40分。そのほかの温泉にも時々行くが温泉に行きかけてから約10年。盆も正月もない。毎日温泉おかげさんで健康な毎日を送っています。90歳まで生きようと思っていたが体が元気で肩の凝りも解消しました。胃腸も良いから午前中温泉から帰ると毎日ワイン、焼酎、酒を飲んでいる。がまあ4合くらいである。

 ところが最近90歳まで生きる目標から100歳まで生きそうだとの自信がついてきた。中々死にそうにない。困ったことである。僕の最近の行動をインターネットのホームページに書いていますから発表します。
僕のホームページ。http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/です。暇な方は開いてみてください。
7月4日
但馬いかそう会。豊岡市江野。畑中様宅にて。世話人熊田さん。
集まった人たち、真剣そのもの。技術しゃ集団。がみんな素人である。田舎の自然の中で電力の研究。
水力、風力電力の研究である。

6月29日
 僕は最近若いころの株取引を思い出した。30歳過ぎ柳の売り上げ金30万円をすべて株取引に投資した。
昭和30年代の後半のころだろうか?一年間家族みんなで働いて得た柳収入すべて株取引に投資した。
父は何も言わなかった。「我がなにをしょうるかしっている」と父は言った。当時の30万円とは今の千倍の価値があったろう。
 その後、僕は金を買った。第一商品からかった。50万円金を買った。金を売りに来た若い小僧にハチ高原でスキーを教えた。スキーの初歩から歩く練習を教えた。何十年後金の価格は暴騰した。その小僧は僕を騙すことはできなかつた。結局300万円の金の利益を得た。何事も誠意である。人間としての付き合いをしていれば僕を騙す人はいなかった。騙されても僕は世の中とはこうしたものだと辛抱した。父の言葉「人間は正直に、横着せずに働け」
7月3日

出石町視察。永楽館

6月22日
関宮老人会京都旅行
京都御所


東映太秦映画村
 僕の従兄弟長村太一郎は戦前から戦後の時期。夢声映画全盛のころ映画の弁士をしていた。
京都今出川の駅近くの鴨川沿いに住む家があった。僕は出稼ぎしていたころ度々太一郎に逢いにいった。夢声映画の垂れ幕に弁士長村太一郎。と書かれていた。映画が始まるとやんやの喝采が起こった。当時の映画弁士は俳優以上に女の子にもてていた、京都美人の嫁をつれて僕の家に帰ってきたのは戦前のことである。太一郎をおばあさんは我が子のように喜んで迎えた。


6月14日
今日は何もしない。が午前中天女の湯温泉入る。午後昼寝。明日は但馬楽座宿泊。但馬史研究会報来る。3500円必要。明日送る。明日但馬信用金庫送金。明日遠藤眼科午後4時20分。行く予定。

 明日午後12時昼飯一時前出発但馬信用金庫。農協寄る。但馬楽座温泉2時から入る。温泉、4時前遠藤眼科行く。夕食は和田山回転寿司に行こうか。夜は但馬楽座で飲む。

6月11日
オジロ残酷マラソン大会。たまたま残酷マラソン大会に出くわした。
 今日オジロン温泉に行ったらオジろの途中から横道に回れと言う。下に降りていつもと誓う道を走った。温泉に行こうとしたら通行止め。やむを得ず秋岡まで登る。降りてきたがまだオジロンの走り競技がつづいていた。
オジロ中学校小学校も車がいっぱいである。3000人あつまったらしい。凄い競技である。オジロを挙げての走り競争。温泉に入り帰ってきた。

 13日大阪行きである。年金友の会の親睦旅行である。午前7時奈良尾発である。バス2台約80名は集まっている今日12日は但馬楽座温泉午前中、そのご田淵君妻八鹿病院見舞にいつた。だいぶ回復している模様。退院の話がでているらしいが、なるだけ長く病院に置いてもらうほうがよろしいと。話した。午後昼寝してまた万灯の湯にでた。家に帰り夕方隣のふるさとのおばさんの家見舞。家に帰り夕食。明日は農協旅行。寝坊しないように早く起きなければならない。

6月10日
大屋地域局

 大屋町蚕のさと視察しました。立派な家です。豪農の家です。僕の家は築後150年の本建てを真ん中に増築、増築で現在に至っています。150年前にその昔の古い家を建て替えて大黒柱、小国柱もつかっています。勿論チョウノウはつりの家を張り付けて民宿に改修しています、現在の家は1500平方mと体育館がありますが、真ん中の家は四畳半が四つと庭があります。庭の横には牛小屋があり入ると毎日牛がタライの馬草をたべるので顔をだしていました。
 従って家では牛肉は一度も食べたことはありません。その小さな家に電燈は一個しかなく、蚕に桑をやっているときには戸の隙間からわずかに光があるところで毎日本を読んでいました。昭和初年のころのことです。

 僕は大きくなったら父のような養蚕経営はしない。と何時も考えて育ちました。僕は家の前にシートを架けて平飼いの方法で蚕を飼いました。関宮町一番の養蚕農家になりました。が養蚕はほかの農業より一番時間当たりの日当が安いです。一番儲かったのはわさび栽培、一時間一万円。キリュウ。つまり柳つくりは一時間1000円。米つくりは一時間300円。牛300円。僕は儲からない養蚕を真っ先に辞めました。が牛は耕運機が出るまで飼い続けました。
 米つくりは儲からないが農業の基本ですから今もつづけています。7反の農地のうち現在三反作り民宿の食糧にしています、百姓は百年の基礎が無いと成り立つ産業ではありません。その基礎の柳畑を氷の山国際スキー場に無償で提供しました。わさび畑も提供しました。お祖父さんたちが350年昔から営々と築いた土地。奈良尾村の柳畑。わさび畑を氷の山国際スキー場創設のため、僕は先頭にたち提供。スキー場をつくりました。それも時代の流れです。民宿産業も斜陽化しています。この先息子たちはどうして生活するのか・心配していますが時代の波に沈まないように、頑張ってほしい。


但馬史研究会室津探訪6月6日室津に行きました。疲れた。朝七時過ぎ但馬蔵から車で室津行く。約30名。


室津の海。その昔参勤交代の西国大名が多く室津に船できました。ここから陸路を通り神戸、京都、江戸えと多くの大名行列。室津には大名の宿ができていました。
その昔繁栄した室津の港。

関宮町議会ob会。八鹿マルキ。6月5日。15名集まる。
明日は但馬史研究会室津探訪。いずれも会費6000円28名集まる。

関宮町議会ob会のみなさん。

熊次小学校。氷の山の残雪。

 氷の山開発について。開発観光の五箇部長は凄い夢を持っていた。が、僕はその夢に乗らなかった。彼は奈良尾村の土地を全部売ってくれと僕に迫った。土地を売ったら僕らは住む所が亡くなる。銭より僕らは自分の土地が必要だった。幾たびか交渉したが僕は遂に五箇部長の話を拒否した。がそののち氷の山開発で関宮町に僕は提案した。オバナからリフトを架ける。なしが平からリフトで大清水まで登る。そこから氷の山にゴンドラを架ける。がゴンドラの夢は実現しなかった。氷の山の自然を守る会の反対運動が強烈に始まっていた。
また書きます。

夢テーブル委員会>
但馬文教府会合。五月27日。夜懇親会。すってんてん。大丸宿泊・28日朝帰る。

5月25日
林間学校始まりました。門真市立沖小学校五年生。キャンプファイヤー。

氷の山登山大会。五月21日奈良尾神社林間学校始まる。登山者の列

ふるさとづくり大学。但馬を食べる会。但東町視察。5月18日

 昨日18日但馬蔵に出てみたらイスで飯盒炊爨している女の子がいた。横に座り話かけたら九州福岡を出発ここまで自転車を漕いで来たと言う。青森まで自転車の旅らしい。銭が無いから道の駅の露天にテントを張り、寝袋に寝たらしい。寒かったと言う。「夕べ天女の湯に入りました。」らしいが毎日温泉は銭が無いから入れないと言う。

 国道は車が多くて自転車は危険だから危なくない道を走るという。細いタイヤの自転車に生活道具一式積み込み福岡から青森までの気ままな旅らしい。年は25歳くらい、彼氏はいないと言う。旅行のため仕事を辞めて自転車旅行の旅にでたらしい。国道九号線の山陰側を通り、昨日は関宮町を通ったらしい。別ピンの彼女。世の中には色々な若者がいる。「青森まで行ったら東北の男は人が良いから嫁さんに行けよ。」と諭した。

 娘と話をしていたら、養父町十二所の久保田富三郎さんが車で来た。今日但馬蔵から但東町まで車に乗せてくれる約束であった。手を挙げたが暫く女の子と話していた。今日18日のふるさとづくり大学の「但馬を食う会」のメンバーは久保田富三郎さん、大西タカジさん、河端美根子さん、宮部保さん、尾崎延たかさん、寺口勇さんの七名である。
 が現地に着いたら一人の女が加わった。「姉さん何処からきましたか」と聞いたら日高町と言う、「日高のどこから嫁に来ましたか」と聞いたら、「八代の方です。」と言う。神鍋から下の国道から峠を越えたら八代の谷である。静かな農村である。「良いところですな。」と僕ははなした。年は六十は超えている。

5月17日
明日18日は但東町に行きます。蕎麦を食べる。神社仏閣を回る。朝8時出発。但馬蔵9時集合。但東町へ。
月15日

但馬県民局夢テーブル委員会。食物語グループ豊岡市民プラザ。アイてい七かい会場

但馬夢テーブル委員会事務局
栂井様
養父市奈良尾藤原文男
ハチ高原民宿このはな。田淵兼光君の近況。
あれだけ運転も元気だった田淵君、足が踏み込みできなくなりました。運転止めら
れています。89歳、奥さん胃の手術八鹿病院入院。
田淵君毎日バスで病院に介護にでています。
誰しも年は取りたくないです。が僕は88歳毎日温泉で運転できます。まだまだ元気
で参加できます。が年です。限界に近いですが夢を求めて。100歳までスキー。地獄
の閻魔大王。僕は来るなと言う。

Subject: 第8期但馬夢テーブル委員会全体会


> 但馬夢テーブル委員のみなさま
>
>
> いつも大変お世話になっております。
>
> さて、第8期2年目の集大成の年です。
> そのスタートに向け、第8期の夢テーブル委員会の全体会を
> 下記のとおり開催します。ご予定をお願いいたします。
> 第8期夢テーブル委員会が、一丸となった取り組みになればと
> 思っています。
>
> なお、案内文については近日中に送付いたしますので、ご確認
> ください。
>
> 新緑の爽やかな時節、みなさまのご健勝を心よりお祈り申し
> あげます。
>
> 【全体会】
>
> 1 日時 平成29年5月27日(土) 13:30〜16:30
>
> 2 場所 但馬文教府(豊岡市妙楽寺)
>
> 3 内容 第8期夢テーブル委員会活動について
>
> 4 その他  全体会終了後、懇親会を予定しています。
>         多くの参加をお待ちしています。
>
>
> 但馬夢テーブル委員会事務局
> 栂井
>
> 電話:0796-26-3615
>
> ※このメールは一斉配信のためBCCで送っています。

5月13日但馬ふるさとづくり大学但馬長寿の郷。午後13時。


5月18日
但東町「赤花そば」を食べる会。五月18但馬蔵9時集合。

5月27日夢テーブル委員会その後懇親会。豊岡。スッテンテン。
明日5月13日但馬ふるさとづくり大学但馬長寿の郷。午後13時。
昼食後河端さんがふるさとづくり大学の今年の計画について相談したいとのこと。

 13日朝から天女の湯。昼飯の後河端さんと協議。

 親睦旅行。但馬信用金庫。6月12日大阪歌舞伎座、梅沢登美男公演。信じゆ会支部長岡清広
その後黒門市場散策。経費10000円。
が僕はあくる日、農協旅行があるから息子たち行かせようかと考える。

自然ゆめ探検隊・冒険隊の皆様皆様大変お忙しい中申し訳ございませんが517日(水)夜7時より県民局の多目的ホールをお借りしまして、今年の活動計画を考えていきたいと思います。

補助金要望額は32000円にしました。ハイファイブのナビの投稿費、 後期円山川カヌー下り指導料カヌー借り上げ料や体験費など

次回の活動計画といたしましては、(6月の予定)ツリーイングを楽しみながら自然を満喫したいと思っています。 

皆様もご存知の神鍋自然学校設立者前田敦司さんにお願いしようと考えています。皆様ご出席のほどよろしくお願いいたします。

6月13日朝7時奈良尾バス停。
関宮農協大阪観光。なにわ探険クルーズ。港町船着き場から水郷大阪の旅。14500円。

 昭和50年代だったか60年代だったか忘れたが、草谷山荘全盛期に神戸製鋼のわかものが三名とまりにきました。五月の残雪を求めて東尾根から氷の山に登山した。もう笹が頭を挙げていた。氷の山の頂上で昼飯、北向きの氷の山から残雪の山を滑った。頂上から四名の若者が滑り降りた。ら、滝の上に出た。ここから降りると危険だ。

 夏山の道が向こうに見えた。スキー靴でスキーストックを引きずり、二メートルを超す鈴だけの薮漕ぎが始まった。地蔵堂ははるか下に見えた。夏山の登山道には雪がない。その登山道をめざして数時間這い登った。
夏山登山道から地蔵堂へ、小豆ころがしの上を通りやっと家に帰り着いた時にはもうとっくに日かが暮れていた。

 遭難者が辿る残雪の氷の山を滑り下りた。「しまった」わたくしは草出に登った。ハチ高原に車で走った。が見えなかった。息子が遭難した。と思った。あれから数十年。今息子藤原睦幸は「氷の山ハチ伏山岳遭難救助隊長」として遭難者の救助活動に、献身しています。五月21日氷の山登山大会。58歳で頑張っています。私は88歳。氷の山には登れないです。

5月6日
氷の山新緑登山大会。5月21日
参加費1万円。宿泊参加費込。お申込みは草谷山荘、

氷の山登山されます方は息子が案内します。

氷ノ山新緑登山フェスティバル」参加者募集のお知らせ | やぶ市観光協会

www.yabu-kankou.jp/hyounosennsinnryokutozan.html - キャッシュ

2017年2月20日 - 新緑の氷ノ山登山◇◇. 【開催日】 平成29年. 5月20日(土)民宿にておもてなし. 5月21 (日)氷ノ山登山 ※健脚向き. 【募集人員】200名様限定(定員になり次第締め切らせていただきます。) 【参加費】 宿泊費[参加費込] 大人10,000円、小人 ...

やぶ市観光協会氷ノ山鉢伏支部

hyounosenhatibuse.jp/ - キャッシュ

氷ノ山は海抜1510mと兵庫県県の最高峰。鉢伏山の中腹にひろがるなだらかなハチ ... 山開き と 残雪 の 氷ノ山登山 」. ◎ 残雪の氷ノ山登山は、積雪量が多く ... 日 時 5月21 (日) 第4回 200名 (予定通り行います。) 集合場所 福定第一駐車場. 受 付 午前 ...

氷ノ山新緑登山フェスティバル(健脚向き)周辺のイベントランキング ...

www.jalan.net/event/evt_189289/event/ - キャッシュ

氷ノ山新緑登山フェスティバル(健脚向き)周辺では「氷ノ山新緑登山フェスティバル(健脚向き)[開催期間:2017年5月21日]」や「樽見の大桜 開花[開催期間:2017年4月上旬〜 ... 各種フリーマーケットをはじめ、パフォーマンス大会、ニュースポーツコーナー.

氷ノ山新緑登山フェスティバル〜新緑の氷ノ山登山〜 - 養父市 / スポーツ ...

5月5日
 今日八鹿病院にでた。田淵君の細君寝ている。胃の手術したらしい。90歳である。顔色はよいが年が年だから心配である。早期回復を祈る。田淵君は運転を辞めた。足が踏み込めないという。お互い年である。

但馬夢テーブル委員会事務局
栂井様
養父市奈良尾藤原文男
ハチ高原民宿このはな。田淵兼光君の近況。
あれだけ運転も元気だった田淵君、足が踏み込みできなくなりました。運転止められています。89歳、奥さん胃の手術八鹿病院入院。
田淵君毎日バスで病院に介護にでています。
誰しも年は取りたくないです。が僕は88歳毎日温泉で運転できます。まだまだ元気で参加できます。が年です。限界に近いですが夢を求めて。100歳までスキー。地獄の閻魔大王。僕は来るなと言う。
----- Original Message -----

Sent: Tuesday, April 25, 2017 12:01 PM
Subject: 第8期但馬夢テーブル委員会全体会
> 但馬夢テーブル委員のみなさま
>
> いつも大変お世話になっております。
>
> さて、第8期2年目の集大成の年です。
> そのスタートに向け、第8期の夢テーブル委員会の全体会を
> 下記のとおり開催します。ご予定をお願いいたします。
> 第8期夢テーブル委員会が、一丸となった取り組みになればと
> 思っています。
>
> なお、案内文については近日中に送付いたしますので、ご確認
> ください。
>
> 新緑の爽やかな時節、みなさまのご健勝を心よりお祈り申し
> あげます。
>
> 【全体会】
>
> 1 日時 平成29年5月27日(土) 13:30〜16:30
>
> 2 場所 但馬文教府(豊岡市妙楽寺)
>
> 3 内容 第8期夢テーブル委員会活動について
>
> 4 その他  全体会終了後、懇親会を予定しています。すってんてん
>         多くの参加をお待ちしています。
>> 但馬夢テーブル委員会事務局
> 栂井 電話:0796-26-3615
>
> ※このメールは一斉配信のためBCCで送っています。
>

5月3日
 天理教関宮分教会。午前中温泉から帰り寄ってみたら午前11時半くらい。まだ笛を吹き、太鼓をたたき、三味線を弾き、琴の演奏。僕にカチカチを叩けと言う。が疲れるから断る。裃に袴の四人の正装した男女が前に出たり、後ろに下がったり踊る。大きな声で「なーむ天竜王の命」うたをうたいながら毎月三日但関分教会の祭りである。

 大きな声を張り上げて歌う。太鼓の音など隣の家に迷惑。だと僕は思う。が騒音防止の設備もない。隣の人たちは良くできた人たちだといつも思う。がハチ高原の民宿も子供や生徒が夜騒いでいる。が地元の人たちもあきらめて何も言わない。これが観光産業である。

 天理教会の笛や太鼓の音も隣迷惑。だと僕は思うが住民である。
僕は天理の教えの信者ではない、何故天理教に参りに出るのか・まあ暇つぶし、である。毎日何もしない暇人である。家に居ても仕事をしない。毎日どこかに遊びに出ていたら嫁が安心するだろう。家に居たら目に掛かる。
えらくて寝ていたら困る。家にいると飲む、飲みすぎる、仕事をしない老人は何処かに毎日遊びに行っていたら安心である。それが親孝行ならぬ、嫁孝行である。これが藤原文男教である。

 皆様わかりますかなー。藤原教とは人とは違う教えである。天理の教えは良い教えである。が僕の教えは老いても人に迷惑かけない。生き方の新しい教えである。「年寄りは、早く死にましょう国のため」と言う歌がある。が早く死のうと思うと、「首釣り」よりないのである。長生きしようなどとは思わない。毎日美味い酒、焼酎にリンゴ水を入れて飲む。ワインを少し入れる。夜中に小便に起きたら、また一杯飲むとよく眠れる。新しい生き方である。

藤原文男教。賛成の方はメールください。僕は耳が聞こえないから電話不要。また書きます。http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/

 僕の同級生の男はみな死んだ。か人のお世話になつている。熊次小学校の人たちは老人の仲間はみな死んだ。元気で生きているのは僕一人だ。が致し方ない。そこで「藤原文男教」を立ち上げましたしだいです。教義は「但馬に生きて」にかいています。

5月2日
 五月になりました。今日はオジロン温泉にゆきました。ここのスーパーで焼酎を買った。が吉井の店より200円は高い。すべての商品が吉井のスーパーは安いです。国道9号線から入ったところのスーパーは僕はいつもかっています。何処よりも安い。ハチ北の弟もはなしていました。

 今日4月28日関宮町老人クラブ連合会。関の館で開きました。関宮町地域局長に中尾君だったか忘れたが氷の山国際スキー場の係か課長をしていた男が赴任してきました。老人会の補助金申請を熊次村の老人会に教えて、すべての村々の老人会に補助金が行き渡るように来年度に向けて努力します。ご期待ください。中瀬、出会。安井。鵜縄、轟。足坂。福定、大久保、別宮、葛畑。小路頃。川原場、草出、老人会に参加していないすべての老人会の補助金申請を貰えるように指導します。それが地域局長の仕事です。僕はこの間補助金申請をしました。
これで奈良尾村六万円もらえます。年五回ほど老人会を開きます。老人会の皆さん大喜びです。世話役は面倒くさいが、みんなが喜ぶから世話しています。

奈良尾村老人会4月29日開きます。

4月21日熊次小学校の桜。

4月20日

ふるさとづくり大学道の駅マホロバついうっかりして忘れていた。天理参拝つかれていました。

天理教婦人会第99会総会。4月19日。豊岡大教会

4月25日

藤原文男 様

いつも大変お世話になっています。

5月27日の全体会の参加ありがとうございます。
当日の夜の大丸を予約しました。
和室 風呂付き 4,320円

お世話になりますが、よろしくお願いいたします。

**********************************
兵庫県 但馬県民局 地域政策室
地域づくり課 (夢但馬・ビジョン担当)
栂井 敦子

4月16日
桜の花見。熊次小学校で花見酒の会。盛大に開かれていた。

この写真は但馬文教府生活創造応援隊のころの写真です。今年の写真ではありません。

文さんの日記

自然ゆめ探検隊・冒険隊の皆様

長い間ご無沙汰しておりました。皆様に於かれましては大変お忙しいと存じますが

527() に森の中でツリーイングを行いたいと考えておりますが、皆様のご都合はいかがでしょうか。

場所については神鍋高原を考えています。ご協力して頂けるかどうか分りませんが一応神鍋自然学校の前田敦司さんに

お願いしてみようと思っています。森の中で何が出来るのか分かりませんけど自然を満喫しながら食事を作ったり

子どもたちでも簡単に木に登れる遊びや植物などの観察を楽しみたいと考えています。 いかがでしょうか。

藤原文男
参加します。年をとりましたが坐って眺めているだけですがゆきます。
聖天さんの旅行がありましたが、皆様のイベントに参加します。
 

4月3日
小豆島に行ってきました。1日二日です。昨日かえってきました。カメラが故障していて写りません。

4月1日
 明後日四月になります。僕は明後日一日。尾崎聖天さんの小豆島旅行に参加します。朝六時半に聖天さんが迎えにきます。本土を離れた海外旅行です。
旅行の人数は十五名らしいです。楽しい旅行です。酒一升かいました。僕が飲む酒は別に買っています。夜皆さんと一緒にのみます。小豆島に渡って夜の楽しみにします。皆さんよろしく楽しい
小豆島旅行。

3月24日
今日歩いていたら、前を痩せこけた犬かと思われる動物が歩いていた。隣のおばさんに聞いたら「猿}だとゆう。やせこけた猿。可愛想に。村を歩いていた。

 おんな城主直とらドラマ館豊川稲荷参拝と浜名湖かんざんじ温泉。の旅。井伊直とらゆかりの地浜松をめく゜る旅。
養父市奈良尾草谷山荘藤原文男です。三月15日16日養父市農協の旅に参加しました。浜松の航空自衛隊の飛行場見学しました、。別嬪さんが入り口にいました。トイレを尋ねたら親切に教えてくれました。僕は88歳。まずトイレが心配。飛行機やヘリコプターが沢山整備されていました。日本の国を護るのは飛行機です。ありがとうこ゜ざいました。十六日夜かえりました。今日は静養しています。
僕の息子の嫁の弟は浜松市で運動具店に勤めています。数十年になります。一度行って見たいと思っていました浜松。冥途の土産ができました。ありがとうございました。

航空自衛隊浜松広報部

 

  但馬地域遺産但馬ふるさとづくり大学提出論文。藤原文男。
但馬ふるさとづくり大学提出論文。平成25年10月10日
ふるさとづくり大学地域遺産。23年度。24年度すべて収録しました。最終のページ。クリックしてください。

小説活弁やと村芝居

草谷山荘の昔の歴史。

sub3.htm氷の山奈良尾民宿村草谷山荘の起源藤原睦幸のページ

但馬地域遺産。氷の山、熊次村。奈良尾村の由来

氷の山「ワイワイ、ガャガャ共同体」奈良尾民宿村
 民宿草谷山荘とは、現在の建物は明治12年創建。の建物を改造して今も宿にしています。玄関の階段を上ると、そこの左上から屋根浦を見る戸があります。電気を点けると見えます。昭和20年。下の家の類焼で、たる木が焦げています。村の消防団が手押しポンプで消しとめてくれました。
この建物は135年になります。が明治12年建て替えの時、古い材料を使用しました。土台と心柱はすべて栗。日本材を使用しています。すべて木造です。くわしくはsub3.htm氷の山奈良尾民宿村草谷山荘の起源 を読んでください、宿の主人は睦幸ですが、お爺さんは今年84歳。今もスキーに行っています。このパソコン、インターネットの更新が趣味です。健康維持のため、毎日温泉。焼酎の水割り、一合くらい。まあ、みなさん、旨い酒。焼酎があったら、藤原文男に持ってきてください。一階の奥の部屋にいます。一緒にのみましょう。毎日昼寝します。今年もよろしく。草谷山荘、のお爺さん。の落書き。
「文さん、水戸黄門、」とは筆者藤原文男 25万人ご愛読ありがとうございました 

但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駈け巡る  80歳誕生日に集大成の回想録白鳥正夫講演会。

小説「氷の山山岳スキーからハチ、八北スキー場。氷の山国際スキー場。時代考証。newpage5.html へのリンク

 
                       

 https://www.facebook.com/noura.jp 木村さん農楽

著者プロフイール

著者プロフイール藤原文男の経歴。

小説 九州横断、山口島根の旅沙知と阪神大震災
 九州横断、山口島根の旅

旅の始まり

 10年前、60歳になり始めて夫婦2人の新婚旅行に出かけた。九州の別府、阿蘇、九重、熊本、長崎、だった。それが始めてで最後の旅行となった。
長崎は平戸の宿に泊まった。港の近くの宿だった。小さな宿だったが奥さんに親切にして頂いた。その宿の屋上にはシンボルとしての大きな鐘が設置されていた。
「長崎の鐘」を思い出した。
そう若いとは云えないが宿のお姉さんは、港町のこじんまりとした宿の1階に喫茶店を開いていた。
「何時かハチ高原にも来て下さい」
そのお姉さんと話していた。歩いて少し下ると港が見えた。 平戸の町は長崎に似ている、その昔オランダ商館が栄え貿易港として反映していた歴史がある港町である。イエスキリストの隠れキリシタンの住んでいた町である。平戸の港から船に乗り、99島を通り佐世保市に上陸した。其処から電車で長崎に来た。長崎の町は平戸に似ている。雲仙の島原から天草に渡りタクシーで本渡市まで行き引き返した。熊本の駅前の宿に着いたときは7時を過ぎていた。
駅前の宿、宿のおばさんは「遅い、遅い」と、待っていてくれた。
明くる日ここから豊肥本線に乗り、湯布院の宿に着いた。その明くる日、阿蘇久住の山並みハイウエーを通り、湯布院の町に帰ってきた。
何処か「ほっと一息、」人々の心に安らぎを覚える湯布院、何処までも続く美しい山並みハイウエーであった。素晴らしい景観だった。
 

 九州横断、山口島根の旅

  平成十年四月二十八日ー三十日関宮町万久里五時出発予定、荷物を積みさあ出発しょうとしたら、車のキーが無いと言う、
「又か」年を取ると鈍になるな昨日から九州へ旅行するので車の掃除を
したと言う東垣さんは車のキーを捜しに家の中に入った。

  「車の中を探してみいや」「どうもない」と東垣さんが出て来たキーが無ければ仕方がない私の車で行くか、それにしても無いことは無いはずだ。

「有った有った」田淵やさんが後部座席の座蒲団の下から見つけた、年を取ると物忘れが確かになる昨年の岩手旅行を思い出した、東垣さんの息子がワゴン車の車のキーを積んで村岡町兎野高原まで行った

  運転免許証と障害者手帳も積んでいた、孫のピクニックの後を追いかけた。岩手県と反対の村岡町まで行った。私たちはお陰で、久しぶりに兎和野高原の空気を吸った。
村岡町婦人会の作った美味しい味噌汁をご馳走になった。

「又か」そう思った、半日遅れて岩手旅行に出発した。

  山陽自動車道を走っていた頃鞄のチャックを明けたら予備キーが出てきた。ご丁寧に前の晩予備キーを鞄に入れた。

忘れる程なら始めから入れなければいい、東垣さんも年をとったな、そういう自分も同類だ、田淵や、此花、竹下、藤原、万久里の東垣さん二人計六人、お互い物忘れの確かな老人がワゴン車東垣号で出発した。

車は予定通り瀬戸大橋八時頃着いた。

「少ない」「実に少ない」たまに一台車がすれ違う。

「こりゃあ葛畑の村中より車が少ないなあー」明石大橋開通の影響か、4月二十八日。四国に渡る人は殆ど淡路島鳴戸ルートを通っているのか、このぶんでは尾道今治ルートが完成したら瀬戸大橋など通る車は無くなるだろう。

  この間芸北国際スキー場の視察に行ったら、中国自動車道を走る車が極端に少なかった曲がりくねったカーブの多い谷ぞいの中国道は走りにくい、七塚原SAに入ったら客は私たちだけであった。

『暇で暇で仕方がない忙しければ時間が短いが、暇だと時間が長い、特に夕方になると車が来ない』

食堂の叔父さんがぼやいていた。

  ガードレールもワイヤーロープも擁壁や石垣にも、草や木が生え車が少なく整備も予算が回らず、中国自動車道の老朽化が目だっている加計インターに着いた。

メーターを計算すると山陽道の方がキロ数も短く時間も早く運転も楽でガソリンも少なくて済む、米子自動車道浜田自動車道も完成した、国道九号線も込み合う松江、安来、米子淀江町のバイパスが完成した然も無料である。  山陰の国道九号線を夜走れば高速道と変わらない然も無料である。中国自動車道はもういらない決して二度と走ってはいけない同じ事が瀬戸大橋にもいえる。

 大阪神戸以東の車は明石海峡大橋で松山自動車道を走るほうが岡山を回るより時間が早く金も安い

  日本の国は過大な公共投資で多額の国債を発行し世界一の借金国になったアメリカの勧めで公共投資四百三十兆円を四百六十兆円に増やした。

  パブル以後借金を拡大しても景気は一向に良くならない、そこで老人は一人でも多く各地の観光に出かけることが国の為である、老人が貯金せず各地に金を落とせば国内の景気は回復する筈である、然し日本の国内旅行は高く付く、高速道路が高い舟代が高い、だから日本の高速道路の料金をいっそのこと無料にすれば国内の老人旅行客は一気に活性化しトラックの流通経費もガソリン代と人件費だけとなる、従って生鮮食料品の価格も割安となる。

  日本国内の流通が良くなれば国内の景気は一気に回復し、消費は伸び生産物資も出回り内需拡大間違いない、私を内閣総理大臣にすればこの政策をただちに実行する、  要は今思い切った景気回復の手を打たないと日本は滅びる、人の通らない中国道の無料化瀬戸大橋の通行料の値下げは必要である。

  ではどの様な政策をとるか、身体障害者の方々にはガソリン代を半額にします、高速代を身体障害者並みの半額とする、六十五歳以上の老人には宿泊代を半額にします、「但し食事代は除く」割引する変わりに一グループ男女一室にします。

どうせ役に立たない男と女、虎の子の預金金利を引き下げ老人医療費を引き上げ、老人の旅行がた減り、高齢者宿泊割引制度を法制化する、登録した宿には老人割引による売り上げ収入について無税にする、この制度を施行すれば国は金を使わず国内の老人観光を活性化する。

食事代の割引はしないから、旅館業者も損はしない 売り上げが伸びれば全体としてプラスになる。

  私は民宿経営者のプロだからこんな算術朝飯前だかくして日本人口の二十%を占める老人人口の大移動が始まる、 老人が金を使わず貯金していても持って死ぬ訳でない、皆が金を使わないから不景気になる。「年よりは、旅行しましょう国のため」観光がこれから日本経済の牽引車となる。

      佐田岬から九州へ

   松山自動車道伊予インターを下りたら国道五十六号線を八幡浜市に向けて走った。

曲がりくねった道路だが車の台数が多い、大州市、宇和島市、足摺り岬の土佐清水市、中村市高速道路が今急ピッチで進められている。  今年度公共事業の前倒しと補正予算で工事が進んでいる八幡浜港に着いた。昼飯を食べビールを仕込み一時出港のフエリーに乗った船は運転しなくても良いので楽だった。船上で車座になり一杯のみながらの旅であるここから別府まで約三時間かかる佐田岬は四国の最西端である。

  数年前四国八十八カ所を廻ったが佐田岬にはこなかった。

この半島には高速が無いから中々来れない。  宇和島フエリー、千八百円の船代は高いが畳敷きの二等船室男も、女も雑魚寝の旅だ。伸び伸びと昼寝も出来るビールを飲み右手にゆっくりと佐田岬を見ながら船は順調に走っていた。

  天候も気分も最高である四時少し前別府に着いた、別府温泉は公衆浴場だけで百八十カ所ある、車は別府の中心街を走り湯布院に向かった。

急な坂道をどんどん登ると由布岳が見えた。『千五百八十四メートル』城が島高原の中程にあり美しい自然環境ここで休憩何枚かカメラを向けた。

  鶴見岳『千三百七十五M』は由布岳と仲良く並び美しい。その麓の美しいハイウエーを走ると、道路は大きくカーブしながら下っていった。

  由布院にはホテル旅館、ペンションなど約五十あり共同浴場も十二カ所ある独特の土産物やがありスーパーも町の中心に広い駐車場を持ち営業していた。

  数年前この湯布院に泊まった大きな屋敷の庭を歩いて平屋建ちの宿が十数戸建てられていた。真中に食堂があった草葺きの囲炉裏のある食堂だった温泉には露天風呂があり男女共用だが夫々少し離れた造りにした湯布岳の見える温泉だった。幸子と二人泊まった二間続きのゆったりした部屋には玄関も付いていた一泊八千円二食つきの宿だ。

牧場の家、TEL0977−84−2138番だった其処に電話したが部屋が十分取れなかった。

その翌日山並みハイウエーをバスで案内してもらった時歩いた石畳の『湯の平温泉』一度是非泊まって見たいと思っていた其処の宿を予約していた車は山路に入った。

私達はここから更に車を飛ばして、坂道を登り、九重連山に近い『湯の平温泉大正館』に宿をとった。

  九重連山の観光の途中、雛びた石畳の坂道の温泉『湯の平』に泊まって見たい私の永年の憧れの地であった。旅は人々の故郷を求める。安らぎの里を求める。

『国民宿舎大正館』TEL−0977−86−2006番二食付、七千円税込である。

湯の平温泉は狭い道路の川沿いに石畳の坂道が数百メートル続く、その両側に軒を連ねる様に小さな民宿や旅館が続く、土産物や小さなカラオケスナックもある。『ふうてんの虎さん』が泊まった宿である。その夜歩いていたらカラオケバーのお母ちゃんが店を開けてくれた。

『何処から来ました』お母ちゃんが云う、

『兵庫県の但馬城崎温泉の近くで氷の山ハチ高原と云うスキー場の有るところです』

  一曲二百円、ウイスキー一杯で但馬から来たお姉ちゃん達も久しぶりに青春を謳歌していた何歳になっても自分だけは若いと信じている。

         阿蘇の山並み

  朝八時出発した今日は二十九日天皇誕生日、宿を出て細い路を登っていると十一号線に出た。『やまなみハイウエー』無料となっている何処までも続く美しいハイウエー九重高原は信州の『美しが原高原』『車山高原、白樺湖を連想させる。

『九重ラベンダー園』『長者が原』牧の戸峠から、久住高原ロードパークを目指して走る。  熊本県に入っている。宮地で国道五十七号線と交差し、車は阿蘇山を目指す仙酔峡有料道路を登る。

『ねえちゃん一人で来たの』私は尋ねた北海道室蘭ナンバー、一台の車が阿蘇山東登山口駐車場に入ってきた。『これから何処え行きますか』『一人ですこれから熊本城水前寺公園から長崎へ行きます』

『それなら僕らと一緒ですな僕もその車に乗せて下さい』

『この車いっぱいで乗る所ありません』

中を覗くと所帯道具登山用具自転車蒲団、いっぱい積んでいる、今日は阿蘇山に登り車の中に寝るらしい北海道から来た娘さんはリュックを背負い登山靴を履いて私に道を尋ねた。  私は中岳の方へ登る道を教えた、私も始めてみる阿蘇の山知っているわけが無い然し大勢の登山客が登っている方へ行けば安全だ山は尾根を登れば安全だ。

多くの山に行った経験で始めての山でも見当がつく、『食料は持っていますか』私は更に尋ねた。

『お菓子を持っています』

『気をつけて登ってください午後は天候が崩れるから帰りはリフトの方で下りたほうが安全です』そう教えて上げた。 それにしても北海道から敦賀に船で渡り、国道九号線を米子から瀬戸大橋、佐田岬、そして阿蘇山へと一人旅夜は車の中に一人寝る『車の中は恐くない』

『もう慣れました』

  娘一人の自動車旅行大学生だろう、地図を頼り水と食べものさえあればトイレの有る駐車場なら何処でも寝れるそんな自由な旅を私もしてみたい。

  阿蘇の山から一時間も走ると熊本市に近づいた、郊外に向けて走る車の長い行列が続く水前寺公園に来た。

写真を取り池の回りを一周するともう仕事がない二回、三回も来ると新鮮味が無い何の変哲もない公園である。人口的なものはいくら金をかけても自然の美しさには及びもつかない、細川家三代にわたり築造された桃山式回遊庭園である、出水神社には細川歴代の藩主とガラシャ夫人を祀る水前寺清子は魅力があるここに祀るといい、大勢の参拝人が来るだろう。ガソリンスタンドに寄った島原に渡りたいと道を尋ねたら、熊本港からフエリーが出ていると言う。

二十五分の出港後十分しかない切符を買いやっと、熊本島原フエリーの船上の人となった。

      雲仙そして有田焼き

  島原港に上陸した、深江町はあまりにも有名だ今も火砕流の傷跡が残る五十七号線の高架橋が新設されていた。今度火砕流が発生してもこの道路は埋まらないだろう、交通が切断される事はない、然しそんなことが今世紀中に二度と起こる事は無いだろう。 雲仙温泉に出たここから雲仙岳ハイウエーを登ると雲仙岳がすぐそこにあった頂上から谷ぞいに噴火した火砕流が遙か下の深江町に流れ込んだと思われる。田や畑はまだ原野のままである草や木も生えない、人々の生活はどうなったであろうか川の両岸にはコンクリートの堰堤や擁壁が続きその川の上に、橋や道路が出来ている再び火砕流が出ても道路が通行出来るような対策であろうと思われる。

  雲仙温泉に一度泊まってみたい、もくもくと硫黄の煙が立ち上っている。

いい温泉だろうここも二回通るが一度も泊まった事が無い雲仙を通り諫早市からインターに乗った長崎自動車道が開通していた。

  武雄から長崎バイパスに乗り替えると波佐見有田から下りる一般道を通り有田の町に入った。瀬戸ものの町有田は活気に溢れていた、日本中でこんな活気のある町を見たことが無かった。

町の両側に迫り出した店、有田焼きのありとあらゆる品々が並ぶ壺、茶碗、湯飲み、茶器、花瓶、皿、どの店もどの店も多くの客が溢れている。数百メートル。いや数キロメートル、人、人、人、で溢れている。

車で進むのにひと苦労まるで昨年の秋訪れたネパールの町を車で走った時の様な、中国の天津や上海や西安の市場の様な人人人の群れであった。この人たち何処から来たのか老人、夫人、若者学生、家族連れ、娘連れありとあらゆる階層の人達が歩いている。下りて歩こうにも車を置く場所が無いとうとう有田焼き一つ買えなかった。

毎年今頃一週間位有田焼きの祭りが有るという、是非又行きたい町であった。

宿を探したが有田の町には宿が無かった仕方がない武雄温泉まで来た。

宿は適当な安いところが見つからない、ここまで来たら致し方無い、有田の町をもっと見たかった。

『花月』に泊まった『今日は今晩泊めて貰えますか』私は聞いた『どうぞ』ネクタイを締めた番頭が云う、

『女二人男四人二部屋出来ます、宿泊はいくらですか』宿を探すとき必ず宿代を聞く事は常識である。高ければ泊まらない、足下を見られてはいけない、宿賃を吹っかけられてはいけない、
『承知しました一万三千円です』

『そうですか一度皆さんに相談してきます』宿を取るとき決めるとき必ず一度相談して来ますと云う、これが宿を決めるときの常識である。

店で品ものを買っても値段を聞きその場ですぐ買ってはいけない、一度必ず皆さんに相談しますと云う、これが常識である民宿をやっていると旅慣れたお客は必ずそう言う、そして相談し再びお願いしますと来る。これが駆け引きと云うものである。  宿を予約するときは値段を値切ってはいけない値段を値切る客は最低の客である。

宿の人が値を出した最低価格の料金に予約することが肝心である千円位高い料金をだしても結局同じ扱いである。

  一流の日本式旅館であった我々風来坊の泊まる宿ではない本来宿屋とゆうところは寝て飯が食えればいい、いくら金を多く出しても一人で二人分寝れない、二人分の飯が食えない、幾ら良い部屋に寝ても、その部屋を持って帰る訳に行かない、宿に泊まる目的は明日の観光の為寝れたら良いのだだから私は、宿はなるだけ安い宿を探す、次に旨いものを食わす宿を探す、歴史のある宿を探すこれが宿を選ぶ場合の三原則にしている。

永年宿屋をやっていると裏側が全部わかる。  人間の心の落ち着く環境のある宿が一番大切である。

私は今日一日体調を壊していた、昨日から欲のみ食べすぎ騒ぎすぎていた。

今夜はもう騒がない温泉に入りビールと酒を飲みすぐ寝たさすがに疲れた。 当初の予定では熊本から九州自動車道鳥栖から長崎自動車道に乗り武雄に来る予定であった。予定を変更し船で長崎に渡ったため、有田に来るのが遅くなり武雄温泉に泊まった。ここに泊まってみると武雄温泉は九州地方では有名な温泉地であり有田焼きの産地を控え繁盛している。

夕方急に訪れた六人の風来坊の客を快く迎えてくれた。旅館『花月』の皆さんに感謝申し上げたい今度又、有田にいったら是非お世話になりたい。

政府登録旅館花月TEL−0954−22−3108番FAX−2120番武雄温泉

  宿を選ぶ場合海岸べりの民宿に泊まれば一万円出したら、食べ切れない位の料理を出してくれる。日本全国泊まり歩いた私たち、行き着きばったり佐賀県の武雄温泉に泊まった、泊まって良かった。

然し明日は関宮町まで帰らねばならない去年の岩手旅行の様な訳に行かない、750KM走らねば帰れない朝起きると新鮮な佐賀の空気を吸った。

帰るとき花月美人の奥さんが見送ってくれた気に入ったのでついでにシャッターを押してもらった。
宿は着いたときの出迎えも大切だが帰るときの見送りが一番印象に残る。

  ロンドンのホテルでも、ドイツやスイスやフランスのホテルも、旅人が帰るとき必ず見送る旅は出会いである、出会いとは別れを惜しむ事である、其処に人間の去り難い感情が残り生まれる。

金儲けだけの宿など味気ないものである人との出会いがあるから宿や商売は続くのである。 
 
ネパールのホテルには髭を長く生やした背の高い玄関番の叔父さんがいた、夜遅く外出から帰っても
『お帰りなさいナマステ』
と言ってくれた。帰るときその人と握手したその手に黙ってライターを上げた。

  見送ってくれた花月旅館の美人の奥さんがいつ迄も印象に残っている、たった一泊の宿だったが思い出に残る日本式旅館であった。

  武雄温泉からすぐに長崎自動車道があった。車を飛ばし北九州『めかりPA』で九州最後の休憩に入った北九州市門司港がその下にあった。向こうに下関市がある壇之浦砲台跡が見えた。

  私が下関を始めて訪れたのは昭和二十年の秋十一月だった戦争に破れた下関の町はほとんど爆撃されていた。映画館の映写機がそのままの姿で残されていた。長府の町は軍需工場が多く徹底的に爆撃された。あれから五十年の歳月が何時しか過ぎていた。下関駅の近くに住吉神社があるその近くの工場の敷地を造る仕事に出稼ぎに来ていた時々下関の町に遊びに出ていた。今私は整備された下関に見入っていた。

      雪舟庭園

  目の前に下関の町が見える。昭和二十年秋焼け跡の下関の街町は無惨な姿だった。

あれから五十年今復興した下関の町があった。映画館の映写機の残骸がそのまま残っていた。壇之浦砲台跡、魚市場、長府の町、長門一の宮の駅あたりは田圃ばかりの農村地帯であったが今下関の駅が出来ていると風の便りで聞いた。

  中国縦貫道小郡で下りて国道九号線山口市に着いた。山口県庁に入ったがザビエル記念館には行けなかった。瑠璃光寺は大内氏の菩提寺である五重塔は修理中であった漕洞宗の三大本山のひとつである雪舟庭園で有名な常栄寺も近くにあった。

画聖雪舟を大内氏が山口に招いた、ここで雪舟は数多くの名作を生んだ広い整備された庭園であった。

大内氏はこの山口を西の京都にしようと整備した。歴史のある落ち着いた町である大内氏は新興毛利に滅ぼされた。  毛利の長州藩は薩摩藩とともに明治維新を起こした。山県有朋、伊藤博文、木戸考允、吉田松陰を生んだ。

十二時を過ぎたもう少し足を伸ばそう阿東町に来た  その昔殺人事件のあった町だ静かな山村である、安定した大きな農家の家並みが続くその町を過ぎると、急な坂道となり野坂峠のトンネルを三本抜けると急に視界が開けてきた島根県津和野である。 人口七千五百人、津和野藩の中心地である。和紙が藩の財政を支えた時代もあった鯉と自転車が町の観光の名物である。

  益田市もその支配下にあった九号線から、広島に通ずる国道百九十一号線を少し走ると万福寺があった。

雪舟が造った庭園だが小さくまとまった庭園であった。雪舟の画も多く襖絵も見せてくれた。歴史ある仏像や仁王門の像が酷く傷んでいたのは気にかかる、益田市の教育委員会は何をしているのだろうか、文化行政に無知な市会議員はもっと眼を開ける必要が有る灯台元暗し一度見たら誰も見ようとしない。

私は益田市雪舟庭園を訪れたのはこれで二回めだ。多くの寺を見ている貴重な文化財の仏像も多く見た昨年六月古代出雲文化展が松江で開かれた、神々の遺産として県内の仏像が一堂に展示されていた。

これだけ貴重な文化財が一堂に集められることはもう無いだろう。六十体以上あったようにおもうそうした多くの仏像の拠出に同意された寺の協力に感謝したい、その計画をされ実行された島根県の関係者の皆さんに感謝申し上げます。そして又それを見学に行かせて戴いた但馬ふるさと大学の企画にも感謝致します。

  益田の町には妻の妹が住んでいる、 その母は病気になり痴呆症になった。女一人で母の介護は出来ず病院を転々としていたが、遂に逝った。最後の病院は山口市の近くだった。近くの火葬場で埋葬された、 長い放浪の旅であった、人、夫々の人生がある。最後に母は夫の元に帰ってきた。 その益田に来ていた何回か来た益田市だった。

  国道九号線を走った浜田市、江津市、温泉津温泉には数年前森林組合で来た事があった。雛びたいい湯の温泉だった。島根広島県境には西中国山地国定公園がある。匹見峡、三段峡を超えて妹婿の葬儀に行った事もある。  恐羅漢山はその中心の山だ、芸北国際スキー場はその代表的スキー場である。このスキー場に人工降雪機をセットするスキー場造成工事が行なわれていた此花君と度々見に来た。

  中国道を通り九号線で帰った、あるときは山陽自動車道を通って帰りは日本海を通って帰っていた。浜田自動車道から旭町で降りると旭テングストンスキー場が出来た、瑞穂ハイランドスキー場も出来た。中国道千代田インターから一時間かからずにスキー場に来る西中国のスキー場として大山以上の人気を呼んだ。太田市から三瓶温泉の三瓶山スキー場がある。其処にも何回か行った出雲から大社に参る。其処から更に比婆道後国定公園の仁多町や竹下元首相の故郷掛合町がある。

  『鬼の舌震』奥出雲ループ橋、『やまたの大蛇橋』として有名な比婆道後帝釈国定公園は中国道東城インターから斐川町に抜ける中国横断自動車道が予定されている。
  出雲市から鳥取県淀江町までバイパスが出来ている。帰りがけにこの辺で温泉に入りたいと思っていたら、  『日本三大美人湯』湯元『湯の川』がめについた。湯川温泉は斐川町にある。温泉だけでも入れてくれる。TEL−0853−72−0333番いい湯である。 私達が関宮町に帰ってきたのは十二時頃だったと思う。こんな旅行は二度と行けないだろう。この壮大な車の旅二泊三日で二千キロ近く走っている。運転者の皆さん、本当にご苦労様でした。歴史に残る四国、九州、山口、島根の旅を記録して後世に残しておきたいと、三日がかりでワープロを打ちました。又何時か、旅行する人達の参考になれば幸いです。
                    平成十年5月5日記    この稿藤原文男

1月17日「小説阪神大震災と佐知」
 阪神大震災から16]年を経過したのだろうか?1月17日の朝午前五時30分、グラグラと揺れた。私は飛び起きた。咄嗟に屋根に上がった。1m50Cm越す大雪だった。スコップで屋根の雪を落とした。ひと当たり屋根の垂木の端の雪を落とし終えた。ら、背中は汗でびっしり濡れていた。佐知も手伝いに上がってきた。もう一揺れきたら家が潰れる。雪を一わたり落として休憩した。ら、テレビは一斉に放送を始めていた。

 阪神、淡路方面に地震が起きたらしい。スキーに来ていた人たちのお客さんの家から、一斉に電話が殺到しだした。「家も電器もめちゃめちゃだ、早く帰れ」電話の向こうで親が喚いているのが聞こえてきた。大変な震災であることが次第に解ったのは夜が明けて、次第に震災の巨大さが判明してきた。私は直ぐ阪神間に出ている兄弟に電話した。堺の弟の家は大丈夫だった。その夜、神戸の姉と義兄がトラックでトタンを積みに来た。姉の家が潰れたらしい。咄嗟に私は、関宮町の相治金物店に電話で注文した。「波板100枚、釘と金鎚、屋根の下に敷くシートを注文した。神戸や阪神の店からテント、シート、波板トタンが消えていた。あくる日、18日朝、夜明けと共に私は神戸の姉の家に車を運転していった。神戸へ、神戸へ、車は175線、三木を過ぎ神戸近くになると渋滞していた。漸く姉の家に着いて。直ぐ屋根に上がった。屋根瓦を川原に捨てた。夕方漸く屋根の修理を終えた。
屋根から見たら神戸西区の家々の屋根は殆ど壊れていた。阪神大震災のあくる日、屋根の修理を終えたのは姉の家だけだった。

 佐知は胃痛を訴えていた。あの日、阪神大震災が来なかったら、1月17日八鹿病院に胃の検診に出る予定だった。が、震災は佐知の検診をのびのびにした。あの震災が無かったら、佐知のガンの予知はもっと早く出来ていただろう。早期診断と検診が出来ていたらと悔やまれる。それが運命だったろう。あれから16年の歳月が経過している。歴史は後戻りは出着ない。前に進むしかない。が、私は後悔していない。佐知は逝った。議会では議長に立候補し当選。佐知の願いを適えた。

 佐知の死後、私は世界の旅を終えた。弘法大師空海の旅も、高野山大学院の学習も、「但馬に生きて」の著作の発表と配布、兵庫県知事さん以下、但馬の殆どの市町、公民館、有識者に私の著書は行き渡りました。世界の旅も終えました。多くの仲間のご支援を得て本の出版が出来ました。私を支えてくれた家族と子供達には、随分迷惑かけました。私の誕生日、昨年の2月24日はもうすぐ来ます。一年を経過しようとしています。「但馬を映像で発信する会」の皆様には随分お世話様になりました。私を支持してくださいました「但馬に生きるロマンの会」会長田淵兼光君、前関宮町長栃下善幸様。但馬文教府の皆様、但馬ふるさとづくり大学、但馬史研究会、但馬県民局勤務の皆様、夢テーブルの皆様、但馬の各議会議員の皆様。八光会、養父市森林組合OB会、関宮町議会OB会の皆様。但馬開発推進会議同友会の皆様、ご一緒に登山しました多くの仲間の皆さん。有難う御座いました。本の編集に積極的に取り組んでいただいた、宮崎裕子さん、木下道野さん、木村尚子さん、富田さん、稲葉さん、笠浪さん、谷垣さん、久保さん、牧野さん、広瀬市長さん、大田さん、川嶋さん、田淵君、世良さん、中田さん、そしておいそがしい中ご寄稿くださいました、村上忠孝さん、そして、本出版の動機とアドバイスいただきました豊岡市、株キャメル会長大田伸吾さま。北星社の多くの皆様に感謝申し上げまして意をつくしませんが、お礼のご挨拶に代えさせていただきます。有難うございました。

また、本の配布と販売にご配意いただきました但馬の書店の皆様。有難う御座いました。阪神間にでていられます姫路、神戸、大阪、京都、但馬会の皆様、ふるさと熊次村出身の熊次会の皆様、有難うございました。尚、今後とも皆様が読了しました本は、皆様の友人知人、親戚、嗣子、孫の代まで読み継がれますことを願いながら、私の本「但馬に生きて、遥かなるロマンを求め駈け巡る」出版終了のご挨拶に代えさせていただきます。有難うございました。

養父市奈良尾130  草谷山荘  藤原文男  2011年1月24日

小説 沙知と阪神大震災

 その年はまれに見る大雪だった。年末年始順調なスキーの滑りだしだった。
雪は少なかったとはいえ正月のスキー客はほぼ満員だった。今年は良い冬になるだろうと思っていた。
「もう朝かなー」そう思って寝ていたときだった。突然グラグラと揺れた。「地震だ」飛び起きた。
すぐ屋根に上がった。屋根の雪は150センチメートル以上も積もっていた。
葭原は屋根の雪降ろしを始めた。もう一揺れきたら家が潰れる。木造の古い建物の民宿。
屋根の面積は1反歩くらいあるだろう、まだ薄暗い、スコップで雪降ろしを始めていると妻の沙知が手伝いに上がってきた。
妻は町の健康診断には一度も行かなかった。元来元気で働いていた、
「一度病院に行こう」といっていた、
胃が痛いのを我慢して雪降ろしに上がっていた。家の屋根のタルキの端を一渡り降ろした。
早朝暗かった夜が次第に明るくなってきた。背中をびっしりと汗が流れている。
屋根の雪はまだまだ沢山あるがタルキの端の雪を下ろせば重量は相当軽くなる。
雪を下ろしている間地震のことは忘れていた。

午前7時を過ぎ朝食を食べた頃から、漸くテレビが放送を始めた。神戸や尼崎あたりで大きな地震が起きたらしい、テレビは一斉に放送を始めていた。地震の規模が次第に大きく拡大されてきた。

兵庫県スキー連盟の準指導員検定会がこの間から氷の山國際スキー場で開かれていた。タイモスキークラブの彼女は家に電話していた。「大変だ、電器も家具もメチャメチャだ、早く帰れ」電話の向こうで家族の叫ぶ声が聞こえてくる、神戸からきた彼女はそれでも検定会に滑りにいった。夕方検定会から帰ってきた彼女は準指導員に合格していた。早く帰った人達は棄権であった。彼女の胸の内は複雑だった。朝、急いで家に帰っても家は潰れている。どうせ潰れているなら検定会を受けたほうが良いのかもしれない、一度取得した資格は一生自分のものだ。合格した嬉しさと、帰ったら家が潰れているそう思っただけで気分が重い、然し合格したのだ、自分の胸に何回も何回も言い聞かせながら、重い足取りで神戸の自宅に帰っていった。
まだこの地震が大変な震災だとの認識はなかった。
妻は胃痛を訴えていた、時々、診療所から薬を貰って飲んでいたが回復の兆しはみえなかった。
一度病院に出よう、その日病院に出る予定だった。然し地震とその後次第に明らかになってくる震災の模様で遂に病院に出る機会を失っていた。

大震災と病気

 阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、
生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。
葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。
医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。

事故

 葭原は風邪を引いていた。風邪薬を飲み病院から車を運転し家に帰る途中だった。
「そうかとうとうくるべきものがきたな,」
嫌な予感だった。彼の予感はよく働く、車を運転していると眠くなってきた。
東宮の村を過ぎ、四誌伊の村に差し掛かっていた。うとうととしていた。良い気持ちだった。
山の電気を過ぎた頃だったろうか、天国に行ったような気分だった。突然「だっだっだっだー」と、音がした。
急ブレーキは勿論踏んでいたが物置の家に激突し停止した。タイヤが溝川の上を片車輪で走っていた。
はっと我に返った。誰かが何処かに電話していた。暫くしてレッカー車がやってきた。車は腹部をこすり駄目になっていた。葭原は自分では元気だと思っていた。然し余程のショックだったのだろう。

 妻が癌だ。何時から罹ったのだろうか、医者は切れば治ると言う、然しそんなことがあるのだろうか、彼は自分ではしっかりしたつもりで車を運転していた。車が一台駄目になった。然し彼の体は無事だった。良い気持ちだった。事故をする前、天国のような何とも言えない良い気持ちだった。不幸が不幸を呼ぶ、然し彼はその不幸から逃れることが出来た。お陰で車が新車になった。沙知はまだ決心しかねていたが入院することにした。
ポリープだと言う、多くの友達もポリープの手術をしている。その病気に対する知識は皆無だった。
胃痛を一度も経験したことの無い葭原、もっと病気の本を読んでおけば良かった。

 手術の結果胃は全部摘出した。その背後にある膵臓も半分くらい切った。すでにもう転移していたのか医者は「出来る限りの事はしました。」といった。
会議中彼は毎日病院から通勤した。必ず治ると確信していた。あれほど元気だった沙知、死ぬなど予想もしなかった。「切らねば良かった」その思いは今も残る。
あの震災の朝、葭原は神戸の姉の家に電話した。
「屋根の瓦がずり落ちて、壁がひび割れ家具が壊れた。家の中がメチャメチャだ」と言う。
神戸の名谷近くの弟の家は山を削り基礎工事の確りした基盤の上に建っていたから大丈夫だった。
彼は咄嗟に金物屋に電話した。「波板100枚、金槌と釘」を注文した。地震が来ると途端にテントが店頭から姿を消した。一斉に人々がテントを求めて殺到した。テントの値段が暴騰した。続いてトタンと釘が神戸近くの店頭から姿を消した。漸く震災の全貌が次第に明らかになってきた、その夜姉達夫婦がトラックでトタンを積みにやってきた。

 葭原は翌1月18日早朝、神戸に向けて出発した。高速道路は全滅だった。遠坂トンネルを抜けると国道175号線を一路神戸に向かった。三木市に入った頃から渋滞が続き出した。長いトラックの列が神戸へ神戸えと続いていた。漸く西区の家に辿り着いた頃夜が明けていた。家に着くと直ちに屋根に登った。
「瓦を全部落とせ」「瓦は川原に捨てよ」非常事態なのだ。「土木事務所が叱る」「叱られたって仕方が無い」
こんなときは田舎の貧乏で育った者は強い。即座に決断する。瓦を全部地面に下ろし近くの川原に捨てた。
波板トタンを釘で打ち付け夕方までに全ての修理が終わった。近くの人達が集まってきた。
昨日の朝震災が起きた、その翌日屋根の修理が完成した家は神戸西区の近くには無かった。
葭原は家の増築を毎年やっていたから屋根の修理の段取りは全部わかっていた。

 屋根の上から西区の家々を眺めた。どの家も下から眺めると解らなかったが、殆どの家の瓦がずり落ちていた。大変な地震だった。その年震災以後、スキーヤーはスキー場から完全に姿をけした。広島から来る人たちまでキャンセルしてきた。2月になり3月になり、漸く客足が回復した頃には雪が消えた。「家は潰れたけど一度スキーをしないと雪が消えたらスキーが出来ない」そう言いながら若者たちはスキーにやってきた。その年を境にスキー場は日帰りスキー場となり、未だに民宿の客足は回復しないまま不況の時代になった。阪神大震災の被害者は阪神間だけでなく周辺のスキー場にも甚大な打撃であった。その震災のため沙知は検診の機会を逃していた。

 阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。

 一度良くなりこの分では全快するのかと思っていた沙知の病状は、回復の見込み少なくなり、時々病院に出ていた。7月の夏休みに入ると林間学校が訪れて来た。林間学校が始まると沙知は病気を押しのけ食事の手伝いを始めた。幾ら仕事をしないよう注意しても起きてきて手伝った。仕事は何時も手馴れている。そんなに苦しい仕事でもない。それが悪かったのだろうか、9月になった。病院に検査に出たレントゲン検査の結果は沙知の命は後1ヶ月だと言われた。もうなにを言われても驚かなかった。人間そうなれば案外腹が据わるものである。
1日1日その日が近づいても沙知が死ぬとは思わなかった。その頃、内山が「布実さん、山を買わんか」と、話しを持ちかけてきた。「お父さん買おう、山を買おう」沙知がそう言った。
彼は沙知をつれて綾部の山奥までその山を見に行った。「買ったよ、」1200万円だった。沙知の命は後1ヶ月だった。沙知は満足そうにうなづいた。沙知の冥土の土産だった。彼は「良かったな」と思った。

 平成7年10月12日朝5時30分、四国88箇所参りの車は、東宮町を出発した。
藪下、下田、下垣、歳下、布実、池田の6名のメンバーは遂に最後の88カ寺の寺参りを完結するために出発した。1週間後に妻沙知の死を迎えるなど考えても見なかった。医者に宣告は受けていても人は良い方に解釈する。何時か死ぬだろう、然し何時死ぬのか、否、何時までも死なぬだろう、そう思っていた。

 沙知の残された命は後1週間の予命だった。もう後戻りは出来ない、医者に宣告されていた。
病院で医者に宣告されたその明くる日、四国88カ寺の旅に出発した。「どうか最後まで苦しみませんように」
88カ寺の最後の完結寺が私の妻の最後の完結寺になろうとは、何の為にお寺参りをしたのだろうか、然し後悔はしていなかった。今も私の家の仏壇に供えている。「四国88ヶ所巡拝結願お守」
「四国88番大窪寺」このお守りを頂いた。人は心の安心を得るために神や仏に参る、別段なんの宗教も信じてはいない、然し寺や神社にお参りすると、安らかな心になる。なぜだろうか、明日のことは解らない、その明日を求めて参った。その日、87番長尾寺、86番志度寺、85番八栗寺に参った。八栗寺から84番屋島寺へ、屋島ドライブウエーで山上に登った。瀬戸内海が一望出きる景勝の地にあった。
手術をしたら何処かの施設にいれ、家の仕事など見せない方が良い、そう言ってくれる友人もいた、しかし何処にも行かずに家にいた。それが悪かったのか、もう転移していたのか解らない、それだけの運命であったと諦めることである。手術しなければそんな痛い目に遭わずに済んだであろう。
もう少し長生きできたであろう。癌とは現代の医学で克服することが出来ない難病である。
彼のお寺参りはそうした妻の全快と、例え死ぬしかないとしても、せめて苦しまずに死んで欲しいと願っていた。どの寺に参っても沙知の全快を祈っていた。山上からの眺めは素晴らしかった、しばし現実の世界を忘れていた。目で眺めながら沙知の病院での姿を思い出していた。

仏陀の世界

 病院の沙知の枕元に「四国88ヶ寺結願お守り」を置いた。「安らかに眠れ私の妻沙知」10月14日、彼は病院に帰ってきた。妻の顔を見れば心が休まる、後数日の命だとわかっていても心は平成であった。         「あーもうあかん」 それが沙知の最後の言葉だった。沙知は最後の最後まで自分の病気の全快を信じていた。最後の最後まで自分を手術してくれた医者を信じていた。
 最後の日、「モルヒネ」を飲んだ。医者の薬を全快すると信じて飲んだ。そして最後安らかに眠った。
人間の最後は必然である。いつか必ずその日がやってくる、幾ら努力しても祈っても死は必ずやってくる、沙知は逝った。彼は悲しいとは思わなかった。死が実感として感じて来るのにはある程度時間が必要なのだろう。
当然その日がやってくることに次第に慣らされていたのだろうか、医者はその人の能力で出来える限りの努力をしてくれた。医者を恨んだりはしない、沙知はその医者を最後の最後まで信じていた。必ず癌を克服することを信じ、医者を信じていた。然し私の心は納得できないと彼は自分の心の中を分析していた。あの時、癌の告知を受けたとき、咄嗟に「手術して下さい」と、何故あの時彼は独断で決めたのだろうか ? 。
もう少し周囲の人達の、いや、沙知の気持ちをじっくりと聞かなかったのだろうか?、
手術しなかったらあれだけ急速に体力が弱りはしなかっただろう、他の医者に見せたり、別の病院に行ってみたり、方法は幾らでもあったのではなかろうか ? 沙知が亡くなってから彼の心の中に沸沸とわいてくる疑問と、後悔に似た感情がその後長く尾をひいている。亡くなったその頃はそれが運命だろうと諦めていた、然し妻が亡くなることが彼の人生に、これほどまで長く尾を引くものであるとは、亡くなったころには予測もできなかった。妻とは何だろうか、夫婦とは何なのか、元気でいる間は何もわからない、亡くなって始めてその連れ合いの偉大さに気づくのである。

旅の始まり

10年前、60歳になり始めて夫婦2人の新婚旅行に出かけた。九州の別府、阿蘇、九重、熊本、長崎、だった。それが始めてで最後の旅行となった。長崎は平戸の宿に泊まった。港の近くの宿だった。小さな宿だったが奥さんに親切にして頂いた。その宿の屋上にはシンボルとしての大きな鐘が設置されていた。
「長崎の鐘」を思い出した。
そう若いとは云えないが宿のお姉さんは、港町のこじんまりとした宿の1階に喫茶店を開いていた。
「何時かハチ高原にも来て下さい」そのお姉さんと話していた。歩いて少し下ると港が見えた。

 平戸の町は長崎に似ている、その昔オランダ商館が栄え貿易港として反映していた歴史がある港町である。
イエスキリストの隠れキリシタンの住んでいた町である。平戸の港から船に乗り、99島を通り佐世保市に上陸した。其処から電車で長崎に来た。長崎の町は平戸に似ている。雲仙の島原から天草に渡りタクシーで本渡市まで行き引き返した。熊本の駅前の宿に着いたときは7時を過ぎていた。駅前の宿、宿のおばさんは「遅い、遅い」と、待っていてくれた。
明くる日ここから豊肥本線に乗り、湯布院の宿に着いた。その明くる日、阿蘇久住の山並みハイウエーを通り、湯布院の町に帰ってきた。何処か「ほっと一息、」人々の心に安らぎを覚える湯布院、何処までも続く美しい山並みハイウエーであった。素晴らしい景観だった。

 沙知の妹が島根県に住んでいた。益田の町は静かな町だ、万福寺で雪舟庭園を見た。津和野に行き妹と別れた。娘が嫁いでいる岡山県の家に辿り着いたときは1週間過ぎていた。孫達と写真を撮った。
そのときは何時でもすぐ来れる、何時でも撮れると思っていた、沙知が岡山の娘の家に来たのは、娘が岡山に嫁に来てから始めてだった。始めて来た娘が嫁いでいる家、孫達と撮った写真、それが最後の写真だった。誰しもその時はいつでも来れると考えている、然し過ぎ去りし日は再び来ない。それが人生だと自分に言い聞かせる。沙知が始めてで、最後の旅行になるとは思っていなかった。孫たちも喜んだ、笠岡市の博覧会が開かれていた。沙知と娘や孫たちとの最後の別れになるとは考えてもいなかった。
「おばあちゃんまた来てね」
「さようなら」と別れた。
 
 葭原達の時代には新婚旅行はなかった。戦後の苦しい時代だった。漸くこれから世界の旅に出ようと考えるようになり、沙知は病に倒れた。手術してから2人は近くの温泉に度々泊まりに云った。温泉が手術後の体に一番良く効くと考えていた。城崎温泉小林屋旅館に行ったのが最後の小旅行であった。亡くなる8月の終わり頃であった。そのとき小林旅館で撮った写真が最後の写真となった。四国88か寺は沙知の最後を安らかに仏陀の世界に送ってくれた。少しも苦しまなかった、癌の最後は苦しむと言う、然し最後まで苦しまなかった。
自分の全快を最後まで信じていた。死ぬ1ヶ月ほど前に山を買った。沙知は「お父さん山を買ったら」と言った。
二人で綾部市まで山を見に行った。「1200万だったよ」病院の枕元で沙知に告げた。沙知は満足そうにうなづいていた。その山は今も成長を続けている。沙知はあの世に逝った、だが2人で築いた山は今も生きている、
人は死んでも山は残る。何時までも絶えることなく伸び続けて行くだろう。

 「山はその経済的価値よりも、人の心を豊かにします。山を買いなさい、木を植えなさい、山はその人に後光のような何とも云えない輝きを与えてくれます」大阪で木材会社を経営していた神鍋出身の安原さんの言葉であった。沙知は逝った、私もいつか逝くだろう、しかし私達が育てた山は成長し続けるだろう。
後世の人達の為に誰が所有するのか知れないが日本の資源として生き続けるだろう。
完。

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 小説 九州横断、山口島根の旅沙知と阪神大震災旅行記など多数

四国八十八ヶ寺高野山聖地巡礼

岩手旅行戦後すぐのころの水戸黄門の作品集多数あります。

     

  ぼちぼちいこか木村さんの学校のーらの田植え出石町鳥居の里暮らしの学校 農楽(の〜ら)立ち上げ奮戦記タマネギ畝立て開始木村尚子氏

但馬を映像で発信する会  代表木村尚子                             

3月25日号80歳誕生日に集大成の回想録『但馬に生きて』意志と情熱、「人生の先達」二人白鳥正夫

但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駈け巡る 藤原文男作。

 アメリカスキーの旅

シリアヨルダンレバノン

          

中央アジアシルクロードの旅

         私の見た世界の国々         

エジプトの旅研究。 世界四大文明への挑戦

イランの旅研究

アメリカの旅東海岸。ニューヨーク、ワシントン世界の国々の旅

中国密教、弘法大師空海の研究

index.htm へのリンク

7月1日    ふるさとづくり大学出石町永楽館。但馬倉10時30分久保田さんの車乗る。
7月15日ふるさとづくり大学。生野町。但馬倉車乗る。時間未てい。