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小説 九州横断、山口島根の旅沙知と阪神大震災
 九州横断、山口島根の旅

旅の始まり

 10年前、60歳になり始めて夫婦2人の新婚旅行に出かけた。九州の別府、阿蘇、九重、熊本、長崎、だった。それが始めてで最後の旅行となった。
長崎は平戸の宿に泊まった。港の近くの宿だった。小さな宿だったが奥さんに親切にして頂いた。その宿の屋上にはシンボルとしての大きな鐘が設置されていた。
「長崎の鐘」を思い出した。
そう若いとは云えないが宿のお姉さんは、港町のこじんまりとした宿の1階に喫茶店を開いていた。
「何時かハチ高原にも来て下さい」
そのお姉さんと話していた。歩いて少し下ると港が見えた。 平戸の町は長崎に似ている、その昔オランダ商館が栄え貿易港として反映していた歴史がある港町である。イエスキリストの隠れキリシタンの住んでいた町である。平戸の港から船に乗り、99島を通り佐世保市に上陸した。其処から電車で長崎に来た。長崎の町は平戸に似ている。雲仙の島原から天草に渡りタクシーで本渡市まで行き引き返した。熊本の駅前の宿に着いたときは7時を過ぎていた。
駅前の宿、宿のおばさんは「遅い、遅い」と、待っていてくれた。
明くる日ここから豊肥本線に乗り、湯布院の宿に着いた。その明くる日、阿蘇久住の山並みハイウエーを通り、湯布院の町に帰ってきた。
何処か「ほっと一息、」人々の心に安らぎを覚える湯布院、何処までも続く美しい山並みハイウエーであった。素晴らしい景観だった。
 

 九州横断、山口島根の旅

  平成十年四月二十八日ー三十日関宮町万久里五時出発予定、荷物を積みさあ出発しょうとしたら、車のキーが無いと言う、
「又か」年を取ると鈍になるな昨日から九州へ旅行するので車の掃除を
したと言う東垣さんは車のキーを捜しに家の中に入った。

  「車の中を探してみいや」「どうもない」と東垣さんが出て来たキーが無ければ仕方がない私の車で行くか、それにしても無いことは無いはずだ。

「有った有った」田淵やさんが後部座席の座蒲団の下から見つけた、年を取ると物忘れが確かになる昨年の岩手旅行を思い出した、東垣さんの息子がワゴン車の車のキーを積んで村岡町兎野高原まで行った

  運転免許証と障害者手帳も積んでいた、孫のピクニックの後を追いかけた。岩手県と反対の村岡町まで行った。私たちはお陰で、久しぶりに兎和野高原の空気を吸った。
村岡町婦人会の作った美味しい味噌汁をご馳走になった。

「又か」そう思った、半日遅れて岩手旅行に出発した。

  山陽自動車道を走っていた頃鞄のチャックを明けたら予備キーが出てきた。ご丁寧に前の晩予備キーを鞄に入れた。

忘れる程なら始めから入れなければいい、東垣さんも年をとったな、そういう自分も同類だ、田淵や、此花、竹下、藤原、万久里の東垣さん二人計六人、お互い物忘れの確かな老人がワゴン車東垣号で出発した。

車は予定通り瀬戸大橋八時頃着いた。

「少ない」「実に少ない」たまに一台車がすれ違う。

「こりゃあ葛畑の村中より車が少ないなあー」明石大橋開通の影響か、4月二十八日。四国に渡る人は殆ど淡路島鳴戸ルートを通っているのか、このぶんでは尾道今治ルートが完成したら瀬戸大橋など通る車は無くなるだろう。

  この間芸北国際スキー場の視察に行ったら、中国自動車道を走る車が極端に少なかった曲がりくねったカーブの多い谷ぞいの中国道は走りにくい、七塚原SAに入ったら客は私たちだけであった。

『暇で暇で仕方がない忙しければ時間が短いが、暇だと時間が長い、特に夕方になると車が来ない』

食堂の叔父さんがぼやいていた。

  ガードレールもワイヤーロープも擁壁や石垣にも、草や木が生え車が少なく整備も予算が回らず、中国自動車道の老朽化が目だっている加計インターに着いた。

メーターを計算すると山陽道の方がキロ数も短く時間も早く運転も楽でガソリンも少なくて済む、米子自動車道浜田自動車道も完成した、国道九号線も込み合う松江、安来、米子淀江町のバイパスが完成した然も無料である。  山陰の国道九号線を夜走れば高速道と変わらない然も無料である。中国自動車道はもういらない決して二度と走ってはいけない同じ事が瀬戸大橋にもいえる。

 大阪神戸以東の車は明石海峡大橋で松山自動車道を走るほうが岡山を回るより時間が早く金も安い

  日本の国は過大な公共投資で多額の国債を発行し世界一の借金国になったアメリカの勧めで公共投資四百三十兆円を四百六十兆円に増やした。

  パブル以後借金を拡大しても景気は一向に良くならない、そこで老人は一人でも多く各地の観光に出かけることが国の為である、老人が貯金せず各地に金を落とせば国内の景気は回復する筈である、然し日本の国内旅行は高く付く、高速道路が高い舟代が高い、だから日本の高速道路の料金をいっそのこと無料にすれば国内の老人旅行客は一気に活性化しトラックの流通経費もガソリン代と人件費だけとなる、従って生鮮食料品の価格も割安となる。

  日本国内の流通が良くなれば国内の景気は一気に回復し、消費は伸び生産物資も出回り内需拡大間違いない、私を内閣総理大臣にすればこの政策をただちに実行する、  要は今思い切った景気回復の手を打たないと日本は滅びる、人の通らない中国道の無料化瀬戸大橋の通行料の値下げは必要である。

  ではどの様な政策をとるか、身体障害者の方々にはガソリン代を半額にします、高速代を身体障害者並みの半額とする、六十五歳以上の老人には宿泊代を半額にします、「但し食事代は除く」割引する変わりに一グループ男女一室にします。

どうせ役に立たない男と女、虎の子の預金金利を引き下げ老人医療費を引き上げ、老人の旅行がた減り、高齢者宿泊割引制度を法制化する、登録した宿には老人割引による売り上げ収入について無税にする、この制度を施行すれば国は金を使わず国内の老人観光を活性化する。

食事代の割引はしないから、旅館業者も損はしない 売り上げが伸びれば全体としてプラスになる。

  私は民宿経営者のプロだからこんな算術朝飯前だかくして日本人口の二十%を占める老人人口の大移動が始まる、 老人が金を使わず貯金していても持って死ぬ訳でない、皆が金を使わないから不景気になる。「年よりは、旅行しましょう国のため」観光がこれから日本経済の牽引車となる。

      佐田岬から九州へ

   松山自動車道伊予インターを下りたら国道五十六号線を八幡浜市に向けて走った。

曲がりくねった道路だが車の台数が多い、大州市、宇和島市、足摺り岬の土佐清水市、中村市高速道路が今急ピッチで進められている。  今年度公共事業の前倒しと補正予算で工事が進んでいる八幡浜港に着いた。昼飯を食べビールを仕込み一時出港のフエリーに乗った船は運転しなくても良いので楽だった。船上で車座になり一杯のみながらの旅であるここから別府まで約三時間かかる佐田岬は四国の最西端である。

  数年前四国八十八カ所を廻ったが佐田岬にはこなかった。

この半島には高速が無いから中々来れない。  宇和島フエリー、千八百円の船代は高いが畳敷きの二等船室男も、女も雑魚寝の旅だ。伸び伸びと昼寝も出来るビールを飲み右手にゆっくりと佐田岬を見ながら船は順調に走っていた。

  天候も気分も最高である四時少し前別府に着いた、別府温泉は公衆浴場だけで百八十カ所ある、車は別府の中心街を走り湯布院に向かった。

急な坂道をどんどん登ると由布岳が見えた。『千五百八十四メートル』城が島高原の中程にあり美しい自然環境ここで休憩何枚かカメラを向けた。

  鶴見岳『千三百七十五M』は由布岳と仲良く並び美しい。その麓の美しいハイウエーを走ると、道路は大きくカーブしながら下っていった。

  由布院にはホテル旅館、ペンションなど約五十あり共同浴場も十二カ所ある独特の土産物やがありスーパーも町の中心に広い駐車場を持ち営業していた。

  数年前この湯布院に泊まった大きな屋敷の庭を歩いて平屋建ちの宿が十数戸建てられていた。真中に食堂があった草葺きの囲炉裏のある食堂だった温泉には露天風呂があり男女共用だが夫々少し離れた造りにした湯布岳の見える温泉だった。幸子と二人泊まった二間続きのゆったりした部屋には玄関も付いていた一泊八千円二食つきの宿だ。

牧場の家、TEL0977−84−2138番だった其処に電話したが部屋が十分取れなかった。

その翌日山並みハイウエーをバスで案内してもらった時歩いた石畳の『湯の平温泉』一度是非泊まって見たいと思っていた其処の宿を予約していた車は山路に入った。

私達はここから更に車を飛ばして、坂道を登り、九重連山に近い『湯の平温泉大正館』に宿をとった。

  九重連山の観光の途中、雛びた石畳の坂道の温泉『湯の平』に泊まって見たい私の永年の憧れの地であった。旅は人々の故郷を求める。安らぎの里を求める。

『国民宿舎大正館』TEL−0977−86−2006番二食付、七千円税込である。

湯の平温泉は狭い道路の川沿いに石畳の坂道が数百メートル続く、その両側に軒を連ねる様に小さな民宿や旅館が続く、土産物や小さなカラオケスナックもある。『ふうてんの虎さん』が泊まった宿である。その夜歩いていたらカラオケバーのお母ちゃんが店を開けてくれた。

『何処から来ました』お母ちゃんが云う、

『兵庫県の但馬城崎温泉の近くで氷の山ハチ高原と云うスキー場の有るところです』

  一曲二百円、ウイスキー一杯で但馬から来たお姉ちゃん達も久しぶりに青春を謳歌していた何歳になっても自分だけは若いと信じている。

         阿蘇の山並み

  朝八時出発した今日は二十九日天皇誕生日、宿を出て細い路を登っていると十一号線に出た。『やまなみハイウエー』無料となっている何処までも続く美しいハイウエー九重高原は信州の『美しが原高原』『車山高原、白樺湖を連想させる。

『九重ラベンダー園』『長者が原』牧の戸峠から、久住高原ロードパークを目指して走る。  熊本県に入っている。宮地で国道五十七号線と交差し、車は阿蘇山を目指す仙酔峡有料道路を登る。

『ねえちゃん一人で来たの』私は尋ねた北海道室蘭ナンバー、一台の車が阿蘇山東登山口駐車場に入ってきた。『これから何処え行きますか』『一人ですこれから熊本城水前寺公園から長崎へ行きます』

『それなら僕らと一緒ですな僕もその車に乗せて下さい』

『この車いっぱいで乗る所ありません』

中を覗くと所帯道具登山用具自転車蒲団、いっぱい積んでいる、今日は阿蘇山に登り車の中に寝るらしい北海道から来た娘さんはリュックを背負い登山靴を履いて私に道を尋ねた。  私は中岳の方へ登る道を教えた、私も始めてみる阿蘇の山知っているわけが無い然し大勢の登山客が登っている方へ行けば安全だ山は尾根を登れば安全だ。

多くの山に行った経験で始めての山でも見当がつく、『食料は持っていますか』私は更に尋ねた。

『お菓子を持っています』

『気をつけて登ってください午後は天候が崩れるから帰りはリフトの方で下りたほうが安全です』そう教えて上げた。 それにしても北海道から敦賀に船で渡り、国道九号線を米子から瀬戸大橋、佐田岬、そして阿蘇山へと一人旅夜は車の中に一人寝る『車の中は恐くない』

『もう慣れました』

  娘一人の自動車旅行大学生だろう、地図を頼り水と食べものさえあればトイレの有る駐車場なら何処でも寝れるそんな自由な旅を私もしてみたい。

  阿蘇の山から一時間も走ると熊本市に近づいた、郊外に向けて走る車の長い行列が続く水前寺公園に来た。

写真を取り池の回りを一周するともう仕事がない二回、三回も来ると新鮮味が無い何の変哲もない公園である。人口的なものはいくら金をかけても自然の美しさには及びもつかない、細川家三代にわたり築造された桃山式回遊庭園である、出水神社には細川歴代の藩主とガラシャ夫人を祀る水前寺清子は魅力があるここに祀るといい、大勢の参拝人が来るだろう。ガソリンスタンドに寄った島原に渡りたいと道を尋ねたら、熊本港からフエリーが出ていると言う。

二十五分の出港後十分しかない切符を買いやっと、熊本島原フエリーの船上の人となった。

      雲仙そして有田焼き

  島原港に上陸した、深江町はあまりにも有名だ今も火砕流の傷跡が残る五十七号線の高架橋が新設されていた。今度火砕流が発生してもこの道路は埋まらないだろう、交通が切断される事はない、然しそんなことが今世紀中に二度と起こる事は無いだろう。 雲仙温泉に出たここから雲仙岳ハイウエーを登ると雲仙岳がすぐそこにあった頂上から谷ぞいに噴火した火砕流が遙か下の深江町に流れ込んだと思われる。田や畑はまだ原野のままである草や木も生えない、人々の生活はどうなったであろうか川の両岸にはコンクリートの堰堤や擁壁が続きその川の上に、橋や道路が出来ている再び火砕流が出ても道路が通行出来るような対策であろうと思われる。

  雲仙温泉に一度泊まってみたい、もくもくと硫黄の煙が立ち上っている。

いい温泉だろうここも二回通るが一度も泊まった事が無い雲仙を通り諫早市からインターに乗った長崎自動車道が開通していた。

  武雄から長崎バイパスに乗り替えると波佐見有田から下りる一般道を通り有田の町に入った。瀬戸ものの町有田は活気に溢れていた、日本中でこんな活気のある町を見たことが無かった。

町の両側に迫り出した店、有田焼きのありとあらゆる品々が並ぶ壺、茶碗、湯飲み、茶器、花瓶、皿、どの店もどの店も多くの客が溢れている。数百メートル。いや数キロメートル、人、人、人、で溢れている。

車で進むのにひと苦労まるで昨年の秋訪れたネパールの町を車で走った時の様な、中国の天津や上海や西安の市場の様な人人人の群れであった。この人たち何処から来たのか老人、夫人、若者学生、家族連れ、娘連れありとあらゆる階層の人達が歩いている。下りて歩こうにも車を置く場所が無いとうとう有田焼き一つ買えなかった。

毎年今頃一週間位有田焼きの祭りが有るという、是非又行きたい町であった。

宿を探したが有田の町には宿が無かった仕方がない武雄温泉まで来た。

宿は適当な安いところが見つからない、ここまで来たら致し方無い、有田の町をもっと見たかった。

『花月』に泊まった『今日は今晩泊めて貰えますか』私は聞いた『どうぞ』ネクタイを締めた番頭が云う、

『女二人男四人二部屋出来ます、宿泊はいくらですか』宿を探すとき必ず宿代を聞く事は常識である。高ければ泊まらない、足下を見られてはいけない、宿賃を吹っかけられてはいけない、
『承知しました一万三千円です』

『そうですか一度皆さんに相談してきます』宿を取るとき決めるとき必ず一度相談して来ますと云う、これが宿を決めるときの常識である。

店で品ものを買っても値段を聞きその場ですぐ買ってはいけない、一度必ず皆さんに相談しますと云う、これが常識である民宿をやっていると旅慣れたお客は必ずそう言う、そして相談し再びお願いしますと来る。これが駆け引きと云うものである。  宿を予約するときは値段を値切ってはいけない値段を値切る客は最低の客である。

宿の人が値を出した最低価格の料金に予約することが肝心である千円位高い料金をだしても結局同じ扱いである。

  一流の日本式旅館であった我々風来坊の泊まる宿ではない本来宿屋とゆうところは寝て飯が食えればいい、いくら金を多く出しても一人で二人分寝れない、二人分の飯が食えない、幾ら良い部屋に寝ても、その部屋を持って帰る訳に行かない、宿に泊まる目的は明日の観光の為寝れたら良いのだだから私は、宿はなるだけ安い宿を探す、次に旨いものを食わす宿を探す、歴史のある宿を探すこれが宿を選ぶ場合の三原則にしている。

永年宿屋をやっていると裏側が全部わかる。  人間の心の落ち着く環境のある宿が一番大切である。

私は今日一日体調を壊していた、昨日から欲のみ食べすぎ騒ぎすぎていた。

今夜はもう騒がない温泉に入りビールと酒を飲みすぐ寝たさすがに疲れた。 当初の予定では熊本から九州自動車道鳥栖から長崎自動車道に乗り武雄に来る予定であった。予定を変更し船で長崎に渡ったため、有田に来るのが遅くなり武雄温泉に泊まった。ここに泊まってみると武雄温泉は九州地方では有名な温泉地であり有田焼きの産地を控え繁盛している。

夕方急に訪れた六人の風来坊の客を快く迎えてくれた。旅館『花月』の皆さんに感謝申し上げたい今度又、有田にいったら是非お世話になりたい。

政府登録旅館花月TEL−0954−22−3108番FAX−2120番武雄温泉

  宿を選ぶ場合海岸べりの民宿に泊まれば一万円出したら、食べ切れない位の料理を出してくれる。日本全国泊まり歩いた私たち、行き着きばったり佐賀県の武雄温泉に泊まった、泊まって良かった。

然し明日は関宮町まで帰らねばならない去年の岩手旅行の様な訳に行かない、750KM走らねば帰れない朝起きると新鮮な佐賀の空気を吸った。

帰るとき花月美人の奥さんが見送ってくれた気に入ったのでついでにシャッターを押してもらった。
宿は着いたときの出迎えも大切だが帰るときの見送りが一番印象に残る。

  ロンドンのホテルでも、ドイツやスイスやフランスのホテルも、旅人が帰るとき必ず見送る旅は出会いである、出会いとは別れを惜しむ事である、其処に人間の去り難い感情が残り生まれる。

金儲けだけの宿など味気ないものである人との出会いがあるから宿や商売は続くのである。 
 
ネパールのホテルには髭を長く生やした背の高い玄関番の叔父さんがいた、夜遅く外出から帰っても
『お帰りなさいナマステ』
と言ってくれた。帰るときその人と握手したその手に黙ってライターを上げた。

  見送ってくれた花月旅館の美人の奥さんがいつ迄も印象に残っている、たった一泊の宿だったが思い出に残る日本式旅館であった。

  武雄温泉からすぐに長崎自動車道があった。車を飛ばし北九州『めかりPA』で九州最後の休憩に入った北九州市門司港がその下にあった。向こうに下関市がある壇之浦砲台跡が見えた。

  私が下関を始めて訪れたのは昭和二十年の秋十一月だった戦争に破れた下関の町はほとんど爆撃されていた。映画館の映写機がそのままの姿で残されていた。長府の町は軍需工場が多く徹底的に爆撃された。あれから五十年の歳月が何時しか過ぎていた。下関駅の近くに住吉神社があるその近くの工場の敷地を造る仕事に出稼ぎに来ていた時々下関の町に遊びに出ていた。今私は整備された下関に見入っていた。

      雪舟庭園

  目の前に下関の町が見える。昭和二十年秋焼け跡の下関の街町は無惨な姿だった。

あれから五十年今復興した下関の町があった。映画館の映写機の残骸がそのまま残っていた。壇之浦砲台跡、魚市場、長府の町、長門一の宮の駅あたりは田圃ばかりの農村地帯であったが今下関の駅が出来ていると風の便りで聞いた。

  中国縦貫道小郡で下りて国道九号線山口市に着いた。山口県庁に入ったがザビエル記念館には行けなかった。瑠璃光寺は大内氏の菩提寺である五重塔は修理中であった漕洞宗の三大本山のひとつである雪舟庭園で有名な常栄寺も近くにあった。

画聖雪舟を大内氏が山口に招いた、ここで雪舟は数多くの名作を生んだ広い整備された庭園であった。

大内氏はこの山口を西の京都にしようと整備した。歴史のある落ち着いた町である大内氏は新興毛利に滅ぼされた。  毛利の長州藩は薩摩藩とともに明治維新を起こした。山県有朋、伊藤博文、木戸考允、吉田松陰を生んだ。

十二時を過ぎたもう少し足を伸ばそう阿東町に来た  その昔殺人事件のあった町だ静かな山村である、安定した大きな農家の家並みが続くその町を過ぎると、急な坂道となり野坂峠のトンネルを三本抜けると急に視界が開けてきた島根県津和野である。 人口七千五百人、津和野藩の中心地である。和紙が藩の財政を支えた時代もあった鯉と自転車が町の観光の名物である。

  益田市もその支配下にあった九号線から、広島に通ずる国道百九十一号線を少し走ると万福寺があった。

雪舟が造った庭園だが小さくまとまった庭園であった。雪舟の画も多く襖絵も見せてくれた。歴史ある仏像や仁王門の像が酷く傷んでいたのは気にかかる、益田市の教育委員会は何をしているのだろうか、文化行政に無知な市会議員はもっと眼を開ける必要が有る灯台元暗し一度見たら誰も見ようとしない。

私は益田市雪舟庭園を訪れたのはこれで二回めだ。多くの寺を見ている貴重な文化財の仏像も多く見た昨年六月古代出雲文化展が松江で開かれた、神々の遺産として県内の仏像が一堂に展示されていた。

これだけ貴重な文化財が一堂に集められることはもう無いだろう。六十体以上あったようにおもうそうした多くの仏像の拠出に同意された寺の協力に感謝したい、その計画をされ実行された島根県の関係者の皆さんに感謝申し上げます。そして又それを見学に行かせて戴いた但馬ふるさと大学の企画にも感謝致します。

  益田の町には妻の妹が住んでいる、 その母は病気になり痴呆症になった。女一人で母の介護は出来ず病院を転々としていたが、遂に逝った。最後の病院は山口市の近くだった。近くの火葬場で埋葬された、 長い放浪の旅であった、人、夫々の人生がある。最後に母は夫の元に帰ってきた。 その益田に来ていた何回か来た益田市だった。

  国道九号線を走った浜田市、江津市、温泉津温泉には数年前森林組合で来た事があった。雛びたいい湯の温泉だった。島根広島県境には西中国山地国定公園がある。匹見峡、三段峡を超えて妹婿の葬儀に行った事もある。  恐羅漢山はその中心の山だ、芸北国際スキー場はその代表的スキー場である。このスキー場に人工降雪機をセットするスキー場造成工事が行なわれていた此花君と度々見に来た。

  中国道を通り九号線で帰った、あるときは山陽自動車道を通って帰りは日本海を通って帰っていた。浜田自動車道から旭町で降りると旭テングストンスキー場が出来た、瑞穂ハイランドスキー場も出来た。中国道千代田インターから一時間かからずにスキー場に来る西中国のスキー場として大山以上の人気を呼んだ。太田市から三瓶温泉の三瓶山スキー場がある。其処にも何回か行った出雲から大社に参る。其処から更に比婆道後国定公園の仁多町や竹下元首相の故郷掛合町がある。

  『鬼の舌震』奥出雲ループ橋、『やまたの大蛇橋』として有名な比婆道後帝釈国定公園は中国道東城インターから斐川町に抜ける中国横断自動車道が予定されている。
  出雲市から鳥取県淀江町までバイパスが出来ている。帰りがけにこの辺で温泉に入りたいと思っていたら、  『日本三大美人湯』湯元『湯の川』がめについた。湯川温泉は斐川町にある。温泉だけでも入れてくれる。TEL−0853−72−0333番いい湯である。 私達が関宮町に帰ってきたのは十二時頃だったと思う。こんな旅行は二度と行けないだろう。この壮大な車の旅二泊三日で二千キロ近く走っている。運転者の皆さん、本当にご苦労様でした。歴史に残る四国、九州、山口、島根の旅を記録して後世に残しておきたいと、三日がかりでワープロを打ちました。又何時か、旅行する人達の参考になれば幸いです。
                    平成十年5月5日記    この稿藤原文男

1月17日「小説阪神大震災と佐知」
 阪神大震災から16]年を経過したのだろうか?1月17日の朝午前五時30分、グラグラと揺れた。私は飛び起きた。咄嗟に屋根に上がった。1m50Cm越す大雪だった。スコップで屋根の雪を落とした。ひと当たり屋根の垂木の端の雪を落とし終えた。ら、背中は汗でびっしり濡れていた。佐知も手伝いに上がってきた。もう一揺れきたら家が潰れる。雪を一わたり落として休憩した。ら、テレビは一斉に放送を始めていた。

 阪神、淡路方面に地震が起きたらしい。スキーに来ていた人たちのお客さんの家から、一斉に電話が殺到しだした。「家も電器もめちゃめちゃだ、早く帰れ」電話の向こうで親が喚いているのが聞こえてきた。大変な震災であることが次第に解ったのは夜が明けて、次第に震災の巨大さが判明してきた。私は直ぐ阪神間に出ている兄弟に電話した。堺の弟の家は大丈夫だった。その夜、神戸の姉と義兄がトラックでトタンを積みに来た。姉の家が潰れたらしい。咄嗟に私は、関宮町の相治金物店に電話で注文した。「波板100枚、釘と金鎚、屋根の下に敷くシートを注文した。神戸や阪神の店からテント、シート、波板トタンが消えていた。あくる日、18日朝、夜明けと共に私は神戸の姉の家に車を運転していった。神戸へ、神戸へ、車は175線、三木を過ぎ神戸近くになると渋滞していた。漸く姉の家に着いて。直ぐ屋根に上がった。屋根瓦を川原に捨てた。夕方漸く屋根の修理を終えた。
屋根から見たら神戸西区の家々の屋根は殆ど壊れていた。阪神大震災のあくる日、屋根の修理を終えたのは姉の家だけだった。

 佐知は胃痛を訴えていた。あの日、阪神大震災が来なかったら、1月17日八鹿病院に胃の検診に出る予定だった。が、震災は佐知の検診をのびのびにした。あの震災が無かったら、佐知のガンの予知はもっと早く出来ていただろう。早期診断と検診が出来ていたらと悔やまれる。それが運命だったろう。あれから16年の歳月が経過している。歴史は後戻りは出着ない。前に進むしかない。が、私は後悔していない。佐知は逝った。議会では議長に立候補し当選。佐知の願いを適えた。

 佐知の死後、私は世界の旅を終えた。弘法大師空海の旅も、高野山大学院の学習も、「但馬に生きて」の著作の発表と配布、兵庫県知事さん以下、但馬の殆どの市町、公民館、有識者に私の著書は行き渡りました。世界の旅も終えました。多くの仲間のご支援を得て本の出版が出来ました。私を支えてくれた家族と子供達には、随分迷惑かけました。私の誕生日、昨年の2月24日はもうすぐ来ます。一年を経過しようとしています。「但馬を映像で発信する会」の皆様には随分お世話様になりました。私を支持してくださいました「但馬に生きるロマンの会」会長田淵兼光君、前関宮町長栃下善幸様。但馬文教府の皆様、但馬ふるさとづくり大学、但馬史研究会、但馬県民局勤務の皆様、夢テーブルの皆様、但馬の各議会議員の皆様。八光会、養父市森林組合OB会、関宮町議会OB会の皆様。但馬開発推進会議同友会の皆様、ご一緒に登山しました多くの仲間の皆さん。有難う御座いました。本の編集に積極的に取り組んでいただいた、宮崎裕子さん、木下道野さん、木村尚子さん、富田さん、稲葉さん、笠浪さん、谷垣さん、久保さん、牧野さん、広瀬市長さん、大田さん、川嶋さん、田淵君、世良さん、中田さん、そしておいそがしい中ご寄稿くださいました、村上忠孝さん、そして、本出版の動機とアドバイスいただきました豊岡市、株キャメル会長大田伸吾さま。北星社の多くの皆様に感謝申し上げまして意をつくしませんが、お礼のご挨拶に代えさせていただきます。有難うございました。

また、本の配布と販売にご配意いただきました但馬の書店の皆様。有難う御座いました。阪神間にでていられます姫路、神戸、大阪、京都、但馬会の皆様、ふるさと熊次村出身の熊次会の皆様、有難うございました。尚、今後とも皆様が読了しました本は、皆様の友人知人、親戚、嗣子、孫の代まで読み継がれますことを願いながら、私の本「但馬に生きて、遥かなるロマンを求め駈け巡る」出版終了のご挨拶に代えさせていただきます。有難うございました。

養父市奈良尾130  草谷山荘  藤原文男  2011年1月24日

小説 沙知と阪神大震災

 その年はまれに見る大雪だった。年末年始順調なスキーの滑りだしだった。
雪は少なかったとはいえ正月のスキー客はほぼ満員だった。今年は良い冬になるだろうと思っていた。
「もう朝かなー」そう思って寝ていたときだった。突然グラグラと揺れた。「地震だ」飛び起きた。
すぐ屋根に上がった。屋根の雪は150センチメートル以上も積もっていた。
葭原は屋根の雪降ろしを始めた。もう一揺れきたら家が潰れる。木造の古い建物の民宿。
屋根の面積は1反歩くらいあるだろう、まだ薄暗い、スコップで雪降ろしを始めていると妻の沙知が手伝いに上がってきた。
妻は町の健康診断には一度も行かなかった。元来元気で働いていた、
「一度病院に行こう」といっていた、
胃が痛いのを我慢して雪降ろしに上がっていた。家の屋根のタルキの端を一渡り降ろした。
早朝暗かった夜が次第に明るくなってきた。背中をびっしりと汗が流れている。
屋根の雪はまだまだ沢山あるがタルキの端の雪を下ろせば重量は相当軽くなる。
雪を下ろしている間地震のことは忘れていた。

午前7時を過ぎ朝食を食べた頃から、漸くテレビが放送を始めた。神戸や尼崎あたりで大きな地震が起きたらしい、テレビは一斉に放送を始めていた。地震の規模が次第に大きく拡大されてきた。

兵庫県スキー連盟の準指導員検定会がこの間から氷の山國際スキー場で開かれていた。タイモスキークラブの彼女は家に電話していた。「大変だ、電器も家具もメチャメチャだ、早く帰れ」電話の向こうで家族の叫ぶ声が聞こえてくる、神戸からきた彼女はそれでも検定会に滑りにいった。夕方検定会から帰ってきた彼女は準指導員に合格していた。早く帰った人達は棄権であった。彼女の胸の内は複雑だった。朝、急いで家に帰っても家は潰れている。どうせ潰れているなら検定会を受けたほうが良いのかもしれない、一度取得した資格は一生自分のものだ。合格した嬉しさと、帰ったら家が潰れているそう思っただけで気分が重い、然し合格したのだ、自分の胸に何回も何回も言い聞かせながら、重い足取りで神戸の自宅に帰っていった。
まだこの地震が大変な震災だとの認識はなかった。
妻は胃痛を訴えていた、時々、診療所から薬を貰って飲んでいたが回復の兆しはみえなかった。
一度病院に出よう、その日病院に出る予定だった。然し地震とその後次第に明らかになってくる震災の模様で遂に病院に出る機会を失っていた。

大震災と病気

 阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、
生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。
葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。
医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。

事故

 葭原は風邪を引いていた。風邪薬を飲み病院から車を運転し家に帰る途中だった。
「そうかとうとうくるべきものがきたな,」
嫌な予感だった。彼の予感はよく働く、車を運転していると眠くなってきた。
東宮の村を過ぎ、四誌伊の村に差し掛かっていた。うとうととしていた。良い気持ちだった。
山の電気を過ぎた頃だったろうか、天国に行ったような気分だった。突然「だっだっだっだー」と、音がした。
急ブレーキは勿論踏んでいたが物置の家に激突し停止した。タイヤが溝川の上を片車輪で走っていた。
はっと我に返った。誰かが何処かに電話していた。暫くしてレッカー車がやってきた。車は腹部をこすり駄目になっていた。葭原は自分では元気だと思っていた。然し余程のショックだったのだろう。

 妻が癌だ。何時から罹ったのだろうか、医者は切れば治ると言う、然しそんなことがあるのだろうか、彼は自分ではしっかりしたつもりで車を運転していた。車が一台駄目になった。然し彼の体は無事だった。良い気持ちだった。事故をする前、天国のような何とも言えない良い気持ちだった。不幸が不幸を呼ぶ、然し彼はその不幸から逃れることが出来た。お陰で車が新車になった。沙知はまだ決心しかねていたが入院することにした。
ポリープだと言う、多くの友達もポリープの手術をしている。その病気に対する知識は皆無だった。
胃痛を一度も経験したことの無い葭原、もっと病気の本を読んでおけば良かった。

 手術の結果胃は全部摘出した。その背後にある膵臓も半分くらい切った。すでにもう転移していたのか医者は「出来る限りの事はしました。」といった。
会議中彼は毎日病院から通勤した。必ず治ると確信していた。あれほど元気だった沙知、死ぬなど予想もしなかった。「切らねば良かった」その思いは今も残る。
あの震災の朝、葭原は神戸の姉の家に電話した。
「屋根の瓦がずり落ちて、壁がひび割れ家具が壊れた。家の中がメチャメチャだ」と言う。
神戸の名谷近くの弟の家は山を削り基礎工事の確りした基盤の上に建っていたから大丈夫だった。
彼は咄嗟に金物屋に電話した。「波板100枚、金槌と釘」を注文した。地震が来ると途端にテントが店頭から姿を消した。一斉に人々がテントを求めて殺到した。テントの値段が暴騰した。続いてトタンと釘が神戸近くの店頭から姿を消した。漸く震災の全貌が次第に明らかになってきた、その夜姉達夫婦がトラックでトタンを積みにやってきた。

 葭原は翌1月18日早朝、神戸に向けて出発した。高速道路は全滅だった。遠坂トンネルを抜けると国道175号線を一路神戸に向かった。三木市に入った頃から渋滞が続き出した。長いトラックの列が神戸へ神戸えと続いていた。漸く西区の家に辿り着いた頃夜が明けていた。家に着くと直ちに屋根に登った。
「瓦を全部落とせ」「瓦は川原に捨てよ」非常事態なのだ。「土木事務所が叱る」「叱られたって仕方が無い」
こんなときは田舎の貧乏で育った者は強い。即座に決断する。瓦を全部地面に下ろし近くの川原に捨てた。
波板トタンを釘で打ち付け夕方までに全ての修理が終わった。近くの人達が集まってきた。
昨日の朝震災が起きた、その翌日屋根の修理が完成した家は神戸西区の近くには無かった。
葭原は家の増築を毎年やっていたから屋根の修理の段取りは全部わかっていた。

 屋根の上から西区の家々を眺めた。どの家も下から眺めると解らなかったが、殆どの家の瓦がずり落ちていた。大変な地震だった。その年震災以後、スキーヤーはスキー場から完全に姿をけした。広島から来る人たちまでキャンセルしてきた。2月になり3月になり、漸く客足が回復した頃には雪が消えた。「家は潰れたけど一度スキーをしないと雪が消えたらスキーが出来ない」そう言いながら若者たちはスキーにやってきた。その年を境にスキー場は日帰りスキー場となり、未だに民宿の客足は回復しないまま不況の時代になった。阪神大震災の被害者は阪神間だけでなく周辺のスキー場にも甚大な打撃であった。その震災のため沙知は検診の機会を逃していた。

 阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。

 一度良くなりこの分では全快するのかと思っていた沙知の病状は、回復の見込み少なくなり、時々病院に出ていた。7月の夏休みに入ると林間学校が訪れて来た。林間学校が始まると沙知は病気を押しのけ食事の手伝いを始めた。幾ら仕事をしないよう注意しても起きてきて手伝った。仕事は何時も手馴れている。そんなに苦しい仕事でもない。それが悪かったのだろうか、9月になった。病院に検査に出たレントゲン検査の結果は沙知の命は後1ヶ月だと言われた。もうなにを言われても驚かなかった。人間そうなれば案外腹が据わるものである。
1日1日その日が近づいても沙知が死ぬとは思わなかった。その頃、内山が「布実さん、山を買わんか」と、話しを持ちかけてきた。「お父さん買おう、山を買おう」沙知がそう言った。
彼は沙知をつれて綾部の山奥までその山を見に行った。「買ったよ、」1200万円だった。沙知の命は後1ヶ月だった。沙知は満足そうにうなづいた。沙知の冥土の土産だった。彼は「良かったな」と思った。

 平成7年10月12日朝5時30分、四国88箇所参りの車は、東宮町を出発した。
藪下、下田、下垣、歳下、布実、池田の6名のメンバーは遂に最後の88カ寺の寺参りを完結するために出発した。1週間後に妻沙知の死を迎えるなど考えても見なかった。医者に宣告は受けていても人は良い方に解釈する。何時か死ぬだろう、然し何時死ぬのか、否、何時までも死なぬだろう、そう思っていた。

 沙知の残された命は後1週間の予命だった。もう後戻りは出来ない、医者に宣告されていた。
病院で医者に宣告されたその明くる日、四国88カ寺の旅に出発した。「どうか最後まで苦しみませんように」
88カ寺の最後の完結寺が私の妻の最後の完結寺になろうとは、何の為にお寺参りをしたのだろうか、然し後悔はしていなかった。今も私の家の仏壇に供えている。「四国88ヶ所巡拝結願お守」
「四国88番大窪寺」このお守りを頂いた。人は心の安心を得るために神や仏に参る、別段なんの宗教も信じてはいない、然し寺や神社にお参りすると、安らかな心になる。なぜだろうか、明日のことは解らない、その明日を求めて参った。その日、87番長尾寺、86番志度寺、85番八栗寺に参った。八栗寺から84番屋島寺へ、屋島ドライブウエーで山上に登った。瀬戸内海が一望出きる景勝の地にあった。
手術をしたら何処かの施設にいれ、家の仕事など見せない方が良い、そう言ってくれる友人もいた、しかし何処にも行かずに家にいた。それが悪かったのか、もう転移していたのか解らない、それだけの運命であったと諦めることである。手術しなければそんな痛い目に遭わずに済んだであろう。
もう少し長生きできたであろう。癌とは現代の医学で克服することが出来ない難病である。
彼のお寺参りはそうした妻の全快と、例え死ぬしかないとしても、せめて苦しまずに死んで欲しいと願っていた。どの寺に参っても沙知の全快を祈っていた。山上からの眺めは素晴らしかった、しばし現実の世界を忘れていた。目で眺めながら沙知の病院での姿を思い出していた。

仏陀の世界

 病院の沙知の枕元に「四国88ヶ寺結願お守り」を置いた。「安らかに眠れ私の妻沙知」10月14日、彼は病院に帰ってきた。妻の顔を見れば心が休まる、後数日の命だとわかっていても心は平成であった。         「あーもうあかん」 それが沙知の最後の言葉だった。沙知は最後の最後まで自分の病気の全快を信じていた。最後の最後まで自分を手術してくれた医者を信じていた。
 最後の日、「モルヒネ」を飲んだ。医者の薬を全快すると信じて飲んだ。そして最後安らかに眠った。
人間の最後は必然である。いつか必ずその日がやってくる、幾ら努力しても祈っても死は必ずやってくる、沙知は逝った。彼は悲しいとは思わなかった。死が実感として感じて来るのにはある程度時間が必要なのだろう。
当然その日がやってくることに次第に慣らされていたのだろうか、医者はその人の能力で出来える限りの努力をしてくれた。医者を恨んだりはしない、沙知はその医者を最後の最後まで信じていた。必ず癌を克服することを信じ、医者を信じていた。然し私の心は納得できないと彼は自分の心の中を分析していた。あの時、癌の告知を受けたとき、咄嗟に「手術して下さい」と、何故あの時彼は独断で決めたのだろうか ? 。
もう少し周囲の人達の、いや、沙知の気持ちをじっくりと聞かなかったのだろうか?、
手術しなかったらあれだけ急速に体力が弱りはしなかっただろう、他の医者に見せたり、別の病院に行ってみたり、方法は幾らでもあったのではなかろうか ? 沙知が亡くなってから彼の心の中に沸沸とわいてくる疑問と、後悔に似た感情がその後長く尾をひいている。亡くなったその頃はそれが運命だろうと諦めていた、然し妻が亡くなることが彼の人生に、これほどまで長く尾を引くものであるとは、亡くなったころには予測もできなかった。妻とは何だろうか、夫婦とは何なのか、元気でいる間は何もわからない、亡くなって始めてその連れ合いの偉大さに気づくのである。

旅の始まり

10年前、60歳になり始めて夫婦2人の新婚旅行に出かけた。九州の別府、阿蘇、九重、熊本、長崎、だった。それが始めてで最後の旅行となった。長崎は平戸の宿に泊まった。港の近くの宿だった。小さな宿だったが奥さんに親切にして頂いた。その宿の屋上にはシンボルとしての大きな鐘が設置されていた。
「長崎の鐘」を思い出した。
そう若いとは云えないが宿のお姉さんは、港町のこじんまりとした宿の1階に喫茶店を開いていた。
「何時かハチ高原にも来て下さい」そのお姉さんと話していた。歩いて少し下ると港が見えた。

 平戸の町は長崎に似ている、その昔オランダ商館が栄え貿易港として反映していた歴史がある港町である。
イエスキリストの隠れキリシタンの住んでいた町である。平戸の港から船に乗り、99島を通り佐世保市に上陸した。其処から電車で長崎に来た。長崎の町は平戸に似ている。雲仙の島原から天草に渡りタクシーで本渡市まで行き引き返した。熊本の駅前の宿に着いたときは7時を過ぎていた。駅前の宿、宿のおばさんは「遅い、遅い」と、待っていてくれた。
明くる日ここから豊肥本線に乗り、湯布院の宿に着いた。その明くる日、阿蘇久住の山並みハイウエーを通り、湯布院の町に帰ってきた。何処か「ほっと一息、」人々の心に安らぎを覚える湯布院、何処までも続く美しい山並みハイウエーであった。素晴らしい景観だった。

 沙知の妹が島根県に住んでいた。益田の町は静かな町だ、万福寺で雪舟庭園を見た。津和野に行き妹と別れた。娘が嫁いでいる岡山県の家に辿り着いたときは1週間過ぎていた。孫達と写真を撮った。
そのときは何時でもすぐ来れる、何時でも撮れると思っていた、沙知が岡山の娘の家に来たのは、娘が岡山に嫁に来てから始めてだった。始めて来た娘が嫁いでいる家、孫達と撮った写真、それが最後の写真だった。誰しもその時はいつでも来れると考えている、然し過ぎ去りし日は再び来ない。それが人生だと自分に言い聞かせる。沙知が始めてで、最後の旅行になるとは思っていなかった。孫たちも喜んだ、笠岡市の博覧会が開かれていた。沙知と娘や孫たちとの最後の別れになるとは考えてもいなかった。
「おばあちゃんまた来てね」
「さようなら」と別れた。
 
 葭原達の時代には新婚旅行はなかった。戦後の苦しい時代だった。漸くこれから世界の旅に出ようと考えるようになり、沙知は病に倒れた。手術してから2人は近くの温泉に度々泊まりに云った。温泉が手術後の体に一番良く効くと考えていた。城崎温泉小林屋旅館に行ったのが最後の小旅行であった。亡くなる8月の終わり頃であった。そのとき小林旅館で撮った写真が最後の写真となった。四国88か寺は沙知の最後を安らかに仏陀の世界に送ってくれた。少しも苦しまなかった、癌の最後は苦しむと言う、然し最後まで苦しまなかった。
自分の全快を最後まで信じていた。死ぬ1ヶ月ほど前に山を買った。沙知は「お父さん山を買ったら」と言った。
二人で綾部市まで山を見に行った。「1200万だったよ」病院の枕元で沙知に告げた。沙知は満足そうにうなづいていた。その山は今も成長を続けている。沙知はあの世に逝った、だが2人で築いた山は今も生きている、
人は死んでも山は残る。何時までも絶えることなく伸び続けて行くだろう。

 「山はその経済的価値よりも、人の心を豊かにします。山を買いなさい、木を植えなさい、山はその人に後光のような何とも云えない輝きを与えてくれます」大阪で木材会社を経営していた神鍋出身の安原さんの言葉であった。沙知は逝った、私もいつか逝くだろう、しかし私達が育てた山は成長し続けるだろう。
後世の人達の為に誰が所有するのか知れないが日本の資源として生き続けるだろう。
完。

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