岩手旅行平成九年秋作藤原文男
| 小説初夢 千九百五十二年元旦記 | 。 | 小説活弁やと村芝居 |
| 都会の片隅で | 小説沙知と阪神大震災 | 小説 九州横断、山口島根の旅 |
| 小説ある葬儀式 | 岩手旅行 平成九年秋作藤原文男 | 私の中国研究の旅。シルクロードの旅。 |
『岩手に行こう』
この花君が言い出したのは、夏の終わりの頃だった。
美原は六月にヨーロツパに行って来た十二日間の旅であった。 六月に九州は鹿児島まで行って来た八月には富士山に登った。それまでの間島根県に二回位、鳥取や浜坂や香住豊岡くらい何回も行っている三月の終わりから四月の初め三日がかりで能登半島を回ってきた。その頃小豆島から岡山を通って帰って来た。
町議選の頃には大阪の弟達を乗せて、高野山から龍神スカイラインを通り、本宮熊野大社に参り熊野三山那智の滝から、勝浦一泊、串本白浜を経て堺に帰って来た、議会を止めてから日本の国々を回った。
それが又東北まで行くとは幾らなんでもと思った。日が近づくに連れて行ってみようか,そんな気持ちになりつい「兼ねてる流」の話しに乗ってしまった。
花泉町は宮城県境に近い東北自動車道若柳金成インター下車,岩手県平泉の近くにある田舎町である。 其処に小野寺と云う若い男がいる、ハチ高原にアルバイトに来ていたと云う縁もゆかりも無いその男に頼まれたから外車を一台彼の所にもって行きたいと云う、最初は行く気はなかった。 十一月中旬にはネパールに行く、だから為るだけ遠出はしたくない、出ていけば金も要る,日にちも遊ぶ仕事が出来ぬ、兼ねてる流に乗っているといつ何が始まるか諮らぬだから皆この男を警戒する。
そう思いながら不覚にもその話に乗ってしまった。
兎和野高原の青い空
出発の朝、万久里の十餓鬼さん宅に行くと、 『困った事になった。』と如何にも困った様子でしおれている。
『息子が孫をつれて遠足に行った』
と云うそりゃあ良いことだと思うが
『困った』
とまた云う、
『何が困る早く行こう』
美原は急き立てた昨夜から車に免許証と身体障害者手帳を乗せていたら、そのまま息子が車に乗って兎和野に行ってしまった。孫の遠足に息子達が家内中で車に乗り出かけていた。
『鈍げな奴だな』
そう思ったが後の祭りだ。
『仕方ない行こうか』 『おい予備のキーは有るだろうな』
この花が言う、十餓鬼さんはキーを捜しに家に入った。
『年が寄ると鈍くさいな』
美原はそう思ったが口に出せない 『オンボロ外車』は岩手県とは全く反対の村岡町兎和野高原へ向かって走り出した。 関宮を通りトンネルを抜けると村岡町になるハンドルを左に切りぐんぐんと山に登る。 やっと兎和野に着いた、ピクニックはもう出発した後だった駐車場で車を探したらそれらしい車があった。車はあったがキーが合わないと云う、
『鈍な奴だな』
年を取ると鈍になる、家にあるキーを皆持ってくればいいんだ、キーが合わなければ息子を探すより手は無い。 ピクニックに行った息子や孫の後をキーを貰いに十餓鬼さんは瀞川山に登っていった。
氷の山紅葉登山大会の当日だった。
美原達は地元を離れ岩手県へ出発の筈だった兎和野高原の広場でごろりと横になった。
この花、美原二人の男は久しぶりに空を眺めた。
青い空、雲が流れる十月十九日空は快晴、美原は議会に出てから、そして辞めてからも、こんなにゆっくり空を眺めたことは始めてであった。
『辞めてよかった』
つくづくとそう思った東宮町議会議員四期十六年、一日として心の休まる日は無かった。 何かが痞えている胃のあたりか、喉の下あたりに何かが痞えている、辞めたいと何回も考えた然し応援してくれた人達の事を考えると、自分一人の意志での行動は出来ない、選挙が近づくと妙にもぞもぞとした気分になる。これが『議員病』である。
『もう辞めよう、もう辞めよう』と思いながらついつい四回の選挙をやった。こうした胃の痞えが周囲への気配りが妻を死に追いやった十餓鬼さんも妻を死なせた、議会に出ていなければ死ななかっただろう。その十餓鬼さんは車のキーを求めて息子を捜しに行っている。
『遅い、それにしても何をしているのか糞爺は』
美原はそう思いながら流れる雲を見つめていた、何時しか深い眠りに陥っていた。
『腹が減ったなアー』
声が聞こえる、二人の男は同時に起き上がった、気がついたら昼前になっていた。
兎和野高原の広場には、ハイキングした子供達が集まってきた。帰ってきた人から地元の婦人会が味噌汁を出していた。 十餓鬼さんの孫達は一番最後に帰ってきた。十餓鬼さんはキーを求めて瀞川山のてっぺんまで登って来たようだった。 一寸した不注意がとんでもない事になった。 美原達も味噌汁をご馳走になった美味しかった。
もう十餓鬼さんを怒る気持ちは消えていた、そして午後一時漸く東北旅行の『オンボロ外車』の旅が始まった。
おんぼろ外車
車は漸く兎和野高原を出発した良い天気だった。もう諦めて家に帰れば良かった、八鹿、和田山、福知山を通っている、車はあまり走らない、左ハンドルのポンコツ外車だった、福知山から百七十五号線を走っていた。
『これは失敗だ』と、
気がついた時は後の祭りだった、私達の乗ったおんぼろ外車は舞鶴の町に入っていた。 西舞鶴から、東舞鶴に抜ける坂道辺りから、どうも車の調子がおかしくなってきた。
『東北まで行くんだ車の整備はしたんだろうな』
この花君に確認した。
『自動車屋を頼んで見てもらっ たから大丈夫だ』
何回聞いてもこの花君は答えた、それにしてもどうもこの車はおかしい、舞鶴の港の近くまで来たらとうとう車が動かなくなってしまった。おんぼろの左ハンドルの外車、外車だと云うから大きな若者が乗る外車を想像していた。 だから東北旅行もその気になり、今朝私の家の前で 『ビッビッビーー』
と音がするから手荷物を持ち外に出てみると、軽トラックの親方位の車が待っていた。小さい狭い三人位がやっと乗れる車だ。
『おいっ、車はどうした』
美原は聞いたまさかこの車ではなかろうそう思いながら聞いた。
『車はこれだ』と云う、こんな小さな車で行くのか、と思ったが仕方がない、美原が運転する訳ではない、行けるところまで行って駄目になったら乗り捨てて帰って来たらいい美原はすぐ肚を決めた。どうせ一度の人生だ、行き着きばったりどこで死んでも欲しいことのない人間ばかり乗っているのだ。
十餓鬼、この花、美原3人が死んだら、『日本の年金会計』に少しでもプラスになる。それにしても東宮町の煩い三人衆が居なくなっただけでも社会改革が早く進む、そう考えたら気持ちが落ち着き生々して来た、とその時、道端に寄せた車の向こうに水道の蛇口が見えてきた。 オーバーヒートらしい、この花は車を整備したと云っていたが、何のことはない初めからラジエーターに水が入っていなかったのだ。
『ようここまで来たな』と思った。 水道から水を入れようとしたが水を汲むものが無い、その辺りを探したら小さな空き瓶が一個見つかった。その小さな空き瓶で十回以上水汲みをしてヒーターに水を入れた。 一杯入れるごとにすごい蒸気が発生した何回も水を汲み入れたのでお陰でラジエーターが壊れずに済んだ。
『神様のお陰だ』
この花が云う、私は
『神の罰が当たった』
と思う、十餓鬼さんは、
『まんが悪い』
と云う三人三様の思いを抱きながら
『もう帰ろう』
とこの花が云う、美原は折角ここまで来たのだから帰りたくなかった。
『この辺りで宿を探して泊まろう』
衆議一決、近くのガソリンスタンドで宿を尋ねた。
舞鶴のホテル
舞鶴の港にちかいホテルに入った、美人の姉さんに満員ですと断られた。
風体を見て断ったのかこの姉さん、みかけは貧相でも懐の中は大金を持っているのを知らないのだなと、ブツブツ言いながらまた次の宿を探した。
海岸の堤防の道を歩いていたら、漸く一軒のホテルが見えた、海の見えるビジネスホテルに泊まった。
大きな船が入っていた港の向こうに岬が見える、受付には年配の男が三人立っていた。
夕食は出ない、こんなホテルの受付に三人も大の男がいる、ホテルの経営どうなっているのか、受付なんか女の子一人おいとけば十分間に合う、これで経営が成り立つのかな、宿の経営専門の美原達、他所のホテルの経営まで心配する。すぐそんなことに目が行く、悪い癖だとそう思う、夕食が出なければ幸いだ、安く泊まれる、そんなことすぐ計算する市場で買ってきて宿で食べれば良い。仕方がないぷらぷら歩いて近くの市場に買出しにいった。ビールと酒さえ有れば天下泰平、舞鶴の海は静かだった、ホテルの部屋で焼酎のお湯割りを飲んだ、竹輪と魚を店で切ってもらう、刺身は出来た。 揚げ物と醤油、箸を貰い、市場で三千円も買うと結構ご馳走だ安上がりだ晩飯を入れて七千五百円位で泊まれる。 一杯飲めば気は大きくなる別段岩手など行けなくても誰も苦にしていない、行ければよし、行けなければ明日は寺参りでもしょうか、そんな話をしながら夜が更けた。 夜の港には大きな船が停泊していた、海上自衛隊の軍艦だろうか、遠くに半島が見える。車の事は気になるがその夜はよく眠れた。 岩手旅行の第一日は舞鶴の港で暮た明くる朝、
『さあもう帰ろうか』
昨日はいろんなことがあった。由良川を渡り由良浜に出て、栗田湾を北近畿タンゴ鉄道ぞいに走るとトンネルがあったトンネルを過ぎると宮津港が見えてきた。
天橋立はあまりにも有名な観光地だが何回も来ている。駐車場に入ったが別段何をするあてもないのでまた走り出した。ついでに書いて置くが去年平成十一年此を訪れた不況の波は天橋立にも深刻に訪れていた。食堂に入る人はいない客の取り合いであった。橋立て付近人影は疎らであった。
金下建設の内容
宮津トンネルを抜けると須津の町である。
『此まで来たんだ成相さんに参ろう』
車は宮津の町外れまで来ていた舞鶴から帰りかけて美原は『金下建設』に寄ってみたくなった。 日本経済は今公共投資抑制の時代に入り、大手の建設会社はバブル以後不良債権が経営を圧迫し、今年夏以降の金融不安が建設株を直撃し暴落に暴落を重ねている。株価の下落が会社決算で企業会計を圧迫しその為、赤字が更に増えている。
今銀行と土建屋は苦境に立たされている受付で名刺を出した、暫くして会計課長が出て来た。
『我が社の経営は大丈夫です社長が非常に固い経営をやっています』
然し総株数の十%しか社長は株式を保有していない。後は全部売却し二部に上場した。 大株主は殆ど銀行である株価もどんどん値下がりしている金下建設の内容は非常に良い方だ借入金は無い、十億の資本金で百三十億の預金が有る、内容は極めて良い方だ株価が下がるのは何故なのか、 株は事業に先行した予測をする市場経済は時代を予測する、その本当の事は当事者にも分からない不良債権は無いか、株式を大量に抱えていないか、本当はどうなのか。 総会屋の様な格好をしたふたりの紳士、美原とこの花が金下建設の応接室に入った事業内容を聞いた。
『手前どもの商売は、仕事有ってナンボの商売です』
会計課長が答えた。明日仕事が無くなったら会社は直ぐに倒産する、日本の大手の土建やは、危ない橋を渡っている公共投資が減ったら赤字転落するだろう、だから株に投資せず、土地を買わず、ひたすら預金積み金を増やした金下建設の経営者は、いかなる不況にも耐える経営ができるのだろう、金下は韓国人だが固い経営者だ。この会社は必ず発展するだろう美原はそう思う、 京都府北部で一番の堅実経営の中堅企業の金下建設を出た。
『ありがとうございましたまた株主総会にはお越しください』
課長は丁重な挨拶をした。
お寺参り成相山「西国二十九番」札所
天橋立を通り過ぎると海の向こうに成相山が有る、西国三十三箇寺の二十九番札所として有名な寺である。若い時は寺に参るなど考えた事も無かったが、四国八十八箇寺も全部お参りした。 最後に参ったのは、八十八番札所大窪寺だった。 完結寺だと云う、妻が最後の一週間前にお参りを終わった死の直前余り苦しまなかった。
「モルヒネ」の効果で有ったのかそれは一生懸命お祈りして回った仏のお陰だと信じている、それが自己満足であってもそれで良いのだろう、自己満足それが信仰なのだ、神や仏はこの世にはない無いものを拝む、拝んで自己満足する、それが人間の弱点である、 その弱点につけ込み宗教は栄えている、多くの金を儲けている。成相さんもよく流行っていた。 リフトで山上駅を出るとかなり歩いた、意外と若い人たちも多い私はどこへいっても先ず自分の家族と健康を祈る。
『我借所造諸悪業、皆由無始貪じん癡、従身語意之所生、一切我今皆懴げ』
小豆島八十八箇寺、淡路島七福神、播磨美作七福神、岡山県神島の八十八箇寺など、ここ二、三年の間に随分回った丈夫な間に見て廻ることだ、動けなくなったら思い出だけが残るだろう。 成相山は立派な寺だよう儲けている。 大本教のこの花君も札所の名簿を買た。ここまで来たんだ帰るのは心残りだ以外と若い人たちのお参りが多い、若者のくる寺は良く流行る寺である、年よりだけ参る寺はやがて流行らなくなる、人の集まる所に金が集まる、 天橋立に来たついでにお参りしたのか仏さんのおかげなど何もない、あるのは皆自分の幸せと健康を祈っている。
『欲望』がその根底にある。 『一切が空今皆懺悔』
仏に祈るときその気でなくてはいけない、そう解かっているが手を合わせると知らぬ間に、『家内安全、商売繁盛』と自分の利益を優先するお願いをする、然しそれが人間なんだ。
自分はどうでもいいから日本の国が発展します様になど、内閣総理大臣でも祈らないだろう。
『自分の内閣がいつ迄も続きますように、次の選挙に当選しますように家内安全自分の当選第一』と祈る。
『伊根の宿』
『伊根へ行こう』
衆議一決おんぼろ外車は丹後半島へ向かった。その時「井筒や」の看板が目に入ってきた、昼からもう二時半を過ぎていた、湯村温泉の「井筒や」ならぬ「伊根の井筒や」で一升瓶を買い散財した。 この家の若い人は交通事故で無くなったと言う、六十歳前後の主人と奥さん二人でやっている幸せそうなこの家にも不幸な陰がある。 窓を明けると港が見える静かな海、小さな船が繋がれている。遙か向こうの岬の方まで伊根の村々が続いている。道を挟んだ海の見える部屋に泊まった。
伊根の船宿はもう少し向こうの方に見えるテレビで放送されていた頃の伊根の宿は客も多く来た。 一頃のブームは去った、ブームが去りその後に残されたものは、過疎の村に寂しさが漂う、私たちはその寂しさの漂う、雛びた村が好きだ。 そんなところを求めて泊まりに行く、観光ブームは訪れる、然し何時かはブームは去って行く、誰しもブームの絶頂気にブームの去るときを予測した対策を立てない。
度々伊根を訪れるが、此でめしを食おうと思っても適当な所が開いていない、 『寂れたな』何時もそう思う、だが伊根の宿は泊まってみると落ち着いた静かな気持ちにさせてくれた。 本宅は道より山側にあるその本宅で食事をする。一杯飲んでいると常連らしいお客が入って来た、朝早く船で出ていった魚釣りのお客であった。
この宿魚釣り専門の宿だった、主人は船に乗り魚釣りの客を乗せて朝が早い、昨夜の魚も自分が釣って来た魚なのだろう、朝の目刺しや鯛の御汁が美味しかった。
朝起きて考えて見ると国を出てから三日目になる。 「今日は帰らねば」と思っていた。
『勝って来るぞと勇ましく誓って家を出たからは岩手に行かずに帰られょか』
私は伊根の海に向かって恨めしそうに歌った。
『行こうか』
この花君の声、
『さあ帰ろうか』
帰る準備を整えた十餓鬼さんが二階から下りて来た。
『行こう岩手え』
又この花の『かねてる流』が始まった。
『ああそうかそんなら行こう』私は同調した。
北陸自動車道新潟へ
ラジエーターに薬を少し飲ませ、ガソリンの上等を入れたらエンジンの調子も良くなって来た。
安物の飯を食わせ一杯も飲ませず働けと云っても働かない人間も車も同じだ。
『さあ岩手に出発だ』
そうと決まったら人間又不思議と元気が出るものである。
車は順調に走っていた、走ると言っても七十km位が関の山 『びゆーん。びゆうーん』と 高速車が追い越して行く伊根から舞鶴へと引きかへし、敦賀から北陸自動車道に乗った、福井を過ぎ加賀百万石の金沢も過ぎた。富山平野、魚津、糸魚川、直江津港の上越市まで来た。長い実に長い始めの予定では、第一日の宿を直江津の港に泊まる予定で予約していた、直江津は魚がうまい北陸最大の漁港がある。直ぐ其処に佐渡島があるロシアにも近い、だから予約していたが、岩手旅行を諦めたので宿はキャンセルしていた。
舞鶴や伊根の辺りで思わぬ手間取ったので当然キヤンセルしていた「昼から」の三時は過ぎていた。ここの魚は旨くて安いだからここの宿に予約していた。 もう少し足を伸ばさねば、何分にも東北までまだまだ遠いい、足ののろいおんぼろの外車、運転士の此花君は左ハンドルは生まれて始めてらしい、中央車線を時々はみだして走っている。
時々注意するが又中央線をはみだして走る乗せてもらっている人間が余り喧しく云うと運転の邪魔になる。どうせ一度は死ぬんだ思いなおし肚を据えた。「危ない」と
思った次の瞬間、右足でブレーキを踏む、もう何回もブレーキを踏んだ運転士より乗せて貰ってるものの方が恐い死んだら喜ぶものもいる、そう思いながら念仏をとなえる。
新潟の人たち
「新潟」看板が目に入ったもう七百km以上走ったはずだ少し薄暗くなりかけたようだ。
『五時だ、おい新潟に泊まろうか』
この花は待ってましたとばかりにハンドルを新潟に切った「新潟中央」の斜線に入った。 降りたところにガソリンスタンドが有った蓋を開けたらガソリンのにおいがする。
『ようここまで来ましたなあー』
スタンドの若い人が云う、走っていてエンジンに火が点いたら爆発する。
『あそこに外車専門の修理工場があるから行ってみたら』
親切に教えてくれた私たちは専門工場に依頼した。
『車は明日九時までに修理します』
新潟の人は親切だ。
『この辺にどこか宿は無いですか』
美原は聞いた、格好の良いお兄ちゃんは美原の依頼に心よく近くのホテルや、旅館に電話をかけてくれた。 宿はどこも満員だった仕方がないタクシーを頼み「連れ込み宿」に泊まろう、暫くしてタクシーが来た。
『どこでもいいから今晩泊まれる所ろに連れていって下さい』
運ちゃんは時計を見ながら
『お客さん、この時間から連れ込み宿に行くと大変な金を取られますよ新潟駅前のビジネスホテルを探してあげましょう』
渡る世間に鬼はない。 タクシーの本社に電話し宿を捜してくれた新潟の人は親切だ、田中角栄も義理堅い人間だ。困ったときに助けてくれる、遠い所に来て寝るところが無い程困ることはない、ボログルマでは足も伸ばされないし、椅子を倒す事もできない、その夜新潟駅前の高級ホテルに泊まった。 新潟はいい町だ佐渡島え渡ってもここから行ける、新幹線で東京にも近い裏日本随一の工業都市だ。その夜、新潟の繁華街をぶらついた、近くの飲みやで一杯飲み、宿に入って横になったらすぐ眠れた、一人寝られるビジネスホテルは気楽だ、宿代も安い、一人六千円で消費税込みだ朝飯は一階の食堂で食わせてくれる、これがビジネスホテルなのだ。
磐越自動車道、五色沼、会津磐梯山
磐越自動車道は昨年十月一日開通、新潟から東北自動車道福島県に通じている。
裏日本から表日本に通づる路線であるこの道を通って見ようと考えていた、長いトンネルの連続殆どトンネルだ。 会津若松の平野に出たもうトンネルは無いだろう。
車は猪苗代で降りた、最初の予定では会津若松城や、白虎隊や、猪苗代湖、野口英世記念館を見る予定だった、然し時間が無い最初の予定を大きく削減した。
高速を降りると磐梯朝日国立公園猪苗代スキー場多くのスキー場が見えてくる。 磐梯山一千八百十九Mを右に見ながら車は走る、一時間も走ると人通りの多い五色沼に着いた。 やっと来て良かったと云う気持ちになれた。秋の紅葉は真っ最中、本当に美しいこんな美しい紅葉が有るだろうか、氷ノ山でもこんな大規模な紅葉を見るのは始めてであった。 車を止めてぱちりぱちりとカメラを向ける人たち、やっと観光らしい観光になった。 本来なら二日目にここに来ている筈だ私たちは東北の自然を満喫し秋の最後の紅葉を楽しんだ。 五色沼から絵原湖、秋元湖、磐梯吾妻レークラインを走った、左手に西吾妻東吾妻山二千Mクラスの連峰が続く、何処かで風呂に入りたいと思った、国道百十五号線、山のなかに忽然と温泉町が現れた。 『土湯温泉』と云う、この辺には温泉も多い、七百円の入湯料は少し高いが、国を出てから何百里、離れて遠い東北の、吾妻小富士の土湯温泉でゆったりと汗を流した。
「いい湯だね」関西の関宮町三宅と云う所にも万灯の湯という温泉が出るそうな、長い旅をすると温泉はやっぱりいい。
花泉の小野寺家
花泉の小野寺家「岩手県花泉町油島字要害」東北の藤原三代栄華を極めた。 平泉の文化は花泉に移り小野寺家は現在十九代長男は仙台地方で弁護士をしている。 当主は農業委員をしている祖父は収入役や町の要職を勤めていた花泉の名士である。 小野寺の家はその昔ここの城主が住んでいた宅地に建てられている藤原氏全盛時代その一支城が花泉にあった。その当時の殿様の屋敷に住んでいるその殿様の子孫かもしれない四日目私たちは東北道を走っていた。
蔵王も仙台も横目でみがらめざす花泉へと猛スピードで走っていた、漸く運転に慣れてきた「この花」はときどき肩を動かしながら、好天の東北道を九十kMしか出ない、おんぼろ外車で一路花泉をめざしている。 若柳金成インターを降りると見渡す限り広い農地だった、降りたところは宮城県、何処に県境が有るのか山も谷も何も無い、その広い平野を走ると知らぬまに岩手県になっていた。 調べていた地図の通りに走ると小高い集落の村にたどり着いた。辺りはもう薄暗くなりかけていた。
『小野寺さんの家は何処でしょうか』
『ああ兄さんが弁護士をしている家ですね』
まだ大分向こうだ平野でも少しずつ段々が有る、十一月の始めどの田圃も漸く稲刈りを終わった所だ、遙か向こうまで農地が続く小高い森の辺りに何処までも家が有る。その村々を捜しながら走っているとそれらしき村に来ていた。
『弟さんは、岡山の方へ養子に行くそうですね』
道を尋ねた村の人がそう言う、その夜小野寺家では遙に遠い兵庫県の方から訪ねて来た珍客の接待の為、家族の総力を挙げての歓待が始まった大変なご馳走だった。 小野寺の祖父八十三歳が一家の中心となっていた。 小野寺君の父は忙しそうだった、稲の乾燥やら村の会合やら休む暇無く働いている様子であった。 奥さんは大変な美人だがどの家でも主婦が一家の切り回しをしなければならない、お祖母さんも愛想良くご馳走を勧めてくれた。 広い家だ田の字型の家、真中に中の間が三つ有る、普通の農家の家としては非常に大きい家だ。
一町八反の農地と牛三十頭。飼料は牧草地に作っていた。 三つの土蔵広い屋敷、私たちは東北の古い豪農の家に泊めていただいた。 翌朝小野寺君の車で牧場を見に行った。直ぐ後ろの小高い丘に囲まれた三百M四方十町歩位の面積か三十頭の牛が昼夜放牧されていた。夜は小屋の所へ帰ってくると云う牛は但馬から輸入し岩手県が改良した。輸入飼料に頼らず全部自給している様だ。此の牛肉は自然食を食べているから人間に害が無い、宣伝すれば肉が高く売れる筈だ。 外国から輸入した飼料の肉は農薬をいっぱい使っている。 日本人が子供を生まないのも、精子の数が減るのも農薬の多い飼料で育てられた牛肉が原因だとの説もある。 自然食料で育てられた牛だ従って純益率は多いいと思われる。 米を含めた総収益は一千万から一千二百万円、決して多い方では無いが、百姓としては借金さえなければ気楽に生活出来る筈だ、然し十九代の格式を維持し続けて行くことはこれからの若者にとっては大変である。 小野寺君は当家の次男、流れ流れてアルバイトに岡山に来た。
岡山市のスーパーに勤めた其処に彼女がいるらしい、その彼女と結婚する予定だと云う。 関宮町の未婚の男達にその爪の垢でも舐らせて やりたいものである、岡山に三か月住み彼女をつくりハチ高原の白樺館にアルバイトに来た、 岡山市郊外の農村地帯のスーパーに小野寺君の彼女は勤めている。 彼女を岡山に残しハチ高原にアルバイトに入った。三か月働いて岩手に帰って来た、 ハチ高原在住中に昨年の春歩いている所、たまたまその時車で通りかかったこの花君と出合うた、それが出会いの始まりである。三原も昨年六月但馬故郷づくり大学にゆくとき、この花君の車に乗った。
戸を開けると中に一人の若者が座っていた 『この人は』と尋ねた、それが美原と小野寺君との出会いであった。 豊岡の文教府で講義を聞いていて、ふと後ろを見ると彼が座っている、この花のやりそうな事だ。 大学の講座に入り許可も得ず平然と座る事の出来る小野寺と云う男も大した男である。 おんぼろ外車を渡した近くのスーパーに、彼は就職している会社の車を借りて帰っていた当分の間、このスーパーに勤めるようだ。花泉の駅まで送ってくれた駅の近くに、町営住宅が建っていた。 結婚したらこの住宅で生活する予定を立てていると言う、アルバイトに来ている人たちは多い、然しどんな人達にも必ず故郷があるその故郷をこの花君と訪ねた。大変思いで多い東北の旅であった。
人との出会い
私たちには欲も得もない、行こうと思えば何処までも行くやろうと思ったらなんでもやる、世の中に恥づかしいものもいない誰にでも話す、世界中何処へでも行く、いくら難しい話でも話せば分かる。 喧嘩もする、交渉もする、危なければ逃げる、その逃げ足も早い、これは危ないと感ずる六感も分かる、第一世の中に恐いものが居ないから始末が悪い、その始末の悪い三人組、十餓鬼、この花、美原が流れ流れて東北の岩手県まで行った。もう少し足を伸ばせば平泉文化の跡が見える。花巻の温泉にも近い、右の方に出れば太平洋を望む松島海岸がある、帰りがけには蔵王のスキー場もある。仙台の城も文化の跡も見られる。 四泊五日も流浪の旅を続け、貴重な五日間をオンボロの外車に乗ったばかりに私たちは生涯体験することの出来ぬ気楽な旅をさせて頂いた。
「兼ねてる流」
『但馬ふるさとづくり大学』副学長「和田隆男先生」命名のこの流儀を、私も何時しか次第に覚えこまされつつある様に思える。『人との出会い』一人の若者が通り過ぎようとした時、「つい」車に乗せた、それが小野寺君だった。出会いとは何か、それはその人達にとり、一つの歴史の始まりである。
この様な旅は最初から計画し、しょうと思っても、二度と再び出来ないだろう、綿密な計画を立てた。 旅行計画を立てるのに一週間近く計画していた。その計画は反古になった。計画は全部崩れた、然し崩れた後、 二度と体験することの出来ない体験と思い出が出来た。旅は楽しい計画のない旅、気ままな旅、二度とない人生に生まれてきたのだ。
人は旅をしよう気ままな旅を
2002年 10月25日
東北の旅から帰ってきました。
10月21日敦賀港発、福井県、石川県日本海能登半島、富山沖、新潟、秋田港に22日朝6時着、直ちに国道7号線から、八郎潟干拓地に入り、広い干拓地を縦断、国道7号、東北自動車道碇ヶ関icに乗る。大鰐スキー場、岩木山、青森終点から、青森港で写真とる。、青森県縦断、八甲田山には初雪が降っていた。八甲田スキー場、酸が湯温泉を通り、 奥入瀬渓流、十和田湖湖畔を通り、発荷峠を越える。十和田icから東北自動車道松尾八幡平、八幡平リゾートスキー場見学、夜民宿岩手山荘に泊まる。23日安比高原スキー場を見る。八幡平の樹氷ラインは雪のため通行止め、東北自動車道に引き返し盛岡ICから田沢湖へ、途中雫石スキー場を通る。田沢湖スキー場見学、田沢湖の写真撮る。国道46号線角館の武家屋敷の町並みを見る。
さすが小京都と、云われるほど落ち着いた東北の江戸時代そのままの町並みであった。もう一度ゆっくりと見たい町である。ここから大曲で秋田自動車道に乗る。東北道北上JCTから、村田JCT経由、山形蔵王IC下車、西蔵王高原ラインで蔵王着、宿の案内所で蔵王國際ホテル紹介を受ける。最高の宿だった。24日、国道13号線下り米沢市の上杉家の上杉神社、米沢城跡公園見学。上杉鷹山ゆかりの史跡点在。13号線で東北自動車道福島飯坂ic乗る。郡山jctで磐越自動車道。磐梯山、猪苗代湖を見ながら走る。磐越道、新潟経由で北陸自動車道帰る。25日午前2時帰る。
私の人生における歴史に残る旅であった。
index.htm へのリンク
祖母くりは昭和十九年の八月に逝った。終戦を待たずに戦時下の空襲の激しいときであったが農村は平和だった、父は食料が不足すると見るや農地を買い集めていた。七反歩の田圃と畑合計二町七反を耕作するようになったのは私が青年になってからだった。 父のお陰で私たちが成長し飯を多く食うようになった頃には米の収穫が多く増えていたので戦後の食料難の時代に私たちは、なに不自由なく生活出来た、柳畑は明治十二年祖父が家を独立して以来山の畑を開墾していたから一町五反くらい杞柳畑を作っていた。
奈良尾村字要山の大清水は藤原の家で明治以前から開墾し作られていた、氷の山から岩や土にしみ込み地下に浸透した水がこんこんと湧き出している、水の出る土地は沃く肥えている土地である。山毛欅や紅葉の落葉樹が長年にわたり流れてきた氷の山の土は作物が良くできた。
氷の山の奈良尾村の縁故使用地として土地は熊次村名義に登記され、土地所有が確定される以前に祖父達は土地の開墾を完成していた。その頃、法律の知識に詳しい人達は自分名義に登記した。登記すれば税金がいる。無知な農民は税金を払わず耕作できる村名義の登記方法を選んだ。学問のある法律知識に詳しい人達は自分名義に多くの土地を登記した。柳ごうりの原料杞柳は、北向きの土地の氷の山の畑には、しなやかな柳の生産に絶好の特産地として但馬豊岡商人に好まれた。 氷の山の村で最初から山の畑を開墾した祖父の兄藤三郎は良い土地ばかり開墾していた。明治元年三月十六日相続したが家出、祖父、文次郎はその家を継いだ。 祖父は毎日柳づくりに精出していた、祖父の一生は働くだけの人生であった。
四人姉妹の末子、長男として父が生まれたのは明治二十八年、祖父文次郎と父喜三郎は明治から大正年間に、杞柳の原料、行李柳の生産に家業を集中した。同時に養蚕などの現金収入を増やす為、土地の開墾を続けた。戦前と戦後の農業全盛期に私たちは成長した。 杞柳の生産と養蚕や牛、出稼ぎなどの収入があったから現金収入は不足していなかった。
私は戦後水のある土地に山葵を栽培した。祖父のお陰で山葵を多く作る事が出来た。祖父が生まれてから百五十年以上の年月が経っていた。公式な記録によれば明治十五年熊次の村々に始めて杞柳が作られ広がっていった。とされているが、明治以前から栽培は始まっていた。 奈良尾村の要山は北向きの富沃な土地で杞柳栽培に適している、 明治初年、祖父が独立した頃は日本の土地の登記も無く、明治政府の基盤が未だ確立していなかった。当時の土地は旧慣に基づく土地使用権、入会権の土地であり、開墾しただけ自分の土地として耕作権が永代に認められていた。柳畑は入会権のため土地登記は出来なかったが開墾だけでなく相当な面積を買い集めていた。その頃漸く農民に自分の希望する作物を自由に作らせる制度が出来た、また土地や田畑の永代売買の禁を解いた、地租改正、財政制度の整備、封建的諸拘束の撤廃など急速に改革が行なわれた時代だった。
帝国憲法が明治二十二年制定された、戸籍簿の作成と登記などこの頃確定している、 百姓は百年の歳月の土台がないと成り立つ仕事ではない、氷の山国際スキー場が出来たとき、{昭和60年頃}私の家は祖父が独立してから百三十年を経過していた。
氷の山の奈良尾村の藤原一族は美方郡史によれば天明年中藤原三平貞長代官となり、天明年中藤原三四郎祐筆にて山名家定府『江戸詰め』となる。藤原家の家の上に墓がある。 久空智光信士、享保十五年死『千七百三十年死』である、従って推定千六百七十年生まれ徳川吉宗の治世である。 氷の山奈良尾村、藤原一族の先祖は少なくとも三百三十年前に生まれた藤原三平貞長、即ち山名家の江戸詰め定府士の子孫である事が歴史上証明されている。 『但馬世継記』によれば氷の山の奈良尾村は「鳴尾のましらが」住んでいたことにちなむとするが、「風の鳴る尾根、」「平尾、」『なるお』から変化したものか、元弘年間、奈良尾眼人というものがいたという、後醍醐天皇の時代、元弘年間には楠正成が挙兵した頃である。
永正年間八木但馬守の臣にも奈良尾眼人盛貞と言う者がいて、藤原の祖になったとも言う、永正年間とは戦国争乱の足利時代から室町時代の頃である、八木但馬守は秀吉の但馬攻めで滅びている。 天明年中には、藤原三平貞長代官となり、天保年中には藤原三四郎祐筆にて山名家定府士となりその子孫が住せりと書いてある、参考文献は『美方郡史、関宮資料集、兵庫地名辞典、但馬世継記』何れにしても奈良尾の村は旧村であり藤原一族の祖は家の上の墓である。
丹戸村は奈良尾の出村であり、梨ケ原、草出はその出村であるといわれている。神社は荒御霊社で祭神は素盞鳴命、天文十四年勸請寛永四年再建といわれる。
祖母は孫の長男が若者になった姿に目を細めていた祖母が喜ぶ顔が見たいので毎日一生懸命働いた。 外孫の長村太一郎は小学校高等科を卒業すると十六歳の秋故郷をあとに出稼ぎした。 京都に出稼ぎしていたが当時の有名な弁士の元に弟子入りし活動写真の弁士の勉強を一生懸命やっていた、兵隊に取られるまでの数年間に関西の活弁やの世界では一躍有名になり映画の字幕に「長村太一郎」の名前が乗っていた。 舞台の裾に太一郎が姿を表わすと盛んな拍手が沸き起こった。「活弁や長村太一郎」は戦前の映画活弁全盛時代に一世を風靡していた。 太一郎は当時の映画女優の恭子と恋愛し結婚した。背が高く鼻筋が通り、細おもての美男子太一郎は京都活弁やの売れっ子弁士となった。
当然、映画女優仲間でも評判になり多くの女の子が寄り集まっていた。 恭子は希に見る京都美人だった、穏和な表情、切れ長の瞳、典型的な京美人だった。祖母は孫、太一郎の嫁を暖かく迎えていた。
戦争が始まった『支那事変』と呼ばれていた、昭和12年盧溝橋で爆破がありその為戦争が始まったと聞かされている、近衛文麿総理大臣だった。ある日、熊次の太一郎の家に『赤紙』が届いた、『召集令状』であった。赤紙は生まれた家に来た。急いで電報を京都の太一郎に打った。 太一郎は妻恭子を連れて村に帰ってきた。太一郎は兄の家から出征していった。
『勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからにや、手柄立てずに死なれようか』愛する妻恭子を残して太一郎兄さんは出征していった。氷の山の村のお宮さんの前で挨拶した、『必ず勝って帰ってきます』出征兵士を送る歌、歓呼の声に包まれて太一郎兄さんは出征した。当時は鹿倉口まで村長以下大勢の村人と小学校の生徒全員が見送った。4kmの道を歩いて送った。
太一郎は兵役を終えて村に帰ってきた、支那事変の戦いから復員し太一郎が帰ってきた、祖母は孫が無事戦争から帰って来た事を喜んでいた。 『太一郎兄さんが帰ってきた』私たちは喜んで太一郎兄さんと毎日山に行った。太一郎兄さんは山のクルミを取ってくれたり山海老を取ってくれた。 『太一郎にいさん、太一郎兄さん』現在の氷の山国際スキー場、ファミリースキー場のあたりにはクルミが多く自生していた。
私たちは一緒に山に行ったその太一郎兄さんは時々京都から帰ってきた中国戦線から帰った時、村人が兄良太郎の家に集まった。中国戦線での戦いについて太一郎は話していた、当時の戦争の事を作戦と言っていた、徐州作戦に参加していた。
『徐州、徐州と軍馬は進む、徐州は良いか住み良いか、洒落た文句に振り替えりゃ、おくに訛りのおけさ節、兵は徐州へ前線へ』
子供心に聞いた歌である、間違っているかも知れない、まだ日本が勝ち進んでいた頃の戦争の話しであった。 当時の蒋介石の軍隊は弱かった、今の中国の軍隊とは違う、日本軍はその頃まだ勝ち進んでいた、戦争から帰ってきた太一郎はその戦いの様子を得意の弁舌で話していた、小学校では日本の軍隊が中国内陸部まで占領した地図を毎日見せられ戦勝の話しを聞いていた。昭和13年から15年頃の話である。 活弁や弁士の太一郎の話しに村の人たちは何時しか引き入れられて行った。その太一郎は京都美人の嫁を時々連れて帰ってきた。 戦局は次第に苦しくなった、太平洋戦争が始まってから太一郎は再び中国戦線に渡って行った、今度は軍属として従軍カメラマンとして中国戦線の模様をカメラに納めた。戦局が益々苦しくなってきていた太一郎は仕事を止めて日本に帰ってきた。何事も目先を良く読む男だった。 戦争から帰ってきた太一郎は京都で市役所に勤めたり、色々と職業を何回か変えていた様であったその時々、その時代に儲かる仕事をしていた。公務員では妻子を養うことの難しい時代だった。
戦後の過酷な食料難の時代を乗り越える為には普通の仕事では生活出来なかっただろう、 祖母は太一郎の帰ってくる日を待ち望んでいた、私はその祖母が山や畑で働いている姿を一度も見た事がなかった。元来余り丈夫では無かったらしいが昭和19年、八十七歳まで生きた祖母は長生きの方であった祖父と何時も囲炉裏の縁で喧嘩をしていた。 年を取ると夫婦でも頑固に自分の意見を通うそうとするから、言い争いが始まる、祖父は昭和十一年十二月四日に逝った八十三歳だった。
ここで私の母と相地の中尾ときえさんとの関係について書いておきます。母みねは福定村、藤原勝蔵の長女として生まれたが、父は日露戦争で戦死、母すえは大屋の栗下、小畑家に再婚、明治憲法では家督は長女が継承、藤原家の全資産と家を継いだ。が、幼少のため藤原ときえさんとは姉妹として育った。家督の全資産を弟で叔父の源左衛門と其の子ときえ、さんたち四人の子に家督相続したのは、父と結婚して入籍するときであった。
家督を継いだ母の福定の家は其の当時、村長をしていた「山根」は別格として、二十数軒の村で二番か三番の財産家であったが、相続していた土地や山林を放棄して、叔父と従兄弟に譲り、父の家に入籍した。と、私が子供の頃、母が話していた。
従って現在、生存中の関宮の中尾家、まつこさんとは従姉妹であるが、母は「明治憲法では隠居」藤原家の家督相続上では譲り渡し人で、戸籍上いわば先祖になる。 母は一切の家と財産を藤原源左衛門とその子、ときえ、まつこさん達に譲っている。ときえさんは最後の最後まで家で生存できた。家族のお世話で成仏できた。病院に行かず家で成仏できる人は幸せである。「ときえさん」の冥福を祈り極楽の旅路を楽しんでいただきたい。98歳の大往生であった。
ついでに再婚した母の母、つまり私の祖母は大屋町栗下で当時としては名門の、小畑家の秀蔵に稼した。日露戦争の終わった頃の話である。 現在は孫の小畑秀機が当主である。英機の父は支那事変で戦死、母一人の手で育てられたが、大学卒業後、小学校などで校長を務めて退職している。私の母は小学校を卒業した頃、再婚した母を訪ねて栗下に行き、小畑の父の養女として育った。明治の終わりから大正初年の頃の話である。娘時代、母は何不自由なく育てられた。従って義理の父、小畑家から嫁に来ている。が、その子たちと私は血を分けた親族である。父との結婚の世話人は従兄弟の藤原源太郎氏であった。現在の敏彦君、の曽祖父である。母は実の父の顔を知らない、日露戦争で戦死した父。母の心には養父が実の父として生涯の心の支えだった。
母が、福定の亡き父の「相続資産、」全部を叔父と其の子に譲ったのは、義理の父に幸せに育てられた恩返しなのだろう、と、その気持ちが理解できた。 この間、中尾家葬儀の日、其の話を関宮の「中尾まつこ」叔母さんに話した、ら、「そうでしたか、すえさんは再婚し幸せだったんですね。」と、遠い明治の昔の日露戦争で戦死したお祖父さんと、戦争で夫を失い再婚した母の母の思い出話を語った。まだ元気だった「まつこさん、」私より10歳くらい年上である。お元気で。この人たちの写真を撮った。何時か又現像して持って出ます。私がなぜ今この記録を書くのか?今しかない母の思い出と、ときえさんたちとの関係を思い出し、整理し、後世の人たちに記録として残しておきたいと考えたからである。
私は数年前、中国に旅したとき、中国人ガイドの「宗さん」靖国神社と日本人の心を説明した。母の父「日露戦争で戦死したおじいさん」の私の話に、小泉総理と日本批判を繰り返していた宗さんは、漸く理解をしめしていた。宋さんは、中国、江西省海外旅遊総公司。日本部部長である私の中国研究の旅。シルクロードの旅。参照。
太平洋戦争が終わった昭和二十二年頃だったろうか氷の山の村に村芝居が流行ってきた、熊次の村々に青年団運動の先がけとして、一斉に文化活動の花が咲いた。 日本全国の村々に村芝居の原動力の先頭に青年が立ち向かって行き歌舞伎が流行った。 太閤記十段目尼崎の戦い、矢口の渡し、三番叟、義経千本桜、など各種の歌舞伎が盛んに練習され、発表講演されて行った。 氷の山の村では歌舞伎の舞台が無いため又、人員が少ない為その頃盛んに流行っていた『ヤクザもの』や寸劇、などの村芝居の練習に取り組んだ。 その頃、戦前京都の『活弁や』で名を挙げていた長村太一郎が中国の戦いから復員していたので私が依頼した。
『氷の山の村で村芝居をやりたいと思っている』
『よしそれなら私が教えてやろう』
と快く引き受けてくれた。 氷の山の村の青年で村芝居の練習を始めた。昼は皆農業の仕事がある、夜仕事が終わってから公民館に集まってくる。その頃の公民館は『青年会場』と呼ばれていた戦後の農村には復員した若者が溢れていた。
氷の山奈良尾の村にも若い男女青年がどの家にも二人、三人いた。 中学生の若者を加えると二十人を越える青年男女だった。
太一郎は京都から帰り兄良太郎の家に泊まり込み村芝居を教えた、自分で芝居の脚本も書いていた。
『活弁や』は自分で活弁の脚本も書かねばならない、そうした勉強も戦前の京都の活弁やで毎日勉強していた。
村の若者や女子青年は毎日一生懸命台詞の練習をしていた。発表会は村祭りの宵宮の夜であった。
川原に行き大きな声を張り上げて台詞の練習をする、青年は百姓の仕事を毎日休み、一生懸命練習に取り組んだ。
森の石松、清水の次郎長、大利根月夜などのヤクザものが大流行していた発表会の日が来た。 太一郎は京都から自分の嫁の弟たちを連れて来た。ギターや、アコーデイオン、鐘、笛、太鼓、などの軽音楽と呼ばれる楽団演奏であった当時としては農村での村芝居に軽音楽の楽器が持ち込まれた演奏は始めてだった。 ラジオ屋に、マイクと拡声器の設備を取り付けて貰った。 戦後間もない頃の田舎の村でこうした『自狂言』をすることは大変だった。 村中の青年の一致協力がないと出来なかった。結果は大成功だった、村芝居の練習は出来た。さあこれから村芝居の公演が始まる、多くのお客さんが見に来てくれるだろうか、青年は太鼓を叩いて村々に宣伝に回ったその夜、大勢の人たちが村芝居の見物に来てくれた見物料は無料である『花』を当てにしていた。
村祭りは夫々の村に鎮守の神社があり祭りは部落ごとに日程が違うので親戚縁者を祭りに招待していた。その為多くの客人が集まっている、近くの村の人たちも見物にやってくる。 村の祭りに来ていた客や、隣村の人たちが多くの『花』をくれた。十万円近く集まっていたように思う当時の農村は景気は良かった。今の貨幣価値から言うと1000万円くらいだろう。
村々に活気が溢れていた。私の姉も村芝居の主役を努めた。
『初のーええ役者になったのー』
大屋町の復員から帰っていた叔父小畑新助が姉を誉めていた。 私の弟も当時中学校の生徒だったが芝居の脇役に出た。
僅か一回、ちょっと舞台に顔を出しただけだったが、歌舞伎役者を指導していた丹戸の桶惣さんに誉められた。
『桶惣』さんは三味線を弾き、歌舞伎の進行の為の歌を歌い、拍子木を叩き、村芝居には先学者であった。
歌舞伎の唄いは素人には難しい村の役者であった。その人から弟は誉められた。その弟が八鹿高校に入ってから演劇部に入ったのも村芝居の経験があったからであろう、弟が演劇部で練習していた頃、八鹿高校弁論大会が開かれた私は弟の為に弁論大会の原稿を書いた、結果は一位になった私は歴史学の勉強をしていた頃だったから、ギリシアの民主主義や西欧の歴史を引用しながらの弁論大会の原稿であったように記憶している、
その結果弟は弁論部の生徒を抜いて一位になった、演劇は芝居である弁論も芝居的要素がある人を引きつけ陶酔させるものが芝居である、氷の山の村芝居で得た芝居の練習が高校の演劇や、弁論大会優勝の弾きがねになっていた村芝居の練習は生きた勉強であった。 私もその後のあらゆる会合で発言するとき自分の言葉が何処まで聞こえるか、人々に聞こえているのかを絶えず聴衆の顔色と反応を見ながら話し、発言し、演説をする、村芝居で得た経験が体験が私の生涯の参考になった。
舞台に立ったとき見物人の顔が見えなくては一人前の役者ではない、一人一人の顔色が読み取れるようになれば一人前の役者であると言われている太一郎兄がそう教えていた。 一人前の公演が出来る為には何よりも芸に対しての自信がなければならない、自信とは徹底した練習の結果である。 自分の芸に対する自信が舞台に立ったとき、人々の一人一人の顔色が読める余裕が生まれ、自信が出来るのである。
芸でもスキーの芸術でも、その他すべての勉強でも物事に対する自信が、徹底した練習の成果が結果として人の前にたったとき人々を引きつける陶酔、即ち芝居が芸術として完成されるのである。 長村太一郎は私の家の父の姉の子として生まれた。長村良太郎の弟で妹は春江と言った。姉のとよは福定、西村家に嫁している。両親は大正年間に流行った感冒で倒れ早くから父と母を失った。私の 父、喜三郎は姉の子太一郎を家に引き取り育てた、私の祖母も孫、太一郎を可愛がり成長を見守っていた。太一郎は小学校を卒業し青年期を喜三郎の家族として百姓に精出していたが、十六歳の時家を飛びだし京都に行った。当時は活動写真が全国を風靡し青年男女、活動写真の弁士は当時の若者の憧れの的であった京都に飛び出した太一郎は当時の活動写真の弁士として雄飛し有名な活弁やに弟子入りした。 当時の活動写真の弁士は今の売れっ子アナウンサーの様な俳優であった。 映画は無声映画で未だ音の出ない無声映画の横で映画説明をする、それが活弁やであった、有名な活弁やの映画館には多くの見物客が列をなして集まった。
長村太一郎はその当時、若き売れっ子のアナウンサーとして一世を風靡する活弁やであった、映画の字幕に長村太一郎の名前が出ると見物客は一斉に拍手していた。 その頃今の婦人と知り合い結婚し二子の父となった戦争に行く前、何回か帰郷しその度私たちと山に行った。
『太一郎兄さん』として私たちは育てられた祖母はそうした太一郎を 『家を飛び出した極道者だ』と私たちに話していたが時々家に帰ってくる太一郎を見て祖母は自分の子供が帰ってきたように喜んで迎えていた。祖母の喜ぶ顔が見たいので太一郎は美人の嫁を連れて幾度か私の家に帰ってきた。太一郎兄は支那事変が勃発すると軍隊に取られた。支那戦線に投入され徐州作戦や各地の支那戦線を点々としていたが、太平洋戦争の始まる前の頃除隊となり京都に帰ってきた。
日本はもう以前の様な活動写真の弁士が活躍する時代ではなかった。 無声映画から有声映画となって来た活弁やの仕事は制約され時代は変わった、日本に帰ってきた長村太一郎は太平洋戦争が始まると軍属として支那戦線に渡った、敗色濃厚となった頃日本に帰ってきた、何事も向こう先を読み行動していた。 全て戦時一色の体制のなかで太一郎は食料の買い出しなどの闇屋から仕事を始めた幸いにして京都は焼けなかった。が、然し戦後の苦しい経済状態は京都の町も例外ではなかった。
熊次の村々では戦前戦後、冬になると若者は出稼ぎしていた。 その年も秋になると出稼ぎした、夏は一生懸命農業で家の為に弟や父や母の為、祖父や祖母のうれしそうな顔を見ると働かずにおられなかった。 戦争から村に帰った若者が村々に溢れていたが冬は仕事が無かった冬になると若者は仕事を求めて都会に働きに出なければならなかった、私はそうした私たちの環境を悲しく思った何とかしなければと毎日考えていた。
太一郎兄さんの指導した村芝居は農村青年に生きて行く力を与えてくれた、然し芝居はあくまで芝居であり現実の社会を変える力はなかった。若者の生き行く希望は芝居からは生まれなかった。 青年は希望を以て夏は働いた、然し秋の訪れと共に友は村を去って行く、出稼ぎの嫌いな彼も家にいて本を読んだり山々の兎追いに行ったり、山スキーの手伝いに行ったりしていたが農村の生活は若者には退屈だった雪の多い但馬地方の氷の山の麓の村々は、特に冬は若者にとり空虚な希望の無い毎日だった。やむを得ず出稼ぎする、毎年、毎年出稼ぎしていた。 活弁やの太一郎兄さんも出稼ぎから帰ってこなかった。出稼ぎの思い出は五十年経った今も私の心の中に頭の中に体の奥深くに染みついて忘れる事の出来ない思い出となっている、こんなに何時までも忘れる事が出来ない思い出があろうか、その忘れ難い出稼ぎ、望卿の思いとホームシックに苦しめられた出稼ぎからの開放が私たちの生涯をかけた事業であった。
空はどんよりと曇っていた。
細い小さな雨が音もなく降っている、遠くの方でバタバタとトラックが走る、衆議院の選挙を数日後に控えて街の空気にも何かざわめきが人々の心を支配していた。 彼はその人々の空気を身近に感じながら今朝故郷の村役場から送られてきた不在者投票の用紙を眺めていた。 兵庫県第五区、美方郡熊次村これが故郷の彼の村の選挙区であった。
六年と云う長い間続いた吉田内閣の後を受けて小数単独内閣を造った鳩山とその一党、だが所詮彼らも政権の座を求める群集であり苦しい生活に明日を失った暗黒の社会を彷徨う庶民階級の味方ではなさそうだ。 その衣の下には再軍備憲法改正と云う『鎧』がチョロチョロと見えている。 誰を選ぼうか、〓〓〓私の心の中には既に一人の候補者が浮かんでいる。再軍備は嫌だ憲法改正もいけない、然しもっと大切なことは明日いや今日の生活すら出来ないでいる失業者を、働くものに希望を持たせる事なのだ。 美原たちの地方は冬期積雪三尺有余、裏作は一切出来ない、何とかしなければと村人は考えた然し何ともならない、冬になれば出稼ぎし、春になれば又村に帰ってくる、こうしたことを昔から何代も何代も繰り返して来た、だがその彼らの村にも少しづつ新しい希望が緑の芽が若い人々の間から盛り上がりつつある。 ミチューリン運動の農法がそれだ去年の冬、釜炊きの暇ひまに『ヴイリヤムスの生涯と学説』を読んだ。 村から村へと伝わって行くミチューリン運動、 『日本ミチューリン農業』機関誌は美原の釜炊きと云う職業に新しい農民としての希望と意義を吹き込んでくれる清涼剤ともなっている。 青木恵一郎著、『山の民の記録』を読んだのは一カ月前だった。
美原たちの山間部の農業は如何にすれば前進するだろうか、これが現在の美原の心にある全てである。 これが解決されたときこそ美原たちの農村は救われ青年は希望を以て働く事が出来るのだ。 彼は酔っていた、
『あ、、、』
と風呂のタイルに両手を突っ張り足を湯の中に入れ、首をうなだれたまま、苦しそうに考え込んでいた。じっと五分過ぎた十分過ぎる、他の客は皆帰っていっただが彼は帰らなかった。
『おっさん』と美原は堪り兼ねて声を掛けた。
『余り長いこと風呂に入っているのは毒だっせ、それに酒飲んでるでっしょ、風邪でも引いたら明日の仕事でけしまへんやないか』
五十前後目の玉のクリッと大きい髭面の赤ら顔、職人風の肥大な男が苦しそうに顔を上げた。
『兄ちゃん、生きると云うことは苦しゅうおまんな』
哀願する様な口調で更に続けた。
『ああ本間に嫌になっちゃうな、私しゃあどうして生きて行くんだ、ええ、今蛸焼きをやってるんだが、こう不景気ぢゃあ全然売れやあしまへん、こうなったら一家心中するより他ない、福も切られて親子五人を養うにゃあ蛸焼きでもと思って始めたんやが、ああどうにもならん』
注福とは「福助足袋会社の事」堺市福助足袋工場は私の子色湯の横にあった。
『おっさん、どうして首切られたんや』
もう十二時を過ぎていた、風呂の中のお客さんはもう大分前に帰っていた。 早く風呂を洗って寝なければ明日の朝起きるのが眠い、美原は風呂のタイルを洗いながら聞いた。
『いやあ、私が正直過ぎたんや、私の気性、思ったことズバリ、ズバリといいまっしゃろ、それも会社の為思うてだけど、上役はそんな解釈してくれしまへん、うるさい奴や思うて首切ったんでっしゃろ、兄ちゃん、何処か働く所おまへんか、未だ元気な体やし、一生懸命働きまっせ、どんな所でも構わしまへん、働きたいんや、酒飲むのは悪い悪い思うてても、飲まずにはいられしまへん、家に帰れば子供や妻が暗い顔して待ってまんのや』
失業、近代資本主義の生んだ階級の分化、生産性向上による人員整理、リストラ、当然の帰結としてのデフレ下の失業者の群れ、不健康な日本の経済、これが農村の二、三男をして明日への希望を失わせている大きな要因でもある。
彼は大きな体をヒョロヒョロさせながら立ち上がった、ぎゅうっとタオルを絞った。 水滴がざっーと落ちた、足下には石鹸がころがっていた湯気が彼の体を取り巻いていた。
『帰りまっさ兄ちゃん、そのうち良い所あったら頼むまっせ、本間に私っしもこんな事してちゃあ悪い思うてまんのや』
ガラリと硝子戸を閉ざして帰っていった。 私は又大急ぎでタイルを洗った。 単調な毎日、息き詰まる様なうす暗い部屋、釜炊きという仕事、朝十時から夜の二時まで起きている間働き続ける風呂屋、否これが都会の小市民生活なのだ、だがこの暗い生活の中にも私には一つの灯火がある、この灯火を求めて仄かに明るい一筋の光が私の頭脳に心のなかにそして全身体の器官に脈脈と透して来る、これが希望と云うものかも知れない、私にとって冬、と云う長い出稼ぎ期間を通じてこの灯火となっているものは、〓〓〓それは読書である。
先日から読み始めたヴイリヤムスの『科学的な農業耕作』は我々山間急傾斜地帯の農業にとって特にその土壌に対する牧草圃式システムに於て、大きな参考になるもの、そして強い刺激と勇気を与えてくれるものである。
現在の日本の農業の置かれている地位、その中に生活する農村青年は或るものは希望を失っている、働こうにも狭い土地、余る家族の労働力、この余った労働力は木材搬出、土方などで都会に出ても良い就職口が無い、希望の無い毎日の生活から逃れようとして酒を飲む、有為な青年は学校を卒業すると直ぐ農村を去り、都会にその働き場所を求めようとする、無理もない土地が無いのだ、然し私たちは農業を死守しなければならない。都会の人たちも同じように苦しんでいる美原はそう毎日考えていた。
出稼ぎより農業へ
明後日は帰る懐かしの我が故郷へ、私の家に、其処には私の愛する妻や子供たち、両親、弟達が待っている。
三カ月と云えば短い、口で云えば短い、然もその日々は単調な毎日であり、親方やその家族の毎日の顔を見ながら生活することは容易な事では無かった。
釜炊きを始めてから冬期出稼ぎも四年になる。 美原はこの釜炊きを通じてしみじみと都会生活を味わった。これは或る意味では彼の人生にプラスになった。 又ある意味ではマイナスになったかも知れない、然し常に頭脳を使った。
寸暇の精神的余裕も無い、釜炊きと云う仕事は性格と人間の形成期にある私にとっては得難い教訓と試練を与えられたものであった。 農村の封建性とその根底にあるものは何か、それは余りにも呑気過ぎる事である。 頭を使わなくても生活出来る自給自足的な経済機構にある。 親から譲り受けた田や畑を同じ様な方法によって耕作しそれを繰り返して働いておれば現在以上の生活さえ望まなければ兎に角生きて行くことが出来ると云う自由なる生活の基盤があるからである。
だが私たち現在の青年はこれに満足することは出来ない、農地改革により地主と小作との関係は解消され農民は土地を得たとはいえその経営の不味さは次第に農村を圧迫し、華やかであったインフレ時代を通過した農村は今や昔の貧困のどん底に落ち込もうとしている、現在の危機を切り抜けるただ一つの方法は過去の農業生産方式を一掃し仕事の段取りを変える事である。 それは直接的には農業経営の革命である。
美原たちの村では春になると木こりをする、次ぎに畑を打つ、柳を差す、苗代を造る、柳の皮を剥く、荒起こし、田植え、養蚕が始まる。かくして夏が来る、忙しい時は体の痩せるのも忘れて働く、粗食と重労働、寝るのもろくろく寝ずに働く、夏になれば牛の草刈りがやっとである。 夏の間にも田の草取り、柳の草取り、秋には稲刈りが始まり、柳刈りが終わると我先にと出稼ぎが始まる。
『何処かいい所はないか、君は酒屋の口があるからいいじゃあないか』
『いや酒屋もいい加減な所だよ、夜の夜中に起こされて秋、倉に入ってから帰る日まで扱き使われる、休日も無く働くなどまるで豚箱に入った様なものだよ、春家に帰ってからも『親父』の家に仕事の手伝いに行かねば冬使ってくれない、実際頭は上がらんよ』
但馬地方は昔からの出稼ぎ地帯だった。酒屋、豆腐や、風呂屋、女中、女工、土方、冬の農閑期には皆出稼ぎをしていた。 老人や女や子供達は、冬の間若者が働いて得た米と野菜を囲炉裏で煮て太平楽を云いながら割り木を焚いて若者の帰りを待っていた。 出稼ぎから帰った美原は毎日十一時過ぎまで読書していた。
昼二時間読書すれば一日六時間は最低読める。 朝仕事の無い日は二時間読書をする、雨の日は一日中読書が出来る、平均すると毎日十時間位は読書が出来た。然し読む本は農学書ではなかった農業に全然関心が無かったからではない。昼間の労働から開放された夜位、自分の自由な読書がしたかった百姓と云う生活から開放されたかった。
美原が求めた読書は文学であった。
『お前はそんなに本ばかり読んで何になろうと思うんだ、百姓は百姓の仕事に根性を入れにゃああかん、夜遅うまで本を読むと昼仕事が出来ぬではないか』
母は口癖のように呟いていた然し美原は止めなかった。彼の読書癖は次第に徹底していった。始めの内には毎日の単調な農業から逃れるために読書していた次第に選ぶ本の内容が変化していった。 父も母も最早何も云わなくなった云っても聞かない、早く嫁を取ってやる事だと考えて来た様であった。 美原の考えも変わっていった、出稼ぎしてみて社会と云うものの性格とその動きと、都会で生活している一人一人の庶民の苦労と生きて行くことの難しさ、農業の楽しさが分かってきた。次第に農業と云う仕事も研究的に考える様になっていった。
ゲーテや、バイロンや、啄木、島崎藤村に求めた詩情と希望はそのロマンチックの故に現実の生活と社会を知るに従って夢は破れ、わたくしの読書は中村真一郎『死の陰の下に』、椎名倫三、三島由紀夫えと移って行った。思想科学では観念論的空想論から次第に社会主義理論に移って行った。 美原は二十歳のころから青年団運動に参加していた。
当時の青年団は敗戦の結果強制的過去の青年団への反抗的意識から青年の心理は団結とか統制された組織にことごとく反抗していた。 青年の遊びは麻雀とのど自慢大会と一杯飲むことであった。 民主主義とは何ものにも拘束されない自由であると考えていた。そうした考えの中で青年団を組織し結束して運動を盛り上げて行くことは大変な努力が要求される仕事であった。 熊次青年会はそうした環境の中で結成された。
美原は文化部長としてその青年会の中核とし活動した。
二十歳から二十三歳の頃であった当時の青年団活動は機関誌の発行、映画会の開催、フオークダンス、運動会、討論会などであった。 こうして美原が一生懸命青年団運動に投入している間に家計は厳しさを増していた。 農業生産は極端に落ち込み収入は減少し加えて稲の稲熱病が発生していた。このままではいけないと感じた美原は次第に本格的農業の経営に全力を挙げなければならないと感ずるようになっていった。 その年美原の家の稲は稲熱病で半作であり、杞柳は三割の減収であった。 彼は考えたそして立ち上がった、私の力の限界、それは無限である、土地の生産力は次第に高める事が出来る、作物は飛躍的に増収する事が出来る。ウイリヤムスは言った。
『悪い土壌は無いが悪い経営はある』
彼の言葉は余りにも適した言葉ではないのか、その頃彼の前にふとした機会に現れたのがミチューリン農法であった、
それ以後の美原は結婚と同時に農業生産に全力投入するに至った。
故郷の山を眺めて
バスは懐かしい故郷に入っていた。 氷の山は一面白銀のベールに包まれていた。バスは外野部落まではいっている、四月一日から此より半里奥の丹戸までバスが乗り入れる様になっていた。 美原は荷物を農協の売店に預けて、鞄を担いでてくてくと歩いた。 久しぶりの清透な空気を吸いながら歩、一歩と我が懐かしの家に向かう、 足は軽い、気持ちは自由だそして良い散歩であった。
途中トラックが後ろより来た。道を避けるとトラックの中から、『おーい』と声をかける人がいた。 美原は驚いてトラックの上を見た。 勇夫君や三次君、清君等が手を振っている。
『おーい乗れいや、早く乗れ』
トラックは止まった鞄を勇夫君に渡して彼は飛び乗ったトラックは途端に走り出していた。
中学校が見える、お寺が後ろえ飛ぶ、製材所を過ぎる、草出にかかると妻が迎えに出ていた。
草や木が雲が後ろえ後ろへと走り去る。
過去は昨日までの重苦しい空気は消え去っていた。
胸のこだわりは後ろへ後ろへと走り去って行、そして私は帰ってきたんだ私の村へ、懐かしの故郷の村へ、長い冬の間夢に頭に描き絶えず計画していた、農業の理想郷へ、我が活動力の本部へ、と、そしてゆっくりと畳の上に座り、炬燵の中に足を突っ込んだ時、始めて落ち着いた私自身を見いだしていた。
美原は炬燵のなかに入り眠っていた、未だ雪深い故郷の山々があった。
『そうだ明日から籾種を漬けよう』
稲の籾の種を水に漬ける、水に漬けている間に稲の籾種は次第に芽を吹いていた。
氷の山の雪は未だ深かったが近くの田圃は雪が消えかけていた。
苗代を作り籾種を蒔く、未だ肥料は苗代に余り使わなかった。
人糞尿を肥桶で担ぎ、苗代田に運んだ、
牛で代掻きをした、牛は前足の動きを見て手綱を引くと牛は右の少し歩く、左に行かせる時には手綱で叩くと左に寄る、前足が少しでも横に行くとき素早く信号を送る、それが上手な牛使いである、
苗が出来ると田圃に田植えが始まる、苗を手で取る、腰の痛い仕事である、その日に植えるだけ苗を取る、代掻きの終わった田圃から田植えをする、田植えは腰の痛い仕事であったが都市への出稼ぎの事を思うと妻や子供たち、父や母と一緒の仕事は毎日が楽しい、美原は農業の仕事に本格的に取り組む様になっていった。
小説初夢 1952年元旦記
『絶望』其処から出発した私であった。
否、明日に希望を求めて生き行く為に、強く生活と社会と自己との誘惑と戦おうとした私であったが、少なくとも2年前までは、〓〓社会に対する反抗心を抱いていた。2年前、〓〓若き日の情熱、理想、憧憬、期待、努力、あらゆる矛盾に対する懐疑と反抗、〓〓しかしその夢は破れ果てた。 現在私の内心を彷徨するものは『絶望』にほかならない、2年間の空白、故郷の生活、空漠たる人生の荒野、其処に私と言うう実存的なものはなかった。 夢遊病者のように私は吐き出されたそして歩いた、 くたくたになった中折れ帽、赤茶けた背広、古びたオーバー、何処で拾ったか分からない様な編み上げぐつ、手には小さな風呂敷包みをさげた一人の青年が先程ついたばかりの列車から吐き出され、むゅう病者の様にふらふらと彷徨う様に歩いていた。
酔いどれの様にふらふらとネオン輝く大阪駅前のとある街角を横にそれ、美しく飾られた店頭に、始めて私は私の其処に存在する姿、すなわち自己を認めた。 どこか人懐かしそうな瞳の少女が私を見つめている。 ふらふらと奥に入り一冊の本を引き出した。 『永遠なる序章』と書かれている、 私は何のために大阪に来たのだろう、美しく着飾った人の波、彼らは夫々自分自分の生活を営んでいる、だが彼らには一体何の用事があるのだろう、
薄汚れた場末の街角、其処にある書店、向こうのパンヤ、下駄や、肉屋、うどんや、化粧品店、呉服屋、雑然と立ち並んだごみごみとした大阪、蜜柑の皮、林檎の皮、魚の匂い、ぐっと空腹の私の鼻を突く天ぷらの匂い、垢じみた学生服、スマートな紳士、その肩に縋るように歩いて行く娘、俗に云う淑女、ぼろぼろのズボンにジャンバーを着た労働者、ルンペン、何処かの小僧、美しい乙女、そんな彼らを私はじっと眺めていた。
『幾らだ』私は聞いた。
『あのー市民文庫ですね、80円ですわ』
彼女は可笑しさを堪えたような美しい声で答えた。 『フーン』彼は呟くように言ってから急に難しそうな顔をして何かポケットの中をごそごそやっていたが皺くちゃになった10円札やら5円札を掴み出し勘定を済ませて外に出た。クスクスと笑う声を背に受けながら、買い求めた一冊の本をポケットにねじ込んだ私は当てもなく夕闇迫る大阪の町の巷の中にのまれて行った。 彼は読書が好きだった。小学校を卒業して以来ずっと故郷で暮らしていた。
農村はあまりにも平凡である彼は次第に内省的になり自己沈潜を好む様になっていた、そうした彼を救ってくれるものは唯一つ読書だった。彼の毎日は孤独との闘いだった。 単調な日常の生活は彼の希望と新しい理想に対する憧憬とを次第に失わせて行った。彼は新しいものを何らかの刺激物を求めてこの大阪にやってきた。 ぽんぽんと誰かに肩を打たれたような気がした私は振り向いた。
『まあヤッパリ貴方だったのだね私誰だろうと思っていたのよ』
ぼうっと上気した寿美の姿が其処に立っていた。〓〓一瞬、何か暖流に似たそよ風が電流のように流れ去っていく、そしてすぐまた冷たい先刻までの考えが頭脳を支配した。
『どうしたんだ君は、今頃こんな所を彷徨って』
私は呟やく様に言った寿美の瞳はじっと私を見つめている、
『面白いかい、大阪の生活って』
私は聞いた。
『面白いと言えば面白いし淋しいことも悲しい事も、〓』
彼女は後をこたえなかった。 稲刈りの最中のある日、今春小学校の高等科を卒業したばかりの寿美は阪神に近いどこかの工場に出稼ぎして来たとの事だった。
『お父さんから貰った2000円の金も道中金の旅費として消えてしまいました』と、彼女は言った。
朝五時に起きて6時より午後6時まで工場で働く、およそ労働基準法も何かの保護法も現実を無視した法律製造業者の目には届かない所で、19世紀的な家内工業の遅々たる非能率の機械によって此には近代と言うものがないかのごとく彼女たちは働かされている、日給50円、1カ月働いて1500円、
『それでもご飯を食べさせて貰えるんですもの』と云う彼女の言葉には、実際笑えない真実なものが潜んでいる。
無邪気な寿美、漸く春の訪れをしる彼女、然しまた何の苦しみも悩みもなさそうな紅顔の彼女の瞳を私はじっと見つめていた。 小さな胸は波打ってる、それでも新しいオーバーに運動靴を穿いた彼女の姿は清く美しいがその切り詰めた生活を思わせる。 『さー』と吹き寄せる冷たい風、遠く煙った彼方の山は『生駒』の連山なのか、 私の頭上には氷の山が浮かんだ。 正月だと云うのに道路は下駄ばき、鉢伏の荒野でも五寸は積もったろうか、スキーなど夢にも出来ない、そして私は今ここにいる、私は周囲を見回した。つい先刻まで私の眼前にいた寿美の姿は見えない、 私は更に前方を見た。
『変だ』
どうも変だ、ここは大阪の町だった筈だが、暗い闇の中に私は一人立っていた。 何処かで電車の音が聞こえる様だつた。
はるか彼方に遠く近く海の呻きの波の音も聞こえてくるよう、 『ゴーうー』と聞こえてくる山鳴りと共に 『パラパラ、パラ』と、 あられの様なものが落ちてきたようだった。と、突然、ポーンポーン、ポーンポーンポーン、ポーンポーン、ポーン、ポーンポーンポーンポーン、〓〓、はっと私は驚いて目を覚ました。時計は12時を打ったのだ。鈍い電灯の灯の下に机に向かったまま私は寝ていた。側には『永遠なる序章』『死の影の下に』が積まれていた。 暖かい春雨の様な冬の雨は昨夜より降り続いている。
大阪の街
私は歩いていた。どこかの路地に灯が見える。この微かなあかり、それが今日の日本の運命であるかのような錯覚が私の頭脳を電光の如く走った。
『新年おめでとう』と
何処に行っても年頭を飾る言葉として、人々はこれを口にしている、然し私には新しい年が少しもおめでたいとは思えない、
『講和条約』
すなわち新しい出発、『日本の独立』だから今年はお目出たい、と、考えている人々、嘲笑してやりたい様な苦しさを覚える。
私は生きている事が苦しくなった。 戦後の文学に若い世代を動かしたニヒリズム、単調な生活、果てしない愚痴の連続、暗黒な社会の断面、失業者の群れ、此に生きている現在の我々その代表的な作者は『太宰治』であり『田中秀光』でありそして『椎名麟三』である。1952年と言えば輝かしい歴史の一段階を画すべき年であり、また悲惨な日本の歴史の序幕となるべき年である。 講和条約は成立し、その批准の日も間近に迫っている。 そして我々日本人は独立する、誠にお目出たい次第である。 再軍備、徴兵令、軍事基地、アメリカの為の赤色防波堤、そして私たちは彼らの奴隷と化してゆく、 冷たい夜風が吹き寄せる、映画は終わり、彼らは港町に近い電車道を歩いていた。
『再軍備するんだったら〓、』
と寿美が言った。
『吉田さんや芦田さんは真っ先に一兵卒となって頂きたいものですね』、と、
突然私は大きな声で噴き出した。隣を歩いていた学生が彼の顔を振り向いた、暖房装置の無い映画館は実に寒い、この寒気より身を守るためか分からなかったが私はしっかりと寿美とぴったり寄り添って歩いていた。オーバーを通じて暖かな暖気が交流する。ふさふさとした寿美の長い髪が私の首筋に感じられた。
あの時二人は熱情的な瞳を、画面をじっと見つめていた、 私は寿美の手をしっかりと握っていた。 暖かな寿美の太股のあたりがオーバーを通じて伝わっていた。 私は寿美のオーバーの間から寿美の服の下に手を入れていた。つい先程の事だった、もっと時間が欲しかった。いつのまにか映画が終わっていた。 私は寿美のスカートの下に手を入れていた。
黙って寿美の肌に触れている寿美は映画の画面に食い入る様に眺めながら私のなすがままに任せていた。
あの寿美のふっくらとしたお腹の下に太股の谷があった。 私は黙って手を入れていた、普通なら出来ない映画の世界と現実の世界の中で寿美と私は通じていた。映画は終わった。二人は立ち上がり肩を抱き合い外に出た。 暗闇の大阪の街は昼間の機械のような活動的な姿は見られなかったが、其処にはまた特有の夜の世界が華やかにそして静かに明滅していた。 時々電車が明るい窓の影を舗道に走らせながら過ぎて行く、その時、寿美の顔が妖精の様に浮かびあがった。
『私偶然を信じてますわ』
ふと寿美はたちあがり呟くようにいった。しろい歯がきらきらと輝いた。寿美さんと彼は立ち止まった。
『真実なものが正しいものがそのままの姿で認められる時代は来ないのでしょうか、政治家も資本家も、また一般の人たちも現在の日本の進んでいる方向を知らない筈はありません、然も誰一人として真実を語ろうとしない、僕はアメリカを信ずる事が出来ない、現在の日本は既に批判と表現の自由すら失われつつあるではありませんか、 再軍備によって苦しむのは誰ですか、重い税金、インフレと生活苦、そして一儲けしようと考えているものは誰でしょうか、生産品のストックを無くし、資本の拡張を図ろうとする再軍備、それがやがては、侵略戦争に発展しないと保障出来るでしょうか、インド、ビルマ、フイリッピン、中国、等のアジアは日本の再軍備と日米安全保障条約に対してどんな考えを持っていますか、日本とアメリカが軍事同盟を結んで、アジアを制圧する、と見ているではありませんか』
『然し明日の日本はそんなことを堂々と吐くことすら許されない、僕らに残された唯一の道は文学による風刺よりありません。 文学だけが人間性の自由と権威への反抗を認めてくれる、然しこの文学による批判と表現の自由すら圧迫されつつある、寿美さん、『フアシヅム』の圧迫と僕らは全力を挙げて戦おうではありませんか』
『頑張りましょう』
寿美は力強く言った。
『ああ貴方は僕のベアトリーチエだ』
彼はそう言って手を差し出した冷たい夜風が春風と変わっていた。二人は何時しか固く結ばれた腕を意識した。スクラムを組んだ彼らの心の底から自然に歌声が沸きあがっていた。 二人はそのままの姿勢で抱き合っていた寿美はひどく安定した心持ちだった。 彼らの心はお互いに触れ合い、一つの共鳴の中に結ばれた。 息詰まるような沈黙がしばし続いた。
若い彼らの血潮は電流の如く交錯する、私は彼女の腰に確りと手を回していた。もう言葉は必要なかった。彼女の唇がすぐ其処にあった。 私は寿美の唇の中に深く挿入していった。言葉はなくとも二人はお互いに凡てが触れあうようにそのまま立っていた突然私の感情の中に止むに止まれぬ、制止の聞かぬ衝動が走った私は腰に手を回し確りと彼女を引き寄せていた。絶叫したいような接吻だった。 大阪にきて始めての寿美との接吻だった。故郷の村では出来なかった、大阪に二人は出稼ぎに出ているそのお互いの淋しさと郷愁が若い二人を強い引力が引き寄せたのであった。
青春に捧げる歌
彼女の笑顔を見る度に私の心は
何か憧憬に似たものを感じさせる
そしてその瞳の中にある感情が動いたときに
私は人生に生き行く喜びを感ずる
彼女は私の命の支柱である
そして彼女は私の心の故郷であり
永遠の憧憬に生きる事のできる花である
ああ私には彼女があるこの事実は
日毎の私の生活を美しく強く
そして大きく生きさせる凡てである
おお彼女よ汝は永遠の処女であれと私は願うのである
美しく理性に強い彼女よ
私の不純な欲求を制止してくれたのも
彼女の力であった
私を肉欲の泥沼に陥としめようとした
私の不純な欲求を制止させ美しく守ってくれた
私の愛する彼女の不屈な理性の力であった
私は理性に強く愛に深き彼女に対し
無限の感謝を惜しまない
彼女よどうか強くあれ
例え私たちは一つに結ばれる事が出来なくとも
私たちの心は結ばれた筈だ
私と彼女との間にはなんらの不純な関係も無い
然し私たちは強く結ばれている
十年の昔より愛する彼女
どうして忘れる事が出来ようか
若し私の心より彼女が去ったなら
私は虚無と暗黒と絶望の谷間を彷徨わねばならない
おお彼女よ永遠に若くあれ
そして私と一つの花と咲き一つの実と
結ばれる日を何時までも何時までもまっててくれないか
彼の住む村は氷の山の麓、鉢伏山に囲まれた谷川の奇麗な村である。冬になると若者は出稼ぎしていた。秋11月中旬になると村々は若者が去り、静かな冬景色のなかに女達と老人と牛が一戸に一頭残されている。女は牛を飼いながら、はばき編みや機織りが冬の仕事であった。その長い冬の間、家の守りをするのが女の勤めであった。彼は出稼ぎが嫌だった、出稼ぎせずに炭焼きをした年もあったが灰色の長い冬は若者にとり絶望の谷間であった。その頃の歌である。戦後の一時期、スキー観光のまだ始まらぬ時代であった。 寿美との恋愛、淡く切ない燃え上がる事を知らない初恋の愛、純潔と抑制、肉欲と不純な欲求の制止が当時の恋愛の主流であった。もしそのまま肉体の愛に進行していたならもう一山超えていたであろう、愛の欲求と純潔な教育が遂に二人の愛を遠のけ初恋の愛として永遠に結ばれない愛情となって流されていた。
市岡元町名月湯
私は10日程前に大阪に出てきた。
漸く仕事が見つかった、この仕事にありつくまで流浪の旅を続けた。友達の所を遊んで回り仕事を探したが何処も不景気で就職口は見つからなかった。
『保君の所を訪ねてみよう』と昨日漸く訪ね当てた。
大阪市港区の市岡元町に名月湯はあった富田和太郎という、
『旦那さんよろしくお願いいたします』
彼は手をついて挨拶した。
『君は友達か、内は風呂に炊くばんば集めが君の仕事だ、二人で仲良く集めて欲しい』
名月湯にはおっさんがもう一人いたその人と大八車を引いて風呂の釜焚き用の燃料を製材工場などから集めるのが仕事だった。名月湯の主人は針灸師をしていた、戦争が激しくなり港区の人々は全部田舎のある人は疎開した、親戚も縁者も無かった富田はこの風呂を百円で買った。 激しい戦いの末太平洋戦争は大阪の街街を廃虚にしてしまった。 港区のこの一角は不思議に空襲の爆撃から取り残された。空襲の間仕事はなかったが戦争が終わると人々は仕事を求めて再び大阪に集まってきた。 風呂屋は周辺の住民や疎開から帰ってきた人たちで大変な繁盛であった。 富田は一躍金持ちとなりこの地域の顔役になった。この家には奥さんと知恵遅れの息子、その妹がいた、家族は四人であった。釜焚きの保君とおっさん、と彼、もう一人四国から出てきた娘が女中として勤めている合計八人の家族と従業員であった。
『若はん』とおっさんが言う、
『行きまっか』
『今日からよろしゅう、頼んまっさ』彼は挨拶した。
大八車をころころと大阪造船の工場に行った、ここには木造船が造られていた。船の中に入りばんばを集める、木造船の中には多くの燃料があった。早くも四日が過ぎていた。
蒲団が少し寒いようだ、何故か彼女の顔が浮かんだ、こんな所に働いていると彼女ともあえなくなる、 朝早くより信濃橋から四ッ橋、北堀江のまちまちに行と其処には風呂窯専門の製作工場が並んでいる、その家々を回り小さな家内工業の釜つくり工場に製材機を備えている、のこぎりのしたにはばんばがあった。品袋にばんばを入れて大八車につみ込む、ロープで確りと括り肩につなをかけて両手で車を引っ張って風呂屋に帰る。 午後は築港に行った。造船所を回るが毎日来るほどの荷物が無い、市岡元町から夕凪橋を通り、港区の中心街を歩いて大八車を二人の男が下駄を履いて歩いている。昭和二十五年戦後の大阪のまちでもあまり格好の良い仕事では無かった。
港区の名月湯の一角は焼け残っていたが殆ど全部焼けていた。おっさんの奥さんの家に寄ってみた、子供が一人いた、奥さんは近くの会社に事務員で勤めている、このおっさんには妾がいた、名月湯の近くに彼女の家があった。おっさんは妾と一緒に住んでいたが時々本妻の娘が呼びに来ていた。 戦前かなり商売で儲けていた『おっさん』は二号をつくり家を建てて生活させていた、 戦争で家を焼かれおっさんは二号に家を建ててやり其処に一緒に住んでいた。本妻の家もきれいな家を建てていた。
本妻には一定の収入があった。 生活は安定していたが子供の為に別れられず時々おっさんが泊まりに行ことで夫婦の性生活は満足しているらしい、こんな風呂屋のばんば引きの収入では奥さんと二号と二人の生活を支える収入は無いはずだ。 二号の家に時々おっさんが寄って行、二号の奥さんは美人だったが所帯やつれした貧乏ぐらしだった。
都市はまだ復興していない、女の働く仕事はなかった。焼け落ちたトタンを集めて囲いを作れば焼けた土地は自分のものになった。家を建てたら権利が出来る、登記所も法務局もみな焼けた。 戦前おっさんの生活は羽振りがよく儲けていた。
戦争がみな変えた、商売も出来なくなった。 風呂屋の富田は土地の顔役として幅を利かしていた。 市会議員がやってくる、選挙の票を頼みに来ている、風呂屋には多くの人が集まる、毎日お客さんと世間話をする選挙運動には風呂屋は格好の宣伝場所であった。
『お父さんいます』
『ああいますよ』
『お父さん今晩は家に帰ってきて、お母さんが帰ってと言ってい るわ』
娘が呼びに来ていた。こんな僅かな収入で二号を囲うなど普通では出来ない、女と男の関係は私たちには当時分からなかった。
富田の奥さんはどうみても貧相だ、過去の暮らしがそうさせていたのか、成り上がりものが一時に金を持つとそうなるのか、この奥さんの子供には知恵遅れの男の子がいた。
『あーれーいゃー』
と声がした、ここの女中に知恵遅れの男の子が手を出した。
突然蒲団をめくり、上に乗りかかった、知恵は遅れていてもその方の性的動物的本能は進んでいた。
力一杯女の上に乗りかかり押さえつけていた田舎から出てきた女中は力が強かった。男の金玉を握り手で突き飛ばした。
突然大声を張り上げた。
『どうした』
富田が飛び起きてきた、奥さんも起き出してきた。
『この人が私の部屋に入って来ました』
『もうそんなことしてはいけないよ』
奥さんが注意している、注意していても満更でもなさそうな顔に見えた。私の子供が女中に手を出した、知恵は遅れているが嫁になってくれるなら貰ってやってもいい、奥さんの顔に書いていた。その日間もなく女中は荷物をまとめて国に帰っていった。こんな家にいたら危ない、そう思ったのであろう、
年頃になれば誰でも性的な方面は発達する、知恵が遅れていても性はかえって発達する。その男の子はにやりと笑っていた。
『ううー』
と声をにならない声を出していた。
その家にはもう一人中学位の女の子がいた、奥さんの妹の子供を養っている、その女の子と自分の息子を一緒にさそうと考えていたのだろうか、夕方、おっさんの娘が呼びに来た。
『お父さん用事があるから今晩は家に帰ってきて』
本妻の娘が呼びに来ていた。おっさんは二人の女に挟まれていて大変であろう、私たちのばんば引きはその年毎日続いていた。私にも『結婚』の話が浮上していた。
『それは生涯の私の生活を支配する最大の問題なのである、この第一歩が誤っていたならば私の生涯は誤びように満ちた生涯となるであろう、反面私の第一歩において誤りがなかったとしたならば私の生涯は幸福が約束されているであろう、私は私の道を進まん』
時計の音はカチカチ、カチカチ、カチカチ、カチカチと寸秒を刻んでいる、電車の音は絶え間なく聞こえている。 生きようとすれば苦しい、社会は世の中に生活して行く事は誠実であるよりも要領を必要とするものなのだろうか、そんな筈は無い、然し現実の社会はそうなのだ、当家風呂屋に来てから一カ月を経過していた人生の経験を積んだ、市民社会の悲劇を知った。
青春は再び来ない、懐かしい青年会で活動した頃の思いで、ああ、あれから早くも二年過ぎている、今私も成長し結婚という現実を前にするに至った。
私は苦しんだ如何にするべきや困る実に困る、苦しみの末はどうするべきなのか遂に結論を見いだしえず、 若い日は悩む苦しむ青春とは果敢なくつらく過ぎ去って行く、大阪での出稼ぎの思いでは私たちの故郷を離れて働いたいろいろの人生模様を見た。 港区から堺市えと働く場所が移動した。
私は明くる年堺市の子色湯に行った、子色湯は富士川と云う主人だった、彼は石川県出身であったが当時石川が通れば灰も残らぬと云われていた。彼の奥さんは四国徳島の山奥から出てきて風呂屋の女中をしているとき、富士川と一緒になり所帯を持った。 お互いによく働き一生懸命金を貯めた、貯めたお金を大切に貯金していった少し金が溜まると土地を買った。
子色湯は他人の風呂だったが彼らは二人で借金してその風呂を買った借金を返しながら夫婦二人で働いた、彼はその子色湯に風呂の釜焚きとして働きに行った。 子色湯に美方町から多能と云う男が来ていた彼が釜炊きに来る前の年だった、秋岡の村から出稼ぎに来ていた、毎年秋になると十一月の中頃出てきていた。 多能は色が浅黒く百姓の真面目な男に見えた、毎年続けて三年来ていた、釜炊きも上手になり主人も奥さんもお気に入りだった。 十二時を過ぎると風呂に入りに来る客も減ってきていた、
大阪の繁華街は夜遅くまでお客さんが入りに来る、堺市のこのあたりは働くものが多く夜の商売も早く終わるのでもう風呂の掃除を始めていた。夜遅くなると奥さんも手伝ったり風呂で洗濯を始めていた、お客さんが帰らないと洗濯は出来ない、洗濯の盥をだして衣類の洗濯を始める、石鹸をつけて手で擦る、足で踏む、洗濯機の無いこの時代には洗濯は主婦の仕事だった。 風呂場には裸で入る、着物を着ていると湯気で濡れる、白い肌の奥さんが毎日よる十二時を過ぎると女湯で洗濯を始めるのが日課になってきていた、
始めは多能も真面目でふるさとの妻の事が思い出されていた、彼も裸で毎晩風呂の掃除をしている、十二時を過ぎてから急いで掃除をしていても一時間以上かかる、奥さんは毎晩子供たちや家族の洗濯ものが山ほどたまった。きれい好きの奥さんは毎晩洗濯が日課になった。一月が過ぎていた、ふるさとの妻と別れて出稼ぎしてもう二カ月になっていた。 その夜風呂屋の主人は組合の会議に出席していた、奥さんは毎晩主人の悪口を言う、
『うちの主人はわたしを可愛がってくれない、こんな主人と一緒になって後悔している』
『奥さんそれでも主人を愛しているでしょう』
『愛してなんかいないんよ、内に仕事を押しつけて自分はパチンコに行ったり遊んだり、こんな主人と一緒にならなければ良かった』
『それでも奥さん三人も子供が出来て好きなんでしょう』
『嫌よあんな人別れたいわよ』
毎晩のように奥さんは主人の悪口を言っていた、まるで悪口を言うのが口癖みたいであったがそれでも毎晩主人と寝ている、一緒に所帯を持って十年は経っていた、 奥さんが洗濯をしている近くのタイルを擦る、時々多能の体が奥さんの体に触れていた。多能は家を出てから二カ月妻との交渉が無かった。 二人は結ばれていた。そのことが主人に感づかれていた、子供たちにもばれた、然しお互いに借金がある、二人別れたら生活出来ない、主人も奥さんも子供たちを捨てて別れるほどの決心はなかった。その年を境に次の年から多能は再び風呂屋に来れなかった。 多能が来なくなり彼はその後に釜炊きに来るようになった。
初恋の人寿美と美知
奥さんは夜洗濯をしながら時々彼の方を眺めていた、彼には新婚の妻が家で待っている、こんな奥さんには魅力がなかった、くっついてきても拒絶する、他所の女の事など考える余裕はなかった。
釜炊きという仕事は石炭や燃料を釜に注ぎ込み風呂の温度を下げないように注意していれば毎日本が読める、単調な毎日であるが仕事は楽で時間は有り余るほど自由であった。
『私の内心を去来した一つの思考は漸くまとまり、母の勧める
『都』を貰うことに決心していた』
寿美との恋愛もあったが親の勧める女にしょうかと考えていた、決まったとしても未だその予備交渉の段階に達していない、貰えるかどうか分からぬ段階だった。
結婚と言えば人生の墓場の如く考えていた彼にとって漸く落ち着いた生活の出来る永遠の安住の地のような人生の再出発の基地のような気持ちに変わっていた、
その頃彼の母より手紙が来ていた、寿美と分かれよと言っていた母、母の勧めた女との縁談が不可なるを知る、
『都を貰いに行ったが都の母があの人には好い人がいるから』
と断られたとの手紙が来ていた。
寿美を断わり、母の勧める縁談も不可となり彼は二兎を追うものは一兎を得ずとなった、子供の頃からの初恋の人を断った私は毎日悩み苦しんでいた何故断ったのだろう、
『縁が無かったんだ』
私はそう自分に言い聞かせていた。
初恋の愛とは甘く切ない愛である、多くの場合結ばれる事の少ないのが初恋の愛であろう、彼の初恋の愛は自ら寿美を断っていた、あの日の接吻は甘く切ないものだった。
たった一度の接吻だった、だがあの日の甘く酸っぱいようなキスの味が彼の心の中に何時までも残っていた。
数十年の後までも初恋の味は忘れられない、彼女の首に手を回していた。
堪らなくなりながらも処女を侵してはならない、結婚までは純潔でいたい、性的な欲求を押さえる事が純情な愛であった。
自ら断った愛だった、愛とは何だろうか、心とは何だろうか、その時は何時でも元に戻ることが出来ると考えていた、後戻りは許されなかった、初恋の愛、然し忘れられない初恋の愛、私はでもそれが私たちの運命だったのだと今も思っている。
寿美は彼に強く迫る事はなかった、何時も私から誘いかけていた、誘わないときには彼女から積極的に誘いかけはなかった、淡い恋心の愛、でも忘れられない愛、何時までも燃えることなく燃え上がらず、燻る事無く清水の様に流れている淡く清く微かな恋心の初恋の恋情、初恋がそのまま結婚に発展する人たちは幸せな人たちなのだろう、
純潔と清い愛情、何時までも心の奥深く忘れられない初恋の愛情、戦前と戦後の少なくとも純潔教育を受けた世代でなくては理解出来ない愛情のあり方だった。
風呂屋の釜を炊いていると裏側から小さな穴が造られている、其処から覗くと水道の水が出ているか止まっているのかが分かる、水道の水が出ていれば湯は熱く湯が減らない、水道の水が止まっていると湯の温度が低く風呂の温度が下がりつつある、従って風呂の湯の温度を上げるため湯を出し風呂を炊く必要がある、何処の風呂屋にもこの覗き見する穴が作られている。ついでながら女の裸も覗く事も出来る、然し女のからだを見ようと思えば何時でも番台に行けば見られる、風呂のタイルの掃除に早く入れば毎日女は見られる、別段女の裸の姿など目珍しくない、 女は着ものを着て蒲団の中で抱き合ったとき始めて性欲が沸くものである、風呂屋の仕事で毎日見ていると別段あれが勃起などしなくなるものである、
ちらちらと見え隠れする姿態は堪らなく妖艶であり魅力ある女性に見えるが、風呂に入りに来ている女はまったく魅力ない物体に過ぎない、現在の都会はマンションが多くなり一戸建て住宅も大抵風呂は個人の住宅に設備としてある、 風呂のない銭湯など今頃の住宅にはなくなり風呂屋の経営は次第に苦しくなってきた。 風呂屋の経営は最低まいにち150人以上来ないと経営が成り立たない、300人位のお客さんが毎日こないと楽な儲かる風呂屋とはいえないと言われている、
風呂屋の経営は家族主体の個人経営だからやっていける、全部他人を雇っていると人件費で赤字となる、夏は個人経営で炊いても冬だけ他人を頼む風呂屋が多かった。 今は設備の良い温泉の様な設備と按摩などの設備の整った風呂屋は繁盛しているが小さな風呂屋は廃業が目だっている、 私はその風呂に3年間冬の間出稼ぎしていた。
春になると家に帰った、 寿美との恋愛と遂に結ばれることなく何時しか別れていた、何故別れたのか自分にも分からなかった、初恋とは淡く切なく燃え上がることなく咲いた、満開を迎えず何時までも続きそして何時しか消えていた。
性欲の対象としての愛では無かった、純粋な愛を求めていた、『プラトニックラブ』初恋の人に求めた愛だった。
私が始めて寿美を意識したのは小学校の頃だった。秋の美しく輝く柿の様にひかり輝き宝石の様だった、私の心に寿美が入っていた、寿美はなぜこんなに美しいのだろう、何気なく彼女の顔に私の目は吸い込まれていっていた。 小学校の校庭だった、整列した生徒の中に寿美は一人背が高く輝いていた、愛とか恋とか何も分からなかった、子供心に美しいと意識していた。特別の感情を抱くようになったのは卒業し青年になってからだった、毎日手紙を書いていた、書いても渡す事が出来なかった、渡す機会がなかった。それがラブレターだと分かったのはもっと後の事だった。
ラブレターを書く愛の意識、別段人に教えられた訳でもなかった、自然発生的に年頃になれば春の芽が吹き愛情の形が生まれる、寿美との愛情は折にふれて私の心の中に燃え上がる春の嵐のように毎年の様に吹き荒れて来ていた、妻が嫁に来ていた、 結婚しても初恋の人は忘れられない、寿美の面影が妻の顔と重なって見えている、心は寿美の方に行っていた、体は妻の上に乗っている、私は何ものなのだろうか、これが現実の私なのだろうか、妻美知を抱きしめていた。
美知の顔と寿美の顔が重なって見えている、時々背筋に冷たいものが走っていた、それは後悔に似たものなのだろうか、後悔はしていなかった。 妻美知は美人である、寿美とは較べる可くもなく美人であった、穏和で抱擁とした性格で奇麗な言葉を使う、何ものにも変えがたい私の妻となっていた、私の為に尽くしている、どんなことにも不服を言わず應援してくれている、二人は仲良く家庭生活と夫婦の生活をしている、だのに何故だろうか、時々寿美の面影が美知の上に寿美のあの面影が美知の現実の顔の上に重なって見えている、初恋の人以外に私の周囲には多くの女子青年が取り巻いていた、然し寿美以外の人たちとの恋情はなかった。 青年団員としての交際は多くの人たちと付き合っている、交際とは遊びなのである、遊びの交際でも男と女を意識してからは恋愛感情なくしての付き合いは成り立ち難くなってくる、 燃えることなく消えることなく淡く清く何時までも、何時までも続いている初恋の愛、今の世の中には今の若者たちの恋愛や交際の中には芽生えることは無いのだろうか、否、人間である以上そうした感情はあり続けるだろう、初恋の愛は今も昔も人である限り何時までも続く愛情の形なのだろう、 『プラトニックラブ』 私たちの時代に憧れていた神の愛、清い愛、何時までも続く永遠の愛、肉体と精神の別居した清い愛などとは凡そ現代社会の若者たちの中には受け入れられない愛情の変形であろう、
現代の愛情とはテレビや雑誌、マスコミの直接てき表現とすぐに行動に走らせる社会、小さな子供の時からキッスや肉体の接触を見せつけている毎日の報道、私たちの時代にはそうした報道は無かった、それが自然であり自然な愛情の表現であった。 あの日寿美を抱きしめ接吻した、寿美も私を抱きしめていた、それ以上の事は無かった、寿美も要求しなかった、私もそれ以上の要求はしなかった、そのまま年月が過ぎ去っていった。 淡く切なく燃え盛ることなく消えることなく、心の中で咲いて行く寿美の面影を抱いて私の心の中に永遠の面影の人として、象徴としての彼女として奥深く秘められ遂に再び燃え上がる事はなかった。その寿美が、妻美知を抱いたとき美知の顔の上に寿美が移り出されている、肉体関係は一度もなくたった一度の口付けの寿美が私の心の中に今も強く残っている、 それは其処には現実に生きている年老いた寿美では無かった、若かりし二十歳の頃の寿美の面影だった。美知の忘れられない面影と共に20歳の頃の寿美の面影が今も私の心の中に生き続けている。 美知とは見合い結婚だった。父と母の進めた見合い相手に何時しか話に乗っていた、何故話に乗っていたのか今も分からない、たった一度の見合いだった、見合い相手の美知と意気統合していたのだろうか、反対の理由は無かった、 『嫌だ』と言えば拒否出来ていた、拒否も賛成もしなかった、知らぬ間に世話人が話しを進めているらしかった。 寿美とのたった一度の接吻を忘れた訳ではなかったが遂に燃え上がること無く遠ざかりお互いが会う事もなく何年かすぎて行った。初恋とは淡く切なく熱烈な感情の表現として切迫した気持ちにならずに消えていた、消えていた筈であった、然し火は消えていなかった、何時までも淡く切なく咲いている、それが初恋の花なのであろうか、index.htm へのリンク
平成19年ふとしたことから高野山大学大学院に学んだ。四国の旅から10年を経過している。78歳になった。
旅行記とともに新しい高野山についても記録して置きたいと思いここに記す。
シルクロードの旅で玄奘三蔵の足跡もインド、ネパール、パキスタン、中国と辿った。
弘法大師空海の思想は何回も中国、に旅し日本人が前人未踏の2400kmの台湾海峡、空海坊から西安まで18日間の旅をした。北京や上海の仏教寺院にも訪れた。密教学特殊研究1、として、{空海の思想}特殊研究2、として国際人としての空海の研究などがある。水戸黄門は既にインドの釈迦の生まれたネパールの聖地、インドの八大聖地の旅をした。中国奥地の新疆の仏教遺跡の調査、今年は更に沙漠の月牙泉にも行った。理論的に学ぶのも面白そうだ。
死ぬまでに僧侶の資格を取るのも地獄の閻魔さんの土産になるかもしれない。 水戸黄門
曼荼羅、マンダラ、の本を3サツ求めた。高野山の大学近くの書店から買った。「マンダラ講話」頼富本宏著。種智院大学講師、「曼荼羅の世界」真鍋俊照著、「真言密教とマンダラ」大法輪閣、多くの人たちにより書かれている、研究の書である。6日、買ってから「マンダラ講話」を読み始めた。7日帰りながら電車の中でも読む。
頼富本広氏は高野山派ではない、東寺や大覚寺、善通寺、興福寺などでの講演をしているところから高野山派ではない、が、私が旅したインド、ダラック地方の寺院やインド各地のマンダラには、金剛界曼荼羅と、胎蔵界曼荼羅の両界曼荼羅を説き、詳しく、そして初心者にも分かりやすく説いている。曼荼羅の中にある13佛についても詳しく説いている
明日の朝、愈々高野山に出かける、信仰でもない、仏様を拝みに行くのでもない。「弘法大師空海」を解剖し、歴史的事実を解明し、四国の88ヶ所や、中国の弘法大師空海の足跡が事実かどうかの研究を始めようと云う魂胆からである。高野山とその仏像をビデオに写し映像をDVDの画像に収め発表してゆく積もりである。
何事も研究である。世の中に有り難いことなどあろう筈が無い。所詮、人間が作った偶像である。この間から
「伊達政宗」を読んでいる、が、豊臣秀吉、徳川家康、と朝鮮戦争当時の出兵の裏表がよく分かる、戦国武将の戦略は今の時代に生きている者に取り参考になる人生の教科書である。こんな本を読まずに20年間も本棚の埃に埋めていた水戸黄門の愚かさを思い知らされているこのごろである。
面白そうなのは遍路実習4単位がある。水戸黄門は四国八十八け所を全部二回くらい参っている。
密教学概論ではインドにおける密教の確立とそのアジア各地への伝播の課程に見られる、文化的特性について概観する。とある。密教史概説は、紀元前5世紀に釈尊によって説かれた仏教が、原始仏教、部派仏教、大乗仏教へと展開し、6世紀に至り最後に花開いたのが密教であった。その起こりからインド、中国、日本、そしてチベットに展開した密教の歴史を概観する。とある。
弘法大師空海の思想は何回も中国、に旅し日本人が前人未踏の2400kmの台湾海峡、空海坊から西安まで18日間の旅をした。北京や上海の仏教寺院にも訪れた。密教学特殊研究1、として、{空海の思想}特殊研究2、として国際人としての空海の研究などがある。水戸黄門は既にインドの釈迦の生まれたネパールの聖地、インドの八大聖地の旅をした。中国奥地の新疆の仏教遺跡の調査、今年は更に沙漠の月牙泉にも行った。理論的に学ぶのも面白そうだ。
死ぬまでに僧侶の資格を取るのも地獄の閻魔さんの土産になるかもしれない。以上は平成19年5月記 水戸黄門
「面白い葬式だな」葬式に面白い葬式などない、然し普通の葬儀式とは全く違っていた。
M子は氷の山の麓の菜良尾村から嫁に来ていた。度々病を得た。
「私、くすり袋と友達のような女だわ」
いつもM子はそう言っていた。葬式が始まった日は雨が止み、故人となったM子の最後の葬儀式を盛大に見送りの人達の波で埋めつくされていた。
大松明、六導、四本幡、竜頭、華籠、野灯籠、盛り物「造花」、四花、香呂、尊湯、尊茶、御膳、位牌、遺影、御棺、天蓋。と、続く。これが但馬関宮町地方の葬儀式の順序である。
普通、大松明から 野灯篭までは親戚や村の人たちで行列をつくる。盛り物「造花」は一般の行列に参加する人達の順番である。
普通の村の葬式では町長、議会議長、議員、助役、各種団体長、村の老人会長以下、村の老人が並び其の後に一般の参列者の名前が呼ばれる。
T村、M子の葬儀は真っ先にM子の生前の取引先の名前が呼ばれた。「ポーラ化粧品株式会社様」そして「亜喜寿会」の人たちが呼ばれた。綺麗な女の人たちが葬儀式に大勢さんかしている。
「面白い葬式だな」「誰が考えたのだろう」私は隣の山下町長と話していた。
T村の役員は度々葬式を経験した人たちが大勢いる。部落葬である。
村を挙げての葬式は五十軒以上もある村としては珍しい。大久保村の方では村葬はしない、親戚や隣保、近所の人たちで行う、従って葬式に慣れた人たちが少ない、最後を飾る葬式は誰しも盛大に行いたい、其々の村々で習慣や葬式の順序はみな違う、T村では式の霊前に祈る親戚の順序が無かった。香呂を回すだけで一人一人霊前に出なくても良い、これは良い方法である。時間が早い、この順序を間違えると親戚でもめることがある。
盛大な葬儀式、M子は何回か死にかけていた。
八鹿の病院に出て度々注射してもろう、「もう駄目か」な、と思ったが生き返っていた。
「肝硬変」字が間違っているかもしれない、病気のことは私にはよく分からないが肝臓が悪かった。肝臓の病気は全快しない、良くて横ばい、一度かかるとそれ以上進行しないように体に気を付ける以外に方法の無い病気である
私の弟も肝臓をやられて久しい、もう二十数年前から肝臓病と付き合っている。
嫁が徹底的に管理している。あれほど好きな酒とタバコを止めさせていた。食事は味の薄い野菜が多い、薬は毎回色々な薬を調合して飲ませている。運動は毎日かかさず歩いている。ヨーロッパ旅行に一緒に行ったときも良く歩いた。私は少し歩くと疲れる、ほとんど歩かない、面倒くさい、歩かずに毎日ワープロやパソコンに打ち込んだ。
お陰で血圧が高くなっている。酒とビール、焼酎のお湯割りは欠かさない。スキーと毎日のパソコンにホームページの書き込みが楽しみである。M子は菜良尾村の太郎の長女として生まれた。
長女といっても五男一女の末っ子である。三人の兄は支那事変、太平洋戦争で戦死した。二人の兄も少し若死にであった。肝硬変の様な病気であった。
体質的に肝臓が悪い、遺伝だろうか、私の弟も肝臓が悪い、胃の悪い弱い体質、この体質の人間は早くから予防する必要がある。太郎は私の母の叔父である。従ってM子と私は従姉弟である。子供の頃は初恋の人であった。
人間だれしも近くの人に恋する時期がある。淡い恋情燃えることなく消えることなく心の奥深く過ぎ去っていた。
初恋が結婚に進むことは少ない、私が結婚した年、その年の秋、T村に嫁に行った。樽持ちは同じ村の南岡さんが樽を担いだと、葬式の日にはなしてくれた。もう、五十年近い昔の話である。昔の結婚式は自分家で式と披露宴をしていた。あくる日は村の婦人会を呼ぶ、そのあくる日は友人を呼ぶ、御馳走が数日続く、嫁に来た家に初めて行くとき「婿入り」と言った。新婚旅行はなかった。新婚旅行に山にたき物運びに行く位である。従って新婚旅行は親の家に婿入りするのが新婚旅行であった。
T村の家は父と母が早くから亡くなり、生活は苦しく、M子は結婚してから夫の兄弟の面倒をみながら色々と商売を替えた。夫は若いときから商売は好きだった。親譲りの商売の才覚があった。
戦後、耕耘機が農村に普及するといち早く耕運機の販売と修理を始めた。T村から奥の村には耕運機の店は無かった。やがて耕運機の商売から世の中は自動車の時代になり軽トラックなどの販売と修理を手がけた。
M子は生命保険の仕事を始めてみたが長く続かなかった。そのころポーラ化粧品の代理店を引き受けた。
化粧品は飛ぶように売れた。夫の車の修理とポーラ化粧品販売で子供達の生活の苦難の時期を乗り切った。
二人の子供は成人した。M子は早くから肝臓の病と友達のようになりながら病院に通い薬を飲み、病気の進行を防いでいた。M子の夫はそんなある日、突然癌に侵された。
M子が先に死ぬだろう、と、云われていた、そんなある日M子の夫はあの世に逝った。
息子とM子は突然の夫の死に唖然とした。何とかしなければと息子は立ち上がった。
自動車修理工場はその頃できた。借入金が大きくのしかかる中、M子は息子を助けて頑張った。
孫も次々に生まれた。その孫の子守をしながらM子は苦しい生活の中、肝硬変と戦いながら化粧品販売に回っていた。選挙に出た頃は選挙運動の影の人として多くの友人の支持者を集めてくれた。
青年団の若き日の、お互いの淡い恋情が心の奥底で流れていたのかもしれない。化粧品販売は多くの人たちとの付き合いがあった。その付き合いの人たちを選挙に頼んだ。若い頃青年団で村芝居をやっていた。村芝居はヤクザものが主流であった。戦後の村村には復員した若者が溢れていた。何の娯楽も無かった。村芝居の練習と発表が青年の人気を集めた。アコーデオン演奏、歌と踊りが青年の戦後の唯一の娯楽だった。その頃、菜良尾青年団で習ったヤクザ踊りがM子の生涯の生きがいとなろうとは、何時までも青年時代の思い出が心の奥深く底流として流れている。村芝居のヤクザもの、大利根月夜、清水の次郎長。森の石松。戦後の一世を風靡していた。
菜良尾の村芝居の指導者は京都で無声映画の弁士をしていた長村太一郎だった。無声映画の弁士は当時の映画俳優以上の俳優だった。その長村太一郎の指導を受けヤクザ踊りを習った。
ヤクザの着物姿で刀を差して踊る、見物人はヤンヤの拍手喝采だった。戦後の村芝居、若き日の思い出がM子のヤクザ踊りの精神的支柱であったろう。
近年に至りそのヤクザ踊を指導したのは亜喜寿会の先生だった。葬式のとき亜喜寿会の人たちが多く参加していた。
「面白い葬式だな」
私はそう言った。隣にいた山下町長も頷いた。
M子の娘は高宮に嫁に行った。私はM子の危篤を知らされ八鹿病院に見舞いに出た、
知子ちゃんの娘、M子の孫を始めてみた。綺麗な女の子だ。
「内に嫁にきてくれいや」
「おじさんにや」
「おじさんに来る筈ないだろう、孫にきてくれ」
M子が亡くなると縁が薄くなる。綺麗な女の子だ。別嬪さんになっている。
何とか内の孫に貰いたい。
「うちに来てくれ」
「ああ、行ってもいいよ、叔父さん」
「何処の学校行っている」
「看護学校」
正看を取るため後、二年ゆくらしい、M子が亡くなりその孫を嫁に、と、話は出来た。
後は私の孫に話をつける順番だ。大学三年、後一年、そして就職、生活が安定しなければ結婚など出来ないだろう、それにしても本人にどう話をつければ良いのか、携帯電話の番号を知らせよう、住所と電話番号。はてさてこの話しうまくゆくかなー。孫にどう話を切り出すか、私の孫と、M子の孫が結ばれることを祈りながら、少し早かったが度々の死を乗り越えて息子達を助け頑張ったM子おばあさんの冥土のたびを祈っている。
多分今頃、極楽浄土のたびを続けているだろう。私も、もうすぐ地獄の閻魔大王に会いに行く、私の場合は閻魔大王に会ったら帰ってきて地獄の旅行記を書くのが楽しみである
四国八十八ヶ寺高野山聖地巡礼旅。
四国88ヶ寺は思い出に残る旅であった。2年ほど前から四国88ヶ寺巡りを計画していた。平成6年10月28日午前6時1台の車が関宮町万久里を出発した。
上田、藤原、他総勢7人の寺参りの一行であった。山陽道に乗ったのは午前8時少し前だった。関宮町より高知県南国市まで合計353KMある。途中トイレ休憩はしたが車は順調に走っていた。東垣さんは身体障害者、高速代が半額である。瀬戸大橋を渡り与島で休憩した。始めてみる瀬戸大橋与島は駐車場の広い観光地であった。その頃は瀬戸大橋開通後間も無い頃であり、瀬戸大橋は大勢の人達が四国観光に訪れていた。
最近の瀬戸大橋は、私達関宮町の国道9号線より通行量は少ない。大橋をすれ違う車の数は最近めっきり減った。与島の広大な駐車場や物売りの売店は閑古鳥が鳴いている。もう瀬戸大橋は無料にしたほうが人件費が掛からず良いのではないか。今から民間委託しても、もうどうにもならないだろう。ここから高知自動車道まで走った。四国横断自動車道である。南国市に着いたのは午前12時だった。
四国88ヶ寺めぐり第1回は土佐の高知の善楽寺から始めた。30番札所である。善楽寺は本尊、阿弥陀如来、開基は弘法大師、真言宗豊山派である。 同じく30番、安楽寺があった、何故同じ番号なのだろう ? と思い調べたら安楽寺は奥の院だった。30番善楽寺、安楽寺ともに本尊阿弥陀如来、弘法大師の開基である。
奥の院安楽寺は延喜の頃、菅原道真の長子、高視朝臣がこの地に配流され天満宮を創祀、?明治9年神仏分離令により、阿弥陀如来を遷座した。
31番竹林寺は五台山公園の中にあった。有名な土佐の高知のはりまや橋から6KM山上の公園である。竹林寺は五台山の上にあり高知市一番の観光地である。可愛い猫が多数いた。「ニヤ−オ ニヤ−オ」と、足元に来た。
32番禅師峰寺は五台山から6KM、南国市から浦戸大橋をわたり33番雪渓寺に行き桂浜の民宿桂苑にとまった。新しい綺麗な民宿だった。桂浜に行く度その前を通ったが思い出の宿だった。後年再び桂浜を訪れたとき太平洋の見える竜頭岬の丘の上に立つ坂本龍馬の巨像を見た。竜王岬もある。白い砂浜、風光明媚な桂浜に坂本龍馬は、はるかな太平洋を眺めていた。民宿桂苑。電話0888−42−2848番がある。
33番、雪渓寺に参ったときは5時になっていた。ここの坊主は「へんこな坊主」だ。5時になったら判を押してくれない、「明日また来たら2人ぶん押してやる」と言う。こんな所もう来るものかと腹が立ったが、88ヶ寺に来たと云う証拠になる判を押して貰わぬと証拠が残らない。やむを得ず次ぎの日又訪れたが、先客があった。第2日目は33番雪渓寺から始めた。その日は大雨が降っていた。本尊は薬師如来、臨済宗妙心寺派、受け付けに行って見ると先客が大勢の団体客の記帳を持って行き、昨日の「へんこな坊主」が横も見ず書いている。昨日も時間ぎりぎりに来た。今度きたら2人ぶん書いてやると言ったのに順番を待たねばならない、そんなことしていたら30分は待たねばならない「こんな「へんこな坊主」の寺に2度とくるか」と大声で文句を言いながら次ぎの寺に行った。1ヶ寺抜けても88ヶ寺廻ったことにならない、寺参りは腹を立ててはいけない事に直ぐ気づいたが、結局明くる年又行くことになった。仏さんが罰を当てた。仏とは罰を当てぬものと思っていたが88ヶ寺全部の記帳がそろわぬといけない。
その日は34番種間寺から35番清滝寺、から36番青竜寺に行くのに宇佐大橋を渡らぬといけないが、この橋は有料である。36番には奥の院があった。曲がりくねった道は横浪黒潮ラインと名がつけられていた。7曲がり8坂、7つも8つもトンネルを抜けてやっと37番岩本寺に着いた、37番岩本寺から足摺岬までの道は、くねりくねりと大変な道だった。38番金剛福寺、39番延光寺、40番観自在寺まで車を走らせた。左に太平洋の打ち寄せる美しい海岸線を眺めながらのドライブであった。
行けども行けども長い長い距離だった。長い海岸線を走っていた。土佐清水市足摺岬の金剛福寺は、岬の突端にある良い寺であった。猛烈な台風のような雨と風が吹いていた。太平洋か東シナ海の突端の寺に行く道は風速40メートル以上の暴風が吹き荒れていた。良い寺は便利の悪い所にあっても多くの人々を集めている。人々は何故こんな便利の悪い寺に大勢お参りするのだろうか、印象に残る寺であった。
後年、平成16年再び金剛福寺にお参りした。金剛福寺は大きなお寺だった。弘法大師の開基、真言宗豊山派、本尊は三面千手観世音菩薩。二回目のときは足摺岬の突端の宿に泊まった。ここでカメラを落としたら壊れたので新調した。ソニーのカメラは500万画素あるがメール送信用にもなる便利なカメラだ。カメラを落としたのも、カメラが新調できたのも、金剛福寺の仏さまのお蔭だった。このカメラで多くの画像撮影が出来ている。
このときは鳥取県岩美町のジエイ、ワン、観光。が寺参り専属のバスを出していた。
電話0120−4494−88番である。ここに電話すれば何時でも四国88ヶ寺は勿論西国33ヶ寺、中国33ヶ寺参りも毎週、年中バスが出ている。鳥取発、豊岡、から和田山、姫路まで何処からでも乗せてくれます。日帰りで8000円以内。勿論昼食つき。1泊2日で2万6000円前後です。最後の清流四万十川の船旅もあった。
土佐清水市を後に宇和島に着いたのは夕方5時を過ぎていた。宿の予約をしていなかった。早くから予約をしても何処まで行けるのか検討がつかなかった。宿は行き着きバッタリにその日に探す。調べてあった電話番号に電話してみた。「どうぞ、お待ちしています」宿の奥さんが言った。やれやれ宿が決まった。足摺岬から伊予の宇和島まで、行けども行けども遠い遠い距離があった。途中、宿毛市に39番延光寺、40番は御荘町に観自在寺があった。金剛福寺から延光寺付近の足摺岬は足摺宇和海国立公園であり道の悪い絶景である。延光寺から暫く進むと高知県から愛媛県に入った。「西海鹿島海中公園」と、「宇和海中公園」が続いていた。このあたりも
「足摺宇和海、国立公園」の内に入るらしい。野生の猿、鹿の生息地であり、其処に至る西海道路は、その海岸線は、夕日が沈む前の美しく印象に残る眺めであった。10年近く経った今でもあの絶景は忘れられない、瞼の底に焼き付いている。昨年、再び訪れたとき、中国奥地のタクラマカン砂漠の旅でご一緒した五荘町の観自在寺の寺の檀家の寺島さんと再会した。その寺島さんは昨年他界した。と、ご家族から礼状が届いた。
この当たりに泊まろうかと考えたが、明日の朝から家に帰ることを考えると、どうしても宇和島まで行く必要があった。夕方5時を廻っていた。今晩の宿は未だ決まっていなかった。上田さんは予約せず「フリ」で宿に泊まるのが好きな人だったがこの日はさすがに慌てていた。今晩とまる宿が無いくらい不安な旅はない、「なんとかなるさ、」何時も「ふり」で夕方宿を探す、その日も私は宿の心当たりの電話番号を調べていた。「電話して見よう」突然池田さんが言った。私は車から降りて電話した。宿の予約をしてからかなり走っていた。漸く宇和島港が見えた。宇和島市は愛媛県でも有数の綺麗な城下町である。少し薄暗くなりかけた頃、漸く「木屋旅館」に着いた。
「木屋旅館」は 落ち着いた大名の泊まるような宿だった。宇和島市のど真ん中の一等地に木屋旅館はあった。近くに宇和島城もある。金屏風のフスマ。木造建築だが御殿のような造りの宿だった。
もう1回泊まってみたい思いでの宿である。宿泊料1万円は安かった。宿の造りが違う、食器も器も昔の殿様が食べるような品をそろえて出されていた。部屋の造りも上品であった。今まで多くの宿に泊まったが、こんな造りと仕組みの宿に泊まったのは始めてだった。上品な奥さんだった。遍路の泊まるような宿ではない、物腰の静かな美人の奥さんは丁寧に挨拶した。便利の悪い宇和島であるが、ここまできてこの宿に泊まる人は大学教授か外人か、政府高官の泊まるところだろう。いづれにしても乞食の少し上の遍路が泊まる宿にしては上等過ぎる。今度いったらもう一度泊まりたい宿だった。木屋旅館電話、0895−22−0101番
翌朝、宇和島城に登った。大きな城だったが走って登った。城まわりが目的ではない、お寺参りなのだ、規模の大きな城だった。東垣さんと走るように歩いて登った。宇和島城は伊達家十万石、天守閣は3重3層、江戸時代の典型的な城で大阪城と共に有名である。南予地方の政治経済の中心地である。3日目、41番竜光寺から
42番佛木寺、43番明石寺まで行った。明石と書いて「めいせき寺」 と読むらしい。宗派は天台宗、寺門派である。正澄上人の開基である。
北宇和郡三間町小さな町の中に41龍光寺、42仏木寺、43明石寺の3つの寺があった。56号線は高知市から中村市を経て宇和島市、大洲市、松山市まで延びている。松山自動車道で帰った。このとき伊予市まで高速道路が延びてきていた。土佐の高知から足摺岬の突端を廻る旅は長い、更に宇和島から松山市に至るコースは長く時間の掛かる旅であった。このコースは高速道路が無いため一般の観光客は中々行けないが、見所のある観光地である。現在、平成18年には西予市まで高速道路が伸びているので、まだ宇和島までは行けないが途中からバイパスが出来ていた。
佐田岬灯台、別府航路の旅。
このときは遍路の旅ではなかったが四国の佐田岬突端まで行き帰るつもりで出発した。 松山自動車道は大洲市まで延びて来た、わたくし達はその自動車道経由でまた八幡浜まで来ていた。其処から佐田岬半島を縦断、突端の佐田岬灯台まで辿り着いた。佐田岬は八幡浜から2時間かかった。車の終点に駐車場があった。そこから更に30分歩いた、登ったり下ったりの坂道が続いていた。海の中に突き出した岬であった。こんな灯台まで滅多に来る人はいないだろう、その灯台の下で彼と彼女がキッスをしていた。その写真をカメラに収めた、物好きな人間もいるものである。そう思いながら歩いて彼女らに近づいて行った。「もう帰りますか」 私は声をかけた。若い彼と彼女。私がカメラにキッスの写真、撮ったことなど知る由が無い。家に帰ってから現像したが少し遠くてよく判らぬ写真であった。頼まれもしないことは写すべきではない。然し佐田岬灯台はそれほど綺麗な白亜の輝く灯台であった。三崎港まで引き返し其処の宿に一泊した。ここの宿は駄目な宿だった。当地の観光協会に世話してもらったが今まで泊まった宿のうちでは最低な宿だった。2度と泊まりたくない三崎港の民宿だった。
鉄の窓は錆びていた。部屋は汚く、そのくせ宿代は高かった。港の海だのに、たいして美味しい魚が出ない。こんな所に2度と来るかと今でも思い出している。
翌朝、三崎港から佐賀関港行きの舟に乗った。車は九州に上陸した、そこから別府港まで走った。
「おい舟で神戸まで帰ろうか」此花君が言う、「うん、そうだな、東垣さんは明日「身体障害者の会合」に出たいと言っている、どうしても明日の朝までに帰らなければならない。舟に乗ったら運転手が楽だ、そうしょうか、皆に相談したら意見が分かれるから、独断と偏見で切符を買って舟の予約をしよう」 この花君が提案するのでそう決めた。関西汽船フエリー乗り場で神戸行きの船を予約した。今日の夕方、別府港発の船に乗り、明くる日の午前5時神戸港に着く船を予約した。帰りの船の予約は出来た。車は大分自動車道、湯布院の町に入っていた。
豊後富士といわれ「由布岳」の絶景を右に見ながら、由布院盆地を通過し、日田市から耶馬溪町に向かった。
其処に「青の洞門」があった。歴史に残る青の洞門。車を止めて写真を撮った。昼食を食べ車は国道10号線を宇佐市から別府に向かった。同乗の上田さんは機嫌が悪い。結局九州まで来て青の洞門を見ただけの旅だった。四国から舟に乗り高い運賃を支払い、車で青の洞門だけ見て帰る、機嫌が悪いのは理解できるがここまで来たのだ。「そんなら、ここから歩いて帰りんさるかな」と、そう言って見たがここで車から下ろされては堪らない。一人で帰るわけには行かない。私は「青の洞門」は始めてだった、だから皆に「行こう行こう」と、勧めた。
別府からの舟の旅は始めての航路だった。船の夜は豪華である。神戸まで男も女もゴチャマゼの船室。
ビールを飲み、酒を飲み、寝たければ横になる気楽な旅だった。本来なら九州から国道を通り、高速道路を10時間も走らなければ家に帰れない、舟の旅は第一運転手が楽だ。車は一瞬の油断も出来ない、船の上は良く眠れないと云うが車は疲れる、「これからの旅行は船の旅に限るな、」港、港で車を乗せた。夜の瀬戸内海を豪華客船は一路神戸の港に向かっていた。広島を通り、岡山、明石の沖を通過、午前5時神戸に着いた。
「昨夜は良く眠れた」 眠れた人、眠れなかった人、人それぞれの思いを乗せて神戸の港に船は着いた。東垣さんはその日午前9時から「身体障害者」 の会議があると云う、山陽自動車道が出来たので神戸から鉢伏に帰る車は便利になった。関宮町万久里に帰ったのは午前8時丁度だった。これからの旅行は船の旅にしよう、今度は舟で北海道に渡ろう、平成11年の旅は北海道の船旅だ。
愛媛県久万町国民宿舎古岩屋荘から横峰寺
第二回四国巡礼の旅
その年の秋、再び高知自動車道から28番大日寺、29番国分寺を経て、「偏骨坊主」のいる33番雪渓寺を訪れた。この寺は結局3回参ったことになる。「偏骨坊主」でも3回も行くと心やすくなる。「3度目だ」と言ったら今度はサービスのつもりか ? テープのお経をくれた。テープは音楽のようなお経を唱えた仏陀の説教である。へんコツ坊主にも結局三度参った。「三顧の礼」。諸葛孔明でも三回頼んだら家来になった。話してみると案外いい坊主だった。土佐の高知のはりま屋橋を午後2時に出た。国道33号線を通り、高知県から峠を越えて愛媛県久万町の国民宿舎「古岩屋荘」に着いたときは午後5時になっていた。愛媛県久万林業の町である。5時を過ぎてからの寺参りは出来ない。寺の坊主も月給取りだ。5時になったら早く家に帰りたい、務め人が多い、書道のうまい人が坊主でもないのに袈裟を着て記帳を書いている。「サラリーマン記帳坊主だ」
鬱蒼とした岩石のそそり立つ岩山を背景に、町営のその名の通りの宿があった。久万林業の町には数年前、森林組合で視察に来たことがあった。林業の盛んな良い林業の育つ山である。町営だが親切で若者が多く泊まる宿だった。一泊2食6、600円の料金で思い出に残る宿だった。また行きたい宿が一つ増えた。 久万町は44番太宝寺に寄り、45番の岩屋寺に参る。45番岩屋寺は本尊不動明王、弘法大師の開基であった。真言宗豊山派である。四国88ヶ寺の寺は真言宗が多い、「国民宿舎古岩屋荘」 電話、0892−41−0431番。
この宿には若者が多く泊まっていた。石鎚山の林道をこえ石鎚山スキー場あたりへ下る計画のようであった。
翌朝その若者達に 「さようならまた会いましょう」 と、挨拶し別れた。久万町を後に国道33号線から峠道を7曲がり8坂を越えると松山市に出る。
農道の細いみかん畑の道を下ると46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、があった。松山市に入っていた。48番西林寺、49番浄土寺、50番繁多寺、51番石手寺から松山城に登った。松山城に登る途中、丁髷をいった年配の紳士がいた。「何処から来ました。」と、挨拶したら、「私、松山市の職員です。」と云う、城に登り見物していたら、「私松山市の職員です。お客さんのサービスで城に行きます」と云う。城に登り見物していたらその職員が城内を歩いていた。「ご苦労さんです」挨拶した。「市の仕事ですか?
」と聞いたら「私の趣味です」と答えた。
一人の丁髷を結った侍がいる。松山の城はその一人の職員のサービスで人気が出ていた。石手寺は松山温泉の真ん中にあり、その後も度々訪れた。去年鳥取の業者のツアーで松山温泉に泊まった。今年は関宮農協のツアーで「坊ちゃん」の泊っていた宿に泊まった。 52番太山寺、53番円明寺は2つとも真言宗智山派であり行基菩薩の作であると伝えられている。
今治では54番延命寺、55番南光坊、56番泰山寺、57番栄福寺、58番仙遊寺、59番国分寺60番横峰寺であるが横峰寺は別の日に周った。61番香園寺、62番宝寿寺、63番吉祥寺、64番前神寺に参る。
このときには松山に泊まらずに石鎚山の山系にある鈍川温泉に泊まった。鈍川温泉は山の渓谷の奥深く鄙びた温泉地であった。宿泊料は1万円だった。温泉地の宿としては良い宿だった。旅なれた私達は余り高い宿には泊まらない。宿はどうせ寝て食べて一杯飲んでゆっくりとくつろげるところが良い。かどや別荘0898−55−2310番10、000円で温泉旅館に泊まった。電話で宿の交渉は私の専門だ。この宿が良いか悪いかは、電話の応対で見当がつく、そこは永年の間、民宿の商売をしてきた私だ。勘が働く、静かな山の出湯の宿だった。
その明くる日石鎚山のスキー場に登った。スキー場に行く道で石鎚山を越えて歩いてきた若者の一群にであった。「今日はまた会いましたね、」手を振り振り長い行列の若者達の一群とすれ違っていった。
60番横峰寺には30分くらい歩いて登った。横峰寺は本尊大日如来弘法大師の作である。真言宗御室派、私達の日隆寺と同じ派であった。大きな寺であった。四国88か寺の中でも良い寺の一つである。歩く距離の一番ながい横峰寺だった。歩いても価値のある寺である。大きな樹木に覆われた参道。然しいつか車を入れねばなるまい。何時まで頑張れるか、時代は変わりつつある。良い寺だから歩いても人が来る時代は終わりに近づいている。
道後温泉から今治、西条付近の寺寺をまわり、横峰寺を最後に今回の寺参りは終わった。話は前後するが今年平成12年正月は雪が少なくスキー客も来なかった。1月17日、例のグループで「しまなみ海道」に行った。
山陽自動車道、福山西インターから国道2号線のバイパスを通り、「しまなみ海道」に入る。新尾道大橋を渡ると向こう島、因島、生口島、大三島、伯方、大島から来島海峡大橋をわたると愛媛県になる。大三島の大山祇神社に参った。国宝級の武具、鎧兜、刀、太刀、古美術など多数陳列されていた。特に源氏の源頼朝、源義経、木曾義仲、平重盛奉納の平安時代、鎌倉時代、室町時代の武具多数陳列されていた。入場料1000円は少し高いが見ごたえのある品々であった。
今治北インターから瀬戸内の海岸線を2時間余り走ると松山に来た。松山道後温泉簡保の宿に泊まった。
石手寺に参拝する。51番石手寺は道後温泉の真中にあった。場所の良いところで参拝客も多い、今回は石手寺をゆっくりと見学した。広い寺だった。寺の裏にトンネルを掘り、裏庭に抜けると地獄極楽の祠があった。帰り道、石鎚山インターに休憩したらここから石鎚山ハイウエーが出来ていた。今年6月頃には石鎚山に行こうと決めた。
第参回四国巡礼の旅
一番札所霊山寺から高知まで
阪神大震災の年、五月議会が終わった。役員選挙で面白くない議会の空気から逃れてお寺参りしょうと計画した。6月7日朝5時関宮町を出発した。四国88箇所巡りも板についてきていた。今度の寺参りは参回目だ、一番寺の霊山寺から始めた。2番寺は極楽寺、3番金泉寺、4番大日寺、5番地蔵寺、6番安楽寺、7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺、10番切幡寺、11番藤井寺、ここで昼食を済ます。国道192号線17番井戸寺、16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺,15番国分寺、13番大日寺、ここから「名西旅館」に泊まった。
別段印象に残る宿ではなかったが遍路の宿だ。寝て、起きて、朝食を頂き、また寺参りする。だが宿の人たちは親切だった。大日寺の門前に宿があった。電話0886−44−0025番。遍路の宿としては便利な宿だ。当日予約OK。各室テレビ冷暖房。昼食弁当OK。駐車場完備。遍路の宿では昼食の弁当を頼むことを忘れてはいけない。
午前8時明石海峡フエリーに乗った。鳴門海峡を渡り岩屋に着いた。淡路島を横断し9時30分、霊山寺に着いた。東垣、上田の奥さん、栃下、藤原など6人だった。この旅はたいして思い出に残る旅ではなかった。夜、大日寺前の「名西旅館」に泊まった。朝早く起きて朝食までに12番焼山寺に参った。焼山寺は「名西旅館」から車で25Kmくらいあった。往復2時間くらいかかった。名西旅館を9時出発、18番恩山寺、19番立江寺、20番鶴林寺に参った。21番太龍寺ロープウエーまで1時間走った。22番平等寺、23番薬王寺から「海がめ荘」に着いたときは5時前だった。20番鶴林寺は19番立江寺から10KM以上走った。山の上の立派な寺だった。ここから21番太龍寺まで約10km。全長2775mのロープウェイに乗った。本尊虚空蔵菩薩、である。
国民宿舎海亀荘は綺麗な宿だったが、国民宿舎の流行る時代は終わっている。太平洋の海亀がここに上陸し卵を産む、その海亀と一緒に写真を撮った。翌朝8時出発、室戸岬24番最御崎寺まで78キロ。10時少し前に着いた。本尊は虚空蔵菩薩、弘法大師の作と云われている。真言宗豊山派である。大変立派な寺である。25番津照寺、26番金剛頂寺27番神峰寺、28番大日寺、29番国分寺から高知自動車道で三角寺に参る。
65番三角寺は川之江インターで降り山の奥へとかなり走った。三角寺を最後に川之江インターで乗り、四国縦貫道から瀬戸大橋を渡り帰ってきた。三角寺に参る途中、栃下の叔母さんがその昔勤めていた酒屋があった。昔の古風な、その土地の豪族らしい造り酒屋だった。今も変わらず酒を造り続けている様だった。其処の奥さんに挨拶し名残惜しそうな別れを告げた。何時までも手を振っていた。「サヨ−なら−」を告げた。
何年か経ってから平成12年島並海道の旅の途中ここを通った。酒屋は今も繁盛していた。ここの酒屋の看板が行く先々の各地に見られた。「三角寺はここから奥に入らねばならない」そう言いながら通過した。
四国88か寺巡りの旅は思い出に残る旅であった。 「沙知」 はその寺参りには一度も参加しなかった。
「罰あたりが」と、藤原は言っていたが気が進ま無かったのであろう。88か寺巡りの頃が藤原達の寺参りの旅では一番充実した時代であったなあー、と、そのときは余り感じないが、後になるほど思い出として年を経るほどに脳裏のどこかに残っている。人は何故寺に参るのだろうか、何時も家族の安泰と、商売繁盛を祈っている。
「沙知」 が病気になってからはその全快を祈っていた。祈ってもどうにもならないものである。
最後の旅の頃にはもう諦めていた。「どうか最後まで苦しみませんように」と、一生懸命祈っていた。祈ってもどうにもならないものである。然し寺参りの人々は一生懸命お経を唱えている。
66番雲辺寺から88番大窪寺。完結寺
第四回四国巡礼の旅
一度良くなりこの分では全快するのかと思っていた沙知の病状は、回復の見込み少なくなり、時々病院に出ていた。7月の夏休みに入ると林間学校が訪れて来た。林間学校が始まると沙知は病気を押しのけ食事の手伝いを始めた。幾ら仕事をしないよう注意しても起きてきて手伝った。仕事は何時も手馴れている。そんなに苦しい仕事でもない。それが悪かったのだろうか、9月になった。病院に検査に出たレントゲン検査の結果は沙知の命は後1ヶ月だと言われた。もうなにを言われても驚かなかった。人間そうなれば案外腹が据わるものである。
1日1日その日が近づいても沙知が死ぬとは思わなかった。その頃福知山の内山が「布実さん、山を買わんか」と、話しを持ちかけてきた。「お父さん買おう、山を買おう」沙知がそう言った。布実は沙知をつれて綾部の山奥までその山を見に行った。「買ったよ、」1200万円だった。沙知の命は後1ヶ月だった。沙知は満足そうにうなづいた。沙知の冥土の土産だった。
平成7年10月12日朝5時30分、四国88箇所参りの車は、関宮町を出発した。栃下、上田、東垣、栃下のおばさん、藤原、池田の6名のメンバーは遂に最後の88ヶ寺の寺参りを完結するために出発した。1週間後に妻沙知の死を迎えるなど考えても見なかった。医者に宣告は受けていても人は良いほうに解釈する。何時か死ぬだろう、然し何時死ぬのか、否、何時までも死なぬだろう、そう思っていた。播但自動車道から山陽自動車道、瀬戸自動車道、瀬戸大橋、高松自動車道、66番雲辺寺に着いたのは午前12時少し前だった。
その雲辺寺、山麓、駅駐車場に車を置き、ロープウエーに乗った。この寺は金毘羅さんにも近く、観光客の多いところだった。ロープウエーの若いお姉ちゃんに声をかける、「スキーやったことある」「アア行ったことあります」「おじさんたちはハチ高原から来ましたよ、スキーに来ませんか」「ボードやっています。この冬は是非行きたい」ガイドのお姉ちゃんはそう言った。何処に行っても四国の旅でハチ高原を知らぬ人達はいない。その後平成12年再びこの道を通った。66番雲辺寺のロープウエーの看板がみえた。「この前来たなー上がろうか」「ロープウエーは時間がかかるからなー」今日は止めようと、池田から徳島自動車道に乗った。
この年はまだ徳島自動車道は開通していなかった。67番大興寺、に参り68番神恵院から一人の女を車に乗せた。背の低い女だった。69番観音寺、70番本山寺、71番弥谷寺、番外の海岸寺と乗せて廻った。72番曼茶羅寺、73番出釈迦寺、74番甲山寺と走った。何処かの駅に下ろしてくれと言う、しかたが無いから結局75番善通寺の駅まで送った。その女は簡保の宿に予約していると言った。その夜、門先屋に泊まった。6200円の安宿であった。これこそ遍路の宿だった。遍路以外の人達は泊まらない、風呂に入り、飯を食わせ、一杯飲んで寝る、明日の遍路の計画を話し、予定を立てた。「さあー早く寝よう」一杯飲んで寝るだけの楽しみだった。スキーに来てもただ滑るだけの時代があった。ビールを飲み、朝暗いうちに起き出してリフトに並ぶ、午前中滑り午後は観光バスに揺られて帰る、帰りの道は大渋滞、ゲレンデは人人人の、大混雑、それでも若者はスキー場に押し寄せていた。昭和30年代の終わりから40年代のスキー全盛期を思い出していた。四国の遍路の宿もその名残をとどめている。
数年前登った富士山も、人、人、ひとの大渋滞、特に山頂付近の混雑はひどかった。
宿に寝ても、畳一帖に後さしに6人寝かせる、人の靴下の匂いを気にするような者は富士山には登られない。
その上に布団をかむせていた。遍路の宿は風呂に入り、一杯のみ、食べて寝る。ただそれだけの観光地ではこれからの若者は寄りつかなくなる。然し何と言っても宿代が安い、どうせお大師参りだ、遍路は乞食の少し上だ、金はなるだけ使わないほうが良い、こんなところでカラオケに行く気にもならない。ビールを飲み酒を一杯飲んだら眠くなってきた。横になっていたら良く眠れたらしい。「お客さん、弁当を忘れないように」宿の人は親切に弁当を作ってくれていた。明くる日、門先屋を朝8時に出発した。帰ってから毎年のように門先屋から案内が来る。今度四国の遍路に行ったらまた門先屋に泊まらせてもろう予定だ。電話0877−62−2337番
75番善通寺から金毘羅山に参った。金毘羅山の長い長い石段を登った。金毘羅山にお参りするのは3度目だった。76番金倉寺、77番道隆寺から丸亀城に登った。78番卿照寺、79番高照院、80番国文寺、81番白峰寺、82番根香寺、83番一ノ宮寺が終わると塩江温泉まで走った。香川県塩江町自然休養村町営の塩江温泉であった。時間が少し遅くなったが宿の人達は食事を準備し待っていてくれた。予約してから途中で一度も電話しなかったので「すっぽかした」のではないかと心配していただろう。宿に予約し泊まるときは途中で必ず電話をしなければいけない。そんなこと解っていたが何分先を急いでいた。現在のように携帯電話など無かった。
あっても買う気にならない年代の「年寄り」ばかりだ。 町営、塩江温泉は夜、番人の人が泊まっていなかった。宿の人のいない、無人の宿に泊まるのは何となく寂しい、また来たいと云う気が起きない、10年ほど前、竹野浜の宿で忘年会をしたそのときも宿の人は家に帰って無人の宿だった。人と人との出会いと交流を求めて人々は旅をする。人のいない宿に泊まる程不安な宿泊はない。夜、トイレに起きた、人気の無い深夜のトイレは気持ち悪かった。
明くる日の朝、最後の四国88番札所大窪寺に参った。妻、沙知の残された命は後1週間の予命だった。
もう後戻りは出来ない、医者に宣告されていた。病院で医者に宣告されその明くる日、四国88ヶ寺の旅に出発した。人は心の安心を得るために神や仏に参る、別段なんの宗教も信じてはいない、然し寺や神社にお参りすると、安らかな心になる。なぜだろうか、明日のことはわからない、その明日を求めて参っている。その日、87番長尾寺、86番志度寺、85番八栗寺に参った。八栗寺から84番屋島寺へ、屋島ドライブウエーで山上に登った。瀬戸内海が一望出きる景勝の地にあった。
小説 沙知と阪神大震災
その年はまれに見る大雪だった。年末年始順調なスキーの滑りだしだった。
雪は少なかったとはいえ正月のスキー客はほぼ満員だった。今年は良い冬になるだろうと思っていた。
「もう朝かなー」そう思って寝ていたときだった。突然グラグラと揺れた。「地震だ」飛び起きた。
すぐ屋根に上がった。屋根の雪は150センチメートル以上も積もっていた。
葭原は屋根の雪降ろしを始めた。もう一揺れきたら家が潰れる。木造の古い建物の民宿。
屋根の面積は1反歩くらいあるだろう、まだ薄暗い、スコップで雪降ろしを始めていると妻の沙知が手伝いに上がってきた。
妻は町の健康診断には一度も行かなかった。元来元気で働いていた、
「一度病院に行こう」といっていた、
胃が痛いのを我慢して雪降ろしに上がっていた。家の屋根のタルキの端を一渡り降ろした。
早朝暗かった夜が次第に明るくなってきた。背中をびっしりと汗が流れている。
屋根の雪はまだまだ沢山あるがタルキの端の雪を下ろせば重量は相当軽くなる。
雪を下ろしている間地震のことは忘れていた。
午前7時を過ぎ朝食を食べた頃から、漸くテレビが放送を始めた。神戸や尼崎あたりで大きな地震が起きたらしい、テレビは一斉に放送を始めていた。地震の規模が次第に大きく拡大されてきた。
兵庫県スキー連盟の準指導員検定会がこの間から氷の山國際スキー場で開かれていた。タイモスキークラブの彼女は家に電話していた。「大変だ、電器も家具もメチャメチャだ、早く帰れ」電話の向こうで家族の叫ぶ声が聞こえてくる、神戸からきた彼女はそれでも検定会に滑りにいった。夕方検定会から帰ってきた彼女は準指導員に合格していた。早く帰った人達は棄権であった。彼女の胸の内は複雑だった。朝、急いで家に帰っても家は潰れている。どうせ潰れているなら検定会を受けたほうが良いのかもしれない、一度取得した資格は一生自分のものだ。合格した嬉しさと、帰ったら家が潰れているそう思っただけで気分が重い、然し合格したのだ、自分の胸に何回も何回も言い聞かせながら、重い足取りで神戸の自宅に帰っていった。
まだこの地震が大変な震災だとの認識はなかった。
妻は胃痛を訴えていた、時々、診療所から薬を貰って飲んでいたが回復の兆しはみえなかった。
一度病院に出よう、その日病院に出る予定だった。然し地震とその後次第に明らかになってくる震災の模様で遂に病院に出る機会を失っていた。
大震災と病気
阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、
生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。
葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。
医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。
事故
葭原は風邪を引いていた。風邪薬を飲み病院から車を運転し家に帰る途中だった。
「そうかとうとうくるべきものがきたな,」
嫌な予感だった。彼の予感はよく働く、車を運転していると眠くなってきた。
東宮の村を過ぎ、四誌伊の村に差し掛かっていた。うとうととしていた。良い気持ちだった。
山の電気を過ぎた頃だったろうか、天国に行ったような気分だった。突然「だっだっだっだー」と、音がした。
急ブレーキは勿論踏んでいたが物置の家に激突し停止した。タイヤが溝川の上を片車輪で走っていた。
はっと我に返った。誰かが何処かに電話していた。暫くしてレッカー車がやってきた。車は腹部をこすり駄目になっていた。葭原は自分では元気だと思っていた。然し余程のショックだったのだろう。
妻が癌だ。何時から罹ったのだろうか、医者は切れば治ると言う、然しそんなことがあるのだろうか、彼は自分ではしっかりしたつもりで車を運転していた。車が一台駄目になった。然し彼の体は無事だった。良い気持ちだった。事故をする前、天国のような何とも言えない良い気持ちだった。不幸が不幸を呼ぶ、然し彼はその不幸から逃れることが出来た。お陰で車が新車になった。沙知はまだ決心しかねていたが入院することにした。
ポリープだと言う、多くの友達もポリープの手術をしている。その病気に対する知識は皆無だった。
胃痛を一度も経験したことの無い葭原、もっと病気の本を読んでおけば良かった。
手術の結果胃は全部摘出した。その背後にある膵臓も半分くらい切った。すでにもう転移していたのか医者は「出来る限りの事はしました。」といった。
会議中彼は毎日病院から通勤した。必ず治ると確信していた。あれほど元気だった沙知、死ぬなど予想もしなかった。「切らねば良かった」その思いは今も残る。
あの震災の朝、葭原は神戸の姉の家に電話した。
「屋根の瓦がずり落ちて、壁がひび割れ家具が壊れた。家の中がメチャメチャだ」と言う。
神戸の名谷近くの弟の家は山を削り基礎工事の確りした基盤の上に建っていたから大丈夫だった。
彼は咄嗟に金物屋に電話した。「波板100枚、金槌と釘」を注文した。地震が来ると途端にテントが店頭から姿を消した。一斉に人々がテントを求めて殺到した。テントの値段が暴騰した。続いてトタンと釘が神戸近くの店頭から姿を消した。漸く震災の全貌が次第に明らかになってきた、その夜姉達夫婦がトラックでトタンを積みにやってきた。
葭原は翌1月18日早朝、神戸に向けて出発した。高速道路は全滅だった。遠坂トンネルを抜けると国道175号線を一路神戸に向かった。三木市に入った頃から渋滞が続き出した。長いトラックの列が神戸へ神戸えと続いていた。漸く西区の家に辿り着いた頃夜が明けていた。家に着くと直ちに屋根に登った。
「瓦を全部落とせ」「瓦は川原に捨てよ」非常事態なのだ。「土木事務所が叱る」「叱られたって仕方が無い」
こんなときは田舎の貧乏で育った者は強い。即座に決断する。瓦を全部地面に下ろし近くの川原に捨てた。
波板トタンを釘で打ち付け夕方までに全ての修理が終わった。近くの人達が集まってきた。
昨日の朝震災が起きた、その翌日屋根の修理が完成した家は神戸西区の近くには無かった。
葭原は家の増築を毎年やっていたから屋根の修理の段取りは全部わかっていた。
屋根の上から西区の家々を眺めた。どの家も下から眺めると解らなかったが、殆どの家の瓦がずり落ちていた。大変な地震だった。その年震災以後、スキーヤーはスキー場から完全に姿をけした。広島から来る人たちまでキャンセルしてきた。2月になり3月になり、漸く客足が回復した頃には雪が消えた。「家は潰れたけど一度スキーをしないと雪が消えたらスキーが出来ない」そう言いながら若者たちはスキーにやってきた。その年を境にスキー場は日帰りスキー場となり、未だに民宿の客足は回復しないまま不況の時代になった。阪神大震災の被害者は阪神間だけでなく周辺のスキー場にも甚大な打撃であった。その震災のため沙知は検診の機会を逃していた。
阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。
もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」葭原は即座に医者に頼んだ。
沙知は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、 咄嗟に 何故承諾したのだろうか、生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると沙知の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。
一度良くなりこの分では全快するのかと思っていた沙知の病状は、回復の見込み少なくなり、時々病院に出ていた。7月の夏休みに入ると林間学校が訪れて来た。林間学校が始まると沙知は病気を押しのけ食事の手伝いを始めた。幾ら仕事をしないよう注意しても起きてきて手伝った。仕事は何時も手馴れている。そんなに苦しい仕事でもない。それが悪かったのだろうか、9月になった。病院に検査に出たレントゲン検査の結果は沙知の命は後1ヶ月だと言われた。もうなにを言われても驚かなかった。人間そうなれば案外腹が据わるものである。
1日1日その日が近づいても沙知が死ぬとは思わなかった。その頃、内山が「布実さん、山を買わんか」と、話しを持ちかけてきた。「お父さん買おう、山を買おう」沙知がそう言った。
彼は沙知をつれて綾部の山奥までその山を見に行った。「買ったよ、」1200万円だった。沙知の命は後1ヶ月だった。沙知は満足そうにうなづいた。沙知の冥土の土産だった。彼は「良かったな」と思った。
平成7年10月12日朝5時30分、四国88箇所参りの車は、東宮町を出発した。
藪下、下田、下垣、歳下、布実、池田の6名のメンバーは遂に最後の88カ寺の寺参りを完結するために出発した。1週間後に妻沙知の死を迎えるなど考えても見なかった。医者に宣告は受けていても人は良い方に解釈する。何時か死ぬだろう、然し何時死ぬのか、否、何時までも死なぬだろう、そう思っていた。
沙知の残された命は後1週間の予命だった。もう後戻りは出来ない、医者に宣告されていた。
病院で医者に宣告されたその明くる日、四国88カ寺の旅に出発した。「どうか最後まで苦しみませんように」
88カ寺の最後の完結寺が私の妻の最後の完結寺になろうとは、何の為にお寺参りをしたのだろうか、然し後悔はしていなかった。今も私の家の仏壇に供えている。「四国88ヶ所巡拝結願お守」
「四国88番大窪寺」このお守りを頂いた。人は心の安心を得るために神や仏に参る、別段なんの宗教も信じてはいない、然し寺や神社にお参りすると、安らかな心になる。なぜだろうか、明日のことは解らない、その明日を求めて参った。その日、87番長尾寺、86番志度寺、85番八栗寺に参った。八栗寺から84番屋島寺へ、屋島ドライブウエーで山上に登った。瀬戸内海が一望出きる景勝の地にあった。
手術をしたら何処かの施設にいれ、家の仕事など見せない方が良い、そう言ってくれる友人もいた、しかし何処にも行かずに家にいた。それが悪かったのか、もう転移していたのか解らない、それだけの運命であったと諦めることである。手術しなければそんな痛い目に遭わずに済んだであろう。
もう少し長生きできたであろう。癌とは現代の医学で克服することが出来ない難病である。
彼のお寺参りはそうした妻の全快と、例え死ぬしかないとしても、せめて苦しまずに死んで欲しいと願っていた。どの寺に参っても沙知の全快を祈っていた。山上からの眺めは素晴らしかった、しばし現実の世界を忘れていた。目で眺めながら沙知の病院での姿を思い出していた。
仏陀の世界
病院の沙知の枕元に「四国88ヶ寺結願お守り」を置いた。「安らかに眠れ私の妻沙知」10月14日、彼は病院に帰ってきた。妻の顔を見れば心が休まる、後数日の命だとわかっていても心は平成であった。 「あーもうあかん」 それが沙知の最後の言葉だった。沙知は最後の最後まで自分の病気の全快を信じていた。最後の最後まで自分を手術してくれた医者を信じていた。
最後の日、「モルヒネ」を飲んだ。医者の薬を全快すると信じて飲んだ。そして最後安らかに眠った。
人間の最後は必然である。いつか必ずその日がやってくる、幾ら努力しても祈っても死は必ずやってくる、沙知は逝った。彼は悲しいとは思わなかった。死が実感として感じて来るのにはある程度時間が必要なのだろう。
当然その日がやってくることに次第に慣らされていたのだろうか、医者はその人の能力で出来える限りの努力をしてくれた。医者を恨んだりはしない、沙知はその医者を最後の最後まで信じていた。必ず癌を克服することを信じ、医者を信じていた。然し私の心は納得できないと彼は自分の心の中を分析していた。あの時、癌の告知を受けたとき、咄嗟に「手術して下さい」と、何故あの時彼は独断で決めたのだろうか ? 。
もう少し周囲の人達の、いや、沙知の気持ちをじっくりと聞かなかったのだろうか?、
手術しなかったらあれだけ急速に体力が弱りはしなかっただろう、他の医者に見せたり、別の病院に行ってみたり、方法は幾らでもあったのではなかろうか ? 沙知が亡くなってから彼の心の中に沸沸とわいてくる疑問と、後悔に似た感情がその後長く尾をひいている。亡くなったその頃はそれが運命だろうと諦めていた、然し妻が亡くなることが彼の人生に、これほどまで長く尾を引くものであるとは、亡くなったころには予測もできなかった。妻とは何だろうか、夫婦とは何なのか、元気でいる間は何もわからない、亡くなって始めてその連れ合いの偉大さに気づくのである。
旅の始まり
10年前、60歳になり始めて夫婦2人の新婚旅行に出かけた。九州の別府、阿蘇、九重、熊本、長崎、だった。それが始めてで最後の旅行となった。長崎は平戸の宿に泊まった。港の近くの宿だった。小さな宿だったが奥さんに親切にして頂いた。その宿の屋上にはシンボルとしての大きな鐘が設置されていた。
「長崎の鐘」を思い出した。
そう若いとは云えないが宿のお姉さんは、港町のこじんまりとした宿の1階に喫茶店を開いていた。
「何時かハチ高原にも来て下さい」そのお姉さんと話していた。歩いて少し下ると港が見えた。
平戸の町は長崎に似ている、その昔オランダ商館が栄え貿易港として反映していた歴史がある港町である。
イエスキリストの隠れキリシタンの住んでいた町である。平戸の港から船に乗り、99島を通り佐世保市に上陸した。其処から電車で長崎に来た。長崎の町は平戸に似ている。雲仙の島原から天草に渡りタクシーで本渡市まで行き引き返した。熊本の駅前の宿に着いたときは7時を過ぎていた。駅前の宿、宿のおばさんは「遅い、遅い」と、待っていてくれた。
明くる日ここから豊肥本線に乗り、湯布院の宿に着いた。その明くる日、阿蘇久住の山並みハイウエーを通り、湯布院の町に帰ってきた。何処か「ほっと一息、」人々の心に安らぎを覚える湯布院、何処までも続く美しい山並みハイウエーであった。素晴らしい景観だった。
沙知の妹が島根県に住んでいた。益田の町は静かな町だ、万福寺で雪舟庭園を見た。津和野に行き妹と別れた。娘が嫁いでいる岡山県の家に辿り着いたときは1週間過ぎていた。孫達と写真を撮った。
そのときは何時でもすぐ来れる、何時でも撮れると思っていた、沙知が岡山の娘の家に来たのは、娘が岡山に嫁に来てから始めてだった。始めて来た娘が嫁いでいる家、孫達と撮った写真、それが最後の写真だった。誰しもその時はいつでも来れると考えている、然し過ぎ去りし日は再び来ない。それが人生だと自分に言い聞かせる。沙知が始めてで、最後の旅行になるとは思っていなかった。孫たちも喜んだ、笠岡市の博覧会が開かれていた。沙知と娘や孫たちとの最後の別れになるとは考えてもいなかった。
「おばあちゃんまた来てね」
「さようなら」と別れた。
葭原達の時代には新婚旅行はなかった。戦後の苦しい時代だった。漸くこれから世界の旅に出ようと考えるようになり、沙知は病に倒れた。手術してから2人は近くの温泉に度々泊まりに云った。温泉が手術後の体に一番良く効くと考えていた。城崎温泉小林屋旅館に行ったのが最後の小旅行であった。亡くなる8月の終わり頃であった。そのとき小林旅館で撮った写真が最後の写真となった。四国88か寺は沙知の最後を安らかに仏陀の世界に送ってくれた。少しも苦しまなかった、癌の最後は苦しむと言う、然し最後まで苦しまなかった。
自分の全快を最後まで信じていた。死ぬ1ヶ月ほど前に山を買った。沙知は「お父さん山を買ったら」と言った。
二人で綾部市まで山を見に行った。「1200万だったよ」病院の枕元で沙知に告げた。沙知は満足そうにうなづいていた。その山は今も成長を続けている。沙知はあの世に逝った、だが2人で築いた山は今も生きている、
人は死んでも山は残る。何時までも絶えることなく伸び続けて行くだろう。
「山はその経済的価値よりも、人の心を豊かにします。山を買いなさい、木を植えなさい、山はその人に後光のような何とも云えない輝きを与えてくれます」大阪で木材会社を経営していた神鍋出身の安原さんの言葉であった。沙知は逝った、私もいつか逝くだろう、しかし私達が育てた山は成長し続けるだろう。
後世の人達の為に誰が所有するのか知れないが日本の資源として生き続けるだろう。
完。