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        イランの旅研究

記者会見する藤村官房長官=9日午前、首相官邸 8日、イランの首都テヘランの大統領府で、アハマディネジャド大統領(右)と会談する鳩山元首相(共同)

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 藤村修官房長官は9日の記者会見で、民主党鳩山由紀夫元首相(外交担当の党最高顧問)がイランを訪問し、同国のアフマディネジャド大統領と会談したことについて「たとえ個人の立場でも、こういう時期に訪問しない方がいいとずっと言い続けた」と述べ、不快感を示した。

 イランの国営テレビは、鳩山氏が会談の中で国際原子力機関IAEA)がイランなどに二重基準の対応をしており、不公平だと述べたと報じている。

 藤村氏はこの件について「政府としてコメントしない。わが国は核問題解決に向けたIAEAの役割を重視しており、イランIAEAと完全な協力を行うよう求めている」と強調した。


 2003年10月10日撮影 

 イランの旅から帰り2か月、イランの古都バムの町が全壊した。廃墟の古都は地震で崩壊した。
ケルマン市から「アルゲバム」「死の町」の異名をもつイスラム城址「アルゲバム」の見学、大きな城門を潜り抜けると、中世から時が止まってしまったかのような「アルゲバム」が現れた。町全体が廃墟であった。最近イラン政府の復旧工事が進められ、土壁の修復がなされていた。イランのこの地方は砂漠の中のオアシスに土壁の家々が住宅として使用されていた。イランは土の文化である。トルコやシリア、ヨルダンは石の文化であった。石は少ないだろう、アルバゲムの城壁は岩盤の上に建てられていた。土の幅広い城壁であった。アルゲバムの城址を見た、夕方暗闇の中、多くのイラン人が集まっていた。近くのイベントの集会だったのだろう。イラン地震。全力を挙げた支援を望みたい。
12月31日
 
バムの廃墟の城、藤原撮影。2003年10月10日
 イラン南東部の古都バムで起きた地震は、現地の様子が明らかになるにつれ、被害が拡大。州副知事は「約二万五千人の遺体を確認した」と述べた。死者は三万〜四万人に達するとの見方もある▼バムでは85%の家屋が損害を受けたといわれ、写真などを見ると、激しい空爆にあったかのような街と化している。地震の規模を示すマグニチュードが6・3の内陸直下型で、震源地が十キロ程度と浅く、日干しれんがを積み上げて造った家はひとたまりもなかったようだ▼ユーラシアプレートの端にあるイランは、南からアラビアプレート、南東からインド・オーストラリアプレートから押されている。このため地震を引き起こす歪(ひず)みがたまりやすく、一帯には横擦れの活断層が南北方向に何本も走っている▼”地震の巣”の上に街が造られているわけだが、砂漠地帯で日干しれんが以外に建材がないとも伝えられ、地震が起きるたびに大きな被害を出してきた。イランではこの百年間に死者千人以上の地震が十五回も起きている▼複数のプレートの境目にある日本も活断層が多く、”地震の巣”の上にある街も珍しくない。直下型地震の怖さは阪神大震災で経験したはずだが、木造家屋の70%以上が危いという調査結果もある。日干しれんがのイランと、耐震性は大差がないのかもしれない▼各国の救援隊が続々とイラン入りしている。日本政府は総額一億円相当の資金や緊急物資の援助を決めた。しかし、大盤振る舞いしたイラク復興費五十億ドル(約五千五百億円)に比べると少なすぎるのではとの声もある。支援の増強を期待したい

バムの廃墟は復元されていた。地震で殆ど崩壊している。
 
イラン地震緊急報告
この間、2003年10月、私は、イランの旅に行っていました。イランのバムの町で地震が起きました。
他人事ではありません。イラクより、イランを救え。日本の石油消費量の15%輸入しています。
イランの人たちは日本人に非常に好意を持った人たちです。対日感情もよろしい。
12月28日

 私たちがこの秋旅したイランで地震が起きた。バムの町は廃墟の町で有名な観光地だった。ここをクリック。
イランの旅研究に書いています。廃墟のバムの町は地震で完全に廃墟となっただろう。2003年10月10日撮影
砂漠の中のオアシス都市、バムはシルクロードの宿場町として栄えていた。生涯学習のページにも写真を載せています。城壁は三重構造になっている。城のスタイルは中世ヨーロッパの城とよく似ているが、石ではなく日干しレンガで作られている、このため地震には弱い構造である。この地方には雨が殆ど降らないから土を固めた日干しレンガの住宅が多い、砂漠の町には木が殆ど生えていない、土の日干しレンガの住宅が作りやすい、また、灼熱の太陽には日干しレンガの住宅は住みやすい住宅である。今度の地震で死者2万人、負傷者3万人と云われている。イラクの軍隊派遣も大事だろうが?イランの救助に早急に対応するべきである。
 
城塞都市 砂漠の廃虚に光再び(バム=イラン) - バムの概要
    
バムの遺跡は大分復興されていた。
 廃墟の城からバムの町を眺める。バム遺跡はイラン第二の観光遺跡だった。

     

                              

イランの旅で多くの写真を撮ってきた。
デジカメ、デジタルビデオカメラの編集をやりかけている。デジタルビデオカメラから、パソコンに取り込む。其処で削除し、編集と書き込み、またテープに送り込み、DVDにも記録するらしい。気が遠くなるような編集である。だが、旅行し、ビデオも多く撮ってきている。編集し人々に提供したい。音楽も入れたい。其々の国の特徴をだした編集が出来るかどうか。皆様のご協力を仰ぎたい。
今朝のテレビで日本女性がイランの旅で音楽を弾いていた。イランの楽器と似た音楽楽器の演奏の旅だった。イマームモスクが写真に出ていた。
  イランとはどんな国なのだろうか?それにはイランの歴史を紐解く必要がある。然し、イランの歴史は気が遠くなるほど古い、今のわたくしたちにとりそんな昔の話を詮索しても始まらない。いやいや、15日間のイランの旅はその気が遠くなるほど古い昔の遺跡調査と、歴史遺産の研究の為の旅だった。


今朝のテレビで日本女性がイランの旅で音楽を弾いていた。イランの楽器と似た音楽楽器の演奏の旅だった。イマームモスクが写真に出ていた。
  イランとはどんな国なのだろうか?それにはイランの歴史を紐解く必要がある。然し、イランの歴史は気が遠くなるほど古い、今のわたくしたちにとりそんな昔の話を詮索しても始まらない。いやいや、15日間のイランの旅はその気が遠くなるほど古い昔の遺跡調査と、歴史遺産の研究の為の旅だった。

イランは古い文明と歴史を持つ国です。イランを旅して各地方の古い遺跡を見ることで、人間が社会で生活をするためにどのように秩序が作られていったかがわかると思います。「文明の道」を見ることで、イランの歴史、文化、風俗、習慣の一部を知ってもらえたら幸いに思います。 日記ふうに毎日、パソコン持参で書き込んだが、私にはそれほど太古の遺跡などどちらでもよかった。問題はある程度の過去の歴史の中から、現在のイランを知り、イスラームの思想と世界の動きを知りたかった。従って近代のイランの歴史、現代のイランの現状認識が最も興味と研究の焦点にすえて、いろいろ様々な本を読んでいる。

第二次世界大戦後イランはアメリカの強い後ろ盾のもと、「白色革命」と称する工業化を推し進めた。国王による白色革命は貧富の差を広げ、農村の荒廃を招く結果に終わった。国王の圧制に対する民衆の不満は高まり、その動きは全国に広がり、ホメイニー師を代表者に担ぎあげた。1979年1月アメリカと親密な関係にあったイラン国王パーレビが国外に追放された。大規模反国王のデモがイラン全国に広がり、国王は権力の座を追われた。

 まもなく、国外に追放されていたイスラームの指導者、ホメイニー師が帰国し彼を最高指導者とするシーア派のイスラーム共和国が誕生した。ホメイニーのイスラーム共和国は、アメリカの好むところではなかった。
又イラン人のイスラーム教は、資本主義と西洋物質文明とは相容れるところではなかった。
 アメリカは反共路線をとるイラクのバース党指導者サダムフセインを支持し、大統領就任を歓迎した。イラン革命と、イランイスラーム共和国誕生の背景には、近代化と西洋化に対するシーア派、イスラーム教徒の激しい怒りがぞんざいしていた。
イスラーム原理主義。

イスラーム原理主義という言葉を広義でとらえれば、その起源は古く、複数の流れが、数世紀に及ぶイスラーム世界とキリスト教世界の対立を背景に、現在のイスラーム原理主義の基本的な性格を形作ったといってよいだろう。
1960年代以降、冷戦の影響によって西洋列強の力が中東で弱まった結果、イスラーム原理主義が次第に勢力を拡大してきた。イラン革命からまもなくアメリカ大使館占拠事件がおきた。テヘランの学生たちがアメリカ大使館を襲撃し外交官を人質に立てこもった。
 イラン政府は学生たちを支持した。そこでアメリカ政府はイランの経済封鎖と外交関係の断絶をした。アメリカ政府は人質救出作戦を展開したが失敗した。イラン政府の行動は西洋が中心となって築き上げた近代社会のルールに対するあからさまな拒絶であった。それは西洋文明に対するあからさまな拒絶であった。

以上、JM、ロバーツは世界の歴史に書いている概要の要約である。

イランの歴史概要
イラン人の祖先は南ロシアから南下してきたアーリア人で、紀元前551年アケメネス朝ペルシャ帝国を創建し、紀元前331年にアレクサンダー大王に征服されるまでオリエント世界に君臨した。紀元前226年に成立したササン朝は東ローマ帝国と覇を争ったが、642年新興のサラセン(アラブ)帝国に敗れ、以後イスラム化が進む。16世紀初めに興ったサファビー朝は、スンナはイスラム教のオスマン帝国に対抗しシーア派を国教とした。19世紀から20世紀にかけてのイランは事実上イギリス、ロシアの半植民地であったが、第一次世界大戦後の1925年カジャール朝に代わってパーラヴィー朝が創建され、中央集権国家体制が確立、1935年に国名を「イラン」と改称した。しかし第二世界大戦後、アメリカの援助によって急激な西欧化政策を進めた結果、貧富差の拡大と大幅なインフレを招いてしまった。そして1978年〜79年のイスラム革命により、西アジア随一の繁栄と安定を誇ったパーラビー王朝は2代50年で滅んだ。革命政権はホメイニ師を最高指導者に1979年4月「イスラム共和国」の樹立を宣言、宗教の掟であるイスラム法を国の法律と定め、政治と宗教を分離させない独自の国家体制を打ち出した。1988年には8年続いたイラクとの戦争が終了、89年にはホメイニ師が亡くなった。その後ハメネイ師が最高指導者の地位につき、穏健なラフサンジャニ大統領が政権を受け継ぎ現在にいたっている。
イランの自然
 日本の四倍以上の国土を持つイランだが、その2/3が急峻な山岳地帯と砂漠で、耕作可能地は国土の一割にも満たない。しかも大部分の地域が年間降水量250ミリ以下で、それも冬季に集中し他の季節には雨が一滴も降らないという、厳しい乾燥気候でもある。イランの外縁部には2つの大きな山脈が連なる。その一つはイラン北部を東西に連なるアルポルズ山脈で、最高峰は万年雪を抱き富士山によく似たダマーバンド山(5,654m)である。もう一つは北西部のアゼルバイジャン地方から南東のペルシャ湾に続くザグロス山脈で、ザルド山(4,547m)をはじめとする4000m級の山々がいくつもそびえている。地中海、ペルシャ湾、カスピ海からの水蒸気を含んだ空気の流れはこの二つの山脈によって遮断されるため、内陸部分は乾燥した砂漠地域となっている。特にカビール(塩)、ルート(裸)の2大砂漠は徹底的に乾ききり、死の世界が広がっている。このような厳しい自然環境にあって人々は、安定して水が得られる2つの山脈の麓に沿って高原都市を形成してきた。イランの鉄道もまた二つの山脈に平行して、あるいは山間を縫うようにして発達してきたのである。
 
 1980年、イラン、イラク戦争が始まった。8年間の戦争で100万人の人々が命を落とした。イラン、イラク戦争の最大の原因はイスラーム、シーア派と、スンナ派の対立であった。1979年隣国アフガニスタンにソ連が侵攻した。ソ連はこのアフガニスタン侵攻で泥沼化し、10年近く抜け出すことが出来なかった。アラブ諸国の無政府状態はシリアとイランの支援する武装勢力が、レバノンで争いを繰り広げていた。
 レバノンを拠点にイスラエルと闘う PLO のパレスチナ、ゲ゜リラなど中東は不安定な時代が続く、イラク、イラン戦争が終結したあと、1990年イラクのフセインはクエートを侵攻、アメリカはイラクを攻撃する湾岸戦争をしかけた。
9、11同時多発テロがおこり世界貿易センタービルが崩壊、アフガニスタンのタリバン撲滅戦争、ビンラデンと国際テロ組織アルカイダーの攻撃、更にアメリカはイラクのフセイン政権撲滅戦争を仕掛け、バグダッドを攻撃、戦争は泥沼化している。そして現在に至る。以上がイランを中心とした現代の歴史です。

 日本は石油をほとんど算出しない。そのため車のガソリンや火力発電などの重油、冬の暖房でお世話になる灯油はすべて輸入に頼っている。では輸入先はどこか?。日本の原油輸入量(1999年)によれば、UAEの24.3%、サウジアラビアの19.5%に次いでイランが11.5%を占める。それだけでも私たちの生活にとってイランは大事な存在である。にもかかわらず、イランについては十分な知識を持ち合わせていない。せいぜい、かつてペルシャとして広大な領土を有し、優れた文化を築いたことやイマーム広場などに表れたイスラム文化の華やかさについて知っているにすぎない。
 
 イランを2003年10月に訪ねた。確かに、古代から続く文化遺産を見ている限りは、その程度の知識で間に合う。しかし、ほぼイランに限られるシーア派を教義とすることや、ホメイニー氏を最高指導者とするイラン革命の成立とその後の独特の社会政策を理解するには知識が足りず、手ごろな本を探していてこの本に出会った。
物語 イランの歴史 宮田律 中央公論社 0209
目次は、序章・イラン人の日常生活と文化、1章・ペルシャ帝国の栄光とイラン文化の形成、2章・イラン文明とイスラームの融合、3章・西欧帝国主義との出会いと宗教社会、4章・民族運動の台頭と挫折、5章・イランーアメリカ相互不信の背景、6章・イランの伝統文化の探求、7章・模索するイランのイスラーム、終章・イランはどこへ向かうのか、からも推測できるように、大筋では時代をおいながらも華やかさに隠された壮絶ともいえる苦闘の歴史を解き明かしている。背景には、イランの地理的な位置、現在の国名でいえば北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタン、南西にパキスタン、南から南西はペルシャ湾を介してオマーン、サウジアラビア、クウェート、西にイラク、北西がトルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、そして北はカスピ海を挟んでロシアが取り囲んでいて、国家の維持の難しさを想像させる。どの強国もペルシャ/イランをとらなければ進出することができないのである。そのうえ、膨大な埋蔵量の石油が発見され、利権のからんだ政治が繰り返されてしまった。

いま、イランは革命により伝統を踏まえつつ自立した国家を形成しようと懸命の努力を重ねている。2代最高指導者ハターミー氏は東京工業大学での講演で「日本の禅とイランのイスラム神秘主義は、沈黙から多様な寓意と示唆を得ようとする点で共通する」と論じている。イランへの関心の高まりを期待したい。(0301読)
                           文さんの日記。10月27日
 こちらは秋の終わり、イランの気候は灼熱の夏、毎日、30度、40度の暑い日が続いている。首都テヘランでも1500m以上の標高である、それでも暑い、長袖、の下着とパッチ、を多く持参したが必要なかった。暑いといっても日本ほど汗をかかない、砂漠の国だ、乾燥している、そのため多くの水分をとる必要がある。砂漠の国の旅行は慣れてきている、水分の補給と、排泄、体の循環を適度にすることが体力の維持と健康保持にとり最も必要なことである。


 イラン女性は、全身チャードルと呼ばれる黒の服装、頭にネッカチーフのような布のをまいている。然し、これも長年のイランの風土、気候から顔と体を護るための生活の知恵なのだなーと分かった。男は帽子を冠った人が少ない何故だろう、肌を絶対見せないイラン女性だが、近年には黒のスカーフから顔は丸出し、写真も撮らせてくれる。黒の服装はみんな美女に見える。高貴な黒のスカーフ、切れ長の目、高い鼻、ヨーロッパの民族とそう変わらない。北方アーリア人、ギリシア人、アラブ人、幾多の民族が数千年にわたり混血して生まれた多民族国家、いくだびか逢ったイランの女性はみな解放的だった。
 イランの休日は金曜日である。イスラームのモスクは 註 {教会、又は寺院} は国内至る所にあった。イランのイスラームモスクは殆どがシーア派であるが今回の旅ではイスラーム以外のゾロアスター教やアルメニア教会の視察もした。バザールの視察も特に女性が多かった事もあり、女のガイド、外岡さんの配慮もあり、バザールの見学が殆ど毎日続いた。
数日たった頃、とうとう私は癇癪球をぶつけた。旅行の最中に怒ることは禁物。
 「私は買い物ツアーなどに来ていない、こんな旅行もう帰る」と、言ってみたが遠くて一人帰れるわけも無い。面白くもない、その理由は別にあった。ビールが飲めない、焼酎が持ち込めない旅だった。これまでの旅では同じイスラーム国でも、ホテルでは少し金を多く出せば飲ませてくれた。然し、イランは厳格だった。ガイドのアミールさんに闇で飲ませてくれるところは無いか ? と、大田さんを通じて話してもらった。最初は「ある」と話していたが本気で交渉すると
「それはとても難しいです」と、法律を犯してまでビールを世話することは出来なかったのだろう。然し、世の中には、本音と建前、裏と表、のあることぐらい文さんは知っている。だが、イランに来て臭い飯覚悟でビールを飲まねばならないほど辛抱できない自分ではない、イランに来る覚悟は、数年前から出来ていた筈だ。然し、それにしても毎日が何処かが、何かが、満たされぬ毎日の連続だった。そのうち、女の人たちが妙に、よそよそしくなってきた。
 つまり文さんから離れていった。毎日浮かぬ顔して、疲れ切った顔ばかりしている、面白くも無いのに夜遅くまでバザールの買い物に付き合わされる。それでも、食事に一杯出れば即座に機嫌よくなるのだが、15日間の長い間、アルコール離れの生活はもう、くたくただった。然し、アルコールから離れて、毎日、バザールや精力的なイランの旅のお陰で本当のイランの人たちと付き合う事が出来た。イランは世界のどの国よりも治安のよい国である。一人でバザールを歩いても、何処であっても人々は親切だった。一昔前の日本人の良心が残っている。


 イランに行ってきました。と、言う。逢う人たちが「そんな怖いところによう行っていたなー」と、たいての人たちが言う。
イランの旅から帰ってきた。始まりがあれば終わりがある。長い長い十五日間だった。何故長いのか?
イランはアルコール厳禁の国である。広い国土の殆どが砂漠の国である。日本の4、5%倍もの広い国土に人口は6517万人住んでいる。一つの観光地から次の観光地に行くのに数時間かかる、砂漠を横断するのに嫌というほどの時間がかかる、朝早く出発しても、現地に着くと昼になる。帰りも同じ時間がかかる、延々と続く砂漠、従って、国内旅行にも度々飛行機が使われた。夜遅くホテルに着く、ホテルの夕食に一杯も飲まれない、難業、苦行の15日間の観光がやっと終わった。もうこりこりである。二度と行きたくない旅であった。

ビールの飲めない旅行、体力の限界に挑戦する長く、時間のかかる砂漠の旅、行けども行けども果てしなく続く、砂漠と禁酒。やっと家に帰りついたとき、成田空港からジムリンバスで羽田空港に着いた。
 其処で始めてビールを飲んだ。まだまだ実感としての、ビールの味ではなかった。イランでは毎日アルコールの入らない「偽ビール」で喉の渇きを誤魔化していた。食べ物は豊富である。イランの生活程度は高く、住宅は日本と変わらない。15日間の間にイランの都市の殆どを回ったが道路は整備され、立体交差の広い道路に車が日本以上に溢れていた。
高層ビルが林立し、イスラームの寺院が至る所に配置され、宗教の国、イランの生活を充分に味わってきた。ホテルはきれいだ、道路は日本以上に立派だ。人々は「ジャパニーズ」と、至る所で親切に歓迎された。
 
 私達を見れば「ジャパニーズ、おしん」と、声をかけた。それほど「おしん」はイランの人たちに日本の文化を発見させ、
日本に対する親密感を沸かせていた。親切なイランの人たち、資本主義が高度に発展したイラン、石油資源が豊富で国家財政も豊かなのだろう。イランの国は未だまだ伸びてゆくだろう。 アメリカはイラン経済の発展を恐れている。イラクをたたいたのも、石油資源で経済がアメリカ以上に伸びて行くのを恐れたからだろう。
  
私が話したイランの家族の人たち、「おしん」と、娘が言った。ヘルセポリスの遺跡にて。

  アメリカとキリスト教文明は、戦争を仕掛ける文明である。アメリカがイスラエルを支援し、イスラーム諸国の反発を挑発し、弱者はテロで挑戦する以外方法が無い、そのテロを、爆撃でたたき防ごうとするアメリカの暴力政治が今、世界の反発を買っている。ヨーロッパ諸国、フランス、ドイツ、ロシア、中国、イスラーム諸国、東南アジアの諸国、アフリカ、世界中の国々が今アメリカの暴力におびえ、反対している。この現実を直視する必要がある。22日の新聞の一面トップに記載されていた。
 「イランの核開発疑惑」全面譲歩と、追加議定書に調印を表明。{ IAEA } 国際原子力機関査察受け入れ、と、新聞の見出しで大きく一面に記載されていた。「やれやれ」と、大きく胸をなでおろした。勿論、私達がイランを訪問したからではない。イラン旅行には私達16名、以外の旅行者が17名いた。少なくとも日本からこの時期にイランを訪れた事はイランの人達の対日親善に何らかの効果に寄与したことは確かであろう、イラン全国の大都市の殆どを回った。
多くのイランの人達に 「ジャパニーズ、おしん」と、歓迎された。「おしん、」とはNHKテレビで放映されたお茶の間ドラマである。明治、大正、昭和戦前の日本の農村の女性が生き延びた一生を描いたドラマである。私達戦前に生まれた人間の歴史を物語るドラマが、イスラーム世界の人たちに苦境の中に生き延びている日本人としての親近感を植えつけている。

 ペルセポリスの遺跡でイランの家族と話したときにも 「おしん」と娘が言った。至る所でイランの人たちが 「おしん」と私達に語りかけている。其処には最低の恵まれない人間としての近親間が溢れていた。イランの経済は高度に発展した資本主義工業社会であり、石油資本により、財政は豊かでアメリカ以上に発展が約束されていることが読み取れた。そうしたなかでのイランの人たちが抱く対日、親近感を大切にしなければならない。私は日本の皆さんに改めてイランの庶民の気持ちをお伝えしたい。水戸黄門
{私のニックネームです。他に文さん}

  

                        10月1日
 いよいよ、イラン出発の日も後数日に迫る。準備ok万端整ってきた。デジタルビデオカメラ、デジカメ、ノートパソコン、それらを繋ぐコード、外国での電源を取り入れるソケット、デジカメの急速充電器、同じくデジタルビデオカメラの充電器、電池、懐中電池、これらを入れる諸々の入れ物、リッユックサックが八鹿のペア、林の店で1000円で見つかった。和田山のジャスコより良い品物が安く手に入った。腰に巻く入れ物、カメラとデジタルビデオと、ハンカチ、手袋、マスク、金、チリカミ、旅行中の必需品を入れる腰巾着が、八鹿の林で1000円で見つかった。ジャスコでは3000円くらいしていた。旅行鞄は、リュックのように肩に背負うことも出来るし、取ってを引き出し車を引っ張ることも出来る手荷物が便利である。衣服や向こうに行ってからの着替え、生活必需品は旅行ケースに全部入れて送る。成田空港から取りに来る。カメラ類とパソコンは手荷物で飛行機に持ち込むことにした。くすりには特に色々な薬品を仕入れている。帽子、めがね、靴下、腹巻にはドルと日本円とパスポートを入れる。ホテルは個室、風呂は各個人の部屋に付いている。ホテルについたら真っ先にノートパソコンを開き、カメラなどの充電をすます、其の日の行動を記録する。予定表を調べ、明日の必要な持参品をリュックに入れる。

              顔丸出しのイランの女子学生。日本の女性より開放されている。
今回のイランの旅はアルコールは絶対厳禁である。歴史と地理の勉強、史実をこの目で実証する旅である。諸々の本で調べたイランの歴史や、経済、政治情勢、風俗と習慣、持ち込んだノートパソコンをふんだんに活用できる旅である。
昨日、ウズベキスタンの旅でご一緒していた、東京の日野桂子さんから、はがきが届いた。イエメンからの便りだった。酷暑のイエメン、早速、インターネットで日野桂子と検索してみた。建築家、画家、俳優、色々な人々の名前が出てきた。
 
文さんは、10月5日から、アメリカの嫌がるイランに行く、イラン、ハタミ大統領に会ったのは一昨年の春だった。中央アジア、ウズへキスタン、サマルカンドのホテルだった。大統領は私達日本人カメラマン30名に、ニコニコと、一メートルの近くまで近づいてきた。
アフガニスタン戦争後の、中央アジア航空再開第一便でウズベキスタンに飛んだ。何時かイランに行こう、イランは昔からペルシアといわれ、ヨーロッパと、中東、アジア世界の歴史の発祥の地である。ペルシアの歴史こそ世界の歴史の原点であると、私は認識している。戦後すぐ、西洋史を紐解いたとき、西洋の歴史はペルシアの歴史から始まっていた。ペルシアの文明は、中国を経て奈良朝時代正倉院の文物の中にもその影響を得た作品が多く貯蔵されている。10月に入ったら出発したいと其の準備を始めている。
ここ数年、様々な書物からイランの文化や歴史を研究してきた。「百聞は一見に如かず」

 イランの面積は日本の約4.5倍、その大半は1000mから1500mのイラン高原で、東にはルート砂漠、キャヴイール砂漠が広がっている。北にはアルボルズ山脈、西にザーグロス山脈という3000m~4000m級の峰が連なっている。最低海抜は6m最高海抜は6000mと起伏に富んでいるのが特徴だ。高地であることと、乾燥した砂漠であることから、国土は広いものの、約3分の1は耕作にも遊牧にも適さない。テヘラン、シラーズ、ヱスフアハーンといった町は、水に恵まれたオアシス都市として栄えてきたところだ。
  経済情勢
 イランは人口約6500万人と中東地域有数のマーケットを有していると同時に、中央アジアへのゲートウェイとして位置付けられています。
 1997年末以降の石油価格低下により経済状況は低迷し、外貨繰りも悪化しています。我が国や欧州諸国は対イラン債権について、累次に渡りリファイナンスを行っています。最近の油価の回復により、外貨準備が増大しつつありますが、今後もこうした状況が継続するか否かについては、今後の油価の動向やマクロ経済運営の動向に注意を払う必要があります。
 
 我が国との関係
 イランは、我が国第3位の石油輸入先国であるとともに、地政学上ペルシャ湾の北岸を占めるなど、我が国のエネルギー安定供給上重要な国です。
 2000年11月のハタミ大統領の訪日に際し、平沼通商産業大臣(当時)とザンギャネ石油大臣との間で両国のエネルギー分野での幅広い協力策を盛り込んだ共同声明に署名、イラン国内のアザデガン油田開発に関する日本企業の優先交渉権の取得、30億ドル相当の原油前払い輸入等に合意しました(共同声明本文はこちら)。

 イランと国境を接する国。アゼルバイジャン、アルメニア、トルコ、アフガニスタン、イラク、パキスタン、トルクメニスタン、オマーン、クエート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーン、海は、カスピ海、ペルシア湾、オマーン湾、アラビア海に面している。宗教はその殆どがイスラーム教シーア派であり、国が定めた宗教である。だがシーア以外にも、イスラーム教スンナ派、キリスト教のアルメニア教会、アッシリア教会、ユダヤ教、ゾロアスタ教、などがある。イランは戒律の厳しい国であり、特に女性は肌を露出したり、足を出したりしないよう、服装には特に気をつける必要がある。髪も露出しないようスカーフで頭髪を隠さなければなりません。派手な服装をしないよう、なるだけ黒の服を着用しなければならない。男もネクタイなどしてはいけない。
イランの旅はアルコール厳禁の国である。15日間アルコールを抜いたたびである。健康回復の旅でもあろう。
このイラン旅行記で見る限り対日感情は非常に良い、イスラーム世界でもイランは平和な国で治安も良い。

   

10月6日
伊丹空港を8時40分発の飛行機で成田空港に着いたときは9時50分くらいだった。飛行場で神戸の安田さんたち親子の女性に挨拶した。荷札が西遊旅行の札をつけていた。早速、安田さんとお友達になり、成田空港の食堂街を歩く、時間つぶしにビールを飲みに入る。このビールが日本発最後のビールになった。今朝、ホテルで日本酒をコップに一杯引っ掛けた。1時30分、出発ロビーに集合した。検査はすべて合格し予定どおりの時間に乗った。イラン航空は午後4時出発した。途中北京の空港に着いた。ここで1時間待ち合わせた。10月6日成田空港午後4時発。イラン航空1R−801便に乗る。1時40分テヘラン空港に着いた、時計を合わせる。日本時間午前5時ごろホテルについた。


 荷物を受けとりホテルに着いたときには五時を過ぎていた。イラン時間1時40分くらいだったろう。ホテルは一人部屋を用意してくれていたが、二人用の広い部屋だった。一人分追加料を支払わなくとも何時も部屋を用意してくれている。風呂はホテルの普通の風呂だが、トイレはイラン式水洗トイレである。水道の蛇口からお尻をあろう、テヘランの最高級の部屋だろうが、トイレは日本のようなトイレではない。早速、パソコンを取り出す。デジタルビデオ、カメラなど様様な道具を取り出す。此処のホテルに二連泊の予定だから気楽だ。明日から視察が始まる。今晩はゆっくりと休もう、然し、ビールが無い、焼酎も酒もアルコールは厳禁の国だった。これから半月、アルコール抜きの旅行が始まる。健康そのものだった。参加したメンバーは17名、男4名、女13名。関西から5名参加している。みな、中近東、アラブ諸国、アフリカ、アジア、などの国々を旅行したつわ者ぞろいだ。
10月7日
テヘラン市内観光、ゴレスタン宮殿ないの民族学博物館の見学、考古学博物館、午後、中央銀行の宝物館見学、素晴らしい金銀、財宝、ダイアあり、真珠あり、諸々の財宝が多数陳列されていた。凄い財宝だ。こんな金銀の財宝がイランの銀行にあったのかと感心した。
その後絨毯博物館の見学、古今東西のイラン、ペルシアの絨毯が一堂に集められていた。夕べ眠られなかったので疲れ果てた。17名の皆さんとは親しくなってきた。まだまだ、今日がはじめての日である。体力の回復が先決だ。日本の別の観光旅行団を見た、この人たちは中国、中央アジアを経てイランにきたらしい四十数日間の旅でバスばかりのたびらしい。イランからトルコに入るようであった。東アゼルバイジャンを経て、トルコ東部のヴァン湖に抜けるだろう。長い長い旅である。「お元気で」と、声を掛けた。

     

                   ゾロアスター教の神  
                                  10月8日
 朝、4時起床、4時30 分荷物だし、5時出発、の予定であるが2時過ぎに目が覚めた。テヘランからヤズド空港に着いたのは午前7時30分を過ぎていた。バスで30分、ホテルに着いた。ここで朝食、午前中の観光を始めたのは9時を過ぎていた。ヤズド市内観光、ゾロアスター教の教会を見る。拝火の神さんである。1200年の昔から火は消えたことは無いという。金曜モスク、イスラームの教会をみる。古い家並みと地下水のある階段を下りてみた。高い塔からヤズドの町並みの写真を多数撮った。体調を崩したのか、トイレに二回行く、下痢止め薬を持っていたので正露丸を飲んだ。朝、このコンピュウターの電源が故障したがこれも午後回復した。午後は4時から市内観光を始める。
   
                                10月9日

   
  朝4時起床、6時に荷物だし、朝食、ヤズド発、ケルマンに向こう、イラン砂漠を数時間走った。二時すぎにケルマンの町に着いたが、バザールなど散歩する。イスラーム教の寺院、キャラバンサライなど見る。
途中のガソリンスタンドで、スタンドの責任者らしき人が日本のアザデガ油田開発の対応を厳しく非難していた。
イランは数千年の歴史ある世界有数の民族である。石油資源の不足する日本は、イランなどとの国交を下手をしないよう進めなければならない。中川通産相のアメリカべったりの發言はいけない。日本の国益に反する行為といわざるを得ない。

 
                               

 10月11日
ケルマン市からシラーズへ。朝、7時出発、500数十キロを走ってシラーズに着いたときは夕方の5時を過ぎていた。
イラン砂漠を走る。行けども行けども木の生えない砂漠だった。途中、エイリーズの町の公園で昼食、バスが故障のため2時間近く待たされた。子供が多く集まる。何処から沸いてきたのか?ジャパンが来たと物珍しく集まってきた。
中学生、高校生、実に多い、漸くバスが走り出した。途中、検問が30分おきくらいに車を止めた。90kmの制限時速らしい。車が実に多い、時々事故をしていた。車は左ハンドル。ケルマーンからシラーズに行く途中は大きな山脈を越えねばならない。冬は雪が降り凍結のため交通止めになることもあるらしい。峠で標高を測ったら2400mを越えていた。道理で空気が薄い、長い長い峠道を登ったり下ったり、10時間かかりやっとシラーズに着いた。
ホテルに行かずまたまたバザールの見学である。こんな買い物ツアー嫌だ、と、食事のとき病人が出たので、とうとう癇癪球をぶつけた。旅行のとき怒ったりしない、然し、今回のツアーは買い物、バザール見学が毎日である。
イランまで来て買い物など毎日、何故するのか? 。早くホテルに着き、風呂に入り、パソコンをしたい。そのため日本からわざわざパソコンを持ち込んできたのだ。旅行記はその日その日書かねば、あくる日になると忘れている。
車の途中ガイドに質問した。義務教育は小学校5年、中学3年、が義務教育である。識字率は95%くらいらしい。
所得税は職業により差がある、教職など10%、多い職業は40%から50%くらいかかると言う。年金は公務員にはあるが一般の職業にはすくないようであった。土地保有は今も大地主がいるようである。国の所有が多く、他にイスラームの寺院などが保有する土地も多いようである。土地、建物などの個人所有は勿論あるが、多くの不毛の土地は国の所有が殆どであろう。註、このガイド説明は間違いが多かった。後で交替したガイドが訂正してくれた。
イランの国王の白色革命で農地改革がなされ、農民は豊かになったが、都市の住民には不満が多く残った。それが後のイラン革命に繋がった、と、イランガイドのアミールさんの説明であった。しかし、「地球の歩き方」には農村の不満がイラン革命の原点となったと書いていた。アミールさんは、農村はイラン国王の革命で豊かになったが、都市の住民の不満がホメイニーのイラン革命の原点となったと言う、アミールさんの説の方がただしいだろう。
    
 
 ケルマン市から「アルゲバム」「死の町」の異名をもつイスラム城址「アルゲバム」の見学、大きな城門を潜り抜けると、中世から時が止まってしまったかのような「アルゲバム」が現れた。町全体が廃墟であった。
最近イラン政府の復旧工事が進められ、土壁の修復がなされていた。イランのこの地方は砂漠の中のオアシスに土壁の家々が住宅として使用されていた。イランは土の文化である。トルコやシリア、ヨルダンは石の文化であった。石は少ないだろう、アルバゲムの城壁は岩盤の上に建てられていた。土の幅広い城壁であった。アルゲバムの城址を見た、夕方暗闇の中、多くのイラン人が集まっていた。近くのイベントの集会だったのだろう。

 10月12日
アケメネス朝の大都城址ペルセポリス、王墓の残るナクシエ。ラジャブ、キュロス大王の都パサルガダヱの観光。
ここで買った本を出した、ペルシア語で書かれた本は読めないが、写真は見える。その本を日陰にたむろしていた家族と一緒に見た。一枚、又一枚、全部の写真を見せた。60ドルで買った本、高価な本だ。イランの家族には手の出せない高価な本だろう、イラン全国のイスラーム世界と遺跡がすべて載っている。本を読み終わった。話をする、言葉は分からなくとも気持ちは通じた。
「ジャパン」と名乗った。「おしん」と、家族の娘が言った。おしんの物語を知っていた。
私は確りと、イランの逞しい男と握手した。妻と娘たち、老婆と五人家族だった。写真を撮ってもよいかと、手まねで聞いた。言葉は通じなくとも心は通じる。国際親善外交、私は安心した。そして又一人のイランの友人が生まれた。もう、集合の時間が来ていた、イランの五人の家族と別れた。何時までも手を振ってくれた。ペルセポリスの廃墟の城址、と、五人のイランの家族は何時までも心に残った。         

   私が話した五人の家族
10月13日                       
気温38度、カーゼルの町。標高850m。シラーズの町から3時間、砂漠と樫の木の点在する高原を走る。桑の木や、ナツメヤシ、イチジク、ざくろ、ぶどう、などのよくできる山が展開していた。ササン朝、ピシカーブルの遺跡である。
広い平野の真ん中にその遺跡はあった。廃墟と化した遺跡は、シラーズからも遠く、観光地としては今ひとつである。
近くを流れる川の土木工事や水路の入れ替え工事が盛んに行われていた。河川の公園で昼食、昼食していたら何処から降って沸いてきたのか多くのイランの学生が集まってきた。バスが故障し動かなくなった。近くの金曜モスクを見学したが田舎のモスクは荒れ果てていた。左官職人が補修工事をしていた。このモスクにもまたまた多くの少年が集まってきた。無理も無いだろう、見たことも無いジャパンが突然町に現れたのだ。漸くバスが動き出した。また、3時間の道のりを走りシラーズに帰った。
夕方出発までのひと時、イランの偉大な詩人、ハーべルの廟を見学、
ハーベルの詩
おお、サーキーよ、{酌人よ}酒杯をまわして、われに授けよ、
愛ははじめたやすく見えたが、あまたの困難が生じた
終にそよ風があの巻き毛からもたらす香りに焦がれ
塵香が薫かの髪の縺れにあまたのこころが
いかに痛んだか
わが恋人の館に何の安らぎ、楽しみがあろう
いつも鈴が鳴り響く、荷物をたばねよと
酒場の老人の命ならば、礼拝、敷物を酒にて染めよ
旅人の道中と宿場の習慣を知らずにおれぬゆえ
夜は暗く、波おそろしく、渦潮はすさましい
わが様が浜辺の気楽な人々にどうしてわかろう

わがことは全て我が儘ゆえに不評に終わった
あの秘密がどうして隠される
、集いにて語られよう
ハーフイズよ、安らぎを欲すなら
彼女から身を隠すな
恋する人に逢ったら、世を捨て還りみるな
平凡社、東洋文庫より。 続いて、詩人、サービーの廟に行く、
   
   10月14日
 今日はイスファハン市内観光。40柱宮殿、金曜モスク、アルメニア教会、イマームモスク、シエイクルトフオーラーモスく、アリカブ宮殿、バザールなど、見学。写真を多く撮る。特にアルメニア教会での絵にはひきつけられた。
 教会の中ではデジタルビデオカメラで思う存分撮影できた。20万イラン通貨をだした。
アルメニア人がオスマントルコに迫害され、200万人のアルメニア人が殺された、その場所と歴史がアルメニア教会の天井の壁に書かれていた。私はその迫真に迫り来る絵をビデオに収めることに成功した。アルメニア教会は綺麗な建物だった。旧ソ連邦の崩壊後アルメニアはロシアから独立した。
夕食は隣のホテルで食べた、特にイマームモスクは凄かった。広い広いモスクだった。今まで見たどのモスクより、より広く歴史ある建築物だ。土産に絨毯を買った。一人で町を歩いた、イランの町は外国のどの町よりも安全であった。トルコの町も安全だった。
陶器を買っていたら一人のイラン人が横から説明してくれた。そのイラン人の店に行った。ジユータン屋だった。
一人で店に入り交渉した。ホテルの店で1800ドルの絨毯を見ていた。ここで値段の交渉に入った。結局、1150ドルに落ち着いた。土産は殆ど整った。
 イランの人たちは、中国やインド、パキスタンなどの人たちに比べ比較的程度が高いようだ。教育も、宗教も、文化の水準が高い、若い娘は美人が多い、黒いスカーフ、黒い上着、スカートなど着ているとみな綺麗に見えるのだろうか? イランの女性のスカーフは、気候、風土に適応した服装なのだ。
イランにおける石油開発は、日本のアメリカべったりの姿勢と、新しく就任した中川経済産業相などの発言でイランの政治家や、イランの民衆を激怒させ、日本離れの印象を受ける。私達の民間交流がイランと日本人との距離を縮めていることは否めないだろう。             10月15日
 イスファハンのアリカブホテルに二泊した。今日15日はアフワズに飛ぶ、午後18時30分の飛行機がイスファン飛行場を飛び立つ予定だ。それまで、イスファンの市内観光である。ザーセンデルド川にかかるハージュ橋、33アーチ橋、
15日は橋の観光であった。ホテルの横にカルーン川があった。カルーン川は大きな川である。
砂漠の国イラン最大の河川だろうか ? その川に架かる橋三本。橋を歩いて渡った。度々写真を撮った。
    
             左官やが壁の補修工事をしていた。            
 アルメニア教会を訪れた、教会の中ではデジタルビデオカメラで思う存分撮影できた。
 世界を制覇したオスマントルコ、今年の春、訪問したトルコの英雄の祭られた廟を見学した時受けた感動を忘れられない、オスマントルコは第一次世界大戦で戦争に負けた、トルコの英雄。彼の指導と独立戦争に勝利し現在のトルコ共和国が誕生した。
戦争には勝利しなければならない、誰しも戦いは嫌だ、然し、戦いに負けた民族は惨めである。現在、アルメニア人はイラン国内にも多く生活している。イランは他民族国家である。いろいろ、様々な民族から構成された多民族国家である。その中でイスラーム教シーア派が多数を占めている。
 
 
 ゾロアスター教の教会も見た、イスラムのモスクも多数見た、イランの多数民族国家を統治するハタミ大統領と、革命の指導者エマーム、ホメイニー、二人の写真はイラン国内何処に行っても張り出されている。ホテルで二人の写真を買った。1979年、国王、パフラビーを国外追放し、ホメイニーはフランスのパリーから凱旋帰国し、イランの最高指導者に就任、その直後、イラン、イラク戦争が始まり戦争は泥沼化したが停戦協定を結び終結した。その翌年、ホメイニーは死亡、数百万人の民衆が葬儀に参列した。
二人の英雄の写真が全国の町や村々のホテル、食堂、街角の壁に張り出されていた。
イスファハーン空港からアフワズ空港に着いたとき、イラン観光会社から派遣されたガイドのアミールさんを紹介された。アミールさんは、イランの大学を出て、専攻は他の国だったが大学在学中に日本語の勉強をし、殆ど日本人と変わらないくらいの日本通となっていた。ニュースも毎日日本の国内ニースを読んでいると話していた。イランの新しい革新的な日本通であろう、この人から日本に対するイラン人の見かたを引き出すことが出来そうだ。

11月16日
イスファンを出発し、しばらく行くとイラン石油の採掘する石油のガスが燃える風景が見えてきた。
イランは約60年前に石油が見つかり、約50年まえから国有化されている。モサティ総理大臣が今評価されている。
熊本新聞。社説 イラン油田と日本 独自外交試される正念場

 ブッシュ米政権が日本政府に対し、日本の企業連合によるイラン・アザデガン油田開発計画の中止を求めている。イランに核兵器開発の疑惑が指摘されている中で、イランの現体制に利益をもたらす大型投資は好ましくない、という理由である。
 イランの核疑惑は、核や大量破壊兵器の廃絶を安全保障の基軸にしている日本にとっても見逃せない問題だ。まして同盟関係にある米国からの中止要請である。
半面、石油供給の大半を中東に依存しているわが国のエネルギー事情を考えれば、自主開発油田の実現は国益にかなう。良好な日米関係の継続とエネルギー政策をどう両立させるのか、まさに日本外交の基本が試される局面だ。
 アザデガン油田は、イラク国境付近のイラン南西部に位置する。確認埋蔵量は二百六十億バレルで中東でも大型の油田。一九九九年に発見が発表され、二〇〇〇年にハタミ大統領が訪日した際、日本が開発の優先交渉権を得ることで両政府が合意した。
企業連合は国際石油開発、大手商社トーメンなどで構成。開発規模は二十五億ドル(約三千億円)で、約二十年間にわたって一日当たり三十万バレルの生産が想定されている。交渉に時間がかかっていることもあり、優先交渉権は六月三十日で期限が切れたが、イラン石油省はあらためて日本の企業連合に優先交渉権を与えるとみられている。 このまま推移すれば交渉は継続され、開発契約の締結に至るところだが、そこに米政府から「契約は不適切」(バウチャー米国務省報道官)という注文がつけられた。

 米国が問題にしているイランの核開発計画は、ペルシャ湾岸ブシェールに同国初の原子力発電所となる軽水炉を建設し、将来は核燃料製造、発電、再処理までの一貫した核燃料サイクルを目指すという内容だ。

 この計画について、イラン政府は「原子力の平和利用」を強調しているが、米国は「産油国のイランが電力を原発に頼る必要はなく、核兵器開発の疑いが強い」と指摘する。また、国際原子力機関(IAEA)はウラン鉱石の輸入が申告されていないこと、西部アラクでの重水炉建設計画や中部ナタンツで建設中のウラン濃縮施設の詳細などが不明であることを問題視している。

    顔丸出しのイラン女子学生            

 チョガサンビルに着く、紀元前1250年に創られたイラン第3の国である。アケメネス朝ペルシアの行政の中心都市である。そこにイラン女子大学の学生たち多数が同時についた。一緒に写真を撮る、イランの女性は写真を嫌う、と、本に書かれていた。然し、私達が接した多くのイラン女性たちは解放的で、度々多くの写真を撮影した。現在のイラン女性は、農村は勿論、都会では共働きしている、教育程度が高くなるにつれてイランには女性差別は無い、議会議員も10%くらいの割合で出ている、官公庁にも就職している、警察も女性の警察官が多い、ボウイなどのお客に接する職業をイランの女性は嫌う、
 農地はパーレビ国王のイラン革命で、約50年まえ農地改革が行われ地主から小作に開放された。農村は豊かになったが、都市の多数の労働者の生活は苦しかった。イランが共産主義革命の道を選ばなかったのはアメリカの支援があったからではなかろうか?。イスラームシーア派の多数を占めるイランは、多数の民族を抱えながらイラン独特の政策と方法で統治されている。アメリカ式の民主主義を押し付けようとしても無理だろう。

 日本との関係はどうか、少なくとも15年前までのイラン人は日本に対して絶対的好意を持っていた。「おしん」の映画の上映された当時の、今にして思えば古き良き時代の日本である。その好意ある日本は、アメリカと結託してイラク戦争を仕掛け、アメリカを支援し、イラン石油開発の問題でも絶えずアメリカよりの態度である。ここにイラン人の日本離れの最大の原因と理由か゜ある。アミールさんはその現状とイラン民衆の思いを的確に、然し、焦点をぼかしながら話してくれた。もっと、突っ込んで話したいのであろうが、日本の観光客を前にきわどく話すことは差し控えようとの心理が働いている。頭のいい人だ。イランを代表する良識派であろう。
イランの税制は外国から来たお客様を迎える旅行業者は優遇税制である。村や町の議会は6人の長老議員で決める。4年ごとに選挙が行われる。大きな都市は10人、12人の所もあるようである。ケルマンシャーの町に着いたときには9時を過ぎていた。

  

                          イランガラス博物館の秘宝

                                    10月17日
 イランの道路は一人の運転手が8時間運転である。運転手の運転制限時間が設けられている。道路は30分ほど走ると警察官が検問している。交通事故防止のための対応だろうが、従って12時間もの観光には4時間他の運転手を雇わなければならない。
日本の交通法規より厳しい、高速道路や主要な道路には警察がきびしく検問している。繁華街の交通は恐ろしい様相である。
赤信号でも車が横から割り込んでくる。それを巧くすり抜けて運転している。多くの車が走っていても手を上げて一度に横断すると車は停止してくれる。{ 赤信号、みんなで渡れば怖くない} と、言いながら渡る。この点日本より歩行者にとり便利である。車は左ハンドル、右側通行、従って日本の逆で中央斜線が左にある。アメリカと同じである。イランの国産車が多く走っている。フランスの車も多い、韓国も多いようだ、たまにトヨタの車が見えた。イランの石油は非常に安い、車は一戸二台、三台所有している。電車や地下鉄がすくないから殆ど車のようである。道路は狭いところでも片側三車線あるが路上駐車が多い、信号は護られないところが多く、警察が整理している、それでも比較的スムースに車が流れている。日本のように渋滞しても適度に車が流れていた。
  
               ナクシュ、ロスタム
 ケルマンシャーのホテルに泊まり、17日朝から今晩の宿泊地ハマダンへ、途中、ダリュース大王戦勝記念磨崖碑浮彫で有名なビストーン、ササン朝の浮き彫りの残るターク、イ、ブスタン洞窟を見学する。写真を撮っていたら多くのイラン女子学生が私の周りを取り囲んだ。一緒に写真撮影した。デジタルカメラで写真を見せると歓喜して喜んだ。
「ジャパニーズ」という、今回のイランの旅で多くのイランの人たちと交流できた。私達日本人は、一人一人が民間外交官であるとの認識で行動し、国際親善を図るべきである。イランの人たちは人ナッツこいひとたちである。

 「地球の歩き方」などの本に書かれている警戒心に満ちた対応でイランの人たちと付き合ってはいけない。本に書かれているのは、書いた一人の人の意見であり、客観的な事実とは違うということを日本の旅行者はしるべきである。いい体験であった。ハマダン着後、市内観光、[アケメネス朝の磨崖碑の残るガンジナーメ、エクバターナの丘など } を見学する。
特にエクバターナはハマダンの観光地であり、金曜日休日と重なり多くのイラン人が遊びにきていた。一緒に写真をとった。
夜テヘランのホテルに泊まる、最初の夜泊まったホテルだった。ホテルに着くと日本の観光団17名のグループが泊まっていた。12日間の予定でイランの旅を終わり、私達と同じ飛行機で帰るそうである。明日は愈々最後の観光地、マシャドに向かう。マシャドではイスラム教シーア派の聖地、[黄金に輝くドームにイマームレザー廟があるハラム、モタッハル広場など}の見学である。

10月18日
 テヘラン発、飛行機でマシャドへ、マシャドはイスラーム教シーア派の聖地である。多くの巡礼が訪れている。メッカに次ぐイスラームの聖地である。そのイスラーム教の聖地、マシャドへ着き、直ちに黄金の輝くドーム、にイマーム、レザー、モッタハル広場に行く、マシャドのイマームモスクは、どんどんと増築されていた。昔の建物の改造もなされていた。多くの世界中から集まる信者の寄付で増築されている。然し今建てているモスクは細い鉄骨に張りぼての安上がり建築である。出来上がったら豪壮に見えるだろうが、私のように様々な建築様式を見てきた人間の目は誤魔化せない。張りぼて建築の巨大なモスクで、イランを代表する聖地の建築をやっている。それにしても広く何処までも大きな建築である。日本の高野山、比叡山、天理教、日光東照宮などの建物とは基本的に違う、平坦な敷地にモスクは広がっている。世界中からイスラーム教シーア派の信者が訪れていた。写真撮影禁止である。
聖地マシャッド

イマームモスク
 マシャッドはイランの5分の1を占めるホラーサン地方の州都で、昔から、歴史的にも、文学的にも重要な役割を果たしてきました。テヘランからは約1000q離れていて、飛行機で1時間10分で行けます。 
 マシャッドは、9世紀前半から「殉教の地」として栄えた町で、「マシャッド」とはペルシャ語で「殉教」という意味です。これは、8代目イマーム、イマーム・レザーがこの地で殉教し、彼の聖廟があるからです。(以前にも説明しましたが「イマーム」とはイスラム教シーア派のリーダーのことで12人います。)イマームの中でイランにお墓があるのは唯一8代目イマーム・レザーだけで、そのため、イラン最大の聖地となっていて、イラン人、イスラム教シーア派教徒は一生に一度は訪れるべき土地となっています。毎年、近隣諸国(イエメン、イラク、インド、アフガニスタン、パキスタンなど)からの訪問者も合わせると、1200万人もの人が訪れるそうです。

ホテルはホマホテル、昼食ご市場散策、買い物を楽しむ、サフランを買った。明日は愈々帰りの途に着く。
   
10月19日
テヘラン市内観光、夕べ寒かったので高い山には雪が降っていた。マシャド空港から朝の便でテヘランについた。
テヘランの高級住宅街に車を進めた。アーザーデイ、タワーが見えた。1971年ペルシア建国2500年を記念して建てられた塔である。高さ45mある。サーダーバード宮殿博物館を見た。パフラヴイー王家の夏の離宮である。第二次世界大戦後イランはアメリカの強い後ろ盾のもと、「白色革命」と称する工業化を推し進めた。国王による白色革命は貧富の差を広げ、農村の荒廃を招く結果に終わった。国王の圧制に対する民衆の不満は高まり、その動きは全国に広がり、ホメイニー師を代表者に担ぎあげた。
その近くに川口外相が訪れ会談した建物が見えた。軍隊が警護していたが見せてくれた。エマーム、ホメイニーの霊廟を訪れた。1979年、イラン、イスラーム革命の指導者、ホメイニーの眠る聖地。8年の長いイラン、イラク戦争の停戦の後、ホメイニー師はその生涯を閉じた、その後ハターミ師が1997年国民の圧倒的支持で大統領に就任、内政、外交ともに穏健な政策を実行しており、各国の注目を浴びている。ホメイニーと、ハターミ、二人の写真はイラン全国何処のホテル、食堂、街角の建物にも掲示され、尊敬されていた。

10月20日
 予定どうり12時に成田についた。韓国の空港で一時間以上休憩した。8時ごろには韓国についていた。少し体力が回復した。ここから羽田空港に着く、又飛行機を乗り換え伊丹空港に行く、羽田空港で荷物の検査に引っかかった。「荷物を点検させてください」と、係官が言った。「イランに行っていたんだ、何処の国でも成田の空港でも通過してきた、ヤレやれ日本に帰って来た、十数日間の旅でやっと日本に帰ったんだ。何処の国でも問題なく通ってきたのだ、検査など何事か」と、私は女の子に噛み付いた。羽田の食堂でビール一杯のみ、少し酔いが回っていた。あまりの剣幕に係りの子は困っていた。「仕方が無い、在ったとおりに荷物に入れとけ」と、怒鳴った。「此処の器械が悪いんだ、今頃の世の中に、パソコンとデジタルビデオカメラを持っていて、危険物と見分けがつかぬような古臭い器械で人の荷物を検査するなど失礼だろう、もう、二度とこんな飛行機など乗ってやるものか、JRで行けば検査などない」と、怒鳴り散らした。警官も見ていたが文さんの言うことは正しい、羽田空港の荷物検査の器械を早急に新品に取り替えろ、と、私は怒鳴った。
10月21日
今朝、イランの旅から帰ってきた。午前中寝ていた。中々疲れは取れないだろうが昼前に起きだした。荷物の整理が夕方、漸く終わる。車で氷の山国際スキー場の山の畠を見に行った。途中に野菊が多く咲いていた。イランの砂漠の花は綺麗だ、と、褒めてみたが、ふるさとの野菊の花はイランのどの花にも、比較にならない。一斉に野山の道に咲いている。山々は紅葉し、私がイランの旅に旅立つ10月はじめは、まだ夏の香りが残っていた。17日間家を留守にしていた。机の上には数え切れないほどの手紙、はがき、会議や会合の案内が来ていた。それらの書類に目を通し、必要なものと、そうでない書類をふるいわけた。荷物が届いた。昨日、成田空港から送ったスーツケースが届いた。早速、荷物を開き、洗濯物、みやげ物、衣類の使用しないものなど振り分けた。パソコンを開いたのは午後5時を過ぎていた。早速、このページをインターネットに送信します。文字の誤りなど点検する暇はありません。とりあえず公開。
文さん。

  

 イランの核疑惑。を、北朝鮮と同列におく外交に中川経済産業相が傾斜してゆくのではないか、農林族議員の中川、イスラーム世界やイラン、イラク、シリア、ヨルダン、トルコ、アフガン、パキスタン、中央アジア、インドなどの情勢が彼に分かるだろうか ? 大臣だなぞと言っても、中東情勢の分からないものがイランの核疑惑などに口出しして、国益を決定してゆく、小泉さん、もっと勉強した議員をわが国の国益の代表に就けるべきだ。? イランの現状と、数千年の歴史、イスラーム世界の民族の動きなど、もっともっと調査し、勉強し、誤りの無い政策を決定するべきである。イラン、イラク、ソウジアラビアなどの産油国の扱いは、アメリカの独善的主張だけをきいていると失敗しますぞ ? 。日本は中東の石油に依存しなければ生きてゆけない。資源の多いアメリカと同じように、行動することが国益か?水戸黄門。

日本人はイランに対してどのようなイメージをもっているだろうか。革命、戦争、日本に大挙してやってきた労働者…。
しかし、それはイランの「非日常」的な一面に過ぎない。古代に広大な帝国を築き、正倉院へガラス器をもたらしたペルシアは、アラブのイスラーム勢力や欧米諸国の侵入・干渉を受けながらも、独自の文化を守り抜いた。
不安定な世界情勢のなか、現在も模索を続ける人々の真実の姿を伝える。

イランの歴史
イランの地理をおおまかに言うなら、北のエルブルズ山脈から南のザグロス山脈 にかこまれた高原地帯からなっている。そしてイラン高原の中央部には砂漠と荒地 が続いている。
エルブルズとザグロスの山脈に降る雨や雪解け水をなんとか利用しようとして考えられたのがカナートである。山の麓の水源から地下トンネルで水を引こうとしたのである。地下水道にしたのは、地上に水路を作ると暑さのため水が蒸発してしまうからである。そして途中のところに縦穴を設けて井戸方式でそこから水を汲み上げても使っている。このカナートはイランが発祥の地とされ、 しだいに東方に伝わっていった(今もシルクロードに広く見られる)。
こうしてイランから東方のインドや中国を結ぶ各地にオアシスができた。
オアシスが結ばれてイラン高原に交易の道ができた。こうしてシルクロードに発展していったのである。この道を通って、絹をはじめ宗教や技術や文化が 東西をいききした。イランは文明の十字路と呼んでもおかしくないのである。

イラン高原で最初に国家を建設したのは、アーリア人種のメディア人である。
彼らが呼んだ西南イランの地パルスアから、同じアーリア民族国家のアケメネス王朝が生まれた。そして古代ギリシア人はアケメネス王朝を、その出身地パルスアにちなんでペルシアと呼んだ。これがイランをさす言葉として英語のペルシアとなった。イランの人びとは、自分たちを昔からイランと呼んだが、これはアーリア人の国
という意味のペルシア語である。

参考にしたのは 宮崎静一:イラン(世界の国ぐにの歴史 全20巻 岩崎書店)要旨だけメモ的に紹介します。
 BC2000ころ アーリア人種がイランに侵入してきた。当時のイラン高原では先住民族が農耕と牧畜を行っていた。 BC9世紀 メソポタミアとエジプトを統一したアッシリア帝国が誕生し、イラン高原の北西部に侵入 この地にはアーリア系のメディア人が住んでいた。 アッシリアはメディアから騎馬戦術を学び、メディアはアッシリアから政治組織を学んだ。 BC612 メディアは新バビロニアと同盟して、宿敵アッシリアをせめた。 アッシリアは滅亡しその首都ニネヴェは破壊された。メディアは新バビロニアの贅沢さに影響され質実剛健さを失っていった。
 
  イランの歴史はメディア人にかわってその南に住むペルシア人がつくることになる。ペルシアとは辺境という意味であった。 BC550 ペルシア王キュロス(クローシュ)2世は、メディアを倒し、メディアと対立していたリュディアも倒した。
そして新バビロニアも征服してメソポタミアを統一した。 これがアケメネス朝ペルシアである。
BC520 ペルシア王ダリウス(ダリューシュ)1世は、ペルセポリスという、新年の儀式にしか使わない都を建設した。そこには各地からの使節団が集められ、王に新年の挨拶をして貢ぎ物を献上する儀式がとりおこなわれたのであった。

 BC330 アレキサンダー大王は、ペルシアを滅ぼしペルセポリスを焼き尽くす。アレキサンダー大王の死後、帝国は部下たちにより分割され、やがてイランにはパルティア王国が成立した。
BC115 パルティア王ミトラダテス2世のもとに中国前漢武帝の派遣した張騫の副使がくる。漢とパルティア国の間に結ばれた交易関係、こうして交易の道がシルクロードとして発展する。
AD226 ササン朝ペルシア建国
AD651 アラビア民族がササン朝ペルシアを滅ぼす。
AD1220 モンゴルのイラン侵入 AD1258 イル・ハン国はじまる。
AD1380 チムールのイラン支配 AD1501 イスマイール、サファヴィー朝を建国 AD1722 サファヴィー朝ほろびる。 AD1796 カージャール朝はじまる。

 AD1804 第一次イラン・ロシア戦争 AD1826 第二次イラン・ロシア戦争 AD1891 タバコ・ボイコット運動開始 AD1906 立憲革命がおこり、憲法発布 AD1911 ロシア軍北部イランに侵入 AD1919 イラン・イギリス条約
 AD1925 パーレビ王朝(初代国王レザー・シャー)はじまる。 AD1927 不平等条約撤廃宣言 AD1928 治外法権の撤廃 AD1938 イラン縦断鉄道の完成 AD1941 英ソ軍のイラン侵入 レザー・シャー退位
AD1947 アメリカと軍事協定むすぶ。
AD1951 イラン石油の国有化はじまる。
AD1952 イギリスとの国交断絶
AD1962 第一次農地改革はじまる AD1963 白色革命 革命に反対のホメイニ師逮捕 婦人参政権の獲得
AD1979 イスラム革命 ホメイニ師帰国 米国大使館占拠事件
AD1980 イラン・イラク戦争はじまる。
AD1988 イラン・イラク戦争停戦 AD1989 ホメイニ師死去

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