アメリカスキーの旅 養父市奈良尾130藤原文男のアメリカの旅日記。
今日12月2日兵庫県スキー連盟より私、藤原文男をスキー功労指導者として公認する旨、連絡がありました。まあ、後何年滑れるのか?疑問であるが、スキー功労者として認めてくれるのなら、素直にお受けします。と返事します。6月ごろから膝関節が痛みだし、歩けなくなっていたのを毎日温泉通い。灼熱地獄の温泉。約半年通った。神鍋スキー場も二回滑った。ら結構滑れ出した。ので今年のシーズンも滑ろうかと思っている。
12月2日
明日は甚野さん90才の「しのぶ会」が神鍋ブルーリッジホテルで開かれる。1999年11月27日、アメリカ、カリフォルニア州、ロスアンゼルスからロッキー山脈のマウンテンスキー場3、850mマウンテンスキー場、に着いた。あれから12年の歳月が流れている。甚野先生と私との出会いは、昭和42年奥神鍋スキー場で準指導員検定合格のさいの主任検定員だった。その何年か前から指導を受けていた。深雪のウェデルンの得意な甚野先生と私はいつも奥神鍋のスキー場の誰も滑らない深雪を滑るのが得意だった。
1999年11月27日。 ロスアンゼルス空港に着いたときは午前十時を過ぎていた。昨日関西空港を飛び立った筈だった。
九時間三十分で着いた。地球を反対に回ると日が暮れない、時差の関係なのか? 午前十時では寝るわけに行かない。飛行場から1歩出るとさすがアメリカだ。変な人たちがいない。個人主義アメリカ、日本人の旅行者だと、じろじろ見る人たちがいない、「安心して旅行が出来そうだな」と、先ず一安心した。
駅前に迎えのバスが着いた。そのバスには多くのアメリカ人や多国籍人が乗り込んできた。



fscスキークラブ甚野さん、大野、瑞慶山さんたち 熱弁をふるう大野先生。但馬に生きて、出版記念のころの文さん
ロスアンゼルスに着いて始めに行ったところは「ハーツ」のレンタカーだった。
ここからレンタカーを借りてアメリカのスキー場に行こうと云う事らしい。車社会のアメリカの旅はレンタカーに限るな、と、感じてきたのは出発してからロスアンゼルス空港を出て、数時間経ってからだった。
片言交じりの英語で甚野先生はレンタカーやと交渉していた。車の保険も掛けねばならない。途中どんな危険が待ち受けているのか私にはさっぱり判らなかった。漸く左ハンドルの車に乗った。運転手は瑞慶山さんと決まった。
彼は五十一歳の現役らしい。甚野、大野、瑞慶山、藤原、四人のスキーヤーがロスアンゼルスの町に乗り出した。
「瑞慶山さん、左ハンドルの車、運転したことありますか」私は真っ先に聞いた。「僕始めてです」と、言った。私は驚いた。アメリカに来て右側通行の道路である。日本の左側通行の道路と違う、右折する時は問題無いが、左折する時大きく回らねばならない。然しその心配は杞憂に過ぎない事が分かってきた。何分瑞慶山さんの運転は安全の上に馬鹿が付くほど安全であった。
車が全部通り過ぎるまで、何時まででも待っている。徳川家康の運転であった。アメリカ在住中一度の事故も無く、交通違反も無く、然もスピードは出しているのかいないのか分からないような車の揺れも少く、カリフオル二ア州の砂漠の大平原を直進していた。当てにしていた旅行社は連休で休んでいた。近くのスキー場に雪がなかった。さあ大変、甚野さん、大野さん、瑞慶山さんたち困った様子だった。「困ること無いでしょう、雪のあるところまで行ったらよろしい」私の言葉で衆議一決。
車は国道十五号線から三百九十五号線へと滑り出していた。何処までいったらスキー場が有るのか誰も知らない、私は内心不安だった、然しすぐ腹を決めた、どうせ一度の人生だ、何処で死んでも、何時か死ぬ、そうと決めたらばたばたしない。アメリカに来て、車をチャーターし、始めての左ハンドル、右側通行、ロスアンゼルス郊外のカリフオル二ア州の砂漠の大平原、果てしなく続く砂漠の中の一本道に、車は乗り出していた。




「今晩の宿は何処ですか」不安になった私は聞いた。「さあ、何処か有るでしょう」甚野先生は言う。
ロスアンゼルスの町を出て暫くは郊外の町並みが続いていた。さすがに道路は広かった。二桁国道は五斜線ある。
両方で十斜線、その横に夫々二斜線ずつある。近くの家に行くときにはこの国道を走る。アメリカの高速道路は無料である。金が要らない、高速道路に乗ったり降りたり自由に出来る。アメリカの道路は道路番号で見分けがつく、道路が真っ直ぐだから次の交差点、分岐点をきをつければ間違わない。ロスアンゼルスの町並みは碁盤の目の様に整然としていた。家々には植木が茂り、町並みは森のように緑あふれた自然環境に配慮した町並みであった。
都市計画によって作られた町並みは上水道、下水道の整備も安く済む、都心に近づくにつれて環境が悪くなるのはある程度やむを得ないだろう。
道路を走っていると所々にガソリンスタンドガあった。ガソリンスタンドには走行に必要な食料品も売っていた。日本のコンビにとガソリンスタンドが一つの店の中にあった。ガソリンを買う時、金を先に支払い必要なだけ自分が入れる。自動販売機の給油装置である。従って人件費がかからない。ガソリンの値段は日本に比べるとメチャメチャ安い。日用品も日本よりはるかに安い、飯屋に入っても量が多く安い、余ったら遠慮せず全部持ちかえられる。合理的実利主義アメリカ、私は次第にアメリカ社会の気楽な生活習慣の中に溶け込んで行く自分を感じていた。
マンモスマウンテンスキー場
スキー場に近づくと道路に延々と車が路上に駐車していた。ロスアンゼルスから来た車、サンフランシスコから来た車もあった。ここのスキー場はサンフランシスコの真裏にあたる、ロッキー山脈の端である。カリフオル二ア州の砂漠の大平原を途中一泊して漸く午後三時過ぎに着いた。砂漠はほとんど雨が降らないため草や木が生えていなかった。何処までも続く砂漠の中の一本道であったが、突然ホテルの町並みが見えてきた。ここがマンモスマウンテンスキー場なのか、車はぐんぐんと登っていった。「スキー場まで行って見ましょう」民宿とホテル街は標高2000mくらいなところに町ができていた。そこからさらに3000mまで登っていった。多くのスキーヤーが滑っていた。スキー場の中心地に駐車場やホテルがあった。リフト、ゴンドラが無数にあった。「マンモスだなー」と感心する暇なくホテルの交渉を始めた。ホテルで宿の交渉を始めたが部屋代が高い、四人一部屋はよいが皆ダブルベッドだという。これには参った。彼女と二人なら良いが男二人のダブルでは寝れない。
「こんな所に泊まっても面白くない、下の民宿を探しましょう」私たちは元きた道を引き返した。



マンモスマウンテンスキー場 写真はマンモスマウンテンスキー場の頂上
プールのある静かな環境の良いホテル民宿だった。地下に駐車場があり、エレベーターで上ると受け付けとプールがあった。私は大野君と一緒の部屋と決まった。
このホテルに二泊することになった。「先ずレンタルスキーを借りよう」宿の人に聞いて町の散歩に出かけた。プラプラ歩いているとレンタル屋が目に入った。運動具店とレンタルスキーを兼ねた店だった。「カービング」スキーを借りた。靴を合わせると良く滑れそうだ、これでやっとスキー場に来たと言う実感が沸いてきた。
レンタルスキーを借りると急に腹が減ってきた。高級なレストランが目にはいった。「高そうだな」大野君がしり込みしたが「ここまで来たんだ高くてもしょうがない」甚野先生の出番である、料理の交渉が始まった。なんと言う名前のご馳走なのか良く分からなかったが食べてみると中々いける。私は日本のエビを連想していたが山の上のエビは量も少なく案外いける、「これなら行ける」私はもっと食べたかったが一人で皆食べるわけにも行かない。ビールとウイスキーでやっとアメリカの食事に満足した。アメリカは安心出来る国だった。
その夜はぐっすりと眠れた。翌朝十一月二十七日ホテルの前からバスに乗った。スキー場行きのバスは満員だった。
日本人のスキーヤーは私たちだけだった。世界中日本人のいない観光地はない、然しアメリカに来て車で二日間かかって、こんなスキー場まで来る日本人は滅多にいない、スキー場についた。マンモスマウンテンスキー場だ。甚野先生は「この辺の緩やかなところで滑っているから、昼食はここの食堂の前に集まろう」と告げた。
マンモスの山頂までゴンドラと、リフトを乗り継ぎ登って行った。3750m。広いスキー場だ見晴らしは最高だった。さすがに空気は薄い、呼吸が苦しい、高山病には細心の注意が必要である。高山のスキー場ではビールや酒は絶対禁酒である。出すものは出し水を多く飲むことが高山病予防の最良の方法である。遥か向こうに山々が見えるがなんと言う名の山なのか分からない、「さあー出発しようか」天下の猛者、大野、瑞慶山先生とご一緒させて頂いたがさあ出発となると大変だ。
何分今シーズンスキーは、今の今履き始めだった。3750mからいきなりスキーの初滑りが始まろうとは、アメリカのマンモスマウンテンの頂上から一気に滑った。滑り出してみると案外滑れた。60年も滑っているんだ、何の此れしき、マンモス位と気を引き締めて、牛に引かれて善光寺参り、大野、瑞慶山先生の後から漸くついて滑ることが出来た。私はもう一日滑りたかった、然し贅沢は言えない、アメリカのカリフオル二ア砂漠の中央を突っ走り、ロッキー山脈のマンモスマウンテンスキー場を見られただけでも最高ではないか、そう自分に言い聞かせながらスキー場を去った。
砂漠の大地
翌朝スキー場に別れを告げて車は再びカリフオル二ア州の砂漠の中を走った。
米松と云う松林が殆どだ。太平洋から吹き付ける風がロッキー山脈に当たりこの付近のマンモスマウンテンに大量の雪を降らしている。その山の雨や雪解け水が流れて谷川あちらの山、こちらの山から集まり砂漠の中に湖が出来ていた。雪のある谷川から流れていた川は何時の間にか砂漠の中に消えている。山から流れてくる谷川に沿って集落が出来ていた。所々牧畜の牧場が見られたが広いカリフオル二ア州全体から見れば砂漠のごく一部に過ぎないだろう。
何処までも続く長い長い砂漠の中の道路だった。その沿線の所々に集落があった。ガソリンスタンドがあった。漸くRESTANTという食堂が見えた。車の途中だビールは飲まれない、チキン、天ぷら、魚、スープなど大量に出た。ここからロスアンゼルスまでまだかなりな距離がある、何時、なにが発生するか分からない、水と食料と燃
料さえあれば野宿しても大丈夫だ。ここはアメリカ、カリフオル二ア砂漠のど真ん中なのだ。準備が出来たら「さあー出発」運転手は瑞慶山さん、もう大野さんの及ぶ所ではない。若く元気な瑞慶山運転手の安全運転でカリフオル二ア砂漠を乗り切る事が出来た。
ロスアンゼルスの町並み
空を見上げると飛行機がひっきりなしに離陸し着陸していた。高速道路を走りながら飛行機の飛び立つ方向を目指して車を走らせた。この当たりだろうと高速から横の道路に下りた。「その角曲がって」車は急カーブしてホテル近くの路上に止まった。再び甚野先生の出番である、ホテルの交渉が始まった。片言の英語でしゃべっている。横で聞いていても察しが着く、どうやら「この宿たかそうだな」ホテルに二泊する予定だった。一泊目は一人百ドル、二日目は百五十ドルだと言う。二日目が高くなるなど変だ、「こんなホテルインチキだ、」「宿を変えましょう」私は甚野先生を促した。ホテル、民宿、日本国中泊まり歩いた。宿屋は専門の私だ、ホテルの裏の裏まで知り尽くしている。
STARWOODと書いたホテルに決定した。大きなホテルだ、五十ドルで話がついた。日本円で6000円くらいだ。宿の窓から食堂が見えた。今晩は外に出ないことにした。ハーツのレンタルの近くのホテルだった。その夜甚野先生は黒のスーツに蝶ネクタイの紳士服で出現した。私たちに大きく差をつけた。私は外国に行くときはスーツを持たぬことにしている。外国旅行で日本人と見られることが一番危険であった。日本人は金を持っていると世界中の人々から狙われている。然しアメリカに来てアメリカの社会は安全だった。
日本人だと狙われる心配はなさそうだった。アメリカの人たちは皆良い人たちだった。ホテルでの夕食は寝巻きで行くわけに行かない、面倒だが致し方ない。このホテルも不景気が浸透していた。隣の部屋でどこかの結婚式が行われていた。イチロウ選手の結婚式が私たちが帰った明くる日、ロスアンゼルスで行われたと、新聞報道で知った。このホテルだったのかもしれない。ロスアンゼルスで結婚式と言えば格好は良いが、日本で挙式するより遥かに安くつく、今度結婚式する人は甚野先生や私たちに頼めばどんなホテルでも安く値切って交渉してあげる。翌朝「ハリッウッドに行こうか」ロスアンゼルスに来たらハリッウッドを見なければ帰られない。
ハリッウッドの通りから暫く車を進めていると腹が減ってきた。「この辺で食事をしようか」私は何気なく町並を見ていた。「吉野家だ」レストラン吉野家がロスアンゼルスの真中にあった。久しぶりの日本料理にありついた。




ハリウッドの町中国人街 アメリカ西海岸 アメリカのホテル。
夕食には町の酒屋で日本酒を買った。ロスアンゼルスの町には日本人が多く旅行する。アメリカ西海岸のハリッウッドはアメリカ社会でも高級な住宅が多い、一般のアメリカ人の住宅はそんなに立派な住宅は少ない、むしろ日本の住宅が特に農村の住宅は立派である。アメリカのロスアンゼルスの一般庶民住宅は木造建築が多かった。開拓者アメリカは住宅を財産として世襲しない、ほんの数日垣間見たアメリカだったがアメリカの社会構造と生活習慣は私のアメリカ嫌いに少し修正されプラスになったように考える。
平成15年1月fscクラブ創立50周年記念パーティ、甚野先生。神鍋グリーンロッジのホテルにて。