祖母くりは昭和十九年の八月に逝った。終戦を待たずに戦時下の空襲の激しいときであったが農村は平和だった、父は食料が不足すると見るや農地を買い集めていた。七反歩の田圃と畑合計二町七反を耕作するようになったのは私が青年になってからだった。 父のお陰で私たちが成長し飯を多く食うようになった頃には米の収穫が多く増えていたので戦後の食料難の時代に私たちは、なに不自由なく生活出来た、柳畑は明治十二年祖父が家を独立して以来山の畑を開墾していたから一町五反くらい杞柳畑を作っていた。
奈良尾村字要山の大清水は藤原の家で明治以前から開墾し作られていた、氷の山から岩や土にしみ込み地下に浸透した水がこんこんと湧き出している、水の出る土地は沃く肥えている土地である。山毛欅や紅葉の落葉樹が長年にわたり流れてきた氷の山の土は作物が良くできた。
氷の山の奈良尾村の縁故使用地として土地は熊次村名義に登記され、土地所有が確定される以前に祖父達は土地の開墾を完成していた。その頃、法律の知識に詳しい人達は自分名義に登記した。登記すれば税金がいる。無知な農民は税金を払わず耕作できる村名義の登記方法を選んだ。学問のある法律知識に詳しい人達は自分名義に多くの土地を登記した。柳ごうりの原料杞柳は、北向きの土地の氷の山の畑には、しなやかな柳の生産に絶好の特産地として但馬豊岡商人に好まれた。 氷の山の村で最初から山の畑を開墾した祖父の兄藤三郎は良い土地ばかり開墾していた。明治元年三月十六日相続したが家出、祖父、文次郎はその家を継いだ。 祖父は毎日柳づくりに精出していた、祖父の一生は働くだけの人生であった。
四人姉妹の末子、長男として父が生まれたのは明治二十八年、祖父文次郎と父喜三郎は明治から大正年間に、杞柳の原料、行李柳の生産に家業を集中した。同時に養蚕などの現金収入を増やす為、土地の開墾を続けた。戦前と戦後の農業全盛期に私たちは成長した。 杞柳の生産と養蚕や牛、出稼ぎなどの収入があったから現金収入は不足していなかった。
私は戦後水のある土地に山葵を栽培した。祖父のお陰で山葵を多く作る事が出来た。祖父が生まれてから百五十年以上の年月が経っていた。公式な記録によれば明治十五年熊次の村々に始めて杞柳が作られ広がっていった。とされているが、明治以前から栽培は始まっていた。 奈良尾村の要山は北向きの富沃な土地で杞柳栽培に適している、 明治初年、祖父が独立した頃は日本の土地の登記も無く、明治政府の基盤が未だ確立していなかった。当時の土地は旧慣に基づく土地使用権、入会権の土地であり、開墾しただけ自分の土地として耕作権が永代に認められていた。柳畑は入会権のため土地登記は出来なかったが開墾だけでなく相当な面積を買い集めていた。その頃漸く農民に自分の希望する作物を自由に作らせる制度が出来た、また土地や田畑の永代売買の禁を解いた、地租改正、財政制度の整備、封建的諸拘束の撤廃など急速に改革が行なわれた時代だった。
帝国憲法が明治二十二年制定された、戸籍簿の作成と登記などこの頃確定している、 百姓は百年の歳月の土台がないと成り立つ仕事ではない、氷の山国際スキー場が出来たとき、{昭和60年頃}私の家は祖父が独立してから百三十年を経過していた。
氷の山の奈良尾村の藤原一族は美方郡史によれば天明年中藤原三平貞長代官となり、天明年中藤原三四郎祐筆にて山名家定府『江戸詰め』となる。藤原家の家の上に墓がある。 久空智光信士、享保十五年死『千七百三十年死』である、従って推定千六百七十年生まれ徳川吉宗の治世である。 氷の山奈良尾村、藤原一族の先祖は少なくとも三百三十年前に生まれた藤原三平貞長、即ち山名家の江戸詰め定府士の子孫である事が歴史上証明されている。 『但馬世継記』によれば氷の山の奈良尾村は「鳴尾のましらが」住んでいたことにちなむとするが、「風の鳴る尾根、」「平尾、」『なるお』から変化したものか、元弘年間、奈良尾眼人というものがいたという、後醍醐天皇の時代、元弘年間には楠正成が挙兵した頃である。
永正年間八木但馬守の臣にも奈良尾眼人盛貞と言う者がいて、藤原の祖になったとも言う、永正年間とは戦国争乱の足利時代から室町時代の頃である、八木但馬守は秀吉の但馬攻めで滅びている。 天明年中には、藤原三平貞長代官となり、天保年中には藤原三四郎祐筆にて山名家定府士となりその子孫が住せりと書いてある、参考文献は『美方郡史、関宮資料集、兵庫地名辞典、但馬世継記』何れにしても奈良尾の村は旧村であり藤原一族の祖は家の上の墓である。
丹戸村は奈良尾の出村であり、梨ケ原、草出はその出村であるといわれている。神社は荒御霊社で祭神は素盞鳴命、天文十四年勸請寛永四年再建といわれる。
祖母は孫の長男が若者になった姿に目を細めていた祖母が喜ぶ顔が見たいので毎日一生懸命働いた。 外孫の長村太一郎は小学校高等科を卒業すると十六歳の秋故郷をあとに出稼ぎした。 京都に出稼ぎしていたが当時の有名な弁士の元に弟子入りし活動写真の弁士の勉強を一生懸命やっていた、兵隊に取られるまでの数年間に関西の活弁やの世界では一躍有名になり映画の字幕に「長村太一郎」の名前が乗っていた。 舞台の裾に太一郎が姿を表わすと盛んな拍手が沸き起こった。「活弁や長村太一郎」は戦前の映画活弁全盛時代に一世を風靡していた。 太一郎は当時の映画女優の恭子と恋愛し結婚した。背が高く鼻筋が通り、細おもての美男子太一郎は京都活弁やの売れっ子弁士となった。
当然、映画女優仲間でも評判になり多くの女の子が寄り集まっていた。 恭子は希に見る京都美人だった、穏和な表情、切れ長の瞳、典型的な京美人だった。祖母は孫、太一郎の嫁を暖かく迎えていた。
戦争が始まった『支那事変』と呼ばれていた、昭和12年盧溝橋で爆破がありその為戦争が始まったと聞かされている、近衛文麿総理大臣だった。ある日、熊次の太一郎の家に『赤紙』が届いた、『召集令状』であった。赤紙は生まれた家に来た。急いで電報を京都の太一郎に打った。 太一郎は妻恭子を連れて村に帰ってきた。太一郎は兄の家から出征していった。
『勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからにや、手柄立てずに死なれようか』愛する妻恭子を残して太一郎兄さんは出征していった。氷の山の村のお宮さんの前で挨拶した、『必ず勝って帰ってきます』出征兵士を送る歌、歓呼の声に包まれて太一郎兄さんは出征した。当時は鹿倉口まで村長以下大勢の村人と小学校の生徒全員が見送った。4kmの道を歩いて送った。
太一郎は兵役を終えて村に帰ってきた、支那事変の戦いから復員し太一郎が帰ってきた、祖母は孫が無事戦争から帰って来た事を喜んでいた。 『太一郎兄さんが帰ってきた』私たちは喜んで太一郎兄さんと毎日山に行った。太一郎兄さんは山のクルミを取ってくれたり山海老を取ってくれた。 『太一郎にいさん、太一郎兄さん』現在の氷の山国際スキー場、ファミリースキー場のあたりにはクルミが多く自生していた。
私たちは一緒に山に行ったその太一郎兄さんは時々京都から帰ってきた中国戦線から帰った時、村人が兄良太郎の家に集まった。中国戦線での戦いについて太一郎は話していた、当時の戦争の事を作戦と言っていた、徐州作戦に参加していた。
『徐州、徐州と軍馬は進む、徐州は良いか住み良いか、洒落た文句に振り替えりゃ、おくに訛りのおけさ節、兵は徐州へ前線へ』
子供心に聞いた歌である、間違っているかも知れない、まだ日本が勝ち進んでいた頃の戦争の話しであった。 当時の蒋介石の軍隊は弱かった、今の中国の軍隊とは違う、日本軍はその頃まだ勝ち進んでいた、戦争から帰ってきた太一郎はその戦いの様子を得意の弁舌で話していた、小学校では日本の軍隊が中国内陸部まで占領した地図を毎日見せられ戦勝の話しを聞いていた。昭和13年から15年頃の話である。 活弁や弁士の太一郎の話しに村の人たちは何時しか引き入れられて行った。その太一郎は京都美人の嫁を時々連れて帰ってきた。 戦局は次第に苦しくなった、太平洋戦争が始まってから太一郎は再び中国戦線に渡って行った、今度は軍属として従軍カメラマンとして中国戦線の模様をカメラに納めた。戦局が益々苦しくなってきていた太一郎は仕事を止めて日本に帰ってきた。何事も目先を良く読む男だった。 戦争から帰ってきた太一郎は京都で市役所に勤めたり、色々と職業を何回か変えていた様であったその時々、その時代に儲かる仕事をしていた。公務員では妻子を養うことの難しい時代だった。
戦後の過酷な食料難の時代を乗り越える為には普通の仕事では生活出来なかっただろう、 祖母は太一郎の帰ってくる日を待ち望んでいた、私はその祖母が山や畑で働いている姿を一度も見た事がなかった。元来余り丈夫では無かったらしいが昭和19年、八十七歳まで生きた祖母は長生きの方であった祖父と何時も囲炉裏の縁で喧嘩をしていた。 年を取ると夫婦でも頑固に自分の意見を通うそうとするから、言い争いが始まる、祖父は昭和十一年十二月四日に逝った八十三歳だった。
ここで私の母と相地の中尾ときえさんとの関係について書いておきます。母みねは福定村、藤原勝蔵の長女として生まれたが、父は日露戦争で戦死、母すえは大屋の栗下、小畑家に再婚、明治憲法では家督は長女が継承、藤原家の全資産と家を継いだ。が、幼少のため藤原ときえさんとは姉妹として育った。家督の全資産を弟で叔父の源左衛門と其の子ときえ、さんたち四人の子に家督相続したのは、父と結婚して入籍するときであった。
家督を継いだ母の福定の家は其の当時、村長をしていた「山根」は別格として、二十数軒の村で二番か三番の財産家であったが、相続していた土地や山林を放棄して、叔父と従兄弟に譲り、父の家に入籍した。と、私が子供の頃、母が話していた。
従って現在、生存中の関宮の中尾家、まつこさんとは従姉妹であるが、母は「明治憲法では隠居」藤原家の家督相続上では譲り渡し人で、戸籍上いわば先祖になる。 母は一切の家と財産を藤原源左衛門とその子、ときえ、まつこさん達に譲っている。ときえさんは最後の最後まで家で生存できた。家族のお世話で成仏できた。病院に行かず家で成仏できる人は幸せである。「ときえさん」の冥福を祈り極楽の旅路を楽しんでいただきたい。98歳の大往生であった。
ついでに再婚した母の母、つまり私の祖母は大屋町栗下で当時としては名門の、小畑家の秀蔵に稼した。日露戦争の終わった頃の話である。 現在は孫の小畑秀機が当主である。英機の父は支那事変で戦死、母一人の手で育てられたが、大学卒業後、小学校などで校長を務めて退職している。私の母は小学校を卒業した頃、再婚した母を訪ねて栗下に行き、小畑の父の養女として育った。明治の終わりから大正初年の頃の話である。娘時代、母は何不自由なく育てられた。従って義理の父、小畑家から嫁に来ている。が、その子たちと私は血を分けた親族である。父との結婚の世話人は従兄弟の藤原源太郎氏であった。現在の敏彦君、の曽祖父である。母は実の父の顔を知らない、日露戦争で戦死した父。母の心には養父が実の父として生涯の心の支えだった。
母が、福定の亡き父の「相続資産、」全部を叔父と其の子に譲ったのは、義理の父に幸せに育てられた恩返しなのだろう、と、その気持ちが理解できた。 この間、中尾家葬儀の日、其の話を関宮の「中尾まつこ」叔母さんに話した、ら、「そうでしたか、すえさんは再婚し幸せだったんですね。」と、遠い明治の昔の日露戦争で戦死したお祖父さんと、戦争で夫を失い再婚した母の母の思い出話を語った。まだ元気だった「まつこさん、」私より10歳くらい年上である。お元気で。この人たちの写真を撮った。何時か又現像して持って出ます。私がなぜ今この記録を書くのか?今しかない母の思い出と、ときえさんたちとの関係を思い出し、整理し、後世の人たちに記録として残しておきたいと考えたからである。
私は数年前、中国に旅したとき、中国人ガイドの「宗さん」靖国神社と日本人の心を説明した。母の父「日露戦争で戦死したおじいさん」の私の話に、小泉総理と日本批判を繰り返していた宗さんは、漸く理解をしめしていた。宋さんは、中国、江西省海外旅遊総公司。日本部部長である私の中国研究の旅。シルクロードの旅。参照。
太平洋戦争が終わった昭和二十二年頃だったろうか氷の山の村に村芝居が流行ってきた、熊次の村々に青年団運動の先がけとして、一斉に文化活動の花が咲いた。 日本全国の村々に村芝居の原動力の先頭に青年が立ち向かって行き歌舞伎が流行った。 太閤記十段目尼崎の戦い、矢口の渡し、三番叟、義経千本桜、など各種の歌舞伎が盛んに練習され、発表講演されて行った。 氷の山の村では歌舞伎の舞台が無いため又、人員が少ない為その頃盛んに流行っていた『ヤクザもの』や寸劇、などの村芝居の練習に取り組んだ。 その頃、戦前京都の『活弁や』で名を挙げていた長村太一郎が中国の戦いから復員していたので私が依頼した。
『氷の山の村で村芝居をやりたいと思っている』
『よしそれなら私が教えてやろう』
と快く引き受けてくれた。 氷の山の村の青年で村芝居の練習を始めた。昼は皆農業の仕事がある、夜仕事が終わってから公民館に集まってくる。その頃の公民館は『青年会場』と呼ばれていた戦後の農村には復員した若者が溢れていた。
氷の山奈良尾の村にも若い男女青年がどの家にも二人、三人いた。 中学生の若者を加えると二十人を越える青年男女だった。
太一郎は京都から帰り兄良太郎の家に泊まり込み村芝居を教えた、自分で芝居の脚本も書いていた。
『活弁や』は自分で活弁の脚本も書かねばならない、そうした勉強も戦前の京都の活弁やで毎日勉強していた。
村の若者や女子青年は毎日一生懸命台詞の練習をしていた。発表会は村祭りの宵宮の夜であった。
川原に行き大きな声を張り上げて台詞の練習をする、青年は百姓の仕事を毎日休み、一生懸命練習に取り組んだ。
森の石松、清水の次郎長、大利根月夜などのヤクザものが大流行していた発表会の日が来た。 太一郎は京都から自分の嫁の弟たちを連れて来た。ギターや、アコーデイオン、鐘、笛、太鼓、などの軽音楽と呼ばれる楽団演奏であった当時としては農村での村芝居に軽音楽の楽器が持ち込まれた演奏は始めてだった。 ラジオ屋に、マイクと拡声器の設備を取り付けて貰った。 戦後間もない頃の田舎の村でこうした『自狂言』をすることは大変だった。 村中の青年の一致協力がないと出来なかった。結果は大成功だった、村芝居の練習は出来た。さあこれから村芝居の公演が始まる、多くのお客さんが見に来てくれるだろうか、青年は太鼓を叩いて村々に宣伝に回ったその夜、大勢の人たちが村芝居の見物に来てくれた見物料は無料である『花』を当てにしていた。
村祭りは夫々の村に鎮守の神社があり祭りは部落ごとに日程が違うので親戚縁者を祭りに招待していた。その為多くの客人が集まっている、近くの村の人たちも見物にやってくる。 村の祭りに来ていた客や、隣村の人たちが多くの『花』をくれた。十万円近く集まっていたように思う当時の農村は景気は良かった。今の貨幣価値から言うと1000万円くらいだろう。
村々に活気が溢れていた。私の姉も村芝居の主役を努めた。
『初のーええ役者になったのー』
大屋町の復員から帰っていた叔父小畑新助が姉を誉めていた。 私の弟も当時中学校の生徒だったが芝居の脇役に出た。
僅か一回、ちょっと舞台に顔を出しただけだったが、歌舞伎役者を指導していた丹戸の桶惣さんに誉められた。
『桶惣』さんは三味線を弾き、歌舞伎の進行の為の歌を歌い、拍子木を叩き、村芝居には先学者であった。
歌舞伎の唄いは素人には難しい村の役者であった。その人から弟は誉められた。その弟が八鹿高校に入ってから演劇部に入ったのも村芝居の経験があったからであろう、弟が演劇部で練習していた頃、八鹿高校弁論大会が開かれた私は弟の為に弁論大会の原稿を書いた、結果は一位になった私は歴史学の勉強をしていた頃だったから、ギリシアの民主主義や西欧の歴史を引用しながらの弁論大会の原稿であったように記憶している、
その結果弟は弁論部の生徒を抜いて一位になった、演劇は芝居である弁論も芝居的要素がある人を引きつけ陶酔させるものが芝居である、氷の山の村芝居で得た芝居の練習が高校の演劇や、弁論大会優勝の弾きがねになっていた村芝居の練習は生きた勉強であった。 私もその後のあらゆる会合で発言するとき自分の言葉が何処まで聞こえるか、人々に聞こえているのかを絶えず聴衆の顔色と反応を見ながら話し、発言し、演説をする、村芝居で得た経験が体験が私の生涯の参考になった。
舞台に立ったとき見物人の顔が見えなくては一人前の役者ではない、一人一人の顔色が読み取れるようになれば一人前の役者であると言われている太一郎兄がそう教えていた。 一人前の公演が出来る為には何よりも芸に対しての自信がなければならない、自信とは徹底した練習の結果である。 自分の芸に対する自信が舞台に立ったとき、人々の一人一人の顔色が読める余裕が生まれ、自信が出来るのである。
芸でもスキーの芸術でも、その他すべての勉強でも物事に対する自信が、徹底した練習の成果が結果として人の前にたったとき人々を引きつける陶酔、即ち芝居が芸術として完成されるのである。 長村太一郎は私の家の父の姉の子として生まれた。長村良太郎の弟で妹は春江と言った。姉のとよは福定、西村家に嫁している。両親は大正年間に流行った感冒で倒れ早くから父と母を失った。私の 父、喜三郎は姉の子太一郎を家に引き取り育てた、私の祖母も孫、太一郎を可愛がり成長を見守っていた。太一郎は小学校を卒業し青年期を喜三郎の家族として百姓に精出していたが、十六歳の時家を飛びだし京都に行った。当時は活動写真が全国を風靡し青年男女、活動写真の弁士は当時の若者の憧れの的であった京都に飛び出した太一郎は当時の活動写真の弁士として雄飛し有名な活弁やに弟子入りした。 当時の活動写真の弁士は今の売れっ子アナウンサーの様な俳優であった。 映画は無声映画で未だ音の出ない無声映画の横で映画説明をする、それが活弁やであった、有名な活弁やの映画館には多くの見物客が列をなして集まった。
長村太一郎はその当時、若き売れっ子のアナウンサーとして一世を風靡する活弁やであった、映画の字幕に長村太一郎の名前が出ると見物客は一斉に拍手していた。 その頃今の婦人と知り合い結婚し二子の父となった戦争に行く前、何回か帰郷しその度私たちと山に行った。
『太一郎兄さん』として私たちは育てられた祖母はそうした太一郎を 『家を飛び出した極道者だ』と私たちに話していたが時々家に帰ってくる太一郎を見て祖母は自分の子供が帰ってきたように喜んで迎えていた。祖母の喜ぶ顔が見たいので太一郎は美人の嫁を連れて幾度か私の家に帰ってきた。太一郎兄は支那事変が勃発すると軍隊に取られた。支那戦線に投入され徐州作戦や各地の支那戦線を点々としていたが、太平洋戦争の始まる前の頃除隊となり京都に帰ってきた。
日本はもう以前の様な活動写真の弁士が活躍する時代ではなかった。 無声映画から有声映画となって来た活弁やの仕事は制約され時代は変わった、日本に帰ってきた長村太一郎は太平洋戦争が始まると軍属として支那戦線に渡った、敗色濃厚となった頃日本に帰ってきた、何事も向こう先を読み行動していた。 全て戦時一色の体制のなかで太一郎は食料の買い出しなどの闇屋から仕事を始めた幸いにして京都は焼けなかった。が、然し戦後の苦しい経済状態は京都の町も例外ではなかった。
熊次の村々では戦前戦後、冬になると若者は出稼ぎしていた。 その年も秋になると出稼ぎした、夏は一生懸命農業で家の為に弟や父や母の為、祖父や祖母のうれしそうな顔を見ると働かずにおられなかった。 戦争から村に帰った若者が村々に溢れていたが冬は仕事が無かった冬になると若者は仕事を求めて都会に働きに出なければならなかった、私はそうした私たちの環境を悲しく思った何とかしなければと毎日考えていた。
太一郎兄さんの指導した村芝居は農村青年に生きて行く力を与えてくれた、然し芝居はあくまで芝居であり現実の社会を変える力はなかった。若者の生き行く希望は芝居からは生まれなかった。 青年は希望を以て夏は働いた、然し秋の訪れと共に友は村を去って行く、出稼ぎの嫌いな彼も家にいて本を読んだり山々の兎追いに行ったり、山スキーの手伝いに行ったりしていたが農村の生活は若者には退屈だった雪の多い但馬地方の氷の山の麓の村々は、特に冬は若者にとり空虚な希望の無い毎日だった。やむを得ず出稼ぎする、毎年、毎年出稼ぎしていた。 活弁やの太一郎兄さんも出稼ぎから帰ってこなかった。出稼ぎの思い出は五十年経った今も私の心の中に頭の中に体の奥深くに染みついて忘れる事の出来ない思い出となっている、こんなに何時までも忘れる事が出来ない思い出があろうか、その忘れ難い出稼ぎ、望卿の思いとホームシックに苦しめられた出稼ぎからの開放が私たちの生涯をかけた事業であった。
空はどんよりと曇っていた。
細い小さな雨が音もなく降っている、遠くの方でバタバタとトラックが走る、衆議院の選挙を数日後に控えて街の空気にも何かざわめきが人々の心を支配していた。 彼はその人々の空気を身近に感じながら今朝故郷の村役場から送られてきた不在者投票の用紙を眺めていた。 兵庫県第五区、美方郡熊次村これが故郷の彼の村の選挙区であった。
六年と云う長い間続いた吉田内閣の後を受けて小数単独内閣を造った鳩山とその一党、だが所詮彼らも政権の座を求める群集であり苦しい生活に明日を失った暗黒の社会を彷徨う庶民階級の味方ではなさそうだ。 その衣の下には再軍備憲法改正と云う『鎧』がチョロチョロと見えている。 誰を選ぼうか、〓〓〓私の心の中には既に一人の候補者が浮かんでいる。再軍備は嫌だ憲法改正もいけない、然しもっと大切なことは明日いや今日の生活すら出来ないでいる失業者を、働くものに希望を持たせる事なのだ。 美原たちの地方は冬期積雪三尺有余、裏作は一切出来ない、何とかしなければと村人は考えた然し何ともならない、冬になれば出稼ぎし、春になれば又村に帰ってくる、こうしたことを昔から何代も何代も繰り返して来た、だがその彼らの村にも少しづつ新しい希望が緑の芽が若い人々の間から盛り上がりつつある。 ミチューリン運動の農法がそれだ去年の冬、釜炊きの暇ひまに『ヴイリヤムスの生涯と学説』を読んだ。 村から村へと伝わって行くミチューリン運動、 『日本ミチューリン農業』機関誌は美原の釜炊きと云う職業に新しい農民としての希望と意義を吹き込んでくれる清涼剤ともなっている。 青木恵一郎著、『山の民の記録』を読んだのは一カ月前だった。
美原たちの山間部の農業は如何にすれば前進するだろうか、これが現在の美原の心にある全てである。 これが解決されたときこそ美原たちの農村は救われ青年は希望を以て働く事が出来るのだ。 彼は酔っていた、
『あ、、、』
と風呂のタイルに両手を突っ張り足を湯の中に入れ、首をうなだれたまま、苦しそうに考え込んでいた。じっと五分過ぎた十分過ぎる、他の客は皆帰っていっただが彼は帰らなかった。
『おっさん』と美原は堪り兼ねて声を掛けた。
『余り長いこと風呂に入っているのは毒だっせ、それに酒飲んでるでっしょ、風邪でも引いたら明日の仕事でけしまへんやないか』
五十前後目の玉のクリッと大きい髭面の赤ら顔、職人風の肥大な男が苦しそうに顔を上げた。
『兄ちゃん、生きると云うことは苦しゅうおまんな』
哀願する様な口調で更に続けた。
『ああ本間に嫌になっちゃうな、私しゃあどうして生きて行くんだ、ええ、今蛸焼きをやってるんだが、こう不景気ぢゃあ全然売れやあしまへん、こうなったら一家心中するより他ない、福も切られて親子五人を養うにゃあ蛸焼きでもと思って始めたんやが、ああどうにもならん』
注福とは「福助足袋会社の事」堺市福助足袋工場は私の子色湯の横にあった。
『おっさん、どうして首切られたんや』
もう十二時を過ぎていた、風呂の中のお客さんはもう大分前に帰っていた。 早く風呂を洗って寝なければ明日の朝起きるのが眠い、美原は風呂のタイルを洗いながら聞いた。
『いやあ、私が正直過ぎたんや、私の気性、思ったことズバリ、ズバリといいまっしゃろ、それも会社の為思うてだけど、上役はそんな解釈してくれしまへん、うるさい奴や思うて首切ったんでっしゃろ、兄ちゃん、何処か働く所おまへんか、未だ元気な体やし、一生懸命働きまっせ、どんな所でも構わしまへん、働きたいんや、酒飲むのは悪い悪い思うてても、飲まずにはいられしまへん、家に帰れば子供や妻が暗い顔して待ってまんのや』
失業、近代資本主義の生んだ階級の分化、生産性向上による人員整理、リストラ、当然の帰結としてのデフレ下の失業者の群れ、不健康な日本の経済、これが農村の二、三男をして明日への希望を失わせている大きな要因でもある。
彼は大きな体をヒョロヒョロさせながら立ち上がった、ぎゅうっとタオルを絞った。 水滴がざっーと落ちた、足下には石鹸がころがっていた湯気が彼の体を取り巻いていた。
『帰りまっさ兄ちゃん、そのうち良い所あったら頼むまっせ、本間に私っしもこんな事してちゃあ悪い思うてまんのや』
ガラリと硝子戸を閉ざして帰っていった。 私は又大急ぎでタイルを洗った。 単調な毎日、息き詰まる様なうす暗い部屋、釜炊きという仕事、朝十時から夜の二時まで起きている間働き続ける風呂屋、否これが都会の小市民生活なのだ、だがこの暗い生活の中にも私には一つの灯火がある、この灯火を求めて仄かに明るい一筋の光が私の頭脳に心のなかにそして全身体の器官に脈脈と透して来る、これが希望と云うものかも知れない、私にとって冬、と云う長い出稼ぎ期間を通じてこの灯火となっているものは、〓〓〓それは読書である。
先日から読み始めたヴイリヤムスの『科学的な農業耕作』は我々山間急傾斜地帯の農業にとって特にその土壌に対する牧草圃式システムに於て、大きな参考になるもの、そして強い刺激と勇気を与えてくれるものである。
現在の日本の農業の置かれている地位、その中に生活する農村青年は或るものは希望を失っている、働こうにも狭い土地、余る家族の労働力、この余った労働力は木材搬出、土方などで都会に出ても良い就職口が無い、希望の無い毎日の生活から逃れようとして酒を飲む、有為な青年は学校を卒業すると直ぐ農村を去り、都会にその働き場所を求めようとする、無理もない土地が無いのだ、然し私たちは農業を死守しなければならない。都会の人たちも同じように苦しんでいる美原はそう毎日考えていた。
出稼ぎより農業へ
明後日は帰る懐かしの我が故郷へ、私の家に、其処には私の愛する妻や子供たち、両親、弟達が待っている。
三カ月と云えば短い、口で云えば短い、然もその日々は単調な毎日であり、親方やその家族の毎日の顔を見ながら生活することは容易な事では無かった。
釜炊きを始めてから冬期出稼ぎも四年になる。 美原はこの釜炊きを通じてしみじみと都会生活を味わった。これは或る意味では彼の人生にプラスになった。 又ある意味ではマイナスになったかも知れない、然し常に頭脳を使った。
寸暇の精神的余裕も無い、釜炊きと云う仕事は性格と人間の形成期にある私にとっては得難い教訓と試練を与えられたものであった。 農村の封建性とその根底にあるものは何か、それは余りにも呑気過ぎる事である。 頭を使わなくても生活出来る自給自足的な経済機構にある。 親から譲り受けた田や畑を同じ様な方法によって耕作しそれを繰り返して働いておれば現在以上の生活さえ望まなければ兎に角生きて行くことが出来ると云う自由なる生活の基盤があるからである。
だが私たち現在の青年はこれに満足することは出来ない、農地改革により地主と小作との関係は解消され農民は土地を得たとはいえその経営の不味さは次第に農村を圧迫し、華やかであったインフレ時代を通過した農村は今や昔の貧困のどん底に落ち込もうとしている、現在の危機を切り抜けるただ一つの方法は過去の農業生産方式を一掃し仕事の段取りを変える事である。 それは直接的には農業経営の革命である。
美原たちの村では春になると木こりをする、次ぎに畑を打つ、柳を差す、苗代を造る、柳の皮を剥く、荒起こし、田植え、養蚕が始まる。かくして夏が来る、忙しい時は体の痩せるのも忘れて働く、粗食と重労働、寝るのもろくろく寝ずに働く、夏になれば牛の草刈りがやっとである。 夏の間にも田の草取り、柳の草取り、秋には稲刈りが始まり、柳刈りが終わると我先にと出稼ぎが始まる。
『何処かいい所はないか、君は酒屋の口があるからいいじゃあないか』
『いや酒屋もいい加減な所だよ、夜の夜中に起こされて秋、倉に入ってから帰る日まで扱き使われる、休日も無く働くなどまるで豚箱に入った様なものだよ、春家に帰ってからも『親父』の家に仕事の手伝いに行かねば冬使ってくれない、実際頭は上がらんよ』
但馬地方は昔からの出稼ぎ地帯だった。酒屋、豆腐や、風呂屋、女中、女工、土方、冬の農閑期には皆出稼ぎをしていた。 老人や女や子供達は、冬の間若者が働いて得た米と野菜を囲炉裏で煮て太平楽を云いながら割り木を焚いて若者の帰りを待っていた。 出稼ぎから帰った美原は毎日十一時過ぎまで読書していた。
昼二時間読書すれば一日六時間は最低読める。 朝仕事の無い日は二時間読書をする、雨の日は一日中読書が出来る、平均すると毎日十時間位は読書が出来た。然し読む本は農学書ではなかった農業に全然関心が無かったからではない。昼間の労働から開放された夜位、自分の自由な読書がしたかった百姓と云う生活から開放されたかった。
美原が求めた読書は文学であった。
『お前はそんなに本ばかり読んで何になろうと思うんだ、百姓は百姓の仕事に根性を入れにゃああかん、夜遅うまで本を読むと昼仕事が出来ぬではないか』
母は口癖のように呟いていた然し美原は止めなかった。彼の読書癖は次第に徹底していった。始めの内には毎日の単調な農業から逃れるために読書していた次第に選ぶ本の内容が変化していった。 父も母も最早何も云わなくなった云っても聞かない、早く嫁を取ってやる事だと考えて来た様であった。 美原の考えも変わっていった、出稼ぎしてみて社会と云うものの性格とその動きと、都会で生活している一人一人の庶民の苦労と生きて行くことの難しさ、農業の楽しさが分かってきた。次第に農業と云う仕事も研究的に考える様になっていった。
ゲーテや、バイロンや、啄木、島崎藤村に求めた詩情と希望はそのロマンチックの故に現実の生活と社会を知るに従って夢は破れ、わたくしの読書は中村真一郎『死の陰の下に』、椎名倫三、三島由紀夫えと移って行った。思想科学では観念論的空想論から次第に社会主義理論に移って行った。 美原は二十歳のころから青年団運動に参加していた。
当時の青年団は敗戦の結果強制的過去の青年団への反抗的意識から青年の心理は団結とか統制された組織にことごとく反抗していた。 青年の遊びは麻雀とのど自慢大会と一杯飲むことであった。 民主主義とは何ものにも拘束されない自由であると考えていた。そうした考えの中で青年団を組織し結束して運動を盛り上げて行くことは大変な努力が要求される仕事であった。 熊次青年会はそうした環境の中で結成された。
美原は文化部長としてその青年会の中核とし活動した。
二十歳から二十三歳の頃であった当時の青年団活動は機関誌の発行、映画会の開催、フオークダンス、運動会、討論会などであった。 こうして美原が一生懸命青年団運動に投入している間に家計は厳しさを増していた。 農業生産は極端に落ち込み収入は減少し加えて稲の稲熱病が発生していた。このままではいけないと感じた美原は次第に本格的農業の経営に全力を挙げなければならないと感ずるようになっていった。 その年美原の家の稲は稲熱病で半作であり、杞柳は三割の減収であった。 彼は考えたそして立ち上がった、私の力の限界、それは無限である、土地の生産力は次第に高める事が出来る、作物は飛躍的に増収する事が出来る。ウイリヤムスは言った。
『悪い土壌は無いが悪い経営はある』
彼の言葉は余りにも適した言葉ではないのか、その頃彼の前にふとした機会に現れたのがミチューリン農法であった、
それ以後の美原は結婚と同時に農業生産に全力投入するに至った。
故郷の山を眺めて
バスは懐かしい故郷に入っていた。 氷の山は一面白銀のベールに包まれていた。バスは外野部落まではいっている、四月一日から此より半里奥の丹戸までバスが乗り入れる様になっていた。 美原は荷物を農協の売店に預けて、鞄を担いでてくてくと歩いた。 久しぶりの清透な空気を吸いながら歩、一歩と我が懐かしの家に向かう、 足は軽い、気持ちは自由だそして良い散歩であった。
途中トラックが後ろより来た。道を避けるとトラックの中から、『おーい』と声をかける人がいた。 美原は驚いてトラックの上を見た。 勇夫君や三次君、清君等が手を振っている。
『おーい乗れいや、早く乗れ』
トラックは止まった鞄を勇夫君に渡して彼は飛び乗ったトラックは途端に走り出していた。
中学校が見える、お寺が後ろえ飛ぶ、製材所を過ぎる、草出にかかると妻が迎えに出ていた。
草や木が雲が後ろえ後ろへと走り去る。
過去は昨日までの重苦しい空気は消え去っていた。
胸のこだわりは後ろへ後ろへと走り去って行、そして私は帰ってきたんだ私の村へ、懐かしの故郷の村へ、長い冬の間夢に頭に描き絶えず計画していた、農業の理想郷へ、我が活動力の本部へ、と、そしてゆっくりと畳の上に座り、炬燵の中に足を突っ込んだ時、始めて落ち着いた私自身を見いだしていた。
美原は炬燵のなかに入り眠っていた、未だ雪深い故郷の山々があった。
『そうだ明日から籾種を漬けよう』
稲の籾の種を水に漬ける、水に漬けている間に稲の籾種は次第に芽を吹いていた。
氷の山の雪は未だ深かったが近くの田圃は雪が消えかけていた。
苗代を作り籾種を蒔く、未だ肥料は苗代に余り使わなかった。
人糞尿を肥桶で担ぎ、苗代田に運んだ、
牛で代掻きをした、牛は前足の動きを見て手綱を引くと牛は右の少し歩く、左に行かせる時には手綱で叩くと左に寄る、前足が少しでも横に行くとき素早く信号を送る、それが上手な牛使いである、
苗が出来ると田圃に田植えが始まる、苗を手で取る、腰の痛い仕事である、その日に植えるだけ苗を取る、代掻きの終わった田圃から田植えをする、田植えは腰の痛い仕事であったが都市への出稼ぎの事を思うと妻や子供たち、父や母と一緒の仕事は毎日が楽しい、美原は農業の仕事に本格的に取り組む様になっていった。
小説初夢 1952年元旦記
『絶望』其処から出発した私であった。
否、明日に希望を求めて生き行く為に、強く生活と社会と自己との誘惑と戦おうとした私であったが、少なくとも2年前までは、〓〓社会に対する反抗心を抱いていた。2年前、〓〓若き日の情熱、理想、憧憬、期待、努力、あらゆる矛盾に対する懐疑と反抗、〓〓しかしその夢は破れ果てた。 現在私の内心を彷徨するものは『絶望』にほかならない、2年間の空白、故郷の生活、空漠たる人生の荒野、其処に私と言うう実存的なものはなかった。 夢遊病者のように私は吐き出されたそして歩いた、 くたくたになった中折れ帽、赤茶けた背広、古びたオーバー、何処で拾ったか分からない様な編み上げぐつ、手には小さな風呂敷包みをさげた一人の青年が先程ついたばかりの列車から吐き出され、むゅう病者の様にふらふらと彷徨う様に歩いていた。
酔いどれの様にふらふらとネオン輝く大阪駅前のとある街角を横にそれ、美しく飾られた店頭に、始めて私は私の其処に存在する姿、すなわち自己を認めた。 どこか人懐かしそうな瞳の少女が私を見つめている。 ふらふらと奥に入り一冊の本を引き出した。 『永遠なる序章』と書かれている、 私は何のために大阪に来たのだろう、美しく着飾った人の波、彼らは夫々自分自分の生活を営んでいる、だが彼らには一体何の用事があるのだろう、
薄汚れた場末の街角、其処にある書店、向こうのパンヤ、下駄や、肉屋、うどんや、化粧品店、呉服屋、雑然と立ち並んだごみごみとした大阪、蜜柑の皮、林檎の皮、魚の匂い、ぐっと空腹の私の鼻を突く天ぷらの匂い、垢じみた学生服、スマートな紳士、その肩に縋るように歩いて行く娘、俗に云う淑女、ぼろぼろのズボンにジャンバーを着た労働者、ルンペン、何処かの小僧、美しい乙女、そんな彼らを私はじっと眺めていた。
『幾らだ』私は聞いた。
『あのー市民文庫ですね、80円ですわ』
彼女は可笑しさを堪えたような美しい声で答えた。 『フーン』彼は呟くように言ってから急に難しそうな顔をして何かポケットの中をごそごそやっていたが皺くちゃになった10円札やら5円札を掴み出し勘定を済ませて外に出た。クスクスと笑う声を背に受けながら、買い求めた一冊の本をポケットにねじ込んだ私は当てもなく夕闇迫る大阪の町の巷の中にのまれて行った。 彼は読書が好きだった。小学校を卒業して以来ずっと故郷で暮らしていた。
農村はあまりにも平凡である彼は次第に内省的になり自己沈潜を好む様になっていた、そうした彼を救ってくれるものは唯一つ読書だった。彼の毎日は孤独との闘いだった。 単調な日常の生活は彼の希望と新しい理想に対する憧憬とを次第に失わせて行った。彼は新しいものを何らかの刺激物を求めてこの大阪にやってきた。 ぽんぽんと誰かに肩を打たれたような気がした私は振り向いた。
『まあヤッパリ貴方だったのだね私誰だろうと思っていたのよ』
ぼうっと上気した寿美の姿が其処に立っていた。〓〓一瞬、何か暖流に似たそよ風が電流のように流れ去っていく、そしてすぐまた冷たい先刻までの考えが頭脳を支配した。
『どうしたんだ君は、今頃こんな所を彷徨って』
私は呟やく様に言った寿美の瞳はじっと私を見つめている、
『面白いかい、大阪の生活って』
私は聞いた。
『面白いと言えば面白いし淋しいことも悲しい事も、〓』
彼女は後をこたえなかった。 稲刈りの最中のある日、今春小学校の高等科を卒業したばかりの寿美は阪神に近いどこかの工場に出稼ぎして来たとの事だった。
『お父さんから貰った2000円の金も道中金の旅費として消えてしまいました』と、彼女は言った。
朝五時に起きて6時より午後6時まで工場で働く、およそ労働基準法も何かの保護法も現実を無視した法律製造業者の目には届かない所で、19世紀的な家内工業の遅々たる非能率の機械によって此には近代と言うものがないかのごとく彼女たちは働かされている、日給50円、1カ月働いて1500円、
『それでもご飯を食べさせて貰えるんですもの』と云う彼女の言葉には、実際笑えない真実なものが潜んでいる。
無邪気な寿美、漸く春の訪れをしる彼女、然しまた何の苦しみも悩みもなさそうな紅顔の彼女の瞳を私はじっと見つめていた。 小さな胸は波打ってる、それでも新しいオーバーに運動靴を穿いた彼女の姿は清く美しいがその切り詰めた生活を思わせる。 『さー』と吹き寄せる冷たい風、遠く煙った彼方の山は『生駒』の連山なのか、 私の頭上には氷の山が浮かんだ。 正月だと云うのに道路は下駄ばき、鉢伏の荒野でも五寸は積もったろうか、スキーなど夢にも出来ない、そして私は今ここにいる、私は周囲を見回した。つい先刻まで私の眼前にいた寿美の姿は見えない、 私は更に前方を見た。
『変だ』
どうも変だ、ここは大阪の町だった筈だが、暗い闇の中に私は一人立っていた。 何処かで電車の音が聞こえる様だつた。
はるか彼方に遠く近く海の呻きの波の音も聞こえてくるよう、 『ゴーうー』と聞こえてくる山鳴りと共に 『パラパラ、パラ』と、 あられの様なものが落ちてきたようだった。と、突然、ポーンポーン、ポーンポーンポーン、ポーンポーン、ポーン、ポーンポーンポーンポーン、〓〓、はっと私は驚いて目を覚ました。時計は12時を打ったのだ。鈍い電灯の灯の下に机に向かったまま私は寝ていた。側には『永遠なる序章』『死の影の下に』が積まれていた。 暖かい春雨の様な冬の雨は昨夜より降り続いている。
大阪の街
私は歩いていた。どこかの路地に灯が見える。この微かなあかり、それが今日の日本の運命であるかのような錯覚が私の頭脳を電光の如く走った。
『新年おめでとう』と
何処に行っても年頭を飾る言葉として、人々はこれを口にしている、然し私には新しい年が少しもおめでたいとは思えない、
『講和条約』
すなわち新しい出発、『日本の独立』だから今年はお目出たい、と、考えている人々、嘲笑してやりたい様な苦しさを覚える。
私は生きている事が苦しくなった。 戦後の文学に若い世代を動かしたニヒリズム、単調な生活、果てしない愚痴の連続、暗黒な社会の断面、失業者の群れ、此に生きている現在の我々その代表的な作者は『太宰治』であり『田中秀光』でありそして『椎名麟三』である。1952年と言えば輝かしい歴史の一段階を画すべき年であり、また悲惨な日本の歴史の序幕となるべき年である。 講和条約は成立し、その批准の日も間近に迫っている。 そして我々日本人は独立する、誠にお目出たい次第である。 再軍備、徴兵令、軍事基地、アメリカの為の赤色防波堤、そして私たちは彼らの奴隷と化してゆく、 冷たい夜風が吹き寄せる、映画は終わり、彼らは港町に近い電車道を歩いていた。
『再軍備するんだったら〓、』
と寿美が言った。
『吉田さんや芦田さんは真っ先に一兵卒となって頂きたいものですね』、と、
突然私は大きな声で噴き出した。隣を歩いていた学生が彼の顔を振り向いた、暖房装置の無い映画館は実に寒い、この寒気より身を守るためか分からなかったが私はしっかりと寿美とぴったり寄り添って歩いていた。オーバーを通じて暖かな暖気が交流する。ふさふさとした寿美の長い髪が私の首筋に感じられた。
あの時二人は熱情的な瞳を、画面をじっと見つめていた、 私は寿美の手をしっかりと握っていた。 暖かな寿美の太股のあたりがオーバーを通じて伝わっていた。 私は寿美のオーバーの間から寿美の服の下に手を入れていた。つい先程の事だった、もっと時間が欲しかった。いつのまにか映画が終わっていた。 私は寿美のスカートの下に手を入れていた。
黙って寿美の肌に触れている寿美は映画の画面に食い入る様に眺めながら私のなすがままに任せていた。
あの寿美のふっくらとしたお腹の下に太股の谷があった。 私は黙って手を入れていた、普通なら出来ない映画の世界と現実の世界の中で寿美と私は通じていた。映画は終わった。二人は立ち上がり肩を抱き合い外に出た。 暗闇の大阪の街は昼間の機械のような活動的な姿は見られなかったが、其処にはまた特有の夜の世界が華やかにそして静かに明滅していた。 時々電車が明るい窓の影を舗道に走らせながら過ぎて行く、その時、寿美の顔が妖精の様に浮かびあがった。
『私偶然を信じてますわ』
ふと寿美はたちあがり呟くようにいった。しろい歯がきらきらと輝いた。寿美さんと彼は立ち止まった。
『真実なものが正しいものがそのままの姿で認められる時代は来ないのでしょうか、政治家も資本家も、また一般の人たちも現在の日本の進んでいる方向を知らない筈はありません、然も誰一人として真実を語ろうとしない、僕はアメリカを信ずる事が出来ない、現在の日本は既に批判と表現の自由すら失われつつあるではありませんか、 再軍備によって苦しむのは誰ですか、重い税金、インフレと生活苦、そして一儲けしようと考えているものは誰でしょうか、生産品のストックを無くし、資本の拡張を図ろうとする再軍備、それがやがては、侵略戦争に発展しないと保障出来るでしょうか、インド、ビルマ、フイリッピン、中国、等のアジアは日本の再軍備と日米安全保障条約に対してどんな考えを持っていますか、日本とアメリカが軍事同盟を結んで、アジアを制圧する、と見ているではありませんか』
『然し明日の日本はそんなことを堂々と吐くことすら許されない、僕らに残された唯一の道は文学による風刺よりありません。 文学だけが人間性の自由と権威への反抗を認めてくれる、然しこの文学による批判と表現の自由すら圧迫されつつある、寿美さん、『フアシヅム』の圧迫と僕らは全力を挙げて戦おうではありませんか』
『頑張りましょう』
寿美は力強く言った。
『ああ貴方は僕のベアトリーチエだ』
彼はそう言って手を差し出した冷たい夜風が春風と変わっていた。二人は何時しか固く結ばれた腕を意識した。スクラムを組んだ彼らの心の底から自然に歌声が沸きあがっていた。 二人はそのままの姿勢で抱き合っていた寿美はひどく安定した心持ちだった。 彼らの心はお互いに触れ合い、一つの共鳴の中に結ばれた。 息詰まるような沈黙がしばし続いた。
若い彼らの血潮は電流の如く交錯する、私は彼女の腰に確りと手を回していた。もう言葉は必要なかった。彼女の唇がすぐ其処にあった。 私は寿美の唇の中に深く挿入していった。言葉はなくとも二人はお互いに凡てが触れあうようにそのまま立っていた突然私の感情の中に止むに止まれぬ、制止の聞かぬ衝動が走った私は腰に手を回し確りと彼女を引き寄せていた。絶叫したいような接吻だった。 大阪にきて始めての寿美との接吻だった。故郷の村では出来なかった、大阪に二人は出稼ぎに出ているそのお互いの淋しさと郷愁が若い二人を強い引力が引き寄せたのであった。
青春に捧げる歌
彼女の笑顔を見る度に私の心は
何か憧憬に似たものを感じさせる
そしてその瞳の中にある感情が動いたときに
私は人生に生き行く喜びを感ずる
彼女は私の命の支柱である
そして彼女は私の心の故郷であり
永遠の憧憬に生きる事のできる花である
ああ私には彼女があるこの事実は
日毎の私の生活を美しく強く
そして大きく生きさせる凡てである
おお彼女よ汝は永遠の処女であれと私は願うのである
美しく理性に強い彼女よ
私の不純な欲求を制止してくれたのも
彼女の力であった
私を肉欲の泥沼に陥としめようとした
私の不純な欲求を制止させ美しく守ってくれた
私の愛する彼女の不屈な理性の力であった
私は理性に強く愛に深き彼女に対し
無限の感謝を惜しまない
彼女よどうか強くあれ
例え私たちは一つに結ばれる事が出来なくとも
私たちの心は結ばれた筈だ
私と彼女との間にはなんらの不純な関係も無い
然し私たちは強く結ばれている
十年の昔より愛する彼女
どうして忘れる事が出来ようか
若し私の心より彼女が去ったなら
私は虚無と暗黒と絶望の谷間を彷徨わねばならない
おお彼女よ永遠に若くあれ
そして私と一つの花と咲き一つの実と
結ばれる日を何時までも何時までもまっててくれないか
彼の住む村は氷の山の麓、鉢伏山に囲まれた谷川の奇麗な村である。冬になると若者は出稼ぎしていた。秋11月中旬になると村々は若者が去り、静かな冬景色のなかに女達と老人と牛が一戸に一頭残されている。女は牛を飼いながら、はばき編みや機織りが冬の仕事であった。その長い冬の間、家の守りをするのが女の勤めであった。彼は出稼ぎが嫌だった、出稼ぎせずに炭焼きをした年もあったが灰色の長い冬は若者にとり絶望の谷間であった。その頃の歌である。戦後の一時期、スキー観光のまだ始まらぬ時代であった。 寿美との恋愛、淡く切ない燃え上がる事を知らない初恋の愛、純潔と抑制、肉欲と不純な欲求の制止が当時の恋愛の主流であった。もしそのまま肉体の愛に進行していたならもう一山超えていたであろう、愛の欲求と純潔な教育が遂に二人の愛を遠のけ初恋の愛として永遠に結ばれない愛情となって流されていた。
市岡元町名月湯
私は10日程前に大阪に出てきた。
漸く仕事が見つかった、この仕事にありつくまで流浪の旅を続けた。友達の所を遊んで回り仕事を探したが何処も不景気で就職口は見つからなかった。
『保君の所を訪ねてみよう』と昨日漸く訪ね当てた。
大阪市港区の市岡元町に名月湯はあった富田和太郎という、
『旦那さんよろしくお願いいたします』
彼は手をついて挨拶した。
『君は友達か、内は風呂に炊くばんば集めが君の仕事だ、二人で仲良く集めて欲しい』
名月湯にはおっさんがもう一人いたその人と大八車を引いて風呂の釜焚き用の燃料を製材工場などから集めるのが仕事だった。名月湯の主人は針灸師をしていた、戦争が激しくなり港区の人々は全部田舎のある人は疎開した、親戚も縁者も無かった富田はこの風呂を百円で買った。 激しい戦いの末太平洋戦争は大阪の街街を廃虚にしてしまった。 港区のこの一角は不思議に空襲の爆撃から取り残された。空襲の間仕事はなかったが戦争が終わると人々は仕事を求めて再び大阪に集まってきた。 風呂屋は周辺の住民や疎開から帰ってきた人たちで大変な繁盛であった。 富田は一躍金持ちとなりこの地域の顔役になった。この家には奥さんと知恵遅れの息子、その妹がいた、家族は四人であった。釜焚きの保君とおっさん、と彼、もう一人四国から出てきた娘が女中として勤めている合計八人の家族と従業員であった。
『若はん』とおっさんが言う、
『行きまっか』
『今日からよろしゅう、頼んまっさ』彼は挨拶した。
大八車をころころと大阪造船の工場に行った、ここには木造船が造られていた。船の中に入りばんばを集める、木造船の中には多くの燃料があった。早くも四日が過ぎていた。
蒲団が少し寒いようだ、何故か彼女の顔が浮かんだ、こんな所に働いていると彼女ともあえなくなる、 朝早くより信濃橋から四ッ橋、北堀江のまちまちに行と其処には風呂窯専門の製作工場が並んでいる、その家々を回り小さな家内工業の釜つくり工場に製材機を備えている、のこぎりのしたにはばんばがあった。品袋にばんばを入れて大八車につみ込む、ロープで確りと括り肩につなをかけて両手で車を引っ張って風呂屋に帰る。 午後は築港に行った。造船所を回るが毎日来るほどの荷物が無い、市岡元町から夕凪橋を通り、港区の中心街を歩いて大八車を二人の男が下駄を履いて歩いている。昭和二十五年戦後の大阪のまちでもあまり格好の良い仕事では無かった。
港区の名月湯の一角は焼け残っていたが殆ど全部焼けていた。おっさんの奥さんの家に寄ってみた、子供が一人いた、奥さんは近くの会社に事務員で勤めている、このおっさんには妾がいた、名月湯の近くに彼女の家があった。おっさんは妾と一緒に住んでいたが時々本妻の娘が呼びに来ていた。 戦前かなり商売で儲けていた『おっさん』は二号をつくり家を建てて生活させていた、 戦争で家を焼かれおっさんは二号に家を建ててやり其処に一緒に住んでいた。本妻の家もきれいな家を建てていた。
本妻には一定の収入があった。 生活は安定していたが子供の為に別れられず時々おっさんが泊まりに行ことで夫婦の性生活は満足しているらしい、こんな風呂屋のばんば引きの収入では奥さんと二号と二人の生活を支える収入は無いはずだ。 二号の家に時々おっさんが寄って行、二号の奥さんは美人だったが所帯やつれした貧乏ぐらしだった。
都市はまだ復興していない、女の働く仕事はなかった。焼け落ちたトタンを集めて囲いを作れば焼けた土地は自分のものになった。家を建てたら権利が出来る、登記所も法務局もみな焼けた。 戦前おっさんの生活は羽振りがよく儲けていた。
戦争がみな変えた、商売も出来なくなった。 風呂屋の富田は土地の顔役として幅を利かしていた。 市会議員がやってくる、選挙の票を頼みに来ている、風呂屋には多くの人が集まる、毎日お客さんと世間話をする選挙運動には風呂屋は格好の宣伝場所であった。
『お父さんいます』
『ああいますよ』
『お父さん今晩は家に帰ってきて、お母さんが帰ってと言ってい るわ』
娘が呼びに来ていた。こんな僅かな収入で二号を囲うなど普通では出来ない、女と男の関係は私たちには当時分からなかった。
富田の奥さんはどうみても貧相だ、過去の暮らしがそうさせていたのか、成り上がりものが一時に金を持つとそうなるのか、この奥さんの子供には知恵遅れの男の子がいた。
『あーれーいゃー』
と声がした、ここの女中に知恵遅れの男の子が手を出した。
突然蒲団をめくり、上に乗りかかった、知恵は遅れていてもその方の性的動物的本能は進んでいた。
力一杯女の上に乗りかかり押さえつけていた田舎から出てきた女中は力が強かった。男の金玉を握り手で突き飛ばした。
突然大声を張り上げた。
『どうした』
富田が飛び起きてきた、奥さんも起き出してきた。
『この人が私の部屋に入って来ました』
『もうそんなことしてはいけないよ』
奥さんが注意している、注意していても満更でもなさそうな顔に見えた。私の子供が女中に手を出した、知恵は遅れているが嫁になってくれるなら貰ってやってもいい、奥さんの顔に書いていた。その日間もなく女中は荷物をまとめて国に帰っていった。こんな家にいたら危ない、そう思ったのであろう、
年頃になれば誰でも性的な方面は発達する、知恵が遅れていても性はかえって発達する。その男の子はにやりと笑っていた。
『ううー』
と声をにならない声を出していた。
その家にはもう一人中学位の女の子がいた、奥さんの妹の子供を養っている、その女の子と自分の息子を一緒にさそうと考えていたのだろうか、夕方、おっさんの娘が呼びに来た。
『お父さん用事があるから今晩は家に帰ってきて』
本妻の娘が呼びに来ていた。おっさんは二人の女に挟まれていて大変であろう、私たちのばんば引きはその年毎日続いていた。私にも『結婚』の話が浮上していた。
『それは生涯の私の生活を支配する最大の問題なのである、この第一歩が誤っていたならば私の生涯は誤びように満ちた生涯となるであろう、反面私の第一歩において誤りがなかったとしたならば私の生涯は幸福が約束されているであろう、私は私の道を進まん』
時計の音はカチカチ、カチカチ、カチカチ、カチカチと寸秒を刻んでいる、電車の音は絶え間なく聞こえている。 生きようとすれば苦しい、社会は世の中に生活して行く事は誠実であるよりも要領を必要とするものなのだろうか、そんな筈は無い、然し現実の社会はそうなのだ、当家風呂屋に来てから一カ月を経過していた人生の経験を積んだ、市民社会の悲劇を知った。
青春は再び来ない、懐かしい青年会で活動した頃の思いで、ああ、あれから早くも二年過ぎている、今私も成長し結婚という現実を前にするに至った。
私は苦しんだ如何にするべきや困る実に困る、苦しみの末はどうするべきなのか遂に結論を見いだしえず、 若い日は悩む苦しむ青春とは果敢なくつらく過ぎ去って行く、大阪での出稼ぎの思いでは私たちの故郷を離れて働いたいろいろの人生模様を見た。 港区から堺市えと働く場所が移動した。
私は明くる年堺市の子色湯に行った、子色湯は富士川と云う主人だった、彼は石川県出身であったが当時石川が通れば灰も残らぬと云われていた。彼の奥さんは四国徳島の山奥から出てきて風呂屋の女中をしているとき、富士川と一緒になり所帯を持った。 お互いによく働き一生懸命金を貯めた、貯めたお金を大切に貯金していった少し金が溜まると土地を買った。
子色湯は他人の風呂だったが彼らは二人で借金してその風呂を買った借金を返しながら夫婦二人で働いた、彼はその子色湯に風呂の釜焚きとして働きに行った。 子色湯に美方町から多能と云う男が来ていた彼が釜炊きに来る前の年だった、秋岡の村から出稼ぎに来ていた、毎年秋になると十一月の中頃出てきていた。 多能は色が浅黒く百姓の真面目な男に見えた、毎年続けて三年来ていた、釜炊きも上手になり主人も奥さんもお気に入りだった。 十二時を過ぎると風呂に入りに来る客も減ってきていた、
大阪の繁華街は夜遅くまでお客さんが入りに来る、堺市のこのあたりは働くものが多く夜の商売も早く終わるのでもう風呂の掃除を始めていた。夜遅くなると奥さんも手伝ったり風呂で洗濯を始めていた、お客さんが帰らないと洗濯は出来ない、洗濯の盥をだして衣類の洗濯を始める、石鹸をつけて手で擦る、足で踏む、洗濯機の無いこの時代には洗濯は主婦の仕事だった。 風呂場には裸で入る、着物を着ていると湯気で濡れる、白い肌の奥さんが毎日よる十二時を過ぎると女湯で洗濯を始めるのが日課になってきていた、
始めは多能も真面目でふるさとの妻の事が思い出されていた、彼も裸で毎晩風呂の掃除をしている、十二時を過ぎてから急いで掃除をしていても一時間以上かかる、奥さんは毎晩子供たちや家族の洗濯ものが山ほどたまった。きれい好きの奥さんは毎晩洗濯が日課になった。一月が過ぎていた、ふるさとの妻と別れて出稼ぎしてもう二カ月になっていた。 その夜風呂屋の主人は組合の会議に出席していた、奥さんは毎晩主人の悪口を言う、
『うちの主人はわたしを可愛がってくれない、こんな主人と一緒になって後悔している』
『奥さんそれでも主人を愛しているでしょう』
『愛してなんかいないんよ、内に仕事を押しつけて自分はパチンコに行ったり遊んだり、こんな主人と一緒にならなければ良かった』
『それでも奥さん三人も子供が出来て好きなんでしょう』
『嫌よあんな人別れたいわよ』
毎晩のように奥さんは主人の悪口を言っていた、まるで悪口を言うのが口癖みたいであったがそれでも毎晩主人と寝ている、一緒に所帯を持って十年は経っていた、 奥さんが洗濯をしている近くのタイルを擦る、時々多能の体が奥さんの体に触れていた。多能は家を出てから二カ月妻との交渉が無かった。 二人は結ばれていた。そのことが主人に感づかれていた、子供たちにもばれた、然しお互いに借金がある、二人別れたら生活出来ない、主人も奥さんも子供たちを捨てて別れるほどの決心はなかった。その年を境に次の年から多能は再び風呂屋に来れなかった。 多能が来なくなり彼はその後に釜炊きに来るようになった。
初恋の人寿美と美知
奥さんは夜洗濯をしながら時々彼の方を眺めていた、彼には新婚の妻が家で待っている、こんな奥さんには魅力がなかった、くっついてきても拒絶する、他所の女の事など考える余裕はなかった。
釜炊きという仕事は石炭や燃料を釜に注ぎ込み風呂の温度を下げないように注意していれば毎日本が読める、単調な毎日であるが仕事は楽で時間は有り余るほど自由であった。
『私の内心を去来した一つの思考は漸くまとまり、母の勧める
『都』を貰うことに決心していた』
寿美との恋愛もあったが親の勧める女にしょうかと考えていた、決まったとしても未だその予備交渉の段階に達していない、貰えるかどうか分からぬ段階だった。
結婚と言えば人生の墓場の如く考えていた彼にとって漸く落ち着いた生活の出来る永遠の安住の地のような人生の再出発の基地のような気持ちに変わっていた、
その頃彼の母より手紙が来ていた、寿美と分かれよと言っていた母、母の勧めた女との縁談が不可なるを知る、
『都を貰いに行ったが都の母があの人には好い人がいるから』
と断られたとの手紙が来ていた。
寿美を断わり、母の勧める縁談も不可となり彼は二兎を追うものは一兎を得ずとなった、子供の頃からの初恋の人を断った私は毎日悩み苦しんでいた何故断ったのだろう、
『縁が無かったんだ』
私はそう自分に言い聞かせていた。
初恋の愛とは甘く切ない愛である、多くの場合結ばれる事の少ないのが初恋の愛であろう、彼の初恋の愛は自ら寿美を断っていた、あの日の接吻は甘く切ないものだった。
たった一度の接吻だった、だがあの日の甘く酸っぱいようなキスの味が彼の心の中に何時までも残っていた。
数十年の後までも初恋の味は忘れられない、彼女の首に手を回していた。
堪らなくなりながらも処女を侵してはならない、結婚までは純潔でいたい、性的な欲求を押さえる事が純情な愛であった。
自ら断った愛だった、愛とは何だろうか、心とは何だろうか、その時は何時でも元に戻ることが出来ると考えていた、後戻りは許されなかった、初恋の愛、然し忘れられない初恋の愛、私はでもそれが私たちの運命だったのだと今も思っている。
寿美は彼に強く迫る事はなかった、何時も私から誘いかけていた、誘わないときには彼女から積極的に誘いかけはなかった、淡い恋心の愛、でも忘れられない愛、何時までも燃えることなく燃え上がらず、燻る事無く清水の様に流れている淡く清く微かな恋心の初恋の恋情、初恋がそのまま結婚に発展する人たちは幸せな人たちなのだろう、
純潔と清い愛情、何時までも心の奥深く忘れられない初恋の愛情、戦前と戦後の少なくとも純潔教育を受けた世代でなくては理解出来ない愛情のあり方だった。
風呂屋の釜を炊いていると裏側から小さな穴が造られている、其処から覗くと水道の水が出ているか止まっているのかが分かる、水道の水が出ていれば湯は熱く湯が減らない、水道の水が止まっていると湯の温度が低く風呂の温度が下がりつつある、従って風呂の湯の温度を上げるため湯を出し風呂を炊く必要がある、何処の風呂屋にもこの覗き見する穴が作られている。ついでながら女の裸も覗く事も出来る、然し女のからだを見ようと思えば何時でも番台に行けば見られる、風呂のタイルの掃除に早く入れば毎日女は見られる、別段女の裸の姿など目珍しくない、 女は着ものを着て蒲団の中で抱き合ったとき始めて性欲が沸くものである、風呂屋の仕事で毎日見ていると別段あれが勃起などしなくなるものである、
ちらちらと見え隠れする姿態は堪らなく妖艶であり魅力ある女性に見えるが、風呂に入りに来ている女はまったく魅力ない物体に過ぎない、現在の都会はマンションが多くなり一戸建て住宅も大抵風呂は個人の住宅に設備としてある、 風呂のない銭湯など今頃の住宅にはなくなり風呂屋の経営は次第に苦しくなってきた。 風呂屋の経営は最低まいにち150人以上来ないと経営が成り立たない、300人位のお客さんが毎日こないと楽な儲かる風呂屋とはいえないと言われている、
風呂屋の経営は家族主体の個人経営だからやっていける、全部他人を雇っていると人件費で赤字となる、夏は個人経営で炊いても冬だけ他人を頼む風呂屋が多かった。 今は設備の良い温泉の様な設備と按摩などの設備の整った風呂屋は繁盛しているが小さな風呂屋は廃業が目だっている、 私はその風呂に3年間冬の間出稼ぎしていた。
春になると家に帰った、 寿美との恋愛と遂に結ばれることなく何時しか別れていた、何故別れたのか自分にも分からなかった、初恋とは淡く切なく燃え上がることなく咲いた、満開を迎えず何時までも続きそして何時しか消えていた。
性欲の対象としての愛では無かった、純粋な愛を求めていた、『プラトニックラブ』初恋の人に求めた愛だった。
私が始めて寿美を意識したのは小学校の頃だった。秋の美しく輝く柿の様にひかり輝き宝石の様だった、私の心に寿美が入っていた、寿美はなぜこんなに美しいのだろう、何気なく彼女の顔に私の目は吸い込まれていっていた。 小学校の校庭だった、整列した生徒の中に寿美は一人背が高く輝いていた、愛とか恋とか何も分からなかった、子供心に美しいと意識していた。特別の感情を抱くようになったのは卒業し青年になってからだった、毎日手紙を書いていた、書いても渡す事が出来なかった、渡す機会がなかった。それがラブレターだと分かったのはもっと後の事だった。
ラブレターを書く愛の意識、別段人に教えられた訳でもなかった、自然発生的に年頃になれば春の芽が吹き愛情の形が生まれる、寿美との愛情は折にふれて私の心の中に燃え上がる春の嵐のように毎年の様に吹き荒れて来ていた、妻が嫁に来ていた、 結婚しても初恋の人は忘れられない、寿美の面影が妻の顔と重なって見えている、心は寿美の方に行っていた、体は妻の上に乗っている、私は何ものなのだろうか、これが現実の私なのだろうか、妻美知を抱きしめていた。
美知の顔と寿美の顔が重なって見えている、時々背筋に冷たいものが走っていた、それは後悔に似たものなのだろうか、後悔はしていなかった。 妻美知は美人である、寿美とは較べる可くもなく美人であった、穏和で抱擁とした性格で奇麗な言葉を使う、何ものにも変えがたい私の妻となっていた、私の為に尽くしている、どんなことにも不服を言わず應援してくれている、二人は仲良く家庭生活と夫婦の生活をしている、だのに何故だろうか、時々寿美の面影が美知の上に寿美のあの面影が美知の現実の顔の上に重なって見えている、初恋の人以外に私の周囲には多くの女子青年が取り巻いていた、然し寿美以外の人たちとの恋情はなかった。 青年団員としての交際は多くの人たちと付き合っている、交際とは遊びなのである、遊びの交際でも男と女を意識してからは恋愛感情なくしての付き合いは成り立ち難くなってくる、 燃えることなく消えることなく淡く清く何時までも、何時までも続いている初恋の愛、今の世の中には今の若者たちの恋愛や交際の中には芽生えることは無いのだろうか、否、人間である以上そうした感情はあり続けるだろう、初恋の愛は今も昔も人である限り何時までも続く愛情の形なのだろう、 『プラトニックラブ』 私たちの時代に憧れていた神の愛、清い愛、何時までも続く永遠の愛、肉体と精神の別居した清い愛などとは凡そ現代社会の若者たちの中には受け入れられない愛情の変形であろう、
現代の愛情とはテレビや雑誌、マスコミの直接てき表現とすぐに行動に走らせる社会、小さな子供の時からキッスや肉体の接触を見せつけている毎日の報道、私たちの時代にはそうした報道は無かった、それが自然であり自然な愛情の表現であった。 あの日寿美を抱きしめ接吻した、寿美も私を抱きしめていた、それ以上の事は無かった、寿美も要求しなかった、私もそれ以上の要求はしなかった、そのまま年月が過ぎ去っていった。 淡く切なく燃え盛ることなく消えることなく、心の中で咲いて行く寿美の面影を抱いて私の心の中に永遠の面影の人として、象徴としての彼女として奥深く秘められ遂に再び燃え上がる事はなかった。その寿美が、妻美知を抱いたとき美知の顔の上に寿美が移り出されている、肉体関係は一度もなくたった一度の口付けの寿美が私の心の中に今も強く残っている、 それは其処には現実に生きている年老いた寿美では無かった、若かりし二十歳の頃の寿美の面影だった。美知の忘れられない面影と共に20歳の頃の寿美の面影が今も私の心の中に生き続けている。 美知とは見合い結婚だった。父と母の進めた見合い相手に何時しか話に乗っていた、何故話に乗っていたのか今も分からない、たった一度の見合いだった、見合い相手の美知と意気統合していたのだろうか、反対の理由は無かった、 『嫌だ』と言えば拒否出来ていた、拒否も賛成もしなかった、知らぬ間に世話人が話しを進めているらしかった。 寿美とのたった一度の接吻を忘れた訳ではなかったが遂に燃え上がること無く遠ざかりお互いが会う事もなく何年かすぎて行った。初恋とは淡く切なく熱烈な感情の表現として切迫した気持ちにならずに消えていた、消えていた筈であった、然し火は消えていなかった、何時までも淡く切なく咲いている、それが初恋の花なのであろうか、index.htm へのリンク