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 但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駈け巡る  

 このたび但馬文教府。「生活想像応援隊」の第三回みてやま交流会パフォーマンススペース、セミナー室に於きまして、グループのつどい"ふれあい作品展に私の著書『但馬に生きて」の動画編集の発表を企画いたしました。場所、豊岡市妙楽寺、県立但馬文教府。期間、平成23年11月19日午後1時から26日午前12時まで。展示します。

 作品の内容は「但馬に生きて」の世界の旅を主とした動画をテレビで期間中放映いたします。尚、私が世界の旅で買い求めていました絵画、写真など展示します。
例、西遊記のシルクロード{朝日新聞社刊非売品}。中央アジア南ウズべキスタンの遺宝{創価大学編}。天竺へ{てんじく}三蔵法師三万キロの旅、奈良国立博物館、朝日新聞刊。
イラン、366ページ。イラン全土の秘宝、本邦初公開。ユネスコ世界遺産3西アジア。{講談社刊}。中国シルクロードの本、近畿日本ツーリスト刊。新疆シルクロードの旅、香港中国旅遊出版社刊、シルクロードを行く、敦煌01、1、2、号、朝日新聞。チベットの旅、西遊旅行社刊。中央アジア、パキスタンの旅、西遊旅行社刊。世界遺産エルサレムの旧市街とその城壁、三井住友銀行刊。ベナレス、永遠の街、インド、トムソン、プレス、インド刊、日本語版。イスタンプール、トルコ、日本語版。芸術と歴史の国ヨルダン、世界遺産日本語版。

 エジプト考古学博物館。カイロ秘宝のすべて日本語版。芸術と歴史の国、エジプト、{5000年の歴史}日本語版。芸術と歴史の国ギリシア、日本語版。メテオラ、ギリシア正教、聖霊の岩、とその歴史、{修道院すべて公開}。聖地写真集、イエスの足跡を訪ねて、エルサレムの足跡を訪ねて、イスラエル、パレスチナの国。羅馬、とバチカン、日本語編。ヴチカン市国、日本語版。ポンペイ、今日と2000年前の姿、日本語編。

 その他、スイスの旅。フランスの旅。ヨーロッパ各国、インド、ネパール、アメリカ、東南アジアなどの写真は多く撮りましたが、別の機会に発表いたします。


選定図書速報。第2723回。平成22年4月7日c日本図書館協会指定図書受けました。「週刊読書人」に掲載されます。「但馬に生きて」藤原文男著。 北星社。
 私の誕生日2月24日。無事終了しました。その節は過分なお祝いとご祝詞頂有難うございました。当日は但馬一円、阪神地方や遠くは関東地方から駆けつけていただきました。120名を越す多くの人々の集会となりまして、感激しております。出版事業に着手してから半年、特に但馬を映像で発信する会の皆様にはご支援とご協力有難うございました。漸く一段落しました。本当に有難うございました。

小説初夢 このページの下にあります


 書中お見舞い申し上げます。「但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駈け巡る」出版に際しましては「但馬に生きるロマンの会」に出席いただきまして、また書籍ご購入戴き、多くの方々から激励をいただきました。兵庫県知事様はじめ、但馬県民局、但馬文教府様、但馬ないの多くの市長、議会議長、各種公民館さまから激励のお便りを戴きました。
 その後、私の提唱しました「但馬山地のジオパーク」の呼びかけは海に、山に、温泉地に広がりを見ています。関宮中央公民館を出発点に竹野地区公民館、温泉公民館、と、講演会にご招待戴き、私の提唱を更に広げていただいております。選定図書速報。第2723回。平成22年4月7日c日本図書館協会指定図書受けました。「週刊読書人」に掲載されました。有難うございます。講演会では私の撮影、編集しました映像と但馬山地のジオパークの呼びかけが主体となりますが、私の見た世界の諸々の宗教、思想、、混迷の中で生きる「百聞は一見に如かず」体験記を述べています。ご賛同の方は「但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駈け巡る」著書の更なる広がりにご協力をお願い申し上げまして、御礼のご挨拶に代えさせて戴きます。尚講演会では編集責任者の宮崎裕子さんにも映像編集などの技術協力を戴いています。80歳を迎えました私には、技術的にも体力的にも「杖」が必要で御座いますので大いに助かっています。有難うございました。
〒:667-1125 住所:兵庫県養父市奈良尾130.草谷山荘TEL/ファックス兼 TEL079-663-6168 
ホームページアドレスです。http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/



選定図書速報。第2723回。平成22年4月7日c日本図書館協会「週刊読書人」に掲載されます。
「但馬に生きて」藤原文男著。   北星社。価格1600円。同時選定は15冊でした。如何に掲載します。
31 沈黙の美女。         コスタ著、鳥取絹子訳、阪急込みニュニヶーションズ。
32 ちょっと田舎で暮らしてみたら、能勢健生著、    新潮社  
33 東京さんぽるぽ         なかだえり著     創美社    集英社発売
34  極上の山歩き         草川啓三著      ナカニシャ出版   
35 「但馬に生きて」 藤原文男著。     北星社。
36 田舎へ行こうガイドブック  宮崎猛  1監修  昭和堂 日本都市農村交流ネットワーク協会編
37 イスタンブール路地裏さんぽ 大和田聡子執筆 ダイヤモンド社発売
38 南アフリカを行く       高橋泰昭著   考古堂書店
39 パプアニューギニア   田中辰夫編 花伝社 共栄書房発売
40 衆愚の時代      楡周平著    新潮社
41 コミュニティの政治学  リトル著   福士正博訳  日本経済評論社
42 友愛革命は可能か  小林正弥著        平凡社 
43 民主主義理論の現在シャピロ著 中道寿一訳   慶応義塾大学出版会
44 大平正芳全著作集  福永文夫監修        講談社
45 何が地方都市再生を阻むのか  藤本健夫著  晃洋書房
以上15冊が選定されました。ご協力有難うございました。


講演依頼がきました。

始めまして竹野地区公民館 主事 伊垣朋実 44歳 独身 男 です(^^)明部さんから伺っています。本の寄贈、ありがとうございました。
今回、講師を引き受けていただき、ありがとうございます。早速、本題に入りたいと思います。・機材ですが、プロジェクター、DVD、マイクがあります。 DVDをお持ちいただければ、出来ます。・過去の様子を添付します。

・内容   「竹野学園」開講式 での講演 5/27(木)10:00〜12:00
   1時間30分(映像をおりまぜたり、参加者とのやり取り、スキーの何たる   か・・・方法は自由にお任せいたします。)  
   1時間ですか?時間は、あ〜 と過ぎていきますので30分増では?(^^「竹野学園」は公民館の高齢者講座です。
参加者120名前後、運営委員がおられ、今年から自主運営を、自分たちのことは自分達で・・・この方向に向かいかけています。意識もまだまだですが。今回、新しい運営委員さんも加わり(もちろん高齢者)新しい竹野地区の高齢者学級となろうとしています。是非是非、その後押しをお願いしたいと考えております。

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669-6201兵庫県豊岡市竹野町竹野2946-1竹野地区公民館 主事 伊垣朋実TEL 0796-47-1071 FAX 0796-47-1071  takenochiku-cc@city.toyooka.lg.jp

DVD上映も可能です。それを放映しながら、お話をしていただけたらと思います。藤原さんの、特に議会をお辞めになってからの四国行脚、世界
行脚また、80歳になって今、高野山大学大学院在学中など、藤原さんの一生勉強の生き様をお話いただければ十分です。また、定例会でお話しましょう。

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応援隊のメンバー藤原文男さんの本が出版されました。

但馬文教府生活創造応援隊のメンバー藤原文男さんの本
「但馬に生きて」が出版されました。


応援隊 明部

生活創造応援隊のメンバーで、一番遠方でご高齢にもかかわらず精力的に定例会、イベントに活躍されている藤原文男さんの本「但馬に生きて」の出版記念発表祝賀会が平成22年2月24日午前10時から、養父市関宮地域局横 関宮中央公民館において開会されました。

本出版記念1



出版記念2出版記念3
応援隊のメンバーや文教府の先生方は大方お買い求めいただいていると思いますが、まだお求めいただいていない方や、また、ご友人・知人などにも宣伝していただきますようお願いします。
藤原文男さん著「但馬に生きて」 〜 遥かなるロマンをもとめ、駈け巡る 〜
北星社刊行350ページ、税込み1680円 文教府の山根コーディネータのもとにもお預けいただいています。送料は藤原さん負担で 1,680円の代金は郵便振込みでお願いします。全国の書店で注文販売します。

但馬地域では、下記の書店で取り扱っています。
 ◇ 香美町 小谷書店。
 ◇ 養父市 BOOK Sイシダ。
 ◇ 豊岡市 文森堂(日高町) ツタヤAVIX 喜久屋書店 
 ◇ 朝来市 ツタヤすばる


〒:667-1125 住所:兵庫県養父市奈良尾130.
草谷山荘TEL/ファックス兼 TEL079-663-6168 

詳細は、藤原さんのホームページ山を楽しむホームページ。政治経済評論、株式投資講座。文さんの日記。そのまんま文さん。などの下記URLで・・・

藤原さんプロフイール

プロフィール
世界文明の起源を求めて http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/

 私は何故この本を出したのか?私の気持ちを理解しない人々に読んでもらってもしょうがない。都会の人々には理解出着ないだろう。円山川の源流但馬山地のジオパーク。岩層の中に深く根を張る植生、針葉樹林から広葉樹林えの植生の転換が私の主張の基本である。
台風23号、9号の大水害は何故起こったのか?若いときから取り組んだ植林は過疎化の波の歯止めにならず、過剰生産の杉やヒノキは金にならず、若者は流出し、過疎と高齢化の但馬が残っています。杉は杉花粉を撒き散らし、杉の木のテッペンまで枝打ちされた線香造林は、間伐しても大洪水、地すべりを引き起こし、豊岡市、佐用町の大水害を引き起こしています。この林業政策の大転換が必要です。と、私は訴えています。


奈良尾村の神社の森、

 神鍋のスキー指導員研修会にもチラシを200枚自分の手で一人ひとりにまいたが効果は無かった。若者は忙しくて自分の仕事とスキーに追われている。そこで「但馬に生きるロマンの会」を立ち上げました。「但馬文教府生活創造応援隊」但馬文教府の全面的応援を得ました。「但馬県民局夢テーブル委員会」にも木村さんや久保さんからチラシを配布。昨年の秋ごろから但馬ふるさとづくり大学の講座の会合でチラシ配布しました。全員に渡しました。
 そこの講座の卒業記念にも論文提出、但馬史研究会にも論文提出。それらの集会に参加している方々、養父市森林組合OB会の皆様、関宮町議会議員OB会の皆様など、そして最後には関宮町区長会、関宮町老人クラブ連合会、関宮町同友会の皆様の応援、養父市議会議員全員、養父市市長はじめ副市長さんなど多くの方々の参加を得まして、2月24日私、藤原文男の80歳の誕生日に出版記念祝賀会に漕ぎ着けました。平日に何名集まるのか分からなかったが120名を越える人々に集まっていただきました。東は関東地方、阪神間、但馬全域から集会に参加いただきました。「但馬に生きるロマンの会」が誕生しました。

兵庫県知事さんから激励の文戴きました。
 拝啓、ひと雨ごとに春の色が濃くなるこのごろです。このたびは、ご著書「但馬に生きて」をいただき、ありがとうございました。エッセイの数々をじっくりと読ませていただきます。お心遣いに感謝します。楽しいご本です。頑張ってください。平成22年3月井戸敏三。

企画県民部知事室公聴室長様からも激励の文戴きました。
県政の推進について、平素からご協力いただき厚くお礼申し上げます。
さて、このたびは、藤原様のご著書をご恵贈いただきまして、誠にありがとうございました。秘書課及び関係部局に配布させていただきました。
興味深い内容ですので、早速拝読させていただきます。今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。季節の変わり目の折、ご自愛されますようお祈り申し上げます。2月22日

 拝啓 早春の候、益々御清栄のこととお慶び申し上げます。さて、このたびは「但馬に生きて 遙かなるロマンを求め、駆け巡る」をお送りいただき、誠にありがとうございました。現在読み進めているところでございますが、貴殿の森林・林業への熱い思いを感じ取っております。いただきましたチラシは、本県の林業関係事務所に送付しておきます。ご親切にありがとうございました。取り急ぎ、メールにてお礼申し上げます。  敬具
 平成22年3月9日 兵庫県農政環境部林務課 養父市奈良尾 藤原文男様有難うございました。

 但馬県民局長谷口進一様からも礼状が届きました。「漸く春めいてまいりました。「但馬に生きて」発刊誠におめでとうございます。さらに不肖私にもご恵与いただき、通読いたしました。歯に衣きせぬ鋭い口調は真実を語っておられ、私の仕事にも大いに参考になります。溢れる情熱地域づくりにかける強い意志に感服いたしました。「文さんの日記」サミエル、ウルマンは藤原様そのものです。中略、今後とものご活躍を心よりお祈り申し上げます。
敬具

香美町町長長瀬幸夫様らお礼状戴きました。村岡区中央公民館松下香織様からも礼状戴きました。
香美町議会議長様から丁重な礼状が届きました。
藤原文男 様
 
おめでとうございます。
上梓されました藤原さんの人生の結晶とも言える「但馬に生きて」が全国図書館協会選定・週刊読書人に選定されましたこと心からお喜び申し上げます。
藤原さんの長年のご努力の積み重ねが多くの人の心を打ち、その評価ご今回の選定につながったと考えます。
今後とも、ご健勝でご活躍されますことを心から願っております。
本当におめでとうございます。養父市長 広瀬 栄

 朝来市は吉田宣子さんから関係の皆様に配布お願いしています。朝来市議会事務局大田のりゆき様から礼状電話ありました。朝来市長、議会議長他贈呈している模様です。

明部さんから礼状が届きました。藤原 様本日で寄贈していただきたいと予定していました最後の公民館、中竹野地区公民館に御本をお届けしてきました。

 新温泉町からは上島元子さんのご協力を得ています。稲葉さん、有難うございました。木村さん、田中さん、笠浪さん、富田さん、宮崎さん、関宮町同友会の皆様有難うございました。校正にご努力ねがいました皆様有難うございました。お礼を言うまもなく風邪で倒れました。明日22日には出席します。その節お礼申し上げます。

 この会は私の本を出発点としていますが、今後の但馬に生きてゆくロマンの会として永久に発展してゆくことを確信しています。同時に「但馬夢テーブル委員会」から発展しました「但馬を映像で発進する会」は今後永遠に伸び続けて行くでしょう。それには「レバレッジ」「梃子の応用」が必要です。
映像と情報発信の技術が今後の世界を制覇することを確信して進みましょう。


但馬文教府生活創造応援隊に参加している竹野町の明部さんからの提案です。
 藤原様 すいません。私は仰々しいようくするのは如何はものかといいまいたのですが…元市会議長には頒布し購入していただいているし、公共機関にご贈呈いただいているので公職の市長として受領するには式という!セレモニーにしてはというのですが、藤原さんがお嫌なら名刺とご伝言を書いていただければそれを私からお届けするという形でもよろしいが…、私の友人の元市会議長員の川口氏に相談してそれから秘書へ日程調整し、連絡します。


明部様
藤原文男です
 贈呈式について。有難うございます。
但馬文教府、生活創造応援隊が4月6日火曜日に開かれますが、当日の午前11時、昼前なら私も明部さんも其の他の方も多く居られますし、ありがたいことです。私は特に豊岡市の方々に多く読んでいただきたく、針葉樹林から広葉樹林えの転換を訴えています。また、私が若いときから一生の仕事として取り組んだ柳をつくり日本一の生産者達成、から、中国から安い柳の輸入でスキー産業への転換を決意。私の決断が瞬く間に周辺の地域に伝播しました。私は40歳で失業の苦しみの中から地域全体で知恵を絞りました。スキー民宿産業への転換。「豊岡商人に苦しめられた」と書きましたがこれは小説です。歴史です。

戦後、多くの植林がなされましたが、杉は杉花粉を撒き散らし、台風23号や9号の被害に見られますように、風倒木、地すべりで針葉樹は多くの雨を吸収することなく、一気に河川に増水の被害を及ぼす原因になって来ました。木材の価格は暴落し、枝打ちをした杉林をいくら間伐しても線香造林ですから、地中深く根を張る広葉樹のようには行きません。国は下流の円山川の改修工事をやっていますが、源流の山の構造を変えない限り、台風9号、23号がまた来ます。
 スギ人工林を広葉樹に植え替えていくことは、日本の戦後における行き過ぎた人工林化を是正するという意味で長期的に取り組まなければならない課題だと考えています。 杉花粉予防のためにも必要ですが、広葉樹林への転換が台風被害防止と目的が一致しますので私が提唱したいのは、計画的に杉の植林を半分に減らす。そのためには戦後60年かけて達成した造林地を今後長期間かけて広葉樹林に転換する。その為の、伐木、架線集荷、搬出、木材市場までの運送費、などに補助金をだして広葉樹林への転換を計画的に実施する。そうしない限り現在のような低価格では誰も切、売りしないだろう。広葉樹林への転換が台風23号、9号の被害を将来にわたり予防する唯一の方法である。事を提議してこの項を閉じます。以上が私のこの本を出版しました気持ちであり、目標です。贈呈式できましたらありがたいです。



熊次会の田中米一郎さんから、熊次会の人たちから本を五冊注文を受けました。

「但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駆け巡る」2010年2月24日藤原文男著

「しらにしの吹く頃」1999年2月20日刊行近代文芸社藤原文男著

豊岡市市長様

豊岡市議会議長様

豊岡市の皆様へご挨拶。

養父市奈良尾130草谷山荘 藤原文男 氷の山国際スキー場鉢高原スキー場在住。 

このたび私は、私の80歳の誕生日に但馬の諸々の歴史を書いておこうと「但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駆け巡る」を発刊しました。第一回の「しらにしの吹く頃」には私の若いときから氷の山鉢伏山スキー場創設の歴史を書きました。

今回は60数年前からの美方郡熊次村はどのようにして、何故養父郡関宮町と合併したのか、合併運動を推進した生き証人としてその歴史的事実を書きました。

出稼ぎのない町を造ろうと奮闘しましたスキー産業にかげりが見えてきました。が、今後の但馬の発展を願っています。

豊岡の柳こうり原産地、熊次村、氷の山奈良尾やなぎ。

明治時代から100年続いた岐柳産業に私は14歳から一生の仕事と取り組み、日本一の生産者になりましたが、40歳になったある日、中国から安い岐柳が輸入されていることを知りました。呆然自失、失業の苦しみの中から私は観光産業への転換を決意しました。私の決断は瞬く間に氷の山一帯に広がりました。私が一生を賭けたスキー場造成。それに続く植林事業は過疎化の波の歯止めにならず失敗でした。台風23号、9号の被害が、私のこの本を発行する気持ちの始まりとなりました。私の80歳の誕生日、針葉樹林造成から広葉樹林への転換を次の世代に託したい。これがこの本を発刊しました主題にすえています。広葉樹林にはその下流の海に魚が多く繁殖します。地中深く根を張り地すべりが起こりません。海と山と温泉、観光事業の発展と広葉樹林育成が今後の但馬地方の過疎化防止の方策であることを私は体験学習しました。私の思いが多くの人々に受け継がれることを願いながら隣村、市、の現養父市奈良尾村に生きる藤原文男のご挨拶と致します。

この本に書ききれないページは私のホームページ、文さんの日記、但馬に生きて、そのまんま文さんなどに毎日発表しています。

http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/
明部さんからの依頼で竹野公民館で講演会。を開きます。おうけしました。5月27日午前8時出発。

始めまして竹野地区公民館 主事 伊垣朋実 44歳 独身 男 です(^^)明部さんから伺っています。
本の寄贈、ありがとうございました。今回、講師を引き受けていただき、ありがとうございます。早速、本題に入りたいと思います。・機材ですが、プロジェクター、DVD、マイクがあります。 DVDをお持ちいただければ、出来ます。・過去の様子を添付します。・
内容   「竹野学園」開講式 での講演 5/27(木)10:00〜12:00   1時間30分(映像をおりまぜたり、参加者とのやり取り、スキーの何たる か・・・方法は自由にお任せいたします。)   1時間ですか?時間は、あ〜 と過ぎていきますので30分増では?(^^「竹野学園」は公民館の高齢者講座です。参加者120名前後、運営委員がおられ、今年から自主運営を、自分たちのことは自分達で・・・この方向に向かいかけています。意識もまだまだですが。今回、新しい運営委員さんも加わり(もちろん高齢者)新しい竹野地区の高齢者学級となろうとしています。是非是非、その後押しをお願いしたいと考えております。

大震災と病気。四国88カ寺の旅

その年はまれに見る大雪だった。年末年始順調なスキーの滑りだしだった。雪は少なかったとはいえ正月のスキー客はほぼ満員だった。今年は良い冬になるだろうと思っていた。「もう朝かなー」そう思って寝ていたときだった。突然グラグラと揺れた。「地震だ」飛び起きた。
すぐ屋根に上がった。屋根の雪は150センチメートル以上も積もっていた。私は屋根の雪降ろしを始めた。もう一揺れきたら家が潰れる。木造の古い建物の民宿。まだ薄暗い、スコップで雪降ろしを始めていると妻の沙知が手伝いに上がってきた。妻は町の健康診断には一度も行かなかった。元来元気で働いていた、
「一度病院に行こう」といっていた、胃が痛いのを我慢して雪降ろしに上がっていた。早朝暗かった夜が次第に明るくなってきた。背中をびっしりと汗が流れている。屋根の雪はまだまだ沢山あるがタルキの端の雪を下ろせば重量は相当軽くなる。雪を下ろしている間地震のことは忘れていた。
午前7時を過ぎ朝食を食べた頃から、漸くテレビが放送を始めた。神戸や尼崎あたりで大きな地震が起きたらしい、テレビは一斉に放送を始めていた。地震の規模が次第に大きく拡大されてきた。まだこの地震が大変な震災だとの認識はなかった。妻は胃痛を訴えていた、時々、診療所から薬を貰って飲んでいたが回復の兆しはみえなかった。一度病院に出よう、その日病院に出る予定だった。然し地震とその後次第に明らかになってくる震災の模様で遂に病院に出る機会を失っていた。


 
阪神大震災で姉の家が潰れた。諸々の事情で病院の検査に出る日が延び延びになっていた。
沙知は胃検診を一度もうけていなかった。「入ってください」
医者は何枚かのレントゲン写真を並べた。其処には胃のあたりが黒い病状が写し出されていた。もう、疑う余地もなかった。「そうですか、手術して下さい」私は即座に医者に頼んだ。妻は「ウン」とは言わなかった。後で考えたことだがあの時、咄嗟に何故承諾したのだろうか、
生涯の誤算であったのかも知れない。然しそれは結果が出てからの思いであり、人間だれしもやって見なければ解らないことだろう。その日葭原は沙知を一人病院に残して会議に出席していた。
「委員長電話です」もうすぐ会議が始まる。受話器を取ると妻の声が聞こえてきた。「胃の中にポリープが出来かけている。今手術すれば簡単に治る」医者はそういった。
葭原は会議の段取りをつけて、取り敢えず病院に出た。医者は「まだ初期の癌だから手術すれば良い」と勧めた。

手術の結果胃は全部摘出した。その背後にある膵臓も半分くらい切った。すでにもう転移していたのか医者は「出来る限りの事はしました。」といった。「切らねば良かった」その思いは今も残る。あの震災の朝、葭原は神戸の姉の家に電話した。「屋根の瓦がずり落ちて、壁がひび割れ家具が壊れた。家の中がメチャメチャだ」と言う。私は咄嗟に金物屋に電話した。「波板100枚、金槌と釘」を注文した。地震が来ると途端にテントが店頭から姿を消した。一斉に人々がテントを求めて殺到した。テントの値段が暴騰した。続いてトタンと釘が神戸近くの店頭から姿を消した。漸く震災の全貌が次第に明らかになってきた、その夜姉達夫婦がトラックでトタンを積みにやってきた。 葭原は翌1月18日早朝、神戸に向けて出発した。高速道路は全滅だった。遠坂トンネルを抜けると国道175号線を一路神戸に向かった。三木市に入った頃から渋滞が続き出した。長いトラックの列が神戸へ神戸えと続いていた。漸く西区の家に辿り着いた頃夜が明けていた。家に着くと直ちに屋根に登った。「瓦を全部落とせ」「瓦は川原に捨てよ」非常事態なのだ。「土木事務所が叱る」「叱られたって仕方が無い」
こんなときは田舎の貧乏で育った者は強い。即座に決断する。瓦を全部地面に下ろし近くの川原に捨てた。波板トタンを釘で打ち付け夕方までに全ての修理が終わった。近くの人達が集まってきた。昨日の朝震災が起きた、その翌日屋根の修理が完成した家は神戸西区の近くには無かった。 屋根の上から西区の家々を眺めた。どの家も下から眺めると解らなかったが、殆どの家の瓦がずり落ちていた。大変な地震だった。その年震災以後、スキーヤーはスキー場から完全に姿をけした。広島から来る人たちまでキャンセルして

きた。2月になり3月になり、漸く客足が回復した頃には雪が消えた。「家は潰れたけど一度スキーをしないと雪が消えたらスキーが出来ない」そう言いながら若者たちはスキーにやってきた。その年を境にスキー場は日帰りスキー場となり、未だに民宿の客足は回復しないまま不況の時代になった。阪神大震災の被害者は阪神間だけでなく周辺のスキー場にも甚大な打撃であった。その震災のため妻は検診の機会を逃していた。

 最後の四国88番札所大窪寺に参った。妻、沙知の残された命は後1週間の予命だった。もう後戻りは出来ない、医者に宣告されていた。
病院で医者に宣告されたその明くる日、四国88カ寺の旅に出発した。「どうか最後まで苦しみませんように」88カ寺の最後の完結寺が私の妻の最後の完結寺になろうとは、何の為にお寺参りをしたのだろうか、然し後悔はしていなかった。今も私の家の仏壇に供えている。「四国88ヶ所巡拝結願お守」
「四国88番大窪寺」このお守りを頂いた。人は心の安心を得るために神や仏に参る、別段なんの宗教も信じてはいない、然し寺や神社にお参りすると、安らかな心になる。なぜだろうか、明日のことは解らない、その明日を求めて参った。
 病院の沙知の枕元に「四国88ヶ寺結願お守り」を置いた。「安らかに眠れ私の妻沙知」10月14日、病院に帰ってきた。妻の顔を見れば心が休まる、後数日の命だとわかっていても心は平成であった。

「あーもうあかん」 それが沙知の最後の言葉だった。沙知は最後の最後まで自分の病気の全快を信じていた。最後の最後まで自分を手術してくれた医者を信じていた。 最後の日、「モルヒネ」を飲んだ。医者の薬を全快すると信じて飲んだ。そして最後安らかに眠った。人間の最後は必然である。いつか必ずその日がやってくる、幾ら努力しても祈っても死は必ずやってくる、沙知は逝った。私は悲しいとは思わなかった。死が実感として感じて来るのにはある程度時間が必要なのだろう。
当然その日がやってくることに次第に慣らされていたのだろうか、医者はその人の能力で出来える限りの努力をしてくれた。医者を恨んだりはしない、沙知はその医者を最後の最後まで信じていた。必ず癌を克服することを信じ、医者を信じていた。然し私の心は納得できない。あの時、癌の告知を受けたとき、咄嗟に「手術して下さい」と、何故あの時独断で決めたのだろうか ? 

もう少し周囲の人達の、いや、妻の気持ちをじっくりと聞かなかったのだろうか? 手術しなかったらあれだけ急速に体力が弱りはしなかっただろう、他の医者に見せたり、別の病院に行ってみたり、方法は幾らでもあったのではなかろ ? 妻が亡くなってから彼の心の中に沸沸とわいてくる疑問と、後悔に似た感情がその後長く尾をひいている。亡くなったその頃はそれが運命だろうと諦めていた、然し妻が亡くなることが彼の人生に、これほどまで長く尾を引くものであるとは、亡くなったころには予測もできなかった。妻とは何だろうか、夫婦とは何なのか、元気でいる間は何もわからない、亡くなって始めてその連れ合いの偉大さに気づくのである。

漸くこれから世界の旅に出ようと考えるようになり、妻は病に倒れた。四国88か寺は沙知の最後を安らかに仏陀の世界に送ってくれた。少しも苦しまなかった、癌の最後は苦しむと言う、然し最後まで苦しまなかった。
自分の全快を最後まで信じていた。死ぬ1ヶ月ほど前に山を買った。沙知は「お父さん山を買ったら」と言った。二人で綾部市まで山を見に行った。「1200万だったよ」病院の枕元で沙知に告げた。沙知は満足そうに頷いていた。その山は今も成長を続けている。沙知はあの世に逝った、だが2人で築いた山は今も生きている、人は死んでも山は残る。何時までも絶えることなく伸び続けて行くだろう。
 「山はその経済的価値よりも、人の心を豊かにします。山を買いなさい、木を植えなさい、山はその人に後光のような何とも云えない輝きを与えてくれます」大阪で木材会社を経営していた神鍋出身の安原さんの言葉であった。沙知は逝った、私もいつか逝くだろう、しかし私達が育てた山は成長し続けるだろう。後世の人達の為に誰が所有するのか知れないが日本の資源として生き続けるだろう。

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 小説初夢       。                 千九百五十二年元旦

  『絶望』其処から出発した私であった。

否、明日に希望を求めて生き行く為に、強く生活と社会と自己との誘惑と戦おうとした私であったが、少なくとも二年前までは、〓〓社会に対する反抗心を抱いていた。

  二年前、〓〓若き日の情熱、理想、憧憬、期待、努力、あらゆる矛盾に対する懐疑と反抗、〓〓しかしその夢は破れ果てた。

  現在私の内心を彷徨するものは『絶望』にほかならない、

  二年間の空白、故郷の生活、空漠たる人生の荒野、其処に私と言うう実存的なものはなかった。

  夢遊病者のように私は吐き出されたそして歩いた、

  くたくたになった中折れ帽、赤茶けた背広、古びたオーバー、何処で拾ったか分からない様な編み上げぐつ、手には小さな風呂敷包みをさげた一人の青年が先程ついたばかりの列車から吐き出され、むゅう病者の様にふらふらと彷徨う様に歩いていた。

  酔いどれの様にふらふらとネオン輝く大阪駅前のとある街角を横にそれ、美しく飾られた店頭に、始めて私は私の其処に存在する姿、すなわち自己を認めた。

  どこか人懐かしそうな瞳の少女が私を見つめている。

  ふらふらと奥に入り一冊の本を引き出した。

  『永遠なる序章』と書かれている、

  私は何のために大阪に来たのだろう、美しく着飾った人の波、彼らは夫々自分自分の生活を営んでいる、だが彼らには一体何の用事があるのだろう、

  薄汚れた場末の街角、其処にある書店、向こうのパンヤ、下駄や、肉屋、うどんや、化粧品店、呉服屋、雑然と立ち並んだごみごみとした大阪、蜜柑の皮、林檎の皮、魚の匂い、ぐっと空腹の私の鼻を突く天ぷらの匂い、垢じみた学生服、スマートな紳士、その肩に縋るように歩いて行く娘、俗に云う淑女、ぼろぼろのズボンにジャンバーを着た労働者、ルンペン、何処かの小僧、美しい乙女、そんな彼らを私はじっと眺めていた。

  『幾らだ』私は聞いた。

  『あのー市民文庫ですね、八十円ですわ』

  彼女は可笑しさを堪えたような美しい声で答えた。

  『フーン』彼は呟くように言ってから急に難しそうな顔をして何かポケットの中をごそごそやっていたが皺くちゃになった十円札やら五円札を掴み出し勘定を済ませて外に出た。

クスクスと笑う声を背に受けながら、買い求めた一冊の本をポケットにねじ込んだ私は当てもなく夕闇迫る大阪の町の巷の中にのまれて行った。

  彼は読書が好きだった。小学校を卒業して以来ずっと故郷で暮らしていた。

  農村はあまりにも平凡である彼は次第に内省的になり自己沈潜を好む様になっていた、そうした彼を救ってくれるものは唯一つ読書だった。彼の毎日は孤独との闘いだった。

  単調な日常の生活は彼の希望と新しい理想に対する憧憬とを次第に失わせて行った。彼は新しいものを何らかの刺激物を求めてこの大阪にやってきた。

  ぽんぽんと誰かに肩を打たれたような気がした私は振り向いた。  『まあヤッパリ貴方だったのだね私誰だろうと思っていたのよ』

ぼうっと上気した寿美の姿が其処に立っていた。

〓〓一瞬、何か暖流に似たそよ風が電流のように流れ去っていく、そしてすぐまた冷たい先刻までの考えが頭脳を支配した。

  『どうしたんだ君は、今頃こんな所を彷徨って』

私は呟やく様に言った寿美の瞳はじっと私を見つめている、

  『面白いかい、大阪の生活って』

私は聞いた。

  『面白いと言えば面白いし淋しいことも悲しい事も、〓』

彼女は後をこたえなかった。

  稲刈りの最中のある日、今春小学校の高等科を卒業したばかりの寿美は阪神に近いどこかの工場に出稼ぎして来たとの事だった。

  『お父さんから貰った二千円の金も道中金の旅費として消えてしまいました』と、彼女は言った。

  朝五時に起きて六時より午後六時まで工場で働く、およそ労働基準法も何かの保護法も現実を無視した法律製造業者の目には届かない所で、十九世紀的な家内工業の遅々たる非能率の機械によって此には近代と言うものがないかのごとく彼女たちは働かされている、日給五十円、一カ月働いて千五百円、

  『それでもご飯を食べさせて貰えるんですもの』と云う彼女の言葉には、実際笑えない真実なものが潜んでいる。

  無邪気な寿美、漸く春の訪れをしる彼女、然しまた何の苦しみも悩みもなさそうな紅顔の彼女の瞳を私はじっと見つめていた。

  小さな胸は波打ってる、それでも新しいオーバーに運動靴を穿いた彼女の姿は清く美しいがその切り詰めた生活を思わせる。

  『さー』と吹き寄せる冷たい風、

遠く煙った彼方の山は『生駒』の連山なのか、

  私の頭上には氷の山が浮かんだ。

  正月だと云うのに道路は下駄ばき、鉢伏の荒野でも五寸は積もったろうか、スキーなど夢にも出来ない、そして私は今ここにいる、

私は周囲を見回した。

つい先刻まで私の眼前にいた寿美の姿は見えない、

  私は更に前方を見た。

  『変だ』

どうも変だ、ここは大阪の町だった筈だが、

暗い闇の中に私は一人立っていた。

  何処かで電車の音が聞こえる様だつた。

  はるか彼方に遠く近く海の呻きの波の音も聞こえてくるよう、

  『ゴーうー』と聞こえてくる山鳴りと共に

  『パラパラ、パラ』と、

  あられの様なものが落ちてきたようだった。

と、突然、ポーンポーン、ポーンポーンポーン、ポーンポーン、

ポーン、ポーンポーンポーンポーン、〓〓、はっと私は驚いて目を覚ました。時計は十二時を打ったのだ。鈍い電灯の灯の下に机に向かったまま私は寝ていた。側には『永遠なる序章』『死の影の下に』が積まれていた。

  暖かい春雨の様な冬の雨は昨夜より降り続いている。

 

             大阪の街

私は歩いていた。どこかの路地に灯が見える。

この微かなあかり、それが今日の日本の運命であるかのような錯覚が私の頭脳を電光の如く走った。

  『新年おめでとう』と

何処に行っても年頭を飾る言葉として、人々はこれを口にしている、然し私には新しい年が少しもおめでたいとは思えない、

  『講和条約』

すなわち新しい出発、『日本の独立』だから今年はお目出たい、

と、考えている人々、嘲笑してやりたい様な苦しさを覚える。

  私は生きている事が苦しくなった。

  戦後の文学に若い世代を動かしたニヒリズム、単調な生活、果てしない愚痴の連続、暗黒な社会の断面、失業者の群れ、此に生きている現在の我々その代表的な作者は『太宰治』であり『田中秀光』でありそして『椎名麟三』である。

  千九百五十二年と言えば輝かしい歴史の一段階を画すべき年であり、また悲惨な日本の歴史の序幕となるべき年である。

  講和条約は成立し、その批准の日も間近に迫っている。

  そして我々日本人は独立する、誠にお目出たい次第である。

  再軍備、徴兵令、軍事基地、アメリカの為の赤色防波堤、そして私たちは彼らの奴隷と化してゆく、

  冷たい夜風が吹き寄せる、映画は終わり、彼らは港町に近い電車道を歩いていた。

  『再軍備するんだったら〓、』

と寿美が言った。

  『吉田さんや芦田さんは真っ先に一兵卒となって頂きたいものですね』、と、

突然私は大きな声で噴き出した。隣を歩いていた学生が彼の顔を振り向いた、暖房装置の無い映画館は実に寒い、この寒気より身を守るためか分からなかったが私はしっかりと寿美とぴったり寄り添って歩いていた。

オーバーを通じて暖かな暖気が交流する。

ふさふさとした寿美の長い髪が私の首筋に感じられた。

  あの時二人は熱情的な瞳を、画面をじっと見つめていた、

  私は寿美の手をしっかりと握っていた。

  暖かな寿美の太股のあたりがオーバーを通じて伝わっていた。

  私は寿美のオーバーの間から寿美の服の下に手を入れていた。

つい先程の事だった、もっと時間が欲しかった。

いつのまにか映画が終わっていた。

  私は寿美のスカートの下に手を入れていた。

  黙って寿美の肌に触れている寿美は映画の画面に食い入る様に眺めながら私のなすがままに任せていた。

  あの寿美のふっくらとしたお腹の下に太股の谷があった。

  私は黙って手を入れていた、普通なら出来ない映画の世界と現実の世界の中で寿美と私は通じていた。

映画は終わった。二人は立ち上がり肩を抱き合い外に出た。

  暗闇の大阪の街は昼間の機械のような活動的な姿は見られなかったが、其処にはまた特有の夜の世界が華やかにそして静かに明滅していた。

  時々電車が明るい窓の影を舗道に走らせながら過ぎて行く、

その時、寿美の顔が妖精の様に浮かびあがった。

  『私偶然を信じてますわ』

ふと寿美はたちあがり呟くようにいった。しろい歯がきらきらと輝いた。寿美さんと彼は立ち止まった。

  『真実なものが正しいものがそのままの姿で認められる時代は来ないのでしょうか、政治家も資本家も、また一般の人たちも現在の日本の進んでいる方向を知らない筈はありません、

然も誰一人として真実を語ろうとしない、僕はアメリカを信ずる事が出来ない、現在の日本は既に批判と表現の自由すら失われつつあるではありませんか、

  再軍備によって苦しむのは誰ですか、重い税金、インフレと生活苦、そして一儲けしようと考えているものは誰でしょうか、

生産品のストックを無くし、資本の拡張を図ろうとする再軍備、

それがやがては、侵略戦争に発展しないと保障出来るでしょうか、インド、ビルマ、フイリッピン、中国、等のアジアは日本の再軍備と日米安全保障条約に対してどんな考えを持っていますか、

日本とアメリカが軍事同盟を結んで、アジアを制圧する、と見ているではありませんか』

  『然し明日の日本はそんなことを堂々と吐くことすら許されない、僕らに残された唯一の道は文学による風刺よりありません。

  文学だけが人間性の自由と権威への反抗を認めてくれる、然しこの文学による批判と表現の自由すら圧迫されつつある、寿美さん、『フアシヅム』の圧迫と僕らは全力を挙げて戦おうではありませんか』

  『頑張りましょう』

寿美は力強く言った。

  『ああ貴方は僕のベアトリーチエだ』

彼はそう言って手を差し出した冷たい夜風が春風と変わっていた。

二人は何時しか固く結ばれた腕を意識した。

スクラムを組んだ彼らの心の底から自然に歌声が沸きあがっていた。  二人はそのままの姿勢で抱き合っていた寿美はひどく安定した心持ちだった。

  彼らの心はお互いに触れ合い、一つの共鳴の中に結ばれた。

  息詰まるような沈黙がしばし続いた。

  若い彼らの血潮は電流の如く交錯する、私は彼女の腰に確りと手を回していた。

もう言葉は必要なかった。彼女の唇がすぐ其処にあった。

  私は寿美の唇の中に深く挿入していった。

言葉はなくとも二人はお互いに凡てが触れあうようにそのまま立っていた突然私の感情の中に止むに止まれぬ、制止の聞かぬ衝動が走った私は腰に手を回し確りと彼女を引き寄せていた。

絶叫したいような接吻だった。

  大阪にきて始めての寿美との接吻だった。

故郷の村では出来なかった、大阪に二人は出稼ぎに出ているそのお互いの淋しさと郷愁が若い二人を強い引力が引き寄せたのであった。

         青春に捧げる歌

  彼女の笑顔を見る度に私の心は

  何か憧憬に似たものを感じさせる

  そしてその瞳の中にある感情が動いたときに

  私は人生に生き行く喜びを感ずる

  彼女は私の命の支柱である

  そして彼女は私の心の故郷であり

  永遠の憧憬に生きる事のできる花である

  ああ私には彼女があるこの事実は

  日毎の私の生活を美しく強く

  そして大きく生きさせる凡てである

  おお彼女よ汝は永遠の処女であれと私は願うのである

  美しく理性に強い彼女よ

  私の不純な欲求を制止してくれたのも

  彼女の力であった

  私を肉欲の泥沼に陥としめようとした

  私の不純な欲求を制止させ美しく守ってくれた

  私の愛する彼女の不屈な理性の力であった

  私は理性に強く愛に深き彼女に対し

  無限の感謝を惜しまない

  彼女よどうか強くあれ

  例え私たちは一つに結ばれる事が出来なくとも

  私たちの心は結ばれた筈だ

  私と彼女との間にはなんらの不純な関係も無い

  然し私たちは強く結ばれている

  十年の昔より愛する彼女

  どうして忘れる事が出来ようか

  若し私の心より彼女が去ったなら

  私は虚無と暗黒と絶望の谷間を彷徨わねばならない

  おお彼女よ永遠に若くあれ

  そして私と一つの花と咲き一つの実と

  結ばれる日を何時までも何時までもまっててくれないか

彼の住む村は氷の山の麓、鉢伏山に囲まれた谷川の奇麗な村である。冬になると若者は出稼ぎしていた。

秋十一月中旬になると村々は若者が去り、静かな冬景色のなかに女達と老人と牛が一戸に一頭残されている。

女は牛を飼いながら、はばき編みや機織りが冬の仕事であった。

その長い冬の間、家の守りをするのが女の勤めであった。

彼は出稼ぎが嫌だった、出稼ぎせずに炭焼きをした年もあったが灰色の長い冬は若者にとり絶望の谷間であった。

その頃の歌である。戦後の一時期、スキー観光のまだ始まらぬ時代であった。

  寿美との恋愛、淡く切ない燃え上がる事を知らない初恋の愛、純潔と抑制、肉欲と不純な欲求の制止が当時の恋愛の主流であった。

もしそのまま肉体の愛に進行していたならもう一山超えていたであろう、愛の欲求と純潔な教育が遂に二人の愛を遠のけ初恋の愛として永遠に結ばれない愛情となって流されていた。

 

    市岡元町名月湯

  私は十日程前に大阪に出てきた。

漸く仕事が見つかった、この仕事にありつくまで流浪の旅を続けた。友達の所を遊んで回り仕事を探したが何処も不景気で就職口は見つからなかった。

  『保君の所を訪ねてみよう』と昨日漸く訪ね当てた。

大阪市港区の市岡元町に名月湯はあった富田和太郎という、

  『旦那さんよろしくお願いいたします』

彼は手をついて挨拶した。

  『君は友達か、内は風呂に炊くばんば集めが君の仕事だ、二人で仲良く集めて欲しい』

  名月湯にはおっさんがもう一人いたその人と大八車を引いて風呂の釜焚き用の燃料を製材工場などから集めるのが仕事だった。

名月湯の主人は針灸師をしていた、戦争が激しくなり港区の人々は全部田舎のある人は疎開した、親戚も縁者も無かった富田はこの風呂を百円で買った。

  激しい戦いの末太平洋戦争は大阪の街街を廃虚にしてしまった。

  港区のこの一角は不思議に空襲の爆撃から取り残された。

空襲の間仕事はなかったが戦争が終わると人々は仕事を求めて再び大阪に集まってきた。

  風呂屋は周辺の住民や疎開から帰ってきた人たちで大変な繁盛であった。

  富田は一躍金持ちとなりこの地域の顔役になった。

この家には奥さんと知恵遅れの息子、その妹がいた、家族は四人であった。釜焚きの保君とおっさん、と彼、もう一人四国から出てきた娘が女中として勤めている合計八人の家族と従業員であった。

  『若はん』とおっさんが言う、

  『行きまっか』

  『今日からよろしゅう、頼んまっさ』彼は挨拶した。

  大八車をころころと大阪造船の工場に行った、ここには木造船が造られていた。船の中に入りばんばを集める、木造船の中には多くの燃料があった。

早くも四日が過ぎていた。

  蒲団が少し寒いようだ、何故か彼女の顔が浮かんだ、こんな所に働いていると彼女ともあえなくなる、

  朝早くより信濃橋から四ッ橋、北堀江のまちまちに行と其処には風呂窯専門の製作工場が並んでいる、

その家々を回り小さな家内工業の釜つくり工場に製材機を備えている、のこぎりのしたにはばんばがあった。品袋にばんばを入れて大八車につみ込む、ロープで確りと括り肩につなをかけて両手で車を引っ張って風呂屋に帰る。

  午後は築港に行った。造船所を回るが毎日来るほどの荷物が無い、市岡元町から夕凪橋を通り、港区の中心街を歩いて大八車を二人の男が下駄を履いて歩いている。昭和二十五年戦後の大阪のまちでもあまり格好の良い仕事では無かった。

港区の名月湯の一角は焼け残っていたが殆ど全部焼けていた。

おっさんの奥さんの家に寄ってみた、子供が一人いた、奥さんは近くの会社に事務員で勤めている、このおっさんには妾がいた、

名月湯の近くに彼女の家があった。おっさんは妾と一緒に住んでいたが時々本妻の娘が呼びに来ていた。

  戦前かなり商売で儲けていた『おっさん』は二号をつくり家を建てて生活させていた、

  戦争で家を焼かれおっさんは二号に家を建ててやり其処に一緒に住んでいた。本妻の家もきれいな家を建てていた。

  本妻には一定の収入があった。

  生活は安定していたが子供の為に別れられず時々おっさんが泊まりに行ことで夫婦の性生活は満足しているらしい、こんな風呂屋のばんば引きの収入では奥さんと二号と二人の生活を支える収入は無いはずだ。

  二号の家に時々おっさんが寄って行、二号の奥さんは美人だったが所帯やつれした貧乏ぐらしだった。

  都市はまだ復興していない、女の働く仕事はなかった。

焼け落ちたトタンを集めて囲いを作れば焼けた土地は自分のものになった。家を建てたら権利が出来る、登記所も法務局もみな焼けた。  戦前おっさんの生活は羽振りがよく儲けていた。

  戦争がみな変えた、商売も出来なくなった。

  風呂屋の富田は土地の顔役として幅を利かしていた。

  市会議員がやってくる、選挙の票を頼みに来ている、風呂屋には多くの人が集まる、毎日お客さんと世間話をする選挙運動には風呂屋は格好の宣伝場所であった。

  『お父さんいます』

  『ああいますよ』

  『お父さん今晩は家に帰ってきて、お母さんが帰ってと言ってい  るわ』

娘が呼びに来ていた。こんな僅かな収入で二号を囲うなど普通では出来ない、女と男の関係は私たちには当時分からなかった。

  富田の奥さんはどうみても貧相だ、過去の暮らしがそうさせていたのか、成り上がりものが一時に金を持つとそうなるのか、この奥さんの子供には知恵遅れの男の子がいた。

  『あーれーいゃー』

と声がした、ここの女中に知恵遅れの男の子が手を出した。

女中の部屋に男の子が入った。

突然蒲団をめくり、上に乗りかかった、知恵は遅れていてもその方の性的動物的本能は進んでいた。

力一杯女の上に乗りかかり押さえつけていた田舎から出てきた女中は力が強かった。男の金玉を握り手で突き飛ばした。

突然大声を張り上げた。

  『どうした』

富田が飛び起きてきた、奥さんも起き出してきた。

  『この人が私の部屋に入って来ました』

  『もうそんなことしてはいけないよ』

奥さんが注意している、注意していても満更でもなさそうな顔に見えた。私の子供が女中に手を出した、知恵は遅れているが嫁になってくれるなら貰ってやってもいい、奥さんの顔に書いていた。

その日間もなく女中は荷物をまとめて国に帰っていった。

こんな家にいたら危ない、そう思ったのであろう、

年頃になれば誰でも性的な方面は発達する、知恵が遅れていても性はかえって発達する。その男の子はにやりと笑っていた。

  『ううー』

と声をにならない声を出していた。

その家にはもう一人中学位の女の子がいた、奥さんの妹の子供を養っている、その女の子と自分の息子を一緒にさそうと考えていたのだろうか、夕方、おっさんの娘が呼びに来た。

『お父さん用事があるから今晩は家に帰ってきて』

本妻の娘が呼びに来ていた。おっさんは二人の女に挟まれていて大変であろう、

私たちのばんば引きはその年毎日続いていた。

私にも『結婚』の話が浮上していた。

  『それは生涯の私の生活を支配する最大の問題なのである、この第一歩が誤っていたならば私の生涯は誤びように満ちた生涯となるであろう、反面私の第一歩において誤りがなかったとしたならば私の生涯は幸福が約束されているであろう、私は私の道を進まん』

時計の音はカチカチ、カチカチ、カチカチ、カチカチと寸秒を刻んでいる、電車の音は絶え間なく聞こえている。

  生きようとすれば苦しい、社会は世の中に生活して行く事は誠実であるよりも要領を必要とするものなのだろうか、そんな筈は無い、然し現実の社会はそうなのだ、当家風呂屋に来てから一カ月を経過していた人生の経験を積んだ、市民社会の悲劇を知った。

 青春は再び来ない、懐かしい青年会で活動した頃の思いで、ああ

あれから早くも二年過ぎている、今私も成長し結婚という現実を前にするに至った。

  私は苦しんだ如何にするべきや困る実に困る、苦しみの末はどうするべきなのか遂に結論を見いだしえず、

  若い日は悩む苦しむ青春とは果敢なくつらく過ぎ去って行く、大阪での出稼ぎの思いでは私たちの故郷を離れて働いたいろいろの人生模様を見た。

  港区から堺市えと働く場所が移動した。

私は明くる年堺市の子色湯に行った、子色湯は富士川と云う主人だった、彼は石川県出身であったが当時石川が通れば灰も残らぬと云われていた。

彼の奥さんは四国徳島の山奥から出てきて風呂屋の女中をしているとき、富士川と一緒になり所帯を持った。

  お互いによく働き一生懸命金を貯めた、貯めたお金を大切に貯金していった少し金が溜まると土地を買った。

  子色湯は他人の風呂だったが彼らは二人で借金してその風呂を買った借金を返しながら夫婦二人で働いた、彼はその子色湯に風呂の釜焚きとして働きに行った。

  子色湯に美方町から多能と云う男が来ていた彼が釜炊きに来る前の年だった、秋岡の村から出稼ぎに来ていた、毎年秋になると十一月の中頃出てきていた。

  多能は色が浅黒く百姓の真面目な男に見えた、毎年続けて三年来ていた、釜炊きも上手になり主人も奥さんもお気に入りだった。

  十二時を過ぎると風呂に入りに来る客も減ってきていた、

大阪の繁華街は夜遅くまでお客さんが入りに来る、堺市のこのあたりは働くものが多く夜の商売も早く終わるのでもう風呂の掃除を始めていた。夜遅くなると奥さんも手伝ったり風呂で洗濯を始めていた、お客さんが帰らないと洗濯は出来ない、洗濯の盥をだして衣類の洗濯を始める、石鹸をつけて手で擦る、足で踏む、洗濯機の無いこの時代には洗濯は主婦の仕事だった。

  風呂場には裸で入る、着物を着ていると湯気で濡れる、白い肌の奥さんが毎日よる十二時を過ぎると女湯で洗濯を始めるのが日課になってきていた、

  始めは多能も真面目でふるさとの妻の事が思い出されていた、

彼も裸で毎晩風呂の掃除をしている、十二時を過ぎてから急いで掃除をしていても一時間以上かかる、奥さんは毎晩子供たちや家族の洗濯ものが山ほどたまった。きれい好きの奥さんは毎晩洗濯が日課になった。一月が過ぎていた、ふるさとの妻と別れて出稼ぎしてもう二カ月になっていた。

  その夜風呂屋の主人は組合の会議に出席していた、奥さんは毎晩主人の悪口を言う、

  『うちの主人はわたしを可愛がってくれない、こんな主人と一緒になって後悔している』

  『奥さんそれでも主人を愛しているでしょう』

  『愛してなんかいないんよ、内に仕事を押しつけて自分はパチンコに行ったり遊んだり、こんな主人と一緒にならなければ良かった』

  『それでも奥さん三人も子供が出来て好きなんでしょう』

  『嫌よあんな人別れたいわよ』

  毎晩のように奥さんは主人の悪口を言っていた、まるで悪口を言うのが口癖みたいであったがそれでも毎晩主人と寝ている、

一緒に所帯を持って十年は経っていた、

  奥さんが洗濯をしている近くのタイルを擦る、時々多能の体が奥さんの体に触れていた。多能は家を出てから二カ月妻との交渉が無かった。

どちらからともなく触れ合った、二人は全裸のままお互いに抱き合っていた、多能は希に見る美男子だった女が惚れるのも無理はない、全裸の多能には滅多に見られない魅力ある体だった。

  二人は抱き合い絡み合い蛇のようにお互いの手が抱き合っている、全裸だから谷間に入るのも本能の赴くままに分け入りぐっと奥の方まで入っていく、久しぶりだった。

  多能は毎日奥さんの後ろ姿を憶測していた、どうしていれたらいいのか、白い肌をタイルを洗いながら毎日見ていた。

妻と別れて二カ月間辛抱している、三十を少し出たばかりの奥さんの肉体は若い魅力的な美男子の多能の前にあえなく散った。

  タイルの上に横になっていた、タイルは冷たいが風呂の湯の温度で適度の温もりがあった、両足を上げていた、多能は奥さんの上に乗り膝を腰の両方から挟みながらあれを差し込み腰をぐっと中に突いた、何回か突くと奥さんは堪らなくなっていた。

『ああー』と、

『いいー』

多能は確認していた。

  二人は結ばれていた、それから時々多能と奥さんは性交を繰り返していた。そのことが主人に感づかれていた、子供たちにもばれた、然しお互いに借金がある、二人別れたら生活出来ない、主人も奥さんも子供たちを捨てて別れるほどの決心はなかった。

その年を境に次の年から多能は再び風呂屋に来れなかった。

  多能が来なくなり彼はその後に釜炊きに来るようになった。

 

      初恋の人寿美と美知

  奥さんは夜洗濯をしながら時々彼の方を眺めていた、彼には新婚の妻が家で待っている、こんな奥さんには魅力がなかった、くっついてきても拒絶する、他所の女の事など考える余裕はなかった。

  釜炊きという仕事は石炭や燃料を釜に注ぎ込み風呂の温度を下げないように注意していれば毎日本が読める、単調な毎日であるが仕事は楽で時間は有り余るほど自由であった。

  『私の内心を去来した一つの思考は漸くまとまり、母の勧める

  『都』を貰うことに決心していた』

  寿美との恋愛もあったが親の勧める女にしょうかと考えていた、決まったとしても未だその予備交渉の段階に達していない、貰えるかどうか分からぬ段階だった。

  結婚と言えば人生の墓場の如く考えていた彼にとって漸く落ち着いた生活の出来る永遠の安住の地のような人生の再出発の基地のような気持ちに変わっていた、

  その頃彼の母より手紙が来ていた、寿美と分かれよと言っていた母、母の勧めた女との縁談が不可なるを知る、

  『都を貰いに行ったが都の母があの人には好い人がいるから』

と断られたとの手紙が来ていた。

  寿美を断わり、母の勧める縁談も不可となり彼は二兎を追うものは一兎を得ずとなった、子供の頃からの初恋の人を断った私は毎日悩み苦しんでいた何故断ったのだろう、

  『縁が無かったんだ』

私はそう自分に言い聞かせていた。

  初恋の愛とは甘く切ない愛である、多くの場合結ばれる事の少ないのが初恋の愛であろう、彼の初恋の愛は自ら寿美を断っていた、あの日の接吻は甘く切ないものだった。

たった一度の接吻だった、だがあの日の甘く酸っぱいようなキスの味が彼の心の中に何時までも残っていた。

  数十年の後までも初恋の味は忘れられない、彼女の首に手を回していた。

  彼のあれは盛んに勃起している、右手で彼女の腰を強く強く抱きしめていた、勃起した彼のあれは彼女の中に服の上からスカートの上から押しつけられていた。

  堪らなくなりながらも処女を侵してはならない、結婚までは純潔でいたい、性的な欲求を押さえる事が純情な愛であった。

  嫁を貰い結婚し女の上で腰を使いながらも当時の彼女のあの日の接吻の味が思い出されている、たった一度の『キッス』が生涯の彼の心を占拠していた結ばれない愛だった。

  自ら断った愛だった、愛とは何だろうか、心とは何だろうか、その時は何時でも元に戻ることが出来ると考えていた、後戻りは許されなかった、初恋の愛、然し忘れられない初恋の愛、私はでもそれが私たちの運命だったのだと今も思っている。

  寿美は彼に強く迫る事はなかった、何時も私から誘いかけていた、誘わないときには彼女から積極的に誘いかけはなかった、淡い恋心の愛、でも忘れられない愛、何時までも燃えることなく燃え上がらず、燻る事無く清水の様に流れている淡く清く微かな恋心の初恋の恋情、初恋がそのまま結婚に発展する人たちは幸せな人たちなのだろう、

  純潔と清い愛情、何時までも心の奥深く忘れられない初恋の愛情、戦前と戦後の少なくとも純潔教育を受けた世代でなくては理解出来ない愛情のあり方だった。

  風呂屋の釜を炊いていると裏側から小さな穴が造られている、

其処から覗くと水道の水が出ているか止まっているのかが分かる、

水道の水が出ていれば湯は熱く湯が減らない、

水道の水が止まっていると湯の温度が低く風呂の温度が下がりつつある、従って風呂の湯の温度を上げるため湯を出し風呂を炊く必要がある、何処の風呂屋にもこの覗き見する穴が作られている。

ついでながら女の裸も覗く事も出来る、然し女のからだを見ようと思えば何時でも番台に行けば見られる、風呂のタイルの掃除に早く入れば毎日女は見られる、別段女の裸の姿など目珍しくない、

  女は着ものを着て蒲団の中で抱き合ったとき始めて性欲が沸くものである、風呂屋の仕事で毎日見ていると別段あれが勃起などしなくなるものである、

  ちらちらと見え隠れする姿態は堪らなく妖艶であり魅力ある女性に見えるが、風呂に入りに来ている女はまったく魅力ない物体に過ぎない、現在の都会はマンションが多くなり一戸建て住宅も大抵風呂は個人の住宅に設備としてある、

  風呂のない銭湯など今頃の住宅にはなくなり風呂屋の経営は次第に苦しくなってきた。

  風呂屋の経営は最低まいにち百五十人以上来ないと経営が成り立たない、三百人位のお客さんが毎日こないと楽な儲かる風呂屋とはいえないと言われている、

  風呂屋の経営は家族主体の個人経営だからやっていける、全部他人を雇っていると人件費で赤字となる、夏は個人経営で炊いても冬だけ他人を頼む風呂屋が多かった。

  今は設備の良い温泉の様な設備と按摩などの設備の整った風呂屋は繁盛しているが小さな風呂屋は廃業が目だっている、

  私はその風呂に三年間冬の間出稼ぎしていた。

春になると家に帰った、

  寿美との恋愛と遂に結ばれることなく何時しか別れていた、何故別れたのか自分にも分からなかった、

初恋とは淡く切なく燃え上がることなく咲いた、満開を迎えず何時までも続きそして何時しか消えていた。

性欲の対象としての愛では無かった、純粋な愛を求めていた、

『プラトニックラブ』初恋の人に求めた愛だった。

  私が始めて寿美を意識したのは小学校の頃だった。

秋の美しく輝く柿の様にひかり輝き宝石の様だった、私の心に寿美が入っていた、寿美はなぜこんなに美しいのだろう、何気なく彼女の顔に私の目は吸い込まれていっていた。

  小学校の校庭だった、整列した生徒の中に寿美は一人背が高く輝いていた、愛とか恋とか何も分からなかった、子供心に美しいと意識していた。特別の感情を抱くようになったのは卒業し青年になってからだった、毎日手紙を書いていた、書いても渡す事が出来なかった、渡す機会がなかった。それがラブレターだと分かったのはもっと後の事だった。ラブレターを書く愛の意識、別段人に教えられた訳でもなかった、自然発生的に年頃になれば春の芽が吹き愛情の形が生まれる、寿美との愛情は折にふれて私の心の中に燃え上がる春の嵐のように毎年の様に吹き荒れて来ていた、妻が嫁に来ていた、

  結婚しても初恋の人は忘れられない、女の上に乗っていても寿美の面影が妻の顔と重なって見えている、心は寿美の方に行っていた、体は妻の上に乗っている、私は何ものなのだろうか、これが現実の私なのだろうか、妻美知を抱きしめていた。

  美知は何時も足を上に上げる、私は両足の膝を彼女の間に挟む様に入れる、腰から彼女を上向きに抱きしめている、

  美知の顔と寿美の顔が重なって見えている、時々背筋に冷たいものが走っていた、それは後悔に似たものなのだろうか、後悔はしていなかった。

  妻美知は美人である、寿美とは較べる可くもなく美人であった、

穏和で抱擁とした性格で奇麗な言葉を使う、何ものにも変えがたい

私の妻となっていた、私の為に尽くしている、どんなことにも不服を言わず應援してくれている、二人は仲良く家庭生活と夫婦の生活をしている、だのに何故だろうか、時々寿美の面影が美知の上に乗ったときに寿美のあの面影が美知の現実の顔の上に重なって見えている、初恋の人以外に私の周囲には多くの女子青年が取り巻いていた、然し寿美以外の人たちとの恋情はなかった。

  青年団員としての交際は多くの人たちと付き合っている、

交際とは遊びなのである、遊びの交際でも男と女を意識してからは恋愛感情なくしての付き合いは成り立ち難くなってくる、

  燃えることなく消えることなく淡く清く何時までも、何時までも続いている初恋の愛、今の世の中には今の若者たちの恋愛や交際の中には芽生えることは無いのだろうか、否、人間である以上そうした感情はあり続けるだろう、初恋の愛は今も昔も人である限り何時までも続く愛情の形なのだろう、

  『プラトニックラブ』

  私たちの時代に憧れていた神の愛、清い愛、何時までも続く永遠の愛、肉体と精神の別居した清い愛などとは凡そ現代社会の若者たちの中には受け入れられない愛情の変形であろう、

  現代の愛情とはテレビや雑誌、マスコミの直接てき表現とすぐに行動に走らせる社会、小さな子供の時からキッスや肉体の接触を見せつけている毎日の報道、私たちの時代にはそうした報道は無かった、それが自然であり自然な愛情の表現であった。

  あの日寿美を抱きしめ接吻した、寿美も私を抱きしめていた、それ以上の事は無かった、寿美も要求しなかった、私もそれ以上の要求はしなかった、そのまま年月が過ぎ去っていった。

  淡く切なく燃え盛ることなく消えることなく、心の中で咲いて行く寿美の面影を抱いて私の心の中に永遠の面影の人として、象徴としての彼女として奥深く秘められ遂に再び燃え上がる事はなかった。その寿美が、妻美知を抱いたとき美知の顔の上に寿美が移り出されている、肉体関係は一度もなくたった一度の口付けの寿美が私の心の中に今も強く残っている、

  それは其処には現実に生きている年老いた寿美では無かった、若かりし二十歳の頃の寿美の面影だった。

美知の忘れられない面影と共に二十歳の頃の寿美の面影が今も私の心の中に生き続けている。

  美知とは見合い結婚だった。父と母の進めた見合い相手に何時しか話に乗っていた、何故話に乗っていたのか今も分からない、

たった一度の見合いだった、見合い相手の美知と意気統合していたのだろうか、反対の理由は無かった、

  『嫌だ』

と言えば拒否出来ていた、拒否も賛成もしなかった、知らぬ間に世話人が話しを進めているらしかった。

  寿美とのたった一度の接吻を忘れた訳ではなかったが遂に燃え上がること無く遠ざかりお互いが会う事もなく何年かすぎて行った。初恋とは淡く切なく熱烈な感情の表現として切迫した気持ちにならずに消えていた、消えていた筈であった、然し火は消えていなかった、何時までも淡く切なく咲いている、それが初恋の花なのであろうか、私は見合いし一カ月後に結婚式を挙げていた。

結婚した美知は素晴らしい女だった。

その美知の上に乗り私は寿美の面影が美知の上に重なるのを如何ともなしえなかった。

活弁やと村芝居