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玄奘三蔵のシルクロードの旅からイスラーム世界。私の見た世界の国々
以下の文は藤原文男の10数年間の現地の調査記録です。同時にそれぞれの国の命を架けた現地の歴史、地理、などの研究記録です。フィクションでは有りません。

「百聞は一見に如かず」

ユーフラテス川イラク国境に立つ筆者

はじめに

 平成9年、私は4期16年勤めた関宮町議会を去った。68歳になっていた。一目散に駆け抜けた自分の人生を振り返り「68歳の抵抗」を試みました。大阪の旭や書店から世界地図を買って開いてみました。ヒマラヤ山脈に降った雨は中国のチベットに流れ、東に大迂回してインドやビルマの方向に流れていました。ガンジス川の源流らしかった。もう一方は西に流れ「小チベット」といわれるラダックからパキスタンを経てアラビア海に流れていました。今のインド領であるがインダス川の源流であった。其処に行ってみようと旅を始めました。ネパールの旅から始まり、中央アジアのウズベキスタン、パキスタン、インドの旅は仏教の起源を求めた釈迦の本流を訪ねる旅でした。中国の玄奘三蔵の足跡を辿る旅から始めました。パキスタンのガンダーラ地方の仏像の起源は遠く西方の、ギリシアの石造文化が源流であると知らされました。

 その頃、朝日新聞社が創立120周年記念事業として、玄奘三蔵のシルクロードの旅が行われているのを始めて知りました。朝日新聞企画委員の白鳥正夫さんが、西安から出発して、中央アジアウズベキスタンからパキスタンの旅を続けていました。私が参加したのは第三回目のパキスタンの旅からでした。そのコースは玄奘三蔵の大唐西域記に基づき、あらかじめ各大学の調査団が調査されたコースを四年間かけて実地の踏査をする旅でした。私は先に1993年、中国西安の慈恩寺、大雁塔に立ったとき、何時か、はるかなる西域の旅をして見たいと、決心していました。天竺{注インド}への旅にロマンを感じていました。

 色々な資料を研究しました。その年開かれていた奈良の{西遊記のシルクロード三蔵法師の道}が奈良県立美術館で開かれていました。準備万端整えてパキスタンの旅に参加しました。あくる年インド、そして中央アジアのウズベキスタン、中国の内陸部と、玄奘三蔵の歩んだ道を数年かけての旅となりました。玄奘三蔵のシルクロード、幻想としての遠い昔の話しではなく現代に生きる三蔵法師の姿が、その歩んだ道が頭の中に整理され、生き生きと波打つ一人の人間としての生き様が理解されてきました。  仏教の求法の道を求めた、千四百年昔の足跡を訪ねて、歴史地理学とその現地調査、衛星による空中写真と、衛星画像によって『宇宙から届けられる画像』によって視野が地球規模に拡大されている、朝日新聞の調査に基ずく旅でした。

パキスタンに行く前の年、私はインド北部の小チベット、ラダック砂漠に飛びました。そこで密教の曼荼羅絵巻のぞんざいを始めて知りました。後に弘法大師空海の足跡を辿る旅の切っ掛けともなり、更に高野山大学の大学院での密教、仏教理論の研究へと進む端緒ともなりました。

 丁度その頃、イラク情勢が危機に陥り、シリア、ヨルダン、レバノンの旅をしました。イラクは遠くメソポタミア文明の源流。ユーフラテス川が真ん中を流れ、ペルシャ湾に注いでいます。その源流はシリア、更にトルコの山岳地帯に源を発していました。2002年3月18日午前10時アメリカ大統領がイラク、フセインへの宣戦布告があった。計画していたトルコへの旅はイラク戦争勃発の五日目、私はトルコのイスタンブールに飛びました。更にイスラエルのエルサレムでは、ユダヤ教の聖地、キリスト文明と、イスラームの対立するアラブ諸国の歴史に興味を持ちました。ギリシアからエジプトに飛び、エジプトの神神のナイル川に埋没されようとする遺跡に接することができました。エジプトはギリシアのアレキサンダー大王が征服していましたが、彼は更に中東から中央アジアを経て、アフガニスタン、パキスタンから印度へと攻め込んだ。ヘレニズム文化の融合、東西文明の交流の歴史に、この壮大なロマンに引かれて旅を続けました。

 アメリカとイスラーム世界の対立の歴史に興味を持った私は、やがてアメリカと、ベトナムの旅も試みました。ここに書かれているのはその一端に過ぎないが、耳学問より実際の現地に出かける「百聞は一見に如かず」が、私の体験学習なのです。この文は私の研究論文であり、実地踏査の記録です。
 
 


 写真は天安門広場に立つ筆者

私の中国研究。平成5年の中国

 私が初めて中国訪問。あれから15年の歳月が過ぎている。 中国には15年前、1995年。私は兵庫県町議会議長会で公式訪問した、北京、天津、西安、上海の、中国の代表的都市を日本の中央の兵庫県の地方議会としての公式訪問であった。 行く先々の大都市で、市長や議会の代表から歓迎の挨拶を受けた。日本経済の最盛期の公式訪問であった。中国共産党のトップとの会談であった。当時の中国は日本の代表に多くを期待していた。西安はシルクロードの出発点である。15年前西安を訪れた私は何時かシルクロードの旅をしようと決意した。そして10年の歳月は流れ、世界の旅、シルクロードの旅を終えて再び西安、大雁塔の城壁にたった。感慨無量の思いであった。中国の改革開放の研究、

 あの当時は北京の下水道工事も人海戦術だった。勿論ユンボは無かった。全てスコップとツルハシで下水道工事がなされていた。町々の全てが灰色のコンクリートの壁だった。宣伝看板は一枚も無かった。北京、西安、上海などの都市しか旅行者に見せなかった。その中国が行くたびに替わって行った。道路交通は信号はあったが赤でも止まる車は無かった。其の中を、泳ぐように車の運転をしていた。大渋滞の大都会、北京、上海。西安の町が、行くたびに替わって行った。トイレなど臭くて、下を見たら糞が天下盛り、勿論公衆トイレなど無かった。その天下盛りのトイレで金を請求されていた。戦後の大阪の町、尼崎の町は石炭の煙の町だった。多くの工場街は15年前の中国の町々と同じような空気だった。まるで工事現場だ。と、私は当時の中国を表現した。現在の北京は様変わりの様相だった。北京も辺境の町新疆ウイグル自冶区の奥地まで、建築は高層建築され、塗装も綺麗で上下水道ゃトイレも改造されている。北京の道路は立体化され信号に従い車が走り、町々の緑が回復し、石炭の煙の町から空気の綺麗な北京の町に生まれ変わっていた。北京空港は関空や成田空港より整備され、シンガポール空港や、ロスアンゼルス空港より私の見た目では立派に見えた。勿論ヨーロッパ各国より立派な空港に生まれ変わっていた。
 
   

第10回兵庫県町議会、議長会友好訪中調査団。平成5年11月の記録は私が平成五年に議会報告した記事です。

 
私どもは西安市に向かって走っていた。途中に開けた広大な農地、野菜、麦畑、地方豪族の墓と思われる巨大な造られた盛り土などの遺跡が、黄河支流の長い橋を渡った頃から展開されてきた。11月25日、大阪空港出発以来4日目である。家の事も仕事の事も、日本の国で何が起こっているのか、すべて過去の夢物語の様に忘れ、次から次に展開される新しい中国の息吹を肌で感じながら旅を続けていた。日本では既に廃車になりそうなマイクロバスで宿舎の唐華賓館に向かっていた。私は日本文化の源流としての中国を一度見たいと思っていた。その又源流のシルクロードの入口である西安は、もうすぐであった。
秦の始皇帝や三国志で有名な三蔵法師、唐の玄宗帝と傾城の美女楊貴妃の住居華清池、狹西省博物館、[碑林]は、
漢代から隋、唐宋代に至る名筆を刻んでおり、中国文明の神髄に接する思いがした。だが西安ではなんと言っても兵馬俑抗博物館である。私たちのバスには西安美人の王さん[ガイド]が乗り込み説明してくれた。
中国では徹底した産児制限を行い、子供は一人しか生めないと言う。1979年、約15年前から始まって既に15年経っている。従って町に人は溢れ、若者の数は多いが、子供は見かけるのが珍しい。人口600万人の西安を2日間バスで通る間に見かけた子供の数は非常に少なかった。
西安郊外には広大な農地が広がり、気候温暖、土壌は肥沃であり、「天府の国」と称され海抜400メートル、年間気温13度、降水量600mm、農作物は主に小麦、米、玉蜀黍、粟、稗、綿、果物、野菜などである。西安は素晴らしい自然条件に恵まれ、農業生産に適している。「藍田猿人」など115万年前、旧石器時代から人がすみ、紀元前から1100間、11の中国王朝の都として栄えてきた。
               
西安の交通と近郊農業 嘘も方便
中国に来て空港を出ると、至る所日本人の財布をねらい、何処からとも無く商人が集まってくる。一箱1000円の筆が、何時の間にか3箱1000円、5箱1000円となり、バス出発間際に買うと、10箱1000円である。1本5万円の掛け軸が1万円となり、更に3本1万円、5本で1万円とくる。買うまいと思っていても知らぬ間に買ってしまう。8日間も旅をすると中国人の行き方が判ってくる。値切り方も上手になる。中国の商人は一度買うと見た客は、絶対逃さない。買うまで追いかける。薄皮一枚の利益で、在庫を残さぬよう売り尽くす。最初に買う人が馬鹿であり、最後に安く買う人が普通人である。それでも利益を上げているのが中国の商人である。中国人は日本人よりやはり優れている。日本のバーゲンセールはどうか、年末10万円のスキー用品が2月になれば3万円位で投売りされている。更に枚数をまとめれば2割くらいで売ってしまう。中国の商売とどちらが消費者へのサービスか。

西安市大雁塔に立つ筆者
上海
 
上海の若者は開放経済を謳歌していた。その流行は社交ダンスから始まりデイスコを経て、現在カラオケが大流行である。フランス租界、共同租界を経て、解放後の上海は、自由な世界であり、天津、北京、西安の町々に反し、都会であり下排水や道路網の舗装も完備されている。人口は1200万人と中国第二の商業都市である。現在他の都市からの人口流入を防ぐため、夜8時まで大型トラックの入車を禁じている。北京、天津、上海の経済開発地区ともに、これ以上の人口膨張を避ける為の措置であろう。また夜9時を過ぎると上海の中心街南京路も、一斉に各商店はシャッターを閉ざし,外灯も消す。パチンコ店も電灯を消し、人々は家に帰ってゆく。外面を暗くしたカラオケバーで、若者は兎さ晴らしをする。上海の経済は安定しており、人々の暮らしは地方に比べ収入も多く、従って地方から上海に人口が流入するのは自然の勢いである。それを規制する方法として、戸籍移行の禁止が施行されている。
中国には日本のような住民票は無いようであった。1人以上の人口を増やさぬ為、戸籍に入れられず、戸籍の無い人は就職も学校への入学も出来ない。従って開放経済、自由競争下での鎖国政策である。新しい企業の上海進出はもはや望めない。私たちは日本の企業、ワールドを視察した。厳選された製品を中国の百貨店で販売していた。土地の個人所有を認めない中国だが、住宅や一般消費財は個人所有できる。一般庶民の服装も見違える様に立派になっている。人民服姿の中国人は過去の話て゜ある。
 若い夫婦にとり子供は宝物である。又子供は家庭の中で王様である。教育は6.3.3.4制であるが中学校を卒業すると就職できる。中国経済は今非常に大きな発展を遂げている。だが人口の都市集中、住宅難、人口抑制がもたらす1人っ子達が作る21世紀の中国はどうなるのか。又必ず訪れる高齢化社会は。日本と同じ道を中国も歩むのではなかろうか。12月2日、様々な思い出を胸に描きながら私たちは上海空港を後にした。私たちが見た中国は、まるで建築工事現場の様だった。各都市とも非常な勢いで建設が進んでいる。この得体の知れない巨大な中国は、数年後には工事が完成する。10年後の中国、皆生き生きとして通勤していた自転車の大群、その生活力のパワーは必ず世界中の円やドルを吸収するだろう。また、人口抑制政策は、若年労働者の減少を招き、必然的に人手不足解消の為機械力の導入とハイテク産業の発展を促し、人件費の上昇と現在の日本以上の生活力が向上するであろう事を痛感した。そうした理由から今後の中国経済は、活況を呈し市場経済は更に発展し、消費需要は日本の高度経済成長を遂げた30年代、40年代以上の好況が続くものと予測される。サヨナラ中国の皆さん。
平成5年12月記

 あれから16年の歳月は流れている。16年前の中国、計算機は日本の独占販売だった。ライターですら土産に喜ばれていた。日本の最高の時代だった。天津市、北京市上海、西安市を訪問した。女工の月給500円。政府高官月給、2000円だった。日本経済の絶頂期、多くの投資を期待していた中国の各都市政府。日本に帰ってからもあのときの議員の皆さんとの交流が続いている。私の中国視察記である。あのときの私の予測は的中していた。今も友情が続いています町議会議員。田路勝宍粟郡一宮町現市長か。藤原薫丹南町。松本春雄太子町。大谷禎誉淡路町。武田義美吉川町。萩原春雄東条町。塩沢岩光播磨町。浅原利一播磨町。紙野亘雄播磨町。岡野正信太子町。旧町名で記入しています。敬称略。藤田鉄也町議会議長会事務局。長浜秀次郎兵庫県町議会議長会事務局

 

 
弘法大師空海
 
 2004年8月8日ー24日。私達は弘法大師が1200年前漂着した中国、福建省霞浦、赤岸村に到着した。時、丁度弘法大師空海が漂着、1200年後の、8月10日であった。そして西安城に1200年後の8月21日無事13名入ることが出来ました。そして、弘法大師空海が修業し、師、恵果和尚から青龍寺で真言密教を相承し日本に帰国したその同じ道を16日間かけて走破しました。福建省赤岸鎮から西安までの2400km。そこで見た中国内陸部の経済発展の風景をカメラとビデオ動画に収めてきました。
 空海は31歳の時{804年}、密教を求めて中国へ入唐、32歳で師恵果和尚に遇って、密教を相承した。弘法大師空海の名前は知っていた。私の家も真言宗である。四国88カ寺の旅や小豆島88か所めぐりで弘法大師を知らぬことも無かったが、信仰としての対象ではなく、旅行として適当なコースであるから行ったに過ぎない、今回の旅も仏教崇拝の旅行ではない、未知の世界の旅にロマンを求めての旅である。イスラム世界の旅は終えた、キリスト教文明の旅も終わった。近い中国の内陸部の旅。弘法大師空海の旅2400kmの旅にロマンを感じた。そのすべてを書き記しておきたいと考えた。

 今回の中国訪問の旅は、紅衛兵と、それらを動かした文化大革命の嵐のなかで、中国の古い伝統と風習と、伝統に基ずくすべての文化的遺産のすべてを打ち砕き、特に今回私達が見学と研究に訪れていた「弘法大師、の足跡をたどる旅」で歩いた仏教遺産はほとんど破壊されていた。弘法大師、空海が訪れ、勉強したすべての寺院を金子貴一氏の研究で、たどったが、空海だけでなく曹洞宗大本山、杭州市の浄慈寺に如浄禅師之墓は山の岡の上にひっそりと立っていた、人郷離れた山中の墓は幸いにして、文化大革命の嵐の中も切り抜けて、破壊を免れた。


 
 信仰している人たちは、罰があたると滅多に仏様の顔など写真に撮らないだろう。私は仏像の表情をカメラに収める悪い癖がある。 この寺の仏像の顔と、あの寺の仏像の顔と、2000km離れた仏像の顔が皆同じである ? これは何を意味するのだろうか?信仰の対象として、仏を拝む場合はみな有りがたいだろう、が、私は冷静に今回のたびで、中国の仏教の仏像の顔を殆んど撮って回った。皆同じ顔をしている。これは、中国の仏像製造産業の大資本が背後で、大量生産しているのだろう?と、うがった見かたをする、ビルマから輸入された童顔の仏像、あの寺もこの寺も、数千キロ離れた寺の仏像もみな同じ顔をしていた。こんな仏像の顔をカメラやビデオテープに撮り、記録する人間は、日本の仏教会にも、中国の仏教界にもいないだろう。? と、そうした意味で私の今回の、中国仏教寺院の視察と、画像収集、ビデオカメラの収録の旅は中国仏教界の歴史に残る事実だろう?。2400kmもの中国の寺院を同じ時期にカメラに撮った人はいないだろう。

 中国の文化大革命、仏像を全部破壊した。その後で、仏教寺院の仏像の復興が中国全土でなされている。
普通の人間は仏教の再興と喜ぶだろう?水戸黄門はそうは読まない?全部破壊し復興する、其処に仏像製造産業が必ず生まれる。頭のいい指導者が背後にいる。 中国の仏像製造はそうした指導者?業者?、事業家が大儲けしているのである。と、私は読む。郵政改革、何々改革、みな、ぶっ潰した後で儲ける事業家がいる?世の中変化のあるところに儲けるチャンスが生まれるのである。チャンスを掴み、チャンスに乗る、何時の時代も、頭のよいものが儲けるのである。織田信長、木下藤吉郎、急がば回れ、徳川家康なのである。

 中国の仏像は文化大革命で殆ど破壊されていた。と、書いた、文化大革命は1960年代から1970年代のことである。そのときでも、中国人民軍により破壊から守られた多くの貴重な文化財があった。その貴重な世界遺産、龍門石窟の仏像はすばらしかった。文化大革命から30年以上過ぎている。私達が訪れた仏教寺院は新しい仏像文化の華が咲き、どの寺も美しい金ぴかの仏像が並んでいた。ほとんどの寺の仏像の写真を撮った。みな同じような顔をしている。仏像製造産業が大儲けしているなー、と、ビデオを撮りながら話したものだ。ビルマから輸入した仏像が若い綺麗な童顔の美少女だった。どの寺にも陳列されていた。2400km同じようなときにすべての仏像の写真を撮って回るなど物好きな人間はいないだろう?。今再生された中国の仏教界では、若いお坊さんが多いと、金子さんの説明であった。事実、真言密教の寺寺ではどの寺にも若いお坊さんが多く勤めていた。中国政府は破壊から建設えと、大きく右旋回している。日本のように檀家信仰はないだろう、みな其々の寺で、観光客や寄進の金で寺の振興を図らねばならないだろう。どの寺も商売繁盛していた。

平成14年4月28日ウズべキスタン共和国にて。9.11日テロ以後、日本発一般観光客第一便で参加してきました。サマルカンドのホテルでハタミ大統領と同宿、大統領を撮影しました。私の計画した、玄奘三蔵のシルクロードの旅は今回のウズベキスタンの旅で完遂しました。
2001年9月11日アメリカの悲劇が世界の歴史を変えた。
アメリカは中央アジアのウズベキスタンに軍事空港を造った。今、世界の目は中央アジアに向いている。
永年の間中央アジアに行きたいと考えていたが、昨年突然の9月11日の悲劇で計画を断念した。
機会があれば是非行きたいと考えていた。

    
 
今年も私が訪れるウズベキスタンは、一般的には危険度4の「家族など退避勧告」危険度3の「渡航延期勧告」「観光旅行延期勧告」などが出されている。ウズベキスタン全体に危険度1の「注意勧告」が外務省より出されている。アメリカがアフガニスタンの空爆を行っている国、ウズベキスタン。
だから私は是非行って見たいと考えた。4月26日関西空港発9.11テロ以後、日本発ウズベキスタン直行便第一号。五月三日帰ってきました。
中央アジア、ウズベキスタンとはどんな国なのか? 期待と不安。 日本全国から参加したグループは11名。
皆が危ない、危険だと、言うから ? 行って見たい。「来てみてびっくり」戦争の危険など全くありません。
 第1日。4月26日。到着したタシケントは雨。気温は15度。イスラムの香りよりも、ロシア的雰囲気がぷんぷんする街だった。スルーガイドはタヒール、サドッラエフさん、運転手は2人のサーシャさん (本名アレキサンドルさん) 人柄の良い現地スタッフと共に、8日間と云う短くも充実した旅が始まった。
宿泊したシエラトンホテルでは、イラン大統領使節団一向が宿泊。私たちと行動を共にするが如く、後日またサマルカンドで再会する事となる。 (ここから添乗員金子貴一氏の文を借用)
   

第2日。サマルカンドの「アフラシアブパレスホテル」で、イランハタミ大統領と同宿でした。
28日朝、イラン大統領の写真を撮りました。日本から来た私たちに、イランのハタミ大統領は満面の笑顔で、数十センチまで近づき、パチパチと写真を撮らせてくれました。
大統領は「ハワルユー」と話しかけて来ました。じっと私たちを見つめられた後、出発された。
ハタミ大統領に会えたことは感動でした。日本から来た一般観光客に警戒する様子も無く写真を撮らせてくれました。イラン外相、政府高官など多数泊まっていました。町の外に出ると、途端にサマルカンドの町は一日中厳戒態勢が敷かれ、一切の車が交通規制されました。ウズベキスタンや、中央アジアの国々と、イラン、ソウジアラビアなどの国々は同じイスラム世界であり、多くの民族が入り交ざっています。多民族国家が日本以外の国々には当たり前です。

   
木造建築の天井
私が見たウズベキスタンはとても平和な生活環境の良い、綺麗な国でした。対日感情もいいです。僅か八日間の旅でしたが子供たちも人懐かしく、大人も私のカメラの前に喜んで写させてくれました。
サマルカンドに向かうバスの中で始めての一行12名初対面の自己紹介をしました。関西空港発だから関西の人が多いいだろうと思っていたが東京方面の人たちと半々だった。東京、千葉県に住む人たちが殆どだった。サマルカンドに向かう途中、バスはカザフスタン国に入った。国境のパスポートも検査も無くバスは通過した。国境での写真撮影は禁止であった。「ウオッカ」を購入した。栗で作られた「ウオッカ」は大変安かった。ビールビン一本くらいで60円くらいだった。帰ってから林間の下見の先生と飲んだが美味しい酒だった。

 ウズベキスタンに再入国。パミール高原の裾野であるザラフシャン山脈(5000m級)に出来た切り通し、「アムール、テイムール門」でフオトストップ。ここを支配した歴代王朝はここに見張りの兵隊を置いて国の守りをしたという。暗雲が空を覆いしとしとと雨が降るなか、地表にはケシの花が無数に咲いていた。毎年5月は季節の変わり目で雨季であるが、今年は例年になく1ヶ月にも及ぶ長雨になっていた。
ケシの花は自然の野草として繁殖している。このケシの花を麻薬として取り締まる事は不可能だろう。何処でも野原一面に咲いていた。
サマルカンドのローカルガイドは、トルコ系タタール人のデイリア、アビブッラエフさん、30歳だった。
第二次世界大戦中、スターリンが強制移住させたクリミアタタール人100万人の子孫だという。戦後多くの人はクリミア半島(現ウクライナ)に帰ったが、経済的にはまだウズベキスタンの方がましであると残っているのだという。午後空は晴れ、レギスタン広場、グル、ヱミル廟を見学。
レギスタン広場。1220年のモンゴル来襲後、破壊されたアフラシアブの丘から移住した人々が建てたサマルカンドの中心地。テイラカリメドレセ(1660年)建立。「金箔された神学校」の意。神学校では、トルコ諸語ではメドレセ、アラビア語ではマドラサと云う。シェルドル、メドレセ(1636年健立)の「ライオンが描かれた神学校」。
内部にウズベク伝統楽器店。正面向かって右)ウズベクメドレセ(テイムールの孫、ウルグ、ぺグが1420年に建立。正面向かって)
グル、ヱミル廟(「支配者の墓」の意)

1403年以降建設が続くテイムール朝、(1370~1507年)歴代皇帝の墓。初代皇帝テイムール、第三代皇帝シャー、ルフ、第四代皇帝ウルグ、ぺグなどが眠る。3m下の地下室に実際のお墓があった。

4月28日。
サマルカンドの町は一日中厳戒態勢の中での視察となった。
ビビハ二ム、モスク(テイムールが1399年~1404年に建設。当時の世界最大の)を見学。
私たちの一向にウズベク美人のデイルバルさん21歳が自分の家の製パン工場に案内してくれた。
      
自家製で一日120個くらい作るという。

シャーヒズインダ廟群。
14、15世紀建立のテイムールの家族、側近たちの廟を中心とした、11~19世紀の廟群。全部で20を超える廟がある。門をくぐり階段を上りきった左にあるのはテイムールの乳母が葬られたウルジョイ、オイーム廟、一番奥突き当たりの右側がテイムールの妻、ドウルグ、アカ廟、同左側が愛妻のドウマン、アカ廟。右側手前に、11世紀建立の予言者ムハンマドの従兄弟、クサム、イブン、アッバース廟がある。ハタミ大統領訪問前に絨毯を敷き詰められた上を内部まで入れてくれた。
   
シャーヒズインダ廟群
       
           ウズベキスタン議会       天井の図。        ホテル
 
ウルグ、ぺグ天文台跡。(15世紀。ウルグ、ぺグが天文観測をしていた場所)
アフシアブの丘。(アレキサンダー大王が侵攻した紀元前4世紀には、マランダと呼ばれていたサマルカンドの前身。大王は1年半にわたり、ここを前線基地としていた。1220年には、モンゴル来襲で完全に破壊された。ここから、ソグド時代の王宮の壁画が発見された。)
   
綿花農場の学生たち
国花の綿花はウズベキスタンの主要輸出品。世界第5位の生産高である。ブハラも、タシケント、アフシアブと共に
中国の僧玄奘三蔵がインドへの求法の旅の途中、立ち寄った所である。玄奘がウズベキスタンに立ち寄ったのは西暦629年、からインドに入国した630年の間で17年の長い旅であった。インドに帰ってから玄奘は持ちかえった「般若心経」などを翻訳した。現在でも日本の多くの仏教寺院で読経されている。ブハラは、玄奘が過ぎ去った後、674年アラブ軍に占領され、イスラム化が始まった。玄奘三蔵は仏教時代最後の旅人僧であった。
 
ブハラのラビ、ハウズで昼食。
ここのラビ、ハウズのナデイール、デヴアンベギ、メドレセで、フオークロア、ショーが開かれた。このショウを見にきていたのは、ブハラ国の県知事と教育関係者。大学教授など政府高官であった。
 
民族の踊り。
食堂の中庭でニューモデルの発表会があった。ウズベキスタンの各地の大学教授や、地方政府の高官のレセプションが開かれていた。午後、プハラからウルゲンチに向けて移動した。途中の路でトルクメニスタン領を通過した。ここでも別段国境の検問は厳しくなかった。

     
キジルクム砂漠に咲いた花。     砂漠に咲く花           砂漠の落日

ブハラからウルゲンチに行く途中。450キロ約7時間。何処までも続くキジルクム砂漠。砂漠の途中はさまざまな花や、風景があった。
ウズベキスタンの教育は4年、7年が義務教育。識字率90%。
ウルゲンチからヒワの街まで30分くらいだった。古都ヒワの町は2600年前、ゾロアスターがホレズム地方に生まれたといわれている。ゾロアスター教の発祥の地。

 テルメズ遺跡は、今アメリカのアフガニスタン空爆の前進基地として危険地域であり、私たち一般の観光客は行くことが出来ない。このたびのウズベキスタンの旅はその多くがイスラム文化の寺院や城が多かったが最後に訪れたハムザ芸術学研究所で加藤九ぞう教授をたたえる現地係官の説明を聞き、そして、多くの仏教遺跡とその貴重な土器などに接することが出来たことは最大の収穫であった。又「南ウズベキスタンの遺宝」創価大学発行の資料を購入することが出来た。

バクトリア人は、他の東イラン語諸民族と同様に、おそらくは前2000年紀初頭、中央アジアに現れたと考えられる。
バクトリア語の最古の遺物はクシャン時代のもので、カニシカ王の治世に、この言葉を記録するためにギリシアのアルファベットが用いられた。
 中央アジアにおける最古の国家の一つはバクトラ「今のアフガニスタンのバルフ」を中心としたバクトリア王国であった。王国の名称は、ギリシア人のいう地域名「バクトリア」または古代ペルシア人のいう「バクトリシュ」に由来している。
 紀元前3世紀の頃バクトリア総督が王をなのりバクトリア王国をつくった。大王国の後、大月氏が侵入した。大月氏は内陸アジア方面に住んでいたがこの首都は今のダルゥエルジンテパ都城跡であるといわれている。
その中から有力者が現れクシャン帝国を創立した。クシャン帝国の最盛期にはインド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア南部を占めた。クシャン国家はローマ、パルテイア、漢帝国と並んで、古代世界における最大の国家の一つとなった。紀元前1世紀の頃から紀元3世紀の中ごろまで存続した。クシャン時代は都市において芸術文化が高揚した。ダルヴエルジンテパとハルチャンの発掘はクシャンの都市に文化的価値が集中したことを示している。都市では、建築、絵画、小彫刻、宝石、彫刻、音楽などが発達した。
   
  
 テルメズから発掘された仏像。       ハムザ記念芸術学研究所に陳列された楽器。

 クャン王国時代には、トハリスタンの僧院や、聖堂を形作る仏教的彫刻があらわれた。その現象は西北インドのガンダーラ派に起源している。ガンダーラにおいて、仏陀、菩薩、その神話的、地上的取り巻きの規範がつくりだされた。ダルベルジンテパで発見された彫像はとりわけ注目される。仏陀は説教者として、瞑想し悟りを開いた仏陀としての規範がしめされている。市外の寺院から発見された一部の像にはインドというより、ギリシア的理想に近くその影響を強く受けているものがみられる。
   
 南ウズベキスタンの地がクシャン帝国に編入された時期は現地文化とインド、イラン、グレコ。ローマ世界の文化が相互に影響し、豊かになった時であった。クシャン時代の都市は信仰の中心でもあった。テルメズや、ダルヴエルジンテパの周辺には仏教の僧院やストーパーがあり、アイルタムにも仏教僧院があった。ダルヴエルジンテパの市域内では現地のバクトリア的女神に献げた2つの神殿が、またそれぞれの住居では家庭ようの祭壇が発見された。
3−4世紀になると、クシャンの都市と集落は次第に衰退し、人々の居住地域は縮小し、住居や信仰施設は捨て去られ、文化の様相は著しく変化した。幾たびかの侵略と争奪の争いの中でこの時代ほど文化が発展した時代は少ない。テルメズ遺跡はこの時代に仏教遺跡が多くみられる。
     チンギスハーンに率いられたモンゴル軍がテルメズに突入したのは、1220年秋であった。これは中央アジアの大分ぶんが占領された後のことで、テルメズは11日間の包囲攻撃のあと占領された。チンギスハンの命により住民の多くは殺され、都市は廃墟となった。チャガ二アンは、中央アジアにおけるモンゴル国家の創始者チャガタイの孫、エスン-トゥワにあたえられた。その後チヤガ二アンはエスン-トゥワの後えいの世襲的領地と考えられた。その後ウズベキスタン南部はチムールの領土となった。
1894年アムダリアにロシアの国境税関が造られた。ロシア政府は戦略的重要性を考慮して、この地に常備の守備隊を置いた。1898年プハラのエミルは特別の布告をだして、テルメズに隣接する土地をロシアに提供し、次第に大集落となり、都市としての意義を持つようになった。
以上ハムザ記念芸術学研究所。創価大学の調査報告によるものです。
中央アジアに行きたい、玄奘三蔵のシルクロードの旅を完結させたいと考えていた今年三月、西遊旅行の山田さんから電話が入った。「四月連休の頃ウズベキスタンの旅を企画したい」私は即座に話しに乗った。「是非行きたい」
永年の夢が実現。10年前みた西安の大雁塔。何時かシルクロードの旅を実現しようと描いた夢であった。9月11日テロ以後始めてのウズベキスタン航空乗り入れ第一号の日本人観光客として関空を飛び立った。
   
ハムザ研究所について、
私たちが訪問したウズベキスタンハムザ記念芸術学研究所は、奈良のシルクロード博記念国際交流財団と密接な人的な交流を持っている。と、奈良薬師寺、安田映胤師は玄奘三蔵のシルクロードの旅で述べておられる。
「クシャン朝の最初の首都はダルベルジンテパあったと考えられる。従ってウズベキスタン南部はその当時仏教が栄えていた事になります。その頃鉄門の以北には仏教は伝わっていなかったことが明らかになりました。従って仏教はウズベキスタンの南部から、アムダリャの上流に上り、パミールを経由して中国に伝えられた。1970年代にはタジキスタンからいくつかの古い仏教遺跡が発見された。タジキスタンの考古学者は近年パミールでも仏教遺跡を発見しています。
従ってテルメズは仏教の東方流伝の基地であったといえます。 注、東方とは中国の方向ではないか?
テルメズには相当数の仏教徒がいました。仏教学者、ダルマミトラもいました。この人は東方への仏教の伝道者です。最近二つの仏教遺跡をダルベルジンテパで見つけました。加藤九ぞう先生もカラテパの仏教遺跡の調査を始められました。又ソ連時代、外国人の行動が難しかった頃から、加藤先生始め日本の学者の方々が、ウズベキスタンの学者と共に去年まで、ダルベルジンテパの発掘に協力して下さいました。」
以上はハムザ研究所調査部長トルグノフ氏の講演内容を記した安田師の本の要約である。ハムザ研究所は芸術アカデミーに所属しており、中には演劇、音楽、建築、美術、そうした分野が中心のようである。
私たちはタシケントからサマルカンドに向かった。アフラシャブの丘は玄奘三蔵の大唐西域記にも書かれている。
参考文献。

三蔵法師のシルクロード。朝日新聞。三蔵法師の道研究会編。
玄奘三蔵のシルクロード。安田映胤師
南ウズベキスタンの遺宝。ハムザ記念芸術学研究所。創価大学編。
地球の歩き方。
アイハヌム。加藤九ぞう
夢しごと。白鳥正夫氏
仏陀の道祈りと美の遺産。新人物往来社
イスラム世界の常識と非常識。加藤博。淡交社
西遊記のシルクロード。三蔵法師の道。写真集。朝日新聞
以上のほか多数の書籍を参考にしました。2002年5月12日記。藤原文男

中国ウイグル自冶区

新彊シルクロードの旅                   
タクラマカン砂漠縦断 
             2002年5月13日更新               平成13年4月29日ー5月12日帰国          
 今注目されているイスラム文化の国、新疆ウイグル自冶区とはどんな国なのか。
私が見たウイグル自冶区共和国。


新疆ウイグル自冶区。シルクロードの西域といわれる地方とはどんな所だろうか、私は八年前中国の西安を訪れた。ここがシルクロードの起点だと知った。何時の日か西域に行こうと考えていた。
インド、パキスタン、ネパールを回り愈々今年こそ新疆にとの思いがかない行ってきました。
西と北はモンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガン、パキスタン、インドと国境を接している。面積166万平方キロメートル、人口1700万人、ウイグル族を主とし漢民族、カザフ族、回族、蒙古族、キルギス族、シポ族、くじく族、タタール族、ウズベク族、ダオール族、満州族、ロシア族など多民族が住んでいる。自冶区の首府はウルムチにある。北にはアルタイ山脈、崑崙山脈中央に天山山脈があり新疆を南と北に分けている。砂漠とオアシスの町と云っても過言ではない。 
新疆はアジアの中央に位置し、南アジアと西アジア、ヨーロッパを結ぶ「シルクロード」必径の地である


中国はアメリカのテロ撲滅作戦を支援している。ウイグル自冶区の独立運動を抑圧している。
私たちが現地で見たウイグル族は中国からの分離独立を望んでいた。少数民族の多い中国は独立を望む少数民族の対策に苦慮している。
テロとは何か、独立を抑圧する政府に抗議する民族運動なのではなかろうか、イスラム世界のパレスチナ独立運動への対応、イスラエル、パレスチナ紛争が世界のテロを呼び起こしている。
世界中の強国が寄って、たかってテロ撲滅を図ろうとしても、テロは消滅しない。

 旅日記、4/29日発、    日曜日、関西国際空港、中国国際航空  CA928便、15時発、北京着17時30分。


       
 私は八年前兵庫県町議会議長会主催の中国訪問団に参加した。八年後の現在の北京は様変わりの様相だった。北京も辺境の町新疆ウイグル自冶区の奥地まで、建築は高層建築され、塗装も綺麗で上下水道ゃトイレも改造されている。北京の道路は立体化され信号に従い車が走り、町々の緑が回復し、石炭の煙の町から空気の綺麗な北京の町に生まれ変わっていた。北京空港は関空や成田空港より整備され、シンガポール空港や、ロスアンゼルス空港より私の見た目では立派に見えた。勿論ヨーロッパ各国より立派な空港に生まれ変わっていた。十年前の中国、そしてこれから十年後の中国は、日本の経済を席巻し、優位に立つ事は間違いない。日本の人件費はこれから十年かけて下落し、中国の人件費は徐所に伸びてゆくだろう、中国人の所得水準が日本人と同じ位にならないと日本の景気は回復しないた゜ろう。
                     高昌国が栄えた頃627年、玄奘三蔵は国禁を犯してインドへ求法の旅に出た。大唐西域記によれば玄奘はこの地に40日間滞在し仏典の講義をした。高昌王国は640年に唐に滅ぼされた。17年間かけてインドの旅を終えて玄奘三蔵が高昌国に帰ったときには既に滅びていた。
]*べゼクリク千佛洞では17、20、21、27、32、39、窟を見学。どの窟もイスラム教徒や探検家による破壊がひどく胸が痛みました。駐車場には撮影用のラクダが沢山いました。私はここで写真を撮りました。
*高昌故城ではロバ車に乗り遺跡まで行きましたが、学校が休みという事もあり、子供たちが多かった。高昌故城は、紀元前48年に漢がここに屯田兵を置いたのが始まりとされています。16国時代には高昌郡が置かれ太守の居城となりました。一番栄えたのは五世紀の麹氏、高昌王国の時代でした。玄奘も628年にこの地を訪れています。大塔の上から全景をご覧頂きました。
*アスターナ古墳では善人・石人・老人・が描かれた窟や漢代の逸話に基ずく教訓を現した高器・絹・草の束が描かれた壁画や男女のミイラがある窟を見学しました。

             ウイグル族の劇                             砂漠の中の火炎山
          スバシ故城、ゼベクリク千仏堂。628年玄奘三蔵の大唐西域記にある。新疆最大の寺院遺跡として注目を集めている。
<午後>蘇公塔=カレーズ=バザール
*蘇公塔は1777年にスレイマン王が父王の為に建立しました。モスクでは修復現場を見る事が出来ました。
*カレーズでは地下部分の構造を見ました。カレーズの途中に葡萄棚や葡萄乾燥室などの設備があった。
*バザールでは干しぶどう、束の実やナッツが沢山並んでいた。
     
        5/2日(水曜日)     多くの人達がイスラム寺院に集まる。
<午前>交河故城=カレーズ=トルファン駅前で昼食。トルファンの人口は54万人、オアシスの町である。
*炎天下の中、交河故城の見学となった。故城の名の由来となっている2本の河の交叉部分や6世紀の始めに使われていた交河郡城や仏教寺院、官庁等を見学しました。
                                  午後いよいよカシュガルに向けて出発!2階建ての軟臥車が連結された。途中、3100m地点にあるパリンタイを通過、羊の放牧風景を眺めていた。長いと思っていた寝台列車の旅はあっと云う間に過ぎた。乗ってから24時間の長い鉄道列車の旅だった。この鉄道はタリム盆地を過ぎ、タクラマカン砂漠を縦断しカシュガルまで続いていた。夕食は南彊鉄道内の食堂
              
 車中泊となる。汽車の旅は案外楽しかった。私はガイドの中嶋さん、田口さん、新疆ウイグル族ガイドのみなわさん、四人寝台車となった。車窓から見える天山山脈の風景と、この鉄道の線路を守る為の延々と続く公共事業の工事、大変な工事だろう、水害防止の為の石積み、落石防止の工事、線路を守るあらゆる工夫、この鉄道はトルフアンからカシュガルまで続いていた。何処までも続く絶景に見とれていた。何時しか夜になり夜が明けた。列車は山の谷合を走っていた。然しトンネルは一箇所も無かった。トンネル掘削の技術は中国には未だなのだろうか?

                            5/3日。(木曜日)
カシュガルの駅に着いた。=昼食=カシュガル市内観光、(香妃墓ー大バザールーエイテイガル清真寺ー職人街)
*香妃墓はもともと17世紀にサマルカンドから来たムハンマドの直系であるアバクホージャが父ユースフホージャの為に建てた寺院。香妃は18世紀にカシュガルで起きた清朝に対する反乱を鎮める為、清の乾隆帝に嫁いだ王妃で、砂束の花の香りがすることから香妃と呼ばれていました。
*エイテイガール清真寺は中国最大のイスラム寺院。寺院内は静寂に包み込まれ外の騒音は嘘のようでした。
*職人街はもの珍しいものが多く、実際に民族楽器を作っている所も見られました。ここで楽器を値切って買いました。

5/5日(金)                                                
<午前中>バスはカシュガル発。=英吉莎=昼食、ナイフの町でナイフを買った。<インジーシャ>ここで昼食。
<午後>莎車市内観光。バスは和田。ホータンに向かう、夕食:和田賓館泊。
<午前>マリクワット故城=和田文物展覧会。=昼食
*マリクワット故城はウテン国の夏の離宮があった所とされている。
ロバ車に乗る。凄い砂嵐だった。和田文物博物館には1500年前の南北朝時代の少女のミイラがあった。昼食後白玉河河原に玉を拾いに寄る。
絨毯工場、玉石展覧会。民家訪問。シルクを製造している一家を訪ね絹製品を買う。
和田賓館泊。夜市に行く、ホータン名物ガチョウのゆで卵もあった。ホータンの夜の市場は印象に残った。
         我が子の様に育てた羊ともお別れですと語るウイグル族の農民。 競り市にかけられた羊5/6日。(日曜日)

<午後>家畜市場=民豊>ニヤ到着。(パ゛ザール)民家訪問。
*日曜日のため干田の手前で家畜市場を見ることが出来た。羊、山羊、牛などが市にかけられていた。
 子供の頃手塩にかけて育てた子牛を売りに村岡市に朝3時頃おきて売りに行った。幼い頃の思い出が浮かんできた。牛との別れは辛かった。私の周りに近寄ってくる羊ゃ山羊の首を撫でてやった。
民豊では突然の日本からの民家訪問にも快く応じてくれた。ウイグル族の家族の歓待には感動した。
                                              
           暖かく迎えてくれた。奥さんは近くの中学の教頭。主人は漢方医だった。
               
              5/7日。(月曜日)
民豊。ニヤからタクラマカン砂漠を縦断。<車庫、クチャ>720キロタリム河側の食堂で手打ちうどんを食べた。クチヤ着後、スバシ故城を見学。スバシ故城は庫車河の東西両岸にまたがって建てられた新疆最大の仏教遺跡。西側部分のみ見学。

                              5/8日(火曜日)
<午前>キジル千仏洞、亀茲国の仏教遺跡。急な階段を上り8、10、17、27、32、34、43、47、48、49、38を見学した。内部の写真は厳禁。イスラムや最近に至り、紅衛兵に殆ど破壊されたようである。文化大革命は中国の文化を破壊していた。ここで昼食を取った。
<午後>塩水渓谷=クムトラ千佛洞=ロバ車で水力発電所から洞窟まで行く、

子供たちも歩いてついて来ていた。私たちを乗せる為4時間かかって此処に来ていた。
五連洞と呼ばれる68、69、70、71、72、窟を見る。少し歩いて63、58、45、50窟を見学しました。                         
5/9日(水曜日)車庫クチヤ。=コルラ(バザール)昼食。*ニヤの亀茲賓館の娘をコルラまでバスに乗せた。コンピュターの勉強に行くらしい。
バインブルグ賓館にて昼食。コルラ空港から荷物検査に私と田口さんとナイフが引っ掛かった。ウイグル族のミナワさんの必死の抗弁でやっとナイフを送る事ができた。北京南苑空港に着いた。ここから国都茂盛賓酒店まで一時間以上かかった。北京空港の近くのホテルに泊まった。
北京の町は立体交差の緑の多い町に生まれ変わっていた。

5/10日北京空港。9時25分発。14時30分関西空港に着いた。東京方面の人達とは北京でお別れした。有難うございました。

 何処までも続くタクラマカン砂漠の道路何処まで行っても村は無かった。隣村まで100キロくらい走るとオアシスの村があった。 
2000年以上の長い間この道を通って絹織物や文化の交流がなされた。仏教の伝来、キリスト教、イスラム教などが伝わってきた。
 

 中国 新疆ウイグル地区の砂漠、道路の両側数十メートルには飛び砂防止の施設が数百キロ施行されていた。  私たちは西游旅行のご好意により14名の少グループで新疆の広大な砂漠を縦断できた。
いま新疆タクラマカン砂漠の真中にサウジアラビアに劣らない油田が開発され操業されていた。
 


                                                           

 広漠たる砂漠の中に今新疆は新興都市として発展していた。新しい飛行場がコルラに出来ていた。コルラから四時間で北京に着いた。広大な中国である。 トルハンからカシュガるまで南彊鉄道が開通した。
二十四時間の汽車の旅て゛あった。                            

長い汽車の寝台列車の旅も案外楽しかった。鉄道線路の両側には雪解け水の洪水対策の工事が何処までも続いていた。
天山山脈の雪解け水対策が鉄道路線を守る最大の事業である。                                    
シルクロードの町々には桑の木が見られた。砂漠にはぶどうが多く栽培されている。ポプラの木を切り町に売りに行く。シルクの機織工場もあった。日本から技術移転がなされていた。
  カレーズの洞窟。砂漠の地下に延々と数十キロ水路を造って水を引いていた。この水路を利用してぶどうやポプラ並木が出来る。桑の木も栽培され、養蚕も飼育されている。絹製品も多く販売されている。                      

    ウイグル族は美人が多く日本人にそっくりの人々が多い、皆親切であった。私たちもウイグル族の人達によく似ている。日本人の差別が無い。

現在のウイグルは殆どイスラム教である。多くの仏教遺跡で仏像の顔が殆ど破壊されていた。イスラムによる破壊と文化大革命で紅衛兵が徹底的に破壊したとの事であった。残念である。中国政府は遺跡の写真を取らせなかったがこうした破壊の現状を見られたくない為であろうと思われた。

 パキスタン中国国境、中国ウイグル自冶区の漢民族とウイグル族の対立地帯。イスラームのテロ事件は今後も続くだろう。新疆ウイグル自冶区。シルクロードの西域といわれる地方とはどんな所だろうか、私は八年前中国の西安を訪れた。{注1995}ここがシルクロードの起点だと知った何時の日か西域に行こうと考えていた。インド、パキスタン、ネパールを回り愈々今年こそ新疆にとの思いがかない、行ってきました。西と北はモンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガン、パキスタン、インドと国境を接している。面積166万平方キロメートル、人口1700万人、ウイグル族を主とし漢民族、カザフ族、回族、蒙古族、キルギス族、シポ族、くじく族、タタール族、ウズベク族、ダオール族、満州族、ロシア族など多民族が住んでいる。自冶区の首府はウルムチにありました。北にはアルタイ山脈、崑崙山脈中央に天山山脈があり新疆を南と北に分けています。砂漠とオアシスの町と云っても過言ではない。新疆はアジアの中央に位置し、南アジアと西アジア、ヨーロッパを結ぶ「シルクロード」必径の地なのです。

 新疆ウイグル自治区でテロが起きています。テロは何故起こるのか?私の見た新疆、砂漠の中に石油の油田、其処におおくの漢民族が新疆を植民地として入り込んでいました。都市の収入の多い地域には中国漢民族が支配しています。中国には60種族以上がいると言われています。「クチャで起きたテロ」新疆はウイグル族にとり自分たちの祖国です。そこに入り込んだ他民族。と言う意識があります。ウイグルの人たちは日本人に親切にしてくれました。日本人に顔も形もよく似ています。同じ血液の人類です。

 月牙泉。                     
 天竺といわれたインドの仏教もこの敦煌のオアシスを通過して中国に伝えられた。中国全土で作られた絹もこのルートを通って中央アジアからペルシア、メソポタミア地方、ローマ、ギリシアの国々に交易がなされて行った。その敦煌の町から程近いところに莫高窟が出来ている。洞窟の中に多くの壁画が描かれていた。西千仏洞も東河の沿線に出来た洞窟である。現在は東河に巨大な河川工事の堤防が建設されて西千仏洞が洪水から守られていた。凄い泥水の洪水が急流となって流れている。この東河には丸い石が累積していた。地球が出来てから長年かかって此処まで流れてきました。
 「この石のように人間も磨かれると角が取れて円くなります」私が言った。「含蓄のある言葉ですなー」山本さんが言った。東河の上流は何処なのだろうか?アルテイン山脈。{岩石沙漠}だろうか?地図を開いて調べてみたが分からない。日本のように高い山から川が流れて下流は海に流れ込む地形ではない。又、沙漠と砂漠と二つの沙漠が有るようである。「敦煌は沙漠」の字のようである。沙漠とは一年中を通じて降る雨の量よりも蒸発する水分が多い地域の地表景観のことを言う。いわば降水量が少なすぎて草原にもなれないところである。

通訳上智大学土谷瑤子教授

 パキスタンの研究

朝日新聞社が創立120周年記念事業として、第三回玄奘三蔵のシルクロードの旅

パキスタン、シルクロードの玄奘三蔵を求めて

 今イスラムのテロ事件が多発している。私は過去数年多くのイスラム教国を旅してきた。インド北部ラダック地方のパキスタンとの対立。パキスタン、アフガニスタン国境が閉鎖された。カイバル峠周辺は砂漠の中に両国の貿易、運びやのトラック運転手、自転車での運びやなど多数のイスラム世界の人達が生活していた。それぞれの住宅は土の塀を高く築き、外敵の侵入から家族や集団を護る自衛の防備を固めていた。
    
      アフガニスタン、パキスタン国境カイバル峠。   安田薬師寺管長と私。 パキスタン、中国国境に立つ                 
政府も個人の生命、財産を護ってくれない、シルクロードの数千年前から自分たちの守りを自分たちの集団で護る、その為其々の家々には銃で武装している。銃は何処の店頭でも売っている。そうした国がパキスタンであり、アフガニスタンである。国家権力は国道から30m以上及ばないと云われていた。
一度戦争が起これば国家の権力を当てにしない。其々の集団で自衛する、パキスタン政府をアメリカが味方につけたと云ってもパキスタンの民衆は政府を信用していない。信じるのは自分達の集団だけである。過去の数千年外敵に絶えず蹂躙され、迫害された砂漠の民である。今この地域に戦争が始まろうとしている。

私たちを歓迎してくれたパキスタンの軍隊。民衆、あの村の人達は今どうしているのだろうか。
パキスタン中国国境、中国ウイグル自冶区の漢民族とウイグル族の対立地帯。イスラムのテロ事件は今後も続くだろう。
アメリカとイスラムの対立が今後の世界の不安定要素となるだろう。
 
 玄奘三蔵のシルクロード、幻想としての遠い昔の話しでなく現代に生きる三蔵法師の姿が、その歩んだ道が頭の中に整理され、生き生きと波打つ一人の人間としての生き様が理解されてきた。

  仏教の求法の道を求めた千四百年昔の足跡を訪ねて歴史地理学とその現地調査、衛星による空中写真と、衛星画像によって『宇宙から届けられる画像』によって視野が地球規模に拡大されている、

  パキスタンの人口は一億二千万人、国土の面積は日本の倍ある、然し実際に見たパキスタンで、人の生活出来る面積は、日本国土の半分も無いだろう、大きな山脈と砂漠の様な土地が何処までも広がっている、雨の多い地方の土地は山の上まで耕して天に至る、緑の木を切り、食物を耕作するために山の頂上まで耕していた。
     そのため保水力が無くなり土地が痩せ灌漑用水が不足する、自然環境の悪化がパキスタンの地力を低下している、 北京から六時間はかかる、イスラムの飛行機ではアルコールは一切出ない、関西空港から焼酎とウイスキーを買った、当分公式にはアルコール厳禁の国に行のだ、入国するときリュックの中の検査はしなかった、出国のときの検査は厳しかった、百名を越すシルクロードの旅観光団が日本から行く、パキスタンは政府を挙げての歓待だった、うとうととしていた、私は何気なく窓の外を眺めていた、突然暗闇の中からすぐ其処に白銀の山脈が現れてきた、ここは何処だろう、天山山脈か、ヒンズークシ山脈なのか、あるいはカラコルム山脈なのか、ヒマラヤ山脈なのか、家に帰ってから地図上で調べてみたがはっきりしない、北京を立ってから何時間か過ぎていた、中国のタクラマカン砂漠地帯のシルクロードを通っていた。
     
 新彊ウイグル自治区ウルムチ、カシュガル、パキスタン上空に入るコースだろうと思う、白い雪山が暫く続いていた、七千メートルから六千メートルの山だろう中国とロシアの国境地帯には天山山脈がある、中央アジア、キルギスタンとの国境だろう、鋭く屹立した山脈がその白銀の山々が輝いている。

  タジク共和国のパミール高原と、中国タシュクルガンの山脈はムスターグアタ山「七五四六メートル」ある、私が見た山はこの山だったのだろうか、夕焼けだったのだろうか、朝日に輝く山だったのだろうか、時間から想定して夕焼けだったのだろう、私の眼に焼き付いたあの山を越えて玄奘三蔵が千数百年の昔、ガンダーラ入りしたと伝えられている、  イスラマバードに着いてからフンド村の見学をした石の都タキシラは、ガンダーラの歴史そのものである、タキシラは古代より、商業および軍事上の重要拠点であった歴代支配者の下で繁栄した。

   
博物館。国宝級の作品。

  タキシラの博物館では、一般公開しない写真を全部撮らせて頂いた。最初は博物館の番人に気兼ねしなから写真を撮っていたら、今回の日本のシルクロード旅行団に限り無制限に写真を撮らせる許可が出ていると聞いた私は仏像の写真を全部撮った。

  仏像の起源を求めてガンダーラにやってきた私の目に博物館の仏像は新鮮な輝きを与えてくれた。
   
   仏陀の像、             仏陀誕生の図。         悟りを開いた仏陀

  ギリシア、ローマ世界で行なわれていたヘレニステイック美術の強い影響を受けた仏教美術の作品が多数

  私たちはこのアレキサンダー大王がインダス川を渡ったフンド村の川原で般若心経を上げた、インダス川は急流であるがこの地点は河幅が比較的広く水の少ない時期には歩いて渡れそうであった。

  アレキサンダーが渡ってから約千年後、玄奘三蔵が此を渡ったらしいここしか渡れる所はない、土谷教授の説明であった、

  フンド村は川の中州にあり自然の要害となっていたその村に突然百人を超える日本人観光客が訪れた。

  村人は驚き、牛は鳴き、鶏も犬も鴨も子供、年寄り、村の婦人も戸主も青年も娘も、ありとあらゆる村人が集まってきた。 変哲も無いフンドの村を大騒ぎに巻き込んだ写真を何枚か撮ったここの娘や老人はカメラを向けても嫌がらなかった。

人懐っ濃いギリシア系の人々だった。男はみな髭を生やしている。私たちは明くる日八月二十五日ぺシャワール博物館の見学をした。

   

           見事なガンダーラの石仏像の作品が多数陳列されていた。日本での写真ははじめてだろう。

  ぺシャワール博物館も一般の見学者をシャットオートして私たち旅行団に写真を撮らせてくれた。

  ガンダーラの仏像が次第にその芸術作品として変化し、より大きな仏像が誕生していった、私が昨年見たインド北部のラダック地方の仏像は巨大な壮麗な仏像であったここガンダーラ地方から招かれた工人や絵画師がチベット仏教の影響を受けながらラダックの仏教芸術を完成させたものと思われる、ガンダーラ仏の特徴は殆ど石像仏であり、ラダックの仏像は壮麗な色彩の木造仏や壁画となっていた。異民族支配により壁画や木造仏が有ったとしても破壊され残っていないのかも知れない、土中に埋もれた遺跡のみ残っている現実からその真相を知ることは出来ない、
 
国道より三十メートル以内のみ国家主権が届いているそれ以外はその土地の種族の自治である所が多い、銃は店頭で売っている日本の昔の土地共有制度が残っている、一つの種族はそれぞれの土地や山林を共有し住民の保護もその種族の自治で行なわれている所が未だ未だ山岳地帯に残っている。
   

           パキスタンの学校。               子供達

  パキスタンはその九十五%がイスラム教であり、現在仏教は殆ど残っていない。イスラムは厳しい戒律を民にかけその戒律により巧みに統治が行なわれている、インドやパキスタンの大都会の中心地でも牛は悠々と歩いている。パキスタンについて気づいたことが一つある、それは子供の数が非常に多いことである、小学校への進学率は三十五%、子供たちは遊んでいる小さな子供が弟や妹の子守をしていた。

  足は裸足の子供も多いが衣服は比較的奇麗である、子供たちの裸足の原因は何故だろうか、娘になると顔を覆うが子供たちは奇麗な眼をしたすっきりと澄み切った眼と鼻の筋が通り、インド人とは人種が違う、ギリシアや、ペルシア、中央アジアの混血だろう、その子供たちはネパールの子供たちほど日本人に物をねだりはしない、願わくば、旅行者の日本人が今後パキスタンの子供たちに物をねだる悪い癖を付けないことだ。タキシラの遺跡のなかでビール丘は有名であるシルカップは整備された都市であり、多くの遺跡が出土している、仏教徒の礼拝の中心となるストーパは円形の丸屋根で五層七層と高く造られている。

  翌朝八月二十五日、カイバル峠に行ったカイバル峠はアフガニスタン、パキスタン国境の峠である、千三百年昔玄奘三蔵が通ったルートである、私たちは四台の観光バス分乗し一台予備のバスが附いていた。先頭には軍隊数名を乗せたジープが先導している国境近くの軍隊の宿舎に案内された。

  アフガニスタンから国境を越えて多数の密輸物資を乗せたトラックの群れがすれ違う、そのトラックは本体より多く金をかけたと思われる豪華な絵を書いている、こんな豪華な絵のトラックは日本には無い、大きく突き出たトラックの屋根も、横も後ろも豪華な絵で改装されている、その豪華なトラックの群れが無数にアフガニスタンからやってくる、イランの港に陸揚げされ、アフガニスタンを通り、パキスタンに密輸入している、その密輸入された品物は日本国内より安い製品が多い、アフガニスタンの政情は安定せず、国境付近に関税の役所が無く無税である、関税のかからない安い商品がパキスタンにどんどん流入している、国境の見える峠に着いた、パキスタン政府の好意に支えられ軍隊も大歓迎だった。

この峠に来るまでに豪華な民家が多数あったこの豪華なパキスタンの村々の若者はアフガニスタンからの密輸入のトラックや、自転車の運転手で稼いでいた。

  パキスタンの村々の家はその周囲を煉瓦で取り巻き外敵の侵入を自分で防いでいる煉瓦塀の中にどの家も建っていた。外敵の侵入は自分で守る平和な日本では考えられ無い事が外国では常識である、島国日本の有り難さを改めて痛感させられた。

  政府も国家も個人個人の安全を保障出来ないそれが幾度か外敵に侵入され、人命財産を奪われたシルクロードの道に通じる地方の人々の運命だったのだろうか、ガンダーラ地方は雨も多く緑豊かであったがカイバル峠に近づくにつれて雨は殆ど降らない砂漠の様な気候の風景に変わっていた国境近くの兵舎は最高の設備であった。

  草も木も一目一草何もないその砂漠の中に兵舎があったその兵舎で民族舞踊の歓迎音楽と、昼食パーテイが行なわれた、兵舎の中には大きな緑の木が多数生へえていた。緑のオアシスの様に吹く風も涼しく住みやすい環境であった、パキスタン国境の軍隊は一番環境の良い土地に兵舎を建てている。勿論上下水道は完備している、 ガンダーラ地方は古くから交通の便利も良く、シルクロードの道として発展し、多くの隊商が行き交い、交易も盛んに行なわれたが、それだけ異民族の進入しやすい地域であり、昔から幾度か異民族支配を受けている、私たちは中型のワゴン車に分乗し、百八十粁の道程をスワート谷に別れを告げて、緑の多いシャンギラ峠に向かった。 段階状の農地が山の上まで耕作されていた山の木は松が多かった。峠に至る農地は緑が多く農村は富裕であった。

木造の建てものも多く、日本の農村とかわりなかった峠を越えると途端に道が悪くなり、急峻な谷が多く、岸壁の連続となってきた。  漸く宿場町ぺシャムに着いたときは二時過ぎだったろうか、インダス川とダレス川の合流点に着いた。昼食の後、私たちは二十五台のジープに分乗しインダス川の支流、ギルギット川をさかのぼったカールガーの磨崖仏が断崖の中腹にあった。

  

                                 巨大な磨崖佛

  あくる日、インダス川に別れを告げギルギット川を渡りフンザ川の見える所まできた『フンザは今紛争が起きていて警察署が焼き討ちに合い通行出来るかわかりません。連絡を取って見ますから後三十分待ってみて下さい』当地の警察署長が来ていた、この間からの雨で河川が増水し食料やガソリンが欠乏していたそのためガソリンを要求するデモが行なわれ警察が鎮圧に乗りだし不安な政情である。  暫く情報の入るのを待つ事にした、車にはガソリンを屋根に一杯積み込んだ、私たちはパキスタン政府の援護によって安全に警固されていたやがてバスは動き出した。

ナンガパルパット「八一二五M」が見えてきた。

素晴らしい景観だ天空はるかに屹立するヒマラヤ山脈の明峰、私たちは何枚もその写真を撮った。途中には、チラスの岩絵があった、

  ギルギットには、カールガー摩崖仏があった私はそうした遺跡以上に、村から村を繋ぐ岩石の絶壁の岩肌の間の道を、登ったり下ったりしながら交流を続けたであろう其処に住む住民の交流の歴史が、そして村から村に縁組みがなされたであろう、若者たちの恋愛の歴史に思いをはせていた、バスは漸くフンザの町についたこの村に二日間滞在した。

  フンザ川左岸がフンザ王国である、標高二千四百五十四メートル、柳、あんず、梅、柿、栗、くるみ、麦日本の私たちの地方とよく似た植物が旺盛に育っていた裏山に白雪のラカボシ七千七百八八メートルが聳えていた、丘の上の奇麗なホテルだった、私たちはフンザの人たちから大歓迎を受けていた。パキスタンの女性は顔を人に見せない、然しフンザあたりまで来ると女性も素顔を見せていた。

このあたりの種族はガンダーラ地方と違うのだろう、

  体調の調整に全力を尽くす、今日は四千七百〇三メートルのクンジエラブ峠まで行く、十二時間の行程であった。 カラコルムハイウエーと云う、然し掘り起こしただけの道である、道の山側に擁壁も何もない、天石がごろごろと数百粁にわたり続いていた何時上から石が車を直撃するのか分からない、日本の土木事務所だったら『通行禁止』の立て札をするだろう、これがパキスタン中国国境に通ずる国道でありハイウエーであった。

  フンザ川を渡ると氷河があちらの谷、こちらの谷から迫っている。  氷河がこんなに標高の低い所まで押し寄せている。

何万年もの間にこの氷河の雪に土が降り岩肌を削り土と岩肌をえぐった氷河の水が濁流となってインダス川に流れている、濁流だった何故こんなに川の水が濁るのか不思議だった私の疑問が解消した。

  氷河から出る濁流、清流を求めてフンザ川の上流クンジエラブ峠の近く、中国国境に近づいて始めて清流の流れを見ることが出来た。  其処は氷河の無い緩やかな小川の水が湧き出した私たちの故郷の小川のように澄み切った川の流れだった。 パキスタンにきて私は始めて中国国境の山で清流を見ることが出来た中国国境のクンジエラブ峠は私が今まで経験したことのない高山であったさすがに苦しかった。

   

                 ナンガパルバットの8000mの山々、   インダス川の上流。パキスタン、中国国境、5700m

  パキスタン、中国国境、中国の兵隊が警備していた、然しパキスタンと中国は非常に友好的だった国境警備と云う緊張感は全くなかった、お互いが銃や、大砲を向け合う事もなくトラックが行き交っていた、トラックの荷物はパキスタン領から積み替えている、

  私たちは二日間かかり中国国境まで行き、二日間費やし帰ってきた。もちろん途中遺跡も見学したが大変な強行軍だった。       イスラマバードに着いたときは夜七時を過ぎていた。

夜は政府高官の招待の夕食パーテイが開かれた。

バスは高速道路を通り、首相官邸、最高裁判所、などの官庁街を通り州政府公邸に招かれていた。

  観光大臣、情報担当大臣、博物館館長の挨拶と、シルクロード博記念財団団長の挨拶に続き、土谷教授の通訳、薬師寺住職の挨拶など長々と続いたが、もう最後で帰られると思うと嬉しくなってきていた、盛んな拍手と握手の連続で最後の別れを惜しみ散会した。

   

                          アフガニスタン、パキスタン国境を警備する軍隊。

  私たちが帰ってからパキスタンの軍事革命が起こった。

あの時歓迎して頂いた軍隊とパキスタン政府高官の方々や、国王、博物館館長、など政府要人の皆様はどうなっているだろうか、幸い日本人には危害が及ばなかった。私のパキスタン報告書です。

    一九九九年九月九日、              藤原文男記

 


上の釈迦図パキスタンラホール博物館で筆者が撮影した写真でした。1999年非公開、日本でただ一枚の釈迦図です。今回に限り公開。パキスタン、ラホール博物館釈迦図撮影文さん。本邦初公開


  2000年10月インドの旅

 過去1500年の間、日本人の宗教と文化と精神の中核となってきた仏教。 その仏教の開祖である釈尊、生まれ、悟りを開き、法を説き、入滅された地インドを私たち日本人は天竺と仰いでいました。中国の僧三蔵法師の足跡を辿る旅に参加し今年はついに憧れの地インドの中の聖地、釈尊誕生の地、ネパールのルンビニーにやってきました。インドに来てインドを旅する間に私たちの心の中に確りと釈迦が釈尊に変わっていました。そしてその釈尊の偉大な人物の人々を導き教化し、悟りを開いたインド各地にその足跡が2500年経った今も残っていました。

インドの旅に行ってきました。 

10月10日から20日間インド仏教佛蹟踏査の旅に行っていました。

 仏教文化の遺産をたずねてインドのムンバイ「ボンベイ」国際空港に着いたのは10月12日午後4時過ぎだった。
 私たちはそのアジャンター石窟寺院に来ていました。渓谷沿いのデカン高原の大地をくり抜き大きな寺院が数百年かかって造られていました。一つ一つの寺院が完成されるまで数年、数十年、数百年の年月をかけて造られていました。仏教、ヒンズーウ教、イスラーム教の寺院など高さ70M、長さ1500M、にわたり一つ一つの寺院が造られ約千年間つくられ続けてきました。それから千年後イギリス人により発見されるまで人々から忘れられていました。またエローラにも岩山の斜面を掘りぬいたヒンドー教やジヤイナ教の石窟寺院が多数造られていました。
またサンチーにはァショーカ王の創建である大ストーパが建てられ、巨大な塔門が見事な彫刻に飾られて建てられています。2000年前に建てられ今日そのままの姿でのこっていました。

インドは日本の9倍の面積と、10億の人口、何処までも続く広い平野に稲作の続く農業国でした。農作業は牛で耕起し田植えはしますがばら撒きの所も有るようです。ゴラン高原の広い平野は青々とした畑作地帯が続いていました。18日間の間、山らしい山には出会わなかったです。インドがこんなにも広い稲作の農業国だとは驚きました。交通はバスと鉄道、飛行機を利用しました。インドには高速道路は未だ整備されていませんでした。その為首都デリーを除いて道路状態が極端に悪く、舗装はされていますが凸凹の所が多く走るのに時間がかかります。人と車と子供たちが溢れています。牛はヒンズー教の聖なる動物です、従って牛肉は食べません。農家の庭先には牛が繋がれ、まや肥えが積まれています。40年以前、日本の農家の生活状態が今も続いています。牛と人間が仲良く生きています。デリーの都市の真中を牛が歩いています、猿が木から下りてきて店先のリンゴを取っていました。犬や猿と牛と羊や、時々象が歩いていました。車は多いですが自転車や三輪車、輪タクも多く人間も国道の真中を堂々と横切っていますが、その間をビービ‐と巧みに車はすり抜けて走っています。

日本の様に法律が人間を支配し、雁字搦めに規制された社会から、お互い様の社会、自然と人間と動物との共生する世界がインドの国です。インドの国は交通違反の取締りは見られませんでした。鉄道を横切るときにも一旦停止はありません、ヨーロッパ各国とも一旦停止はありません。インドは長らくイギリスの植民地でしたからヨーロッパ世界の影響を多く受けています。車は右ハンドル、左側通行、この点日本と同じです。宗教はヒンズー教が80%、仏教は0.5%しか残っていません。そのインドの仏教遺跡を求めて千数百年前、西遊記で有名な中国の僧、玄奘三蔵法師の足跡を辿り今年は愈々2000年前の仏教の聖地 「仏陀誕生の地」ネパールのルンビニ‐にやってきました。インドとネパールの国境は現地の人たちは自由に交通し、一つの町の様に生活していました。外国人だけが簡単にパスポートの検査を受けますが1人1人の検査はありませんでした。ネパールから再びインドに入国しましたが私達はバスに乗ったままでした。



インド、アジャンター石窟寺院に立つ筆者、

 デカン高原は全くの平地で青々とした草原地帯、牧草、とうもろこし、あわ、ひえ、そのほか名も知れぬ作物が栽培されていた。 バスと鉄道でデカン高原を抜けるのに2、3日かかっていた。インドの道路は舗装されていたが補修工事されている工事現場を見たのは、18日間の旅の間で2、3箇所大型機械で補修がなされていた、従って道路は国道弐号線でも凸凹の道が続きスピードを出して走るとバスの後部座席に座る人は腰の捻挫に絶えず注意する必要があった。従って100キロの走行に3時間以上の時間が必要である。

 汽車は案外定刻に発車していました。最近インドではパソコン処理で正確な発着が約束出来る様になっていた。インドの旅は何時なにが起こっても不思議ではない、と云われています、アグラからデリーに行き、デリー国立博物館見学ご、夜行列車でゴンダからネパール国境を越える予定だったが途中、国道が農民のデモで閉鎖され、全く進めなくなった。今晩泊る宿の予定はなかった。80人を超える日本人の団体は昼食の準備をデリーの食堂に予約していました。「さあ困った、引き返そう」団長の決断で昨夜、泊まったホテルに引き返しました。幸い近くの駅から次の予定地まで列車に乗る事が出来た。

 
インドの農村は日本の平坦地の農村と外観は変わらない、農業収入には税金は無税だとガイドの「せと」さんの説明であった。日本の様に農地改革の行われていないインドの農村には大地主がいるだろう、時々大型農機のトラクターが見受けられたが、小型の耕運機やコンバインなど広いインドで一度も見受けられなかった。牛でこの広い農地の耕作が何時まで続くだろうか、若しインドに小型の耕運機が入ったら牛が要らなくなるだろう、聖なる動物、「牛様」がインドの農村から消える日が必ず訪れるだろう、そのときインドの農村の革命が始まる。5年先、10年先、必ず訪れるだろう、日本の農村から牛が消えたように、そのときインドの農村社会はどう変化するだろうか。

 2500百年前、釈迦が生まれ育った農村は広々とした豊かな農村だった。釈尊が布教した地域は、私たちの農村のような狭い谷あいの苦しい生活を強いられる農村では無かった。あれだけ広い農地の多い所に生まれた釈迦が羨ましかった。贅沢だ。釈迦の悩みなど私たちの農村社会で生活する者にとっては贅沢な悩みである。人々を救う方法は私なら釈迦の方法は取らなかったであろう、ネパールからインド領に入ったが水稲の栽培された何処までも続く田んぼを私は眺めていた。あまり釈迦の批判をするとインドの旅にご一緒させて頂いた方々に失礼だからこれ位にする。


       ガンジス川の夜明け              仏陀誕生の地ネパール
 ブダガャは釈尊成道の地です。有名な犯罪者浅原しょうこうが悟りを得た金剛座にお参りし般若心経を斉唱しました。 創価学会や日本の仏教会が聖地としている多くの仏教遺跡や聖地を隈なく参拝し釈尊入滅の地クシナガラを訪ねる。
勿論私たちは仏教の信仰で寺参りに来たのではありません。あくまで仏教の遺跡踏査が目的です。  10月25日聖地、釈尊が説法を説いた霊鷲山に登りました。竹林精舎を見学、ナーランダー大学跡地の広大な敷地と整備された建物跡地を見学し釈迦という人物の偉大さと共に、その仏教を生んだインドの人と自然、広大な農業地域と2000年前の豊かな農村社会を実地に見てきました。  釈尊入滅後その教えはインド全域に広まっていった。1500年以上の長い間仏教はインドの人々の間に広まり、敬虔な仏教徒は釈尊に変わる崇拝の対象として仏舎利を収めたスト‐パ「仏塔」を各地に建てた。マトーラでは1世紀頃仏像の製作も始まりました。 西インドでは岩山の断崖をくり抜いて、礼拝所と僧院の組み合わせからなる岩窟寺院の大殿堂をつくりあげました。

聖地霊鷲山
 ラジギールは釈尊修業の地である。仏教史上始めの寺院が生まれた、旧都王舎城跡がある。この聖地霊鷲山の下が都跡である。麓の駐車場からここまで半時間歩いて昇った。薬師寺の安田福住職が般若心経をあげました。2500百年前の仏陀がここに住み説法された。 玄奘三蔵の大唐西域記によれば「霊鷲山、 鷲も棲みついているし、また高台にもなっており、空と緑と互いに照り映え濃淡に色を分けている。 如来の[成道以後]世におられること五十年、この山に止まられること多く、広く大衆に妙法を説かれた。王は仏の説法を聞くために人々を多数動員し、山麓から山頂まで石を畳んで階段を造った。」と書かれている。私たちはその石畳の階段を歩いてこの山に登った。

     

 アショーカ王の創建になるサンチーのストーパー、

 前田耕作教授が15日から一行に参加、王の詔勅が刻まれた柱など説明をうける。前田教授は和光大学の教授である。クシャン朝は中央アジアに起こり、パキスタン北部からインドに至る大帝国を建設したが、特にカニシカ王は厚く仏教を信仰した。仏陀の死後マウリア王朝に保護され仏教はインド全域に広まっていった。こうした大ストウパーはパキスタンからインド全域に建てられている。佛教がちゃんとした体裁を整えて行ったのは仏陀の死後2、300年経って以後、アシヨーカ王の時代である。玄奘三蔵が西安から中央アジアを経て、アフガニスタン、パキスタン、インドに来たのは七世紀始めの頃であったが、その頃仏教はインドでは全盛期を過ぎようとしていた頃であった。 仏教がインドで起こり、シルクロードを通って東アジア全体に広がっていった。仏教文化は土着の文化と融合し各地独特の文化をうみだしていった。私たちはそれら各国の仏教文化に接することにより、より広い仏教文明の全体像を把握したい。

 私がインドに来たのは2回目である。然し今度の参加者の中には仏陀誕生の地に5回きた人達もいた、3回目の人達もかなりいる、最初は三蔵法師の旅と云えばもの珍しくて参加していた。今度インドまで来ると全く違っていた、私たちが求めていたのは釈尊その人である事に気づいていました。
 何時のまに三蔵法師が釈尊に変わったのだろうか、インドに来てインドを旅する間に私たちの心の中に確りと釈迦が釈尊に変わっていた。そしてその釈尊の偉大な人物の人々を導き教化し、悟りを開いたインド各地に、その足跡が2500百年経った今も残っていました。赤レンガ造りの強固な建築物の遺跡がインド、ネパール、各地に今も生き生きと残っています。私たちにとりもう一つの疑問が残った。これだけ偉大な釈尊が何故インド世界から消えたのだろうか、色々な歴史の過程の中で消えていった。戦争に負け宗教が勝利者に弾圧を受けた、いや、仏教が生まれる前からヒンズー教は生きていた。インドの人達には仏教の教えを取り入れたヒンズー教の指導者の魅力に惹かれていったのだ、色々な学説があるだろう、パキスタンはイスラ−ムの世界に変わっていた。インドから何故仏教が消えたのか、私の疑問は解けない、いや多くの人達がそう話し思っている。然しインドの仏教の聖地には今日もアジア各国から巡礼の旅人が訪れていた。                           


                         

エジプト

 エジプト観光中、エジプト警察が自動機関銃を持って護衛してくれていました。従って観光客といえども時間厳守である。出発と到着全てエジプト警察のお世話になりました。イスラム世界のたびは絶えずテロの危険に立たされている。ガイドの「アイさん」の言うとおりに従った。従わなければアイさんは首になる。アイさんの飯の種はガイドである。そのアイさんはエジプト政府の方針で動いていました。若し事故でも起こしたらアイさんの責任である。「私は6ヶ月間免許を取り上げられます、食べてゆけません」と、ぎろりとした鋭い目で私達を睨みつけた。その言葉に日本から来た観光客は以後、アイさんの言葉に従った。アイさんの思うように動いた。説明も熱心に聴いた。こんなにエジプトの一人の若者の言うとおりに動いた観光団は私はみたことが無かった。それだけ一生懸命熱心に、真剣に、本気でエジプトの古代歴史を説明した。良く勉強している青年だった。エジプトの秀才だ。日本にも留学の経験があり日本語も堪能だった。漢字も良く勉強している。繊細な日本語を知っていた。日本の歴史も研究している。その青年アイさんのお世話で世界遺産ルクソール神殿の説明を聞くことが出来ました。

 いずれにしても、百聞は一見に如かず。いろいろと本で研究していますが、今回もデジカメとビデオカメラを持参して撮ってきます。帰ってから編集し皆様に公開します、よろしかったらDVDに編集してから発表します。今回はもう、パソコンは持参しません。忙しい旅行、ホテルでパソコンを打つ暇はありません。デジカメとビデオの電気充電だけでも忙しいです。旅の記録とメモ、カメラ撮影、ビデオ撮り、朝起きてから寝るまで寸暇の暇もありません。ですから、行くまでに歴史の研究、その土地の経済、政治、文化、民族の風習など、ガイドの説明を聞く暇がないので前もって勉強してゆきます。分からなかったことは帰ってから本を読みます。一つの旅行が完成するのに三ヶ月かかります。外国旅行は一年に二回くらいが限界です。三回行くと充分な調査がでません。また帰ってきてから報告します。


  
エジプト国立博物館にて。ガイドのアイさん。カイロ大学考古学専攻。

  エジプトの旅で現地ガイドのアイさんは話していた。「エジプトの国は過去五千年の歴史の中で、紀元前3000年の昔まで古王国時代の輝かしい歴史でした。然しそれは現代のエジプト人ではありません。幾たびか侵略と戦争で人種は交配し、様々な人々の中で現在のエジプト人が生まれています。
今回訪れたエジプト人の歴史遺跡は、3000年、4000年昔のエジプトの輝かしい歴史の後でした。然し、現在のエジプト人は古王国時代のエジプト人ではありません。過去のエジプトはギリシアのアレキサンダーに征服され、制圧された長い歴史があります。その後、クレオパトラの頃ローマ人に攻められ制圧されました。長いローマ帝国の時代を経てシリアやペルシアに攻められ制圧された時代もありました。イスラームの制圧、オスマン帝国に制圧された長い歴史があります。その後フランスやイギリスに制圧され中東戦争で漸く独立を達成しました。

 ナセル大統領がスエズ運河をエジプトの国有にしました。第三次中東戦争までユダヤ教徒はエジプトに
10万人いましたが、現在では150人残っています。殆どがイスラーム教徒です。アイさんは日本に留学したこともあります。エジプトのカイロ大学で日本語を学びました。そのとき、日本から来ていた東大の教授がいいました。「日本の勉強するなら漢字を学べ」と、教えられました。頭の良い、彫りの深い、目の鋭い秀才のエジプト青年です。まだ独身の彼は一面頑固なところもありますが、強力な個性で旅人をひきつけています。「エジプトはナイルの賜物」といいますが、カイロからルクソール、アスワンハイダム、赤道に近いナセル湖までナイル川のエジプトの遺跡を余すところ無く見学できました。

 アイさんは繰り返し、繰り返し、「泥棒に気をつけよ」「エジプト人に財布を見せるな」といいました。アスワンハイダムの湖中に水没した歴史遺産をヨーロッパやアジア、日本各国の協力を得て移転された巨大な石造の神殿建設には驚かされた。更にナイルの流をせき止めて人造湖を造り、船を浮かべ、人工島にホテルを作りお客を舟で運び、世界遺産の神殿観光にヨーロッパ各国から多くの観光客を誘致している。この観光は永遠に続くだろう、巨大である。古代遺跡の神殿遺跡、ヒエログリフの像形文字遺跡、ピラミッド観光、スフィンクスなど観光地としての条件が揃っている。私達のバスはその前後を警察官が機関銃で車の護衛をしてくれていた。それだけテロの危険があるだろう、近くにはイスラエル、パレスチナ、ヨルダン、シリア、ソウジアラビアなど、紛争の絶えない火薬庫を抱えた地域である。観光客の安全はエジプトの国土を上げてその安全を守ってくれているとの印象を深くした今回のエジプトの旅であった。



    ユダヤ教聖地、岩のドーム           嘆きの壁。  イスラエル

 イスラエルの研究

 シルクロードの旅、 イスラエルとはどんな国でしょうか? イエス、キリスト誕生の地、ユダヤ教の聖地、イスラーム教の聖地、キリスト教の聖地。そして、イスラエル、パレスチナ対立の世界の火薬庫、のように思われています。
 私達が飛行機で降りた空港はテルアビブ空港でした。その昔、日本赤軍が銃撃戦を展開して有名な空港です。日本のマスコミは、イスラエルは危険なところだ、と、書きたてています。然し、私が見たイスラエルはヨーロッパ各地よりも、アジアのどの地域よりもあらゆる民族を受け入れている、人種差別のない、中東、アジア地域に類をみない豊かな民主主義の国でした。何故イスラエルに行ったのか? そんな危ないところに何故行くの ? と、友人も、但馬の多くの人たちが 聞きました。
私は、まだ戦火の消えない焼け跡の神戸の町、新開地のキリスト教会の前で始めて新約聖書を買ったのは昭和22年ごろでした。新約聖書とは、キリスト教の歴史小説です。旧約聖書はユダヤ教の歴史小説です。ヨーロッパの歴史や、中近東の文学や思想を知ろうとするとき、キリスト教の思想と歴史がその原点にあります。エルサレムの街には四つの民族が住んでいます。キリスト教徒地区、イスラーム教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区。周囲は城壁に囲まれ、シオン門はアルメニア人、ドウング門、{糞門} はユダヤ人地区、聖ステフアン門、黄金門、ヘロデ門、はイスラーム教徒、ダマスカス門、新門、ヤッフオ門はキリスト教徒。狭い地域に其々の民族が共存していました。私達はこの城壁の上を歩いてみた。イスラエルの魅力は多彩だ。聖書の舞台となった土地としてユダヤ教、キリスト教、イスラーム教それぞれが聖地としているエルサレム。最近人気の死海エステ、ダイナミックな地球の息吹が感じられる、 ネゲヴ沙漠、サンゴと熱帯魚が揺らぐ紅海、地中海沿岸のローマ遺跡、北部に広がる豊かな自然など・・・。四国ほどの小さな国ながらたくさんの見所が詰まっています。

 

 エルサレムの「岩のドーム」には感動しました。あの始めて見た「岩のドーム」と、「嘆きの壁」は感動だった。私は数十年来の願いがかなった思いです。私の研究では、ユダヤ民族の祖先はイエス、キリストである。ユダヤ教はキリスト教の元祖である。イエス、はユダヤ教徒として生まれ、ユダヤ教を信奉し、ユダヤ教を布教し、ユダヤ教徒として受難しました。そして、イエス、キリストとして復活したのである。色々な学説があるだろうが、今でもイスラエルの人たちはイエスを自分達の信仰の中心に抱いていました。そして、ユダヤ教とキリスト教は同一のキリスト教のように信じています。鳥取県出身、イスラエルに24年間生活している日本人ガイドの「信夫」 {しのぶ} さんもキリストの新約聖書を片時も放さず説明されていました。「百聞は一見に如かず」

         
カイロにて、イスラム寺院。

 ユダヤ人は以後様々な民族やローマ帝国に追われ、破壊されました。ユダヤ教徒はエルサレムに立ち入ることさえ許されず、2000年近くにわたり世界各地に離散しました。キリスト教発生以前からユダヤ民族は周辺の国々に圧迫された。流浪の民として世界中に散っていった。ヨーロッパ世界、ロシアから中東世界、多くのユダヤ人は抑圧に耐えて資本を蓄え、経済力をつけました。 アメリカ大陸に世界中のユダヤ人が移民し、人口が増え、アメリカの中で強力な財力と知力、政治力を発揮して行った。そのアメリカを後ろ盾にイスラエルに帰り「イスラエル共和国」を建国しました。
 家に帰り、今日はあさからイスラエルから買い求めたテープのDVDを紐解いてみた。エルサレムの歴史は遠く紀元前数世紀、歴史を紐解くとき何処まで遡れば良いのか迷うが、聖書時代、およそ4000年前、ユダヤ民族の族長、アブラハム、イサク、ヤコブ、が当時カナンと呼ばれていたイスラエルの地に定着しました。その地に飢饉が広がり、ヤコブは後に12部族の長となる息子たちを連れてエジプトに移り、その子孫はエジプトで奴隷となった。と、書かれています。



 数世紀後、モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するため、エジプトから連れ出し、再びイスラエルの地に導きました。彼らは40年間エジプトのシナイ砂漠をさ迷った。そこで一つの民族として結ばれモーセの律法と十戒を得た。モーセは川に捨てられているところをエジプトの王に拾われました。イスラエルの歴史はモーセから始まる。そのモーセはヨルダンのネボ山で死んだと、私はその遺跡を見に三年前ヨルダンのネボ山に行ってきました。今のように2000年以上昔には国境など無かっただろう、エジプトもヨルダンも、シリアも、イスラエルも当時の人々は自由に交流していました。

 ギリシアのマケド二アに生まれたアレキサンダーは中近東アジアを席巻した。エジプトの王はアレキサンダーの後裔、その王女がモーセを拾い育てました。アレキサンダーは中央アジアに攻め込み、パキスタンからインダス川を渡った。そのアレキサンダー大王がインドに渡った中洲の視察に数年前パキスタンに私は出かけました。七世紀の頃、同じ川を玄奘三蔵が渡ったらしい。2000年後、世界に離散したユダヤの民はイスラエルの地に集まった。「ユダヤ人」という特別の人種がいるだろうか?世界中に離散したユダヤ民族、其々の地方で混血しています。混血していてもユダヤ教を信じている、いや、イエス、キリストを信じるユダヤ教徒が、第二次大戦後、世界各地からイスラエルのエルサレムを求めて集まってきました。世界中のユダヤ教徒の憧れと信仰の中心の地、エルサレム、「嘆きの壁」に2005年8月22日。私達は遂に立つことが出来ました。感激だった。多くのユダヤ人が「嘆きの壁」に向い嗚咽していました。


エルサレム嘆きの壁に立つ筆者         
 ユダヤ人は戦時中、世界中の人々から差別の目を向けられていました。ドイツのヒットラーは、占領地のユダヤ人を600万人虐殺したという、嘘かもしれない、然し、割引しても多くの人たちが殺されたことは事実であろう、祖国を追われた流浪の民が祖国を求めて集まったイスラエル、私は過去数年間、イスラエル周辺の国々を歴訪しました。{
百聞は一見に如かず現地をみました}イエス、キリストが生まれ育ったイスラエル、その中心のエルサレムの丘には、世界中の宗教が集まっています。この国には民族差別はありません。すべての人々を受け入れています。中東地方のどの国よりも豊かな生活を享受していました。本当の民主主義の国です。

 そのイスラエルは国民皆兵の国です。成人すると男女兵役の義務があります。エルサレムの小さな商店街の要り口には、若い女の子の兵士が機関銃を肩に、仲間の兵士と談笑しながら警備についていました。私達が始めてエルサレムの街に入るとき、道路は渋滞していました。パレスチナ自治区からのイスラエル人撤退に反対する人達の支援者のデモと横断幕で、道路交通が渋滞していました。然し、警察の交通整理で困難なく渋滞は解消していました。反対派の若い少年が旗と横断幕を掲げて意志表示していました、その後、何らのデモも反対も無く私達のバスはエルサレムの街の通行が出来ました。

 イスラエルは素晴らしい近代的な都市国家です。私は中近東の国々をここ数年旅をしましたが、イスラエルは周辺のアラブの国々は勿論、ヨーロッパ以上に優れた民主主義国です。住宅建設も下水道も都市国家としての整備も出来ています。ユダヤ人、キリスト教を信奉する人々、イスラーム教を信奉するパレスチナ人、アルバニア教のアルバニア人ともエルサレムの旧市街には同居しています。様々な民族が同居するエルサレムの街。 治安は日本よりよろしい。イスラエルの軍隊が全面的に治安の維持に当たっています。平和な都市国家イスラエルです。税金は所得税35%以上、17%の消費税をみんな不服も言わずに支払っています。

 数千年間祖国を追われた「流浪の民」ユダヤ人です。どんな苦境にも耐えて民族の独立と結束のためにがんばっていました。また、世界の人々を広く受け入れています。どんな国から流れてきた人々も拒まずイスラエルは受け入れています。イスラエルは、私が近年訪れた周辺の国々は足元にも及ばない生活を享受していました。人口は650万人ほどですが経済は豊かです。隅々まで舗装道路が行き渡り、下水道設備も上水道施設も完備していました。都市国家イスラエルは山の丘に住宅が密集していました。まるで雪山かと間違えるように、山のテッペンまで住宅が出来ています。一面、砂漠の国イスラエルは水の確保に昔から最大の経費と努力を注ぎ込んでいました。嘆きの壁の地下道も水を保有し、確保するための貯水槽が数千年前から出来上がっていました。パレスチナは国家ではなく一地方組織としての治自政府であり、イスラエル全域の国防はイスラエル軍により維持されていました。日本のマスコミの報道は間違っています。百聞は一見に如かず。現地を直接見た感想です。イスラエルの旅は私の総仕上げの旅でした。是非皆様に一度見ていただきたいと、今回発表させていただきます。
この項、2005年秋、記。藤原文男        


砂漠の中で。   遊牧の民の名残が残る人たち。     

シリア
 
私がシリア旅行の最大の目的は、世界4大文明の一つ「メソポタミア文明」の調査だった。メソポタミアは、キリスト教徒にとって精神的なふるさとであった。旧約聖書にはウルク、バビロン、ニネべェ、カルデアといった古代都市や、国の名前が登場し、「ノアの箱船」や「バベルの塔」 といった心誘う物語も綴られている。彼らが思い描くメソポタミアは神秘的な「エデンの園」そのものだった。近年にいたりこのメソポタミアと言われる地方から多くの遺跡が発掘されました。メソポタミアは現在のイラク、シリア、トルコにその源流を発するユーフラテス川の流域、チグリス川の流域に発達した文明であるが、今回のツアーにはイラクに入ることを許されなかった。何れ世界の平和が回復したら私もイラクにも行きたいと考えています。イラク国境の町、シリアのマリでシュメール文明の世界遺産遺跡を見ました。この地方で発見された遺跡には世界最初の楔型文字。粘土板文書。アルフアベット文字もシリアのウガリットで発見されました。またシリア北部のバビロン第一王朝の6代目に、ハンムラビ王の登場により、有名な「ハンムラビ法典」が制定されました。紀元前1760年代。いまから3700年前である。その頃の遺跡が完全な形で保存されている多くの世界遺産と遺跡をみました。2002年11月12日バスがヨルダンからシリアに入りました。国境の検査官は夜の食事に近くの食堂に行き留守でした。黙って通ることも出来るが、検印が無いと出国が出来なくなる。パスポートの審査は検査官がバスに乗りこみ座席に座った乗客一人一人に丁寧に挨拶し検査して行く。大切な外国のお客様だとの表情が言外に出ていました。

 日本の官僚の対応とは違う。これが日本で「テロ」と云われる国の対応でありました。レバノンで「テロ」を起こしたのは他ならぬ赤軍派、日本人である。シリアもレバノンも入国審査が簡単である。シリアからイラクの国境に近づくと広い広い農業地帯だった。ユーフラテス川沿いに広がる豊かな農業地域がシリア、イラク国境地域に広がっていました。シリアとイラクは同じアラブ民族であり、イスラーム教を信奉しています。シリアからイラクえの物資と人と、車も自由に交通がなされていました。関税も無い。自由にお互いの国への旅行や買い物にでかけていました。学校への留学、スポーツの交流、文化の活動と交流は自由になされ、イラク人とシリアの若者の恋愛と結婚も自由であり、親族もお互いの国におり、交際していました。中東戦争、イラク戦争を経て、4、5年まえから自由に交流しているようであった。道路には多くのトラック、自動車がながれていました。然し、外国人、日本人は国境を越えることは許されない。国境の近くでの写真撮影も出来ないが、私はシリアからイラク国境、放送局の建物の写真撮影に成功しました。

ヨルダン

フセイン政権、風雲急を告げる2002年11月8日。私達が泊まったホテルはヨルダン、アンマンのインターコンチネンタルホテルだった。日本人旅行者は私達以外殆どいなかった。そのアンマンのホテルに泊まっていた日本人の三人の若者がイラクにタクシーで侵入したらしい。と新聞で報道され、大騒ぎになっていたのはついこの間のことです。アメリカ軍の封鎖でイラクの港からの貿易は停止されていました。が、そのときヨルダンのアカバの港から陸上ルートでイラクに軍需物資が続々と、トラックの長い行列が続いていました。 シリアから陸路レバノンのベイルートの港を経て、イラクの石油は世界に輸出されていました。イラク戦争が始まっても、ヨルダン、シリア、トルコ、イラン、はアメリカ軍の通過を認めなかった。同じ宗教、同じ民族と言葉を持つイラク周辺のイスラーム世界を知らず、アメリカが軍事力で叩いても、一時的に勝利しても、テロは全世界に広がるだろう? と、私は度々このホームページで訴えていました。フアルージャでの停戦合意、と、新聞は伝えています。イラク統治評議会とイスラーム、スンニ派幹部と、部族長との合意らしい ? 結局、アメリカ軍がイラクから全面撤退し、? 主権をイラクに渡さない限り紛争は収まらないだろうか? 難しい選択である。2002年11月8日。私は私のホームページに書きました、同時に小泉総理にもメール送信しました。イラク戦争の始まった直後、私の現地周辺の国々を見た予想は今も的中しています。

トルコの研究アメリカ大統領がイラク、フセインへの宣戦布告があった。

戦いは始めた以上勝たねばならない。

イラク戦争始まり五日目にトルコに行きましたトルコの人たちは日本から来たお客さんに大歓迎でした。

 2002年3月18日午前10時アメリカ大統領がイラク、フセインへの宣戦布告があった。愈々戦争の幕は切って落とされました。60年まえ日本はアメリカに宣戦布告し真珠湾を攻撃しまた。つい、この間のことのようであり、遠い遠い昔の夢のようでもある。もう、戦争に反対しても駄目だ。日本はアメリカの側にある。戦いは始めた以上勝たねばならない。後は、戦いが早期に終結することを願うのみである。過去の戦争の歴史がそうであった。マスコミは戦争が始まると報道で利益を得ようと、早期の報道合戦を始める。戦争勝利の旗の波が全世界を駆け巡るだろう。株価は8000円の大台を回復し、有事に強いドルは反発した。
 戦争が始まれば軍事株が高騰する。続いて石油株、鉄鋼、船舶、輸送株が高騰するだろう。何時ものパターンである。これで3月危機と云われた決算期を株高で乗り切る事が出来れば、小泉政権は万々歳だろう。議会も農林大臣の問題で審議拒否などやりにくくなるだろう。さて、と、私のトルコ旅行はどうなるだろうか?私のトルコ旅行の日程が迫っている。

 イスタンブール空港への旅客機はキャンセルが続いているもようであるが、文さんは困難な時ほど立ちむこう敵愾心が沸いてくる。怖い所、恐ろしい所、命の危険が迫る所こそ行って見たいのである。現在、予定通りトルコに行く。26日関西空港発、シンガポール航空でシンガポール空港着、同日、トルコイスタンブール着、世界遺産の旅、現在のトルコの世情と、イラク情勢の調査が目的である。  22日のテレビ放送を見ていると、外務省はイラク周辺11カ国に5000人の日本人が滞在ししており、それらの日本人に対し退避勧告をだした。その中に私が行こうとするトルコも含まれている。イスラーム世界では、イラク戦争に反対する群集のデモが次第に激しくなって来た。イスラーム世界対、キリスト教文明、アメリカ、イギリスとの対立。日本の小泉首相は、とんでもない大失策をしでかしたものだ。イラク戦争に勝ってもイスラーム世界との対立と紛争は中東全体に広がるだろう。外務省の腰抜け役人が、戦争に協力して、日本人の旅行者を危険に陥れるような政策をとり、退避勧告を出さねばならないのである。私が乗る航空機はシンガポール航空だから、シンガポールは今度の戦争に荷担していない、同じイスラーム世界の国の航空機だからトルコ乗り入れは大丈夫たろうと、思われる。が? 

                

 トルコの旅は行けそうである。イラクとトルコは戦争をしていない、戦争しているのは、アメリカ軍がクエートからであり、イラク北部のクルド人が反乱を起してもトルコは国境の守備はしても、越境はしないし、アメリカ軍の地上軍の通過を認めていない。従ってトルコ旅行は安全である。JTBの幹部の方から電話がかかってきました。「今度のトルコの旅どうされますか?」と。聞いてきました。即座に私は「行きます是非行きたいです、止めないで下さい。シンガポールとトルコは戦争していません、アラブ主長国連邦共和国のドバイ空港は安全です。其処からイラクの戦争に荷担していないトルコに行くのは大丈夫です」と、トルコ旅行の決行を主張しまた。後でガイドの松本さんの話では、私が是非行くと云ったから行くことになったのです」との話であった。



   
トルコのサフランボルの町

 アラブ首長国連邦共和国のドバイ空港は国際テロ組織の暗躍する空港、ここでも厳しい検問が行われていた。漸く、ドバイ空港を飛び立った時、機内には10%くらいの乗席率だった。イラク戦争のお陰で飛行機の旅は4つの座席に一人寝のゆったりした旅が出来した。これから飛行機に乗るときは、どこかの国が戦争している時に限る。トルコのイスタンブールに着いたときは27日の朝午前七時五十分を過ぎていた。直ちに観光が始まった。24時間の飛行機の旅だったが、シンガポール美人のサービス、ガラアキの座席でぐっすりと寝ることが出来体力は完全に回復していた。直ちに観光が始まった。イスタンブールの町 アヤソフィア大聖堂。325年コンスタンチヌス帝によって立てられたが、いく度かの火災や修理がなされ1934年アタチュルク大統領によって博物館に指定された。トルコの代表的建物である。聖母マリア、洗礼者聖ヨハネとキリストを表したモザイク、トルコイスラーム装飾。全能の神アッラーとモハメット、彼らの孫達、などキリストとイスラームの世界の融合がなされているトルコである。トプカプ宮殿、地下宮殿は、イスタンブールの重要な城であり市民の守りの為に建てられた宮殿である。

 そしてヨーロッパ側のトルコ高原を走り、ダーダネルス海峡の船の旅でアジア大陸のトルコのホテルに着いた。ダーダネルス海峡、金閣湾、船のたびは歴代トルコの壮麗な宮殿や城、現代建築の粋を誇る偉大なトルコ、世界を制覇したその昔のオスマントルコ帝国の面影が残っていた。ここからチャナッカレのホテルに着いたのは午後6時を回っていた。トルコは平和な国である。日本人大歓迎、空港の検問も無く、トルコ側ガイドのカーンさんの案内が始まる。同じバスで10日間のトルコ周遊の旅である。

トルコの首都アンカラの町で、トルコ建国の父、アタチユルク廟の見学をしました。トルコ独立戦争で勝利し、トルコ共和国を樹立した初代大統領の慰霊が祭られています。多くのトルコの学生や民間人、世界中からの観光客が訪れていた。トルコ独立戦争の映像は印象に残った。

イスラームの文化を求めて。パキスタンから中国ウイグル自治区共和国、中央アジア、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンを訪ねた私は、昨年の秋、ヨルダン、シリア、レバノンの旅を続けた、今年は更にイラク戦乱の中、トルコ共和国を訪ねることに成功しまた。仏教はインドのネパールに始まり、偉大な釈迦が2000年の昔、悟りを開き人々を教化しました。イスラームは釈迦やヒンズー教より歴史は新しい、然し、砂漠の民に厳しい戒律を課し、人々を導きました。イスラームとは何なのか。今回の旅では分からなかった。トルコの民はイスラームとはいえ比較的自由である。女はベールを被らず、顔を現し、男女が肩を抱き合い町々を歩いている。男社会とはいえ女も働いている。ヨーロッパ文明とアジア文明の衝突するトルコ、いや、二つの大陸の架け橋と云われるトルコは、地中海文明の明るさと、エーゲ海、ギリシアやエジプトや中近東を支配したかってのオスマントルコ時代の誇り高い民族の歴史を背景に、かっての昔、世界を支配したモンゴル族の後裔であるとの自尊心に似た自信を今も信じてい増した。砂漠の民モンゴル族が西に進み、ヨーロッパやアジアの民の融合により現在のトルコ民族が生まれたと言われている。中国から東に進んだ民は日本列島に流れ着き育ったといわれている。従って、日本人とトルコ人の先祖は同じです。とは、トルコガイド「カーンさん」の説である。トルコの宗教は99%がイスラーム教である。対日本との関係は非常に良いです。


 
顔丸出しのイランの女子学生。日本の女性より開放されている。

イランの研究
「イランは古い文明と歴史を持つ国です。イランを旅して各地方の古い遺跡を見ることで、人間が社会で生活をするためにどのように秩序が作られていったかがわかると思います。「文明の道」を見ることで、イランの歴史、文化、風俗、習慣の一部を知ってもらへたら幸いに思います。日記ふうに毎日、パソコン持参で書き込んだが、私にはそれほど太古の遺跡などどちらでもよかった。問題はある程度、過去の歴史の中から、現在のイランを知り、イスラームの思想と世界の動きを知りたかった。従って近代のイランの歴史、現代のイランの現状認識が最も興味と研究の焦点にすえて、いろいろ様々な本を読んでいる。

第二次世界大戦後イランはアメリカの強い後ろ盾のもと、「白色革命」と称する工業化を推し進めした。国王による白色革命は貧富の差を広げ、農村の荒廃を招く結果に終わった。国王の圧制に対する民衆の不満は高まり、その動きは全国に広がり、ホメイニー師を代表者に担ぎあげた。1979年1月アメリカと親密な関係にあったイラン国王パーレビが国外に追放されました。大規模反国王のデモがイラン全国に広がり、国王は権力の座を追われました。 まもなく、国外に追放されていたイスラームの指導者、ホメイニー師が帰国し彼を最高指導者とするシーア派のイスラーム共和国が誕生しました。ホメイニーのイスラーム共和国は、アメリカの好むところではなかった。又イラン人のイスラーム教は、資本主義と西洋物質文明とは相容れるところではなかった。 アメリカは反共路線をとるイラクの「バース党」指導者サダムフセインを支持し、イラク大統領就任を歓迎しまた。イラン革命と、イランイスラーム共和国誕生の背景には、近代化と西洋化に対するシーア派、イスラーム教徒の激しい怒りがぞんざいしていたのです。

 私が話した五人の家族イランの家族の人たち、私が「ジャパン」と言ったら「おしん」と、娘が言った。

 イラン女性は、全身チャードルと呼ばれる黒の服装、頭にネッカチーフのような布のを巻いてい増した。然し、これも長年のイランの風土、気候から顔と体を護るための生活の知恵なのだなーと分かってきました。男は帽子を冠った人が少ない何故だろう、肌を絶対見せないイラン女性だが、近年には黒のスカーフから顔は丸出し、写真も撮らせてくれる。黒の服装はみんな美女に見える。高貴な黒のスカーフ、切れ長の目、高い鼻、ヨーロッパの民族とそう変わらない。北方アーリア人、ギリシア人、アラブ人、幾多の民族が数千年にわたり混血して生まれた多民族国家、いく度か逢ったイランの女性はみな解放的だった。 イランの休日は金曜日である。イスラームのモスクは 註 {教会、又は寺院} は国内至る所にあった。イランのイスラームモスクは殆どがシーア派であるが今回の旅ではイスラーム以外のゾロアスター教やアルメニア教会の視察もしました。 私は「ジャパン」と名乗った。「おしん」と、家族の娘が言った。おしんの物語を知っていた。私は確りと、イランの逞しい男と握手しました。妻と娘たち、老婆と五人家族だった。写真を撮ってもよいかと、手まねで聞いた。言葉は通じなくとも心は通じる。国際親善外交、私は安心しました。そして又一人のイランの友人が生まれした。もう、集合の時間が来ていた、イランの五人の家族と別れました。何時までも手を振ってくれました。ペルセポリスの廃墟の城址、と、五人のイランの家族は何時までも私の心に残っています。

 

パキスタン、中国国境に立つ5700mの地点
 中央アジアウズベキスタン。

私はインド、パキスタン、ネパールの旅からシルクロードの砂漠の旅にめり込みました。イスラーム国では真っ先にアフガン戦争が終わった年の春、日本人の乗り入れ第一号機で中央アジアのウズベキスタン、に行きました。第2日目。サマルカンドの「アフラシアブパレスホテル」で、イランハタミ大統領と同宿でした。28日朝、イラン大統領の写真を撮りました。日本から来た私たちに、イランのハタミ大統領は満面の笑顔で、数十センチまで近づき、パチパチと写真を撮らせてくれました。大統領は「ハワルユー」と話しかけて来ました。じっと私たちを見つめられた後、出発されました。ハタミ大統領に会えたことは感動でした。日本から来た一般観光客に警戒する様子も無く写真を撮らせてくれました。イラン外相、政府高官など多数泊まっていました。ホテルから町の外に一歩でると、途端にサマルカンドの町は一日中厳戒態勢が敷かれ、一切の車が交通規制されました。ウズベキスタンや、中央アジアの国々と、イラン、ソウジアラビアなどの国々は同じイスラム世界であり、多くの民族が入り交ざっています。多民族国家が日本以外の国々には当たり前です。

 ウズベキスタンともに中央アジアの人たちは対日感情が非常によろしい。ソ連人より日本人に好感を持っていることが肌で感じられました。日本人も起源は同じ民族「アーリア人」だと思っているようですし、中東、アジアの人たちは日本人に敬意と羨望の眼差しとともに、同じ起源のアーリア人としての共感をもっています。サマルカンドのローカルガイドは、トルコ系タタール人のデイリア、アビブッラエフさん、30歳だった。第二次世界大戦中、スターリンが強制移住させたクリミアタタール人100万人の子孫だという。戦後多くの人はクリミア半島(現ウクライナ)に帰ったが、経済的にはまだウズベキスタンの方がましであると残っているのだという。テルメズ遺跡は、今アメリカのアフガニスタン空爆の前進基地として危険地域であり、私たち一般の観光客は行くことが出来ない。このたびのウズベキスタンの旅はその多くがイスラム文化の寺院や城が多かったが最後に訪れた「ハムザ芸術学研究所」で加藤九ぞう教授 {注、国立民俗学博物館名誉教授} をたたえる現地係官の説明を聞き、そして、多くの仏教遺跡とその貴重な土器などに接することが出来たことは最大の収穫であった。又「南ウズベキスタンの遺宝」創価大学発行の資料を購入することが出来た。{注加藤教授はウズベキスタンの仏教遺跡の発掘に長年努力されていた。元創価大学教授。私も奈良や大阪でシルクロードの旅の会合に参加しました}

 チンギスハーンに率いられたモンゴル軍がテルメズに突入したのは、1220年秋であった。これは中央アジアの大部分が占領された後のことで、テルメズは11日間の包囲攻撃のあと占領されました。チンギスハーンの命により住民の多くは殺され、都市は廃墟となった。チヤガ二アンはエスン-トゥワの後えいの世襲的領地と考えられた。その後ウズベキスタン南部はチムールの領土となった。アレキサンダーがインドに攻め込んだ。インダス川を渡ってから約千年後、玄奘三蔵が此を渡ったらしい。1000数百年後、日本人の私たち調査団がインダス川のフンドの村に来ました。突然訪れた日本人のバスに鶏は叫び、多くの住民が集まってきました。玄奘三蔵はその昔、「ここしか渡れる所はない、」と、土谷瑤子教授の説明であった、


パキスタンの村人たちフンド村はインダス川の中州に有ります。フンド村はインダス川の中州にあり自然の要害となっていた、その村に突然百人を超える日本人観光客が訪れました。

世界で一番不自由なくに、「テロにおびえるアメリカ、ニューヨーク。」

私たちがアメリカを語るとき、9、11の悲劇だろう。アメリカに来てアメリカに入国するのに何故こんなにも警戒するのだろう?と、誰しも思う、が、この警戒と徹底した入国審査、指紋の検査、写真など徹底した検査があったから、再びのテロが防げたのだろう。と、アメリカの旅から帰り思うこのごろである。イラクのテロはいたし方ないとして、アフガンや、パキスタンのテロは何故起こるのか?中国でのテロ撲滅に徹底した治安維持のため、チベットを抑圧しているのか?日本のような平和な国で暮らしていると、平和とはみんなが平和に自由を唱えていれば維持できると考えている。平和ボケした日本人。戦争を知らない世代の日本人には考えられない世界の現実がある。日本の国を一歩外に踏み出したとき実感するのである。

ニューヨーク9.11テロの工事現場。ワールド、トレードセンター跡地。ウオール街付近か?

 ボストンからニューヨークへ、ニューョークからワシントンへ。車外に広がる風景、何処までも広がる起伏した平地の雑木林。日本のような人工造林ではない、まっすぐに伸びた雑木林が何処までも広がっていた。アメリカ東海岸、ニューョークの人口は多い、然し、雑木林の中に展開する農地と農村、これなら京都議定書に署名しなくても公害は起こらないだろう。またニューョークの街にも煙や排ガスなど少ない、広い道路、上に煙突を解けた車が排ガスを上空に吹き上げた車が走っていた。日本のトラックのように後ろに煙を噴出す車は少ない。日本の25倍の面積に二倍の人口、京都議定書など批准する必要は無かろう?と、アメリカを擁護する積もりはないが人口比率と面積を考えればそうなるだろう。ニューヨーク。自由の女神、国連本部。9.11テログランド.ゼロ。ウオール街。アメリカではニューヨークが経済の中心地であった。9、11テロの被爆地の復興工事現場を見た。テロの影響は今もアメリカに長く尾を引いている。空港乗り場、マンハッタンの夜景を見るためにロックフエラーセンターに行く、長い行列と持ち物の検査。リバティ島の自由の女神、船に乗ろうとしたら又長い行列と身体検査。飛行機に乗るたびに荷物と身体検査が行われている。飛行機の中でも液体の持ち込み禁止。おまけに酒、ビールなどサービスが無く、500円取られる。自由の国アメリカ、然し、世界中で一番不自由な国に成り下がっている。以上。私の旅行記。ホームページより抜書きしました。
 

 

「中東では1948年のイスラエル建国以来、イスラエルとアラブとの間に何回にもわたって激しい戦争が戦われてきた。それ以外にも中東では、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争、レバノン戦争といった戦争が相次いで起こり、いまなお戦火が止むけはいはない。 他方、イスラーム復興運動は、イランのイスラーム革命やアフガニスタンにおける「イスラーム戦士」の反ソ軍事抵抗などを機に勢いを増し、その一部の勢力は過激なテロ活動を展開し、とりわけ「911」同時多発テロ以降は、全世界の注目を集めるに至った。 中東はまた大量の石油資源を有し、とくに日本は中東の石油に大きく依存しているにもかかわらず、多くの日本人の中東問題に関する知識は必ずしも十分とは言えない。ましてやイスラームに関しては、よく知らないと言っても過言ではない。」この項。大学連携ひょうご講座、「中東問題とイスラームへの理解を深める。」が、私は現地のイスラーム諸国の旅を10年間続けました。「百聞は一見に如かず。」耳学問より実際の国に出かけることです。

 「アメリカとの戦争に勝利した世界で唯一つの国ベトナム」

 アメリカに勝った世界でたった一つの国、「ベトナム」今、ベトナムは10年前の中国のようにベトナム全国にオートバイの群集がひしめいていた。日本の九州を除くくらいの面積。8、000万人の人口、ベトナム社会主義共和国。「ホンダ」オートバイ人気絶頂だった。ベトナムにはオートバイの運転免許は必要なかった。二人乗り、三人乗りが普通である。車はまだ少ないが全国の若者にオートバイは唯一の足である。「アメリカに勝った世界で唯一つの国」の自尊心がこの国の若者の心の支えになっていた。「ホーチミン」は国父であり、フランスからの独立戦争に勝利、アメリカに勝利。中国の侵略にも抵抗してベトナム社会主義共和国を建国した。
米が最大の輸出産業であり工業生産は私たちが見て回ったところには少なかったが、豊富な動労力と安い人件費。 恵まれた青々とした農村地帯と長い海岸線。8000万人という膨大な人口と自然に恵まれた地形。何よりも世界でアメリカ合衆国に勝利したと言う自信と、結束力のある民族である。辛抱強く、粘り強い、よく働く愛国心の旺盛なベトナムの人たちに感動を受けました。

ベトナムにはオートバイの運転免許は必要なかった。
 世界を旅すると、闘いには勝たねばならないことが嫌というほど身にしみてくる。
 「アメリカとの戦争に勝利した世界で唯一つの国ベトナム」そんなこと考えたことは無かった。おそらく日本人の誰も考えてはいないだろう。ベトナムに行き、ベトナムの若者の生の声を聞いた。「本当にそうだなー」と、改めてベトナムの民衆を見直した。何がベトナムの民衆をアメリカとの戦争に勝利させたのだろうか?ハノイはその昔の「サイゴン」である。海岸線の長い、細長い国ベトナム。農業人口が国土の80%を占めている。農民である。日本の明治時代に世界の大国ロシアに勝利したのは農村出身の農民であった。「又も負けたか8連隊」そんな歌を子供の頃歌っていた。8連隊とは大阪師団のことらしい。「ニッポン勝った、ニッポン勝ったロシア負けた」大正年代の頃の日本の若者の歌を母が歌って聞かせていた。 明治に生まれ大正年代に育った母の思い出の歌だったろう、父を日露戦争で亡くした母はそれでも日本がロシアに勝ったことがせめてもの慰めだったのだろう。



 ニッポンはアメリカとの戦争に負けた。東条が悪い、軍国主義が悪い、と、戦後、全ての責任を軍隊に押しかぶせる風潮があった。「靖国神社参拝」を小泉総理が強行した。戦後の総理大臣は誰も躊躇していた「靖国神社参拝」である。敗戦いらいためらっていた国民は拍手喝さい。それも時代の流れである。然し、そのため周辺のアジア諸国との中は極端に悪化している。早く軌道修正する必要が生まれている。「小泉引退」は歴史の流れである。 世の中は私がいつも言うように、スキーのウエデルンの原理である。運動とは右に左に動いていても一定の速度と回転弧を描きながら真っ直ぐの線を進んでゆく。運動の法則である。私は軍国主義者を褒めてはいない、あくまでも歴史的事実を述べているだけである。小泉総理には度々靖国神社参拝を止める様メール送信した。然し、やめたら小泉の人気は失墜するだろう。それも歴史の現実である。
 世界を旅すると、闘いには勝たねばならないことが嫌というほど身にしみてくる。スポーツの世界でも、市場競争でも、株式市場でも、農業の世界でも、病気との闘いでも、国と国、民族と民族との闘いでも負けたらあかん。ベトナムは何故アメリカに勝ったのだろうか?その疑問に答えてくれるのは実際のベトナムに行ってみることです。


 皆さん西遊記を知っていますか。中国の有名な高僧。玄奘三蔵が17年の歳月をかけて長安の都を出発したのは7世紀の頃でした。三蔵法師。孫悟空。そうした名前で描かれた小説を西遊記といいます。そして天竺まで行く仏教の経典を求めて旅にでました。西遊記。三蔵法師。孫悟空。仏教の経典を求めたシルクロードの旅。このロマンを求めて私は天竺まで行って来ました。

左二人め藤原、右白鳥正夫、出版記念会にて

「文さん」の果てしないパワーに万歳文化ジャーナリスト 白鳥正夫さんから平成21年11月1日激励の文。以下をいただきました。有難うございました。
行けども行けども砂漠は続く。七世紀に長安(西安)から天竺(インド)まで仏教の経典を求めてシルクロードを旅した玄奘三蔵法師。ほぼ十年前、その道を追体験する旅で、藤原文男さんを初めて知った。その後、シルクロードの集いで何度かお会いした。この間、ホームページやメールを通じ、通称「文さん」の活動を知った。なんともすさまじい好奇心と実行力に驚かされた。生涯かけ求法に生きた三蔵法師を彷彿させるような信念の人だった。二〇〇七年四月のメール。「インド、パキスタン、ネパールから中央アジア、新疆、ほぼ中国全土を席巻。シルクロードの旅ももう行くところが無いほどで、完了しました」。その後も、私はベトナム・アンコールワット・イランの旅でも先を越された。 そして二〇〇九年五月。「私も七十九歳、もう世界の旅は卒業しました。が、政治評論、経済評論、株式投資の研究、地元の諸々の諸団体に参加、数年前からビデオの編集と、パソコンでのDVDへの焼付け。などある程度撮影と編集に自信がもてるようになりました」とある。ひと回り以上も若く、好奇心だけは旺盛な元新聞記者の私も脱帽だ。 そして今度は、「但馬地域の発展と世界の旅を一冊の本にまとめました」という。いやはやそのパワーには恐れ入る。混迷の時代に、自らの人生を切り拓く姿に、多くの人が共鳴し、元気付けられることであろう。「文さん」の生き様をみていると、サムエル・ウルマンの「『青春』という名の詩」を思い起こす。「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう。(中略)たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす」。あの果てしない砂漠のように、100歳になっても青春真っ只中の「文さん」であり続けることだろう。元朝日新聞社企画委員」白鳥正夫

平成21年10月31日私の友人白鳥さんは朝日新聞シルクロードの旅などをプロデュースした企画委員で元鳥取と金沢の支局長を務めた方から送られてきました。歌です。

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