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ウズべきスタンから新疆タクラマカン砂漠縦断、西安、シルクロードの旅

竹野町公民館高齢者講座原稿。平成22年5月27日

 ネパール、インドにうまれました釈迦と仏教はパキスタン、アフガニスタンを経て、ウズベキスタン南部から中国に伝わりました。 ウズベキスタンのテルメズ遺跡は、アメリカのアフガニスタン空爆の前進基地として危険地域であり、私たち一般の観光客は行くことが出来なかったです。このたびのウズベキスタンの旅はその多くが最後に訪れたましたハムザ芸術学研究所で加藤九ぞう教授をたたえる現地係官の説明を聞き、そして、多くの仏教遺跡とその貴重な土器などに接することが出来ました。
     
  
 テルメズから発掘された仏像。       ハムザ記念芸術学研究所長
2002年4月26日ー5月3日まで、中央アジア、ウズベキスタン、仏教遺跡、イランハタミ大統領と会う、写 真動画を撮る。
 
クャン王国時代には、トハリスタンの僧院や、聖堂を形作る仏教的彫刻があらわれた。その現象は西北インドのガンダーラ派に起源している。ガンダーラにおいて、仏陀、菩薩、その神話的、地上的取り巻きの規範がつくりだされた。仏陀は説教者として、瞑想し悟りを開いた仏陀としての規範がしめされている。市外の寺院から発見された一部の像にはインドというより、ギリシア的理想に近くその影響を強く受けているものがみられる。
  
  仏教はウズベキスタンの南部から、アムダリャ川の上流に上り、パミール高原を経由して中国に伝えられた。従ってテルメズは仏教の東方流伝の基地であったといえます。東方とは中国の方向ではないか? テルメズには相当数の仏教徒がいました。加藤九ぞう先生もカラテパの仏教遺跡の調査を始められました。又ソ連時代、外国人の行動が難しかった頃から、加藤先生始め日本の学者の方々が、ウズベキスタンの学者と共にダルベルジンテパの発掘に協力して下さいました。」玄奘三蔵の大唐西域記にも書かれている地方を視察しました。


           
   
綿花農場の学生たち  ウズべキスタンの建築


 
今注目されているイスラム文化の国、新疆ウイグル自冶区とはどんな国なのか。私が見たウイグル自冶区共和国。

 

何処までも続くタクラマカン砂漠の道路何処まで行っても村は無かった。隣村まで100キロくらい走るとオアシスの村があった。 中国 新疆ウイグル地区の砂漠、道路の両側数十メートルには飛び砂防止の施設が数百キロ施行されていた。  私たちは西游旅行のご好意により14名の少グループで新疆の広大な砂漠を縦断できた。
いま新疆タクラマカン砂漠の真中にサウジアラビアに劣らない油田が開発され操業されていた。

新疆ウイグル自冶区。シルクロードの西域といわれる地方とはどんな所だろうか、私は15年前中国の西安を訪れた。ここがシルクロードの起点だと知った。何時の日か西域に行こうと考えていた。
西と北はモンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガン、パキスタン、インドと国境を接している。面積166万平方キロメートル、人口1700万人、ウイグル族を主とし漢民族、カザフ族、回族、蒙古族、キルギス族、シポ族、くじく族、タタール族、ウズベク族、ダオール族、満州族、ロシア族など多民族が住んでいる。自冶区の首府はウルムチにある。北にはアルタイ山脈、崑崙山脈中央に天山山脈があり新疆を南と北に分けている。砂漠とオアシスの町と云っても過言ではない。 
新疆はアジアの中央に位置し、南アジアと西アジア、ヨーロッパを結ぶ「シルクロード」必径の地である

 高昌国が栄えた頃627年、玄奘三蔵は国禁を犯してインドへ求法の旅に出た。大唐西域記によれば玄奘はこの地に40日間滞在し仏典の講義をした。高昌王国は640年に唐に滅ぼされた。17年間かけてインドの旅を終えて玄奘三蔵が高昌国に帰ったときには既に滅びていた。

パキスタン国境から、クンジヱラブ峠を越えたら、ウイグル自冶区共和国ですが私はどうしてもこの中国ウイグル自冶区に行きたいと考えていました。ウイグル冶自区はイスラムの世界です。中央アジアやパキスタン、ギリシア人との混血民族です。従って漢民族とは本質的に違います。2001年四月その念願がかなって行って来ました。

    
  ウイグル火焔山 砂漠の油田ウイグル自冶区
イスラムの祈り、ウイグル自治区。  
 中国のウイグル自冶区共和国は中国に接収されて都会の利益の上がる都市部にはほとんど漢民族が植民地として入植しています。ウイグル族は砂漠の利益の上がらない広い農業地帯に散在しています。 中国はウイグル自冶区共和国を 植民地として今、数百万人の漢民族をタクラマカン砂漠のオアシスの町々に入植させ、石油開発や利益の上がる産業に送り込んでいます。

ウイグル族は殆どイスラム教を信奉しています。このウイグル自冶区だけでも六十種族の民族がいます。民族の紛争が中国もパキスタンもアフガニスタンも一番困った問題です。砂漠のウイグル族の生活は意外と豊かでした。どの家庭にも電気、テレビ、自動車が入り農機具も入っていました。


砂漠の中で。遊牧の民の名残が残る人たち。

 新疆ウイグル自治区でテロが起きています。テロは何故起こるのか?私の見た新疆、砂漠の中に石油の油田、其処におおくの漢民族が新疆を植民地として入り込んでいました。都市の収入の多い地域には中国漢民族が支配しています。中国には60種族以上がいると言われています。「クチャで起きたテロ」新疆はウイグル族にとり自分たちの祖国です。そこに入り込んだ他民族。と言う意識があります。ウイグルの人たちは日本人に親切にしてくれました。日本人に顔も形もよく似ています。同じ血液の人類です。一度読んでみてください。 私たちもウイグル族の人達によく似ている。日本人の差別が無い。現在のウイグルは殆どイスラム教である。多くの仏教遺跡で仏像の顔が殆ど破壊されていた。イスラムによる破壊と文化大革命で紅衛兵が徹底的に破壊したとの事であった。残念である。中国政府は遺跡の写真を取らせなかったがこうした。破壊の現状を見られたくない為であろうと思われた。

シルクロードの町々には桑の木が見られた。砂漠にはぶどうが多く栽培されている。ポプラの木を切り町に売りに行く。シルクの機織工場もあった。日本から技術移転がなされていた。 カレーズの洞窟。砂漠の地下に延々と数十キロ水路を造って水を引いていた。この水路を利用してぶどうやポプラ並木が出来る。桑の木も栽培され、養蚕も飼育されている。絹製品も多く販売されている。                      
ウイグル族は美人が多く日本人にそっくりの人々が多い、皆親切であった。私たちもウイグル族の人達によく似ている。日本人の差別が無い。現在のウイグルは殆どイスラム教である。多くの仏教遺跡で仏像の顔が殆ど破壊されていた。イスラムによる破壊と文化大革命で紅衛兵が徹底的に破壊したとの事であった。残念である。中国政府は遺跡の写真を取らせなかったがこうした破壊の現状を見られたくない為であろうと思われた。


      莫高窟。                      敦煌、鳴沙山に登る、月牙泉。

「シルクロード」は、そもそも唐の時代、現在の西安から新彊ウイグル自治区へシルクを運ぶ道。それがやがて古代ローマへ延びてさらに細分化した。シルク以外にも絨毯や玉石などの工芸品、仏教やイスラム教などの思想、異動する民族など、時代の変遷とともに様々な文化を運び、ユーラシア大陸の東西交易を発展させた。民族の壁だけでなく時空も越えて、日本文化の源流に繋がる壮大なスケールの道。かつて古代シルクロードの中心地であった「新彊ウイグル自治区」には、砂漠化の進む大地に流れる河川を沿ってオアシス都市が点在する。

 中国、シルクロードの仏教東漸の地、敦煌に行って来ました。1993年西安の大願塔に立ってから何時か西域のシルクロードの旅をしたい。と、その夢が叶いました。夏の盆過ぎの頃、敦煌行きの旅行社を探したところ阪急交通社が8月19日関空発で催行決定との連絡を受けました。敦煌に行く目的は何といっても世界遺産の莫高窟です。そして砂漠の中の夢の園。おとぎ話で有名な「月の砂漠」の「鳴沙山、月牙泉」です。10年以上前からこの夢の園、月牙泉と鳴沙山に登って見たいと思っていました。




 
中国甘粛省、河西回廊の西部に位置する敦煌は古代よりユーラシア大陸東西交通路としてのシルクロードの要衝であり、仏教はインドからこの地を経て中国に伝来した。莫高窟は敦煌の東南25kmにあり、「敦煌石窟」とも言われる。鳴沙山の東に向いた断崖に掘られた石窟で、海抜1400m、敦煌の町より300m高いところにある。

     月牙泉。と鳴沙山                  砂漠の駱駝。

 月牙泉までの道は駱駝に乗って行きました。数百匹の駱駝の群れが観光客を乗せていた。凄い観光産業である。
このあたり一帯が駱駝の糞の匂いが風で流れてくる。臭い、砂山は砂ばかりの山であった。この山に直登しました。
やっと頂上に立った。素晴らしい景観だった。下るときには裸足になり真っ直ぐに小またに下りました。スキーで下るのは慣れています。

 
夜の星空は綺麗だった。鳴沙山に登るとき、途中で何回か立ち止まり休憩した。頂上はすぐ其処に見えていたが、中々登れない。頂上に登ると更に次の山があったが此処で座り込んだ。1時間ほど過ぎた頃から星空が見えた。北斗7星が見えた。鉢伏の私の家で見る北斗7星も同じ星だろう。秋の夜空に見る星空は綺麗だ。

 誰かが「月の砂漠」の横笛を吹いていた。多分、書道の先生だろう。自己紹介が無い旅行だった。たった10人の日本から来た仲間だ。仲間の名前も分からない旅行、西遊旅行は夕食のとき必ず自己紹介の時間を作っている。ガイドが中国人だ。日本人の気持ちが分からないのだろうか?歴史の知識が少ない。 持参していた函ビールを飲んだ。酔うと砂漠の山を下るとき横に落ちたら這い上がれない。皆で一口づつ分け合って飲んだ。「もう下りようか」私は早く帰りたかった。懐中電灯の明かりを頼りに皆で一列になり下った。夜の暗い道を駱駝の通る道を歩いて車の待つ明かりの方角に歩いた。下にはガイドの省文さんが待っていた。


  何処までも続く砂漠。                    敦煌賓館入り口の葡萄門
 何処までも続く砂漠
。オアシスの町敦煌を一歩踏み出すと、もう其処には広漠たる砂漠が果てしなく続いていた。
7世紀の昔、玄奘三蔵はこの砂漠の道をあるいて次ぎのオアシスまで歩いた。何時の日か着くだろだろうインドをめざして進んだ。言葉の分からない他国ではどのように交渉したのだろうか?不屈の精神、忍耐力、強健な体力、と記憶力。「大唐西域記」には詳しく書かれている。玄奘三蔵のシルクロードの旅に朝日新聞がパキスタンの旅を募集していた。その年から私のシルクロードの旅は始まった。翌年、インド、ネパールに行った。その翌年中央アジア、ウズベキスタン。新疆ウイグル自治区。そしてローマまで毎年旅をした。台湾海峡から西安まで2400km、弘法大師の足跡をたどる旅に18日間参加した。今年は最後のシルクロードの旅である。私が最長老だった。が、元気さは誰にも負けない。食事は野菜が多く出される。毎日が精進料理である。血圧には最高の料理である。シルクロードの砂漠の中ではこうした野菜料理は高給な食事なのだろう。毎回美味しく食べました。


          
                          

 
莫高窟は整備された建物から窟が見られる。が、鍵をかけている。有名な窟の入場料は値が高いらしい

 莫高窟の壁画は4世紀から約1000年の間、幾世代にもわたって描かれてきた。敦煌の文化は、シルクロードの乾燥した自然環境の中で生まれたが、最近の研究では、石窟内の地中にある湿気が塩分を溶かして化学変化をおこす塩害が壁画劣化の主な原因との見方が強まっている。敦煌研究院は今春から、すべての壁画の傷みの状態を把握できるカルテづくりに乗り出す方針だ。   

 
                    玉門関。           河倉城の遺蹟
敦煌
 東西の文化がいきかった道シルクロード、その要衝の地「敦煌」悠久の昔より東西文化の集積の地であった敦煌。そこに花開いた仏教文化を始め数々の東西芸術は名もない庶民により営々と描きそして刻まれてきたものである。
そこに今でも生きずく民衆芸術の数々は時代を越えて現代へそして未来へ、ダイナミックな文化交流とそこに生まれる文化芸術のあり方を示唆してくれていると思えてならない。
 

 仏教美術の宝庫として知られる中国の世界遺産、敦煌・莫高窟(ばっこうくつ)の石窟内に描かれた多数の壁画の劣化が急速に進んでいる。剥落(はくらく)や亀裂、かびの繁殖による傷みのほかに、壁画の広い範囲が下地ごとはがれ落ちるなど瀕死(ひんし)の状態のものも少なくない。地元の敦煌研究院は、日本や欧米などの研究機関と共同で保護対策や修復作業を急いでいる。

 莫高窟にはカメラやビデオの持込禁止であった。従って壁画は一枚も撮れなかったが、写真の画像集を買ってきた。
私たちが見た窟は、一般窟、16、17、61、62、63、96、130、148、249、328、特別窟、56、217、254、を見ることが出来た。其の他の画像は本で見る以外方法は無かろう。が、色々様々な本で見ている。


        西千仏洞                              東河砂漠の中に何時しか消えてゆく川です。

8月26日
 シルクロードの町敦煌から帰ってきました。砂漠のオアシスの中に敦煌の町は出来ていた。西安から天水、武威、酒泉、嘉峪天、玉門市、安西を経て敦煌に至る。砂漠の中に出来た町、西安から西に行くと西域と呼ばれる新疆ウイグル自治区になる、が、どうしても敦煌のオアシスを通らないとならない要衝の地である。南に祁蓮山脈、青海省の砂漠地帯。北には」蒙古がある。シルクロードの駱駝の隊商はどうしてもこのルートを通らなければ西域との交流が出来なかった。
天竺といわれたインドの仏教もこの敦煌のオアシスを通過して中国に伝えられた。中国全土で作られた絹もこのルートを通って中央アジアからペルシア、メソポタミア地方、ローマ、ギリシアの国々に交易がなされて行った。その敦煌の町から程近いところに莫高窟が出来ている。洞窟の中に多くの壁画が描かれていた。西千仏洞も東河の沿線に出来た洞窟である。現在は東河に巨大な河川工事の堤防が建設されて西千仏洞が洪水から守られていた。凄い泥水の洪水が急流となって流れている。この東河には丸い石が累積していた。地球が出来てから長年かかって此処まで流れてきました。
 
タクラマカン砂漠の奥地から敦煌砂漠にも、黄土高原も今、中国全土で植林、緑化が進んでいた。


 砂漠のオアシスの町に空港が出来ていました。私が1993年始めて訪れた西安、ここからシルクロードの旅は始まった。改革解放の躍進する中国は今、内陸部まで整備が進んでいた。トイレの整備、砂漠の辺境の町敦煌の空港も整備が進み、多くの中国の旅行者の姿も見えた。もう、中国は発展途上国ではない、先進国である。ホテルの設備も進んでいた。現地ガイドの省文さん有難うございました。

インドのネパールに発生した仏教は、パキスタン、アフガニスタン、ウズべきスタンなど中央アジアの砂漠の国を経過して、ウイグル自治区の敦煌を経て中国西安に伝えられました。一方、ネパールからチベットに伝わる仏教の流れもありました。私はそれらの仏教伝播の歴史に興味を持ち、インド仏教、チベット仏教、中国の仏教、日本の密教。と、高野山大学大学院に学ぶ切っ掛けにもなりました。

ガンダーラの仏像の起源を求めて、イラン、シリア、トルコ、ギリシア、エジプトなどのイスラム世界の旅を続けました。 イスラム世界とともに、キリスト教文明にも若いときから興味をもちまして、その歴史や思想史の研究も続けています。世界の対立はすべて宗教と思想、人間の民族問題が対立の根本にあります。


金子貴一氏同行シリーズ第2回空海入唐1200周年 真言密教求法の足跡をたどる旅に参加しました
2004年8月9日関空発。8月24日帰国です。
今年は空海が真言密教を求め入唐してから、ちょうど1200年目になります。804年、摂津国難波津(現大阪市)を出港した4隻の遣唐使船団は台風に遭遇。2隻は行方不明に、大使と同乗した空海の船は、8月10日に福建省の赤岸鎮に漂着します。これが、本企画が1200年目の8月10日に赤岸鎮から始まる所以です。その後は長安までの空海の歩いたルートを、出来るだけ忠実に辿って行きます。翌805年の同じ8月10日、空海は長安で恵果阿闍梨より伝法灌頂を受け、「即身成仏」を主眼とする世界の密教の第八祖となります。そして、空海の帰国と同時に、2500年前の釈尊から始まり、部派仏教、大乗仏教、密教と発展してきた仏教の直流は日本に流れ込むのです。金子貴一

 中国の改革開放の研究、
 今回の中国訪問の旅は、紅衛兵と、それらを動かした文化大革命の嵐のなかで、中国の古い伝統と風習と、伝統に基ずくすべての文化的遺産のすべてを打ち砕き、特に今回私達が見学と研究に訪れていた「弘法大師、の足跡をたどる旅」で歩いた仏教遺産は全て破壊されていた。弘法大師、空海が訪れ、勉強したすべての寺院を金子貴一氏の研究で、たどったが、空海だけでなく曹洞宗大本山、杭州市の浄慈寺に如浄禅師之墓は山の岡の上にひっそりと立っていた、人郷離れた山中の墓は幸いにして、文化大革命の嵐の中も切り抜けて、破壊を免れた。
1000年以上昔の墓がそのままの姿で見られたことは、今回私達が中国を訪れた功績であると、自負している。
寧波から杭州市へ向こう途中、曹洞宗大本山天童禅寺を訪れた。ここの立派な仏像も破壊し尽くされていた
杭州市内観光では、{インドの僧慧理が健流立した杭州最大の寺院、「霊陰寺」の見学を済ませた。
これらの仏像の全てが破壊し尽くされていた。その後でそれらの仏像が中国革命以後急速に再建され、美しい見事な仏教、仏像文化の華が咲いていた。漸江省の仏教文化の殆どを訪れることの出来る旅であった。
その途中いくつかの他の日本人の旅行客とも話す機会に恵まれた。異郷とはいえ中国は日本の国の中を旅しているような錯覚に陥る旅であった。革命後の素晴らしい再建は、中国の土木建築技術の進歩と個人住宅の再生、高速道路の急速な整備、田舎の中の道路まで幅広く整備されている。全ての土地が国有地と言うことは、土地に対する不動産投資が必要ない、土地投資を伴わない設備投資が中国経済の発展に大きく繋がっていることは間違いない事実であろう。


但馬史研究会にも所属していますが、私は世界の様々な歴史や宗教、思想史に興味をもちまして、「百聞は一見に如かず」と、現地に足を運ぶ旅を続けてまいりました。

「但馬に生きて遥かなるロマンを求め、駆け巡る」今回私はこの本を発行しました。
何故私はこの本を発行し皆様に訴えたのか? 。それはこの本の「はじめに」と、「おわりに」書いています。
戦後私達が生きてきた時代、激動の時代でした。戦争中、そして戦後の農村は皆様ご承知の如く、食料増産、農業で生きる希望をもちまして、一生懸命百姓に取り組みました。林業では先頭に立って杉の木を植えて育てました。スキー産業では観光事業の先頭に立って民宿産業に取り組みました。
 合併運動では先頭に立って、美方郡熊次村と養父郡関宮村の合併に努力しました。そして新しい関宮町ができまして50年で消滅しました。新しい養父市誕生。然し、私達が一生懸命取り組んだ農業と観光、誕生した関宮町ですら全て消滅しました。民宿は日帰り化して宿泊産業はなりたちません。
農業はご覧のとおりです。林業は杉花粉を撒き散らし、台風と地すべり、大洪水の原因となりつつあります。がまあ、それは次の世代の人たちが遣ることです。そうした止むに止まれぬ気持ちを、「但馬に生きて」の本に書きました。

プロフィール出版記念1

「但馬に生きて遥かなるロマンをもとめ、駈け巡る」藤原文男著

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