index.htm へのリンク

草谷山荘アクセスindex10.htm 藤原睦幸のページ林間学校のページ

氷の山「ワイワイ、ガャガャ共同体」奈良尾民宿村

「ここから下」のページは草谷山荘の営業と関係ありません編集このホームページはフィクションです仮説です。全て面白く読むための小説です。「文さん、水戸黄門、」とは筆者藤原文男 19万8000人ご愛読ありがとうございました

 sub3.htm氷の山奈良尾民宿村草谷山荘の起源

     

文さんの日記

氷の山ハチ高原から写す。スキー練習

氷の山國際スキー場。奈良尾民宿村。氷の山登山道、魚つかみ場、飯ごうスイサン場、スキー場はすべて奈良尾村民宿の手作業で管理しています。

民宿草谷山荘のご案内。
 林間学校でご利用いただいて有難うございます。草谷山荘は明治12年建築の古い民家を改造して造られています。そのため段差が多いいですが、冷房設備はありません。が、氷の山から吹き降ろす風が夜の冷房効果を100%。昼は生徒さんは野外活動で冷房を必要としていません。電力欠乏のこのとき、節電には打ってつけの民宿です。経費縮減は生徒の皆様のサービスに振り向けています。安心して利用できます奈良尾民宿村。草谷山荘。今年もよろしくお願いいたします。


氷の山。奈良尾村の産業と歴史 
 氷の山国際スキー場の誕生
 氷の山国際スキー場が出来たとき、私の家は祖父が独立してから百三十年を経過していた。 祖父と父が汗と油で開墾した土地、生活の基盤の土地を国際スキー場造成の為無償で提供した。「柳とわさび畑を全部出した」私は父に告げた。ギロリと剥いた父の目は怒っていた。 父が死ぬ前の年だった。「いわなければ良かった。」その目は怒っていた。「わりやあー、うららが、100年かかって造った土地を捨てたな。」無言の目があった。あれだけ元気だった父が、がっくりしていた土地を全部、無償で提供しスキー場は完成した。私は農民としての生活の基盤を失った。戦いは背水の陣であった。今スキー場は赤字経営にあえいでいる。スキー場を造成したことが良かったのか失敗であったのか、それは今後の歴史が決めるだろう。 私が関宮町議会に立候補したのは、父が逝った明くる年、昭和56年私が51歳の時だった。今年平成23年、81歳を迎える。

旧慣に基ずく縁使用地について、明治憲法や土地登記法が確立される以前から耕作されていた土地。
 永代耕作権。土地は熊次村に登記されましたが奈良尾村の土地です。が、内容的には明治以前からの地権者、永代耕作権者にその土地の権利があります。スキー場造成のために無償で提供しましたが、永代耕作権は私藤原文男に権利があります。詳しくは地方自治法最高裁、判例参照。また、それ以外の土地は奈良尾村の他の人たちにも権利があります。村名義であっても個人の永代耕作権があります。



                

 奈良尾字要山の大清水は藤原の家で明治以前から開墾し作られていた、氷の山から岩や土にしみ込み地下に浸透した水がこんこんと湧き出している、水の出る土地は沃く肥えている土地である。山毛欅(ぶな)や紅葉の落葉樹が長年にわたり流れてきた氷の山の土は作物が良くできた。
  氷の山の奈良尾村の縁故使用地として土地は熊次村名義に登記され、日本国憲法や地方自治法が確立される以前。土地所有が確定される以前に祖父達は土地の開墾を完成していた。{旧慣に基ずく縁故使用地)その頃法律の知識に詳しい人達は自分名義に登記した。登記すれば税金がいる。無知な農民は税金を払わず耕作できる村名義の登記方法を選んだ。学問のある法律知識に詳しい人達は自分名義に多くの土地を登記した。柳ごうりの原料杞柳は、北向きの土地の氷の山の畑には、しなやかな柳の生産に絶好の特産地として但馬豊岡商人に好まれた。


    
 氷の山の村で最初から山の畑を開墾した祖父文次郎は良い土地ばかり開墾していた。兄藤三郎は明治元年三月十六日相続したが家出、祖父文次郎、安政元年7月17日に藤原家三男として生まれた。明治十二年家を継いだ。祖父は毎日柳づくりに精出していた、祖父の一生は働くだけの人生であった。四人姉妹の末子、長男として父、藤原喜三郎が生まれたのは明治二十八年、祖父と父は明治から大正年間に、杞柳の原料、行李柳の生産に家業を集中した。同時に養蚕などの現金収入を増やす為、土地の開墾を続けた。戦前と戦後の農業全盛期に私たちは成長した。私は藤原文男。  戦後水のある土地に山葵を栽培した。祖父のお陰で山葵を多く作る事が出来た。祖父が生まれてから百五十年以上の年月が経っていた。記録された文書によると明治十五年熊次の村々に始めて杞柳が作られ広がっていった。が、奈良尾柳は明治以前から作られていた。 奈良尾村の要山は北向きの富沃な土地で杞柳栽培に適している、


            
明治政府の創立と法律の整備
 明治十二年祖父が家を継ぎ独立した頃は日本の土地の登記も無く、明治政府の基盤が未だ確立していなかった。 当時の土地は旧慣に基づく土地使用権、入会権の土地であり、開墾しただけ自分の土地として耕作権が永代に認められていた。その頃漸く農民に農作物を自分の希望する作物を自由に作らせる制度が出来た、また土地や田畑の永代売買の禁を解いた、地租改正、財政制度の整備、封建的諸拘束の撤廃など急速に改革が行なわれた時代だった。 帝国憲法が明治二十二年制定された、戸籍簿の作成と登記などこの頃確定している、 百姓は百年の歳月の土台がないと成り立つ仕事ではない、

写真は氷の山国際スキー場。棚田を全部つぶしてスキー場は完成しました。が、田んぼを潰す事は先祖に申し訳ないと思っています。それだけにスキー場は何物にも変えがたい村の命です。


テレビを開いたら養父市議会が開かれていた。指定管理者の問題が質疑されていた。指定管理とは何か、何の問題なのか耳が遠いから良く分からなかったが、氷の山國際スキー場の指定管理の問題について一言書いておきます。奈良尾村の土地を昭和58年頃、スキー場用地造成のために私の土地を2町歩くらい貸しました。私の土地はスキー場のど真ん中にあります。法律の整備される以前から、明治以前から柳畑、わさび畑として耕作してきました。この土地は地方自治法制定、作成以前から耕作している永代耕作権の確立していました土地です。それを無償でスキー場造成事業に関宮町に貸しました。関宮町から養父市にスキー場名義は変わっていても権利関係は変わらないはずです。ここに指定管理者の問題が発生してスキー場の権利者が変わる場合には、永代耕作権者の同意なく指定管理者に経営を渡すことは出来ません。スキー場造成以来、約30年近く経ちましたがその間、無償で貸しています。現状のまま養父市が経営する場合は問題ありませんが、経営者が変更される場合は過去に溯り貸借料を永代耕作権者に支払う必要が生じてきます。
旧慣に基ずく縁使用地について、明治憲法や土地登記法が確立される以前から耕作されていた土地。
 永代耕作権。土地は熊次村に登記されましたが奈良尾村の土地です。が、内容的には明治以前からの地権者、永代耕作権者にその土地の権利があります。スキー場造成のために無償で提供しましたが、永代耕作権は私藤原文男に権利があります。また、それ以外の土地は奈良尾村の他の人たちにも権利があります。村名義であっても個人の永代耕作権があります。

 わたくしは今何故この問題を提起するのか? 農地改革の折、ハチ高原の土地、丹戸、などの村名義土地が当時の耕作者に農地解放令で耕作者に登記されました。個人に名義が移りますと外部の人に売り、ハチ高原のど真ん中に大阪や都市の人に地権が移りました。また土地は相続で売買されてゆきました。奈良尾村、福定村の土地は当時農地解放せずに、耕作者は永代耕作権のまま耕作を続けていました。氷の山国際スキー場創設のさい耕作している土地を夫々無償で村に提供、村は関宮町に無償で提供され現在に至っています。 私の土地はスキー場の食堂の前から滑降コース、ファミリーコースに2町歩くらいあります。永代耕作権の確立した土地であることを明記しておきます。

  

 私の土地はスキー場の食堂の前から滑降コース、ファミリーコースに五反歩くらいあります。明治以前からの永代耕作権の確立した土地であることを明記しておきます。村名義の土地は旧熊次村以外にもあります。村名義の山林に植林し管理したら植えた人の権利が発生している土地もあります。永代耕作権者の土地はそれと同じです。指定管理者の問題について書いておきます。

 私は氷の山国際スキー場造成、土地提供の問題で16年間土地問題を研究してきました。地方自治法も毎日読みました。農地や土地問題の専門家です。山林の境界線も現地に行けば即座に見分けられます。

  村名義の土地は旧熊次村以外にもあります。村名義の山林に植林し管理したら植えた人の権利が発生している土地もあります。永代耕作権者の土地はそれと同じです。指定管理者の問題について書いておきます。

 私は氷の山国際スキー場造成、土地提供の問題で16年間土地問題を研究してきました。地方自治法も毎日読みました。農地や土地問題の専門家です。山林の境界線も現地に行けば即座に見分けられます。


   

 宿屋という商売は、民宿でもホテルでも旅館でも、幾らでも大きくするのは簡単です。が、建物自体では収益は一銭も上がりません。人を一人泊めてナンボの商売なのです。
建物は大きくすると固定資産税が掛かります。所得税は人を泊めたら掛かりますが、固定資産税は建物自体に掛かります。儲からなくとも税金を負けては呉れません。草谷山荘は
もうとっくに償却しています。昭和47年最期の増築をしてから既に40年以上経っています。一番古い真ん中の建物は明治12年ですから、150年以上経っています。スキー客は日帰り化しています。少子高齢化時代を迎えています。儲からなくなれば木造建築ですから壊すのは簡単です。が、小さくすることは出来ません。民宿を続けている以上、何処の{下}一つ要らない建物はないですから、まあ、儲からなくとも民宿を細々と続けてゆく以外生活の方法は無いでしょう、草谷山荘ご利用の皆様、水戸黄門80歳、すき放題のホームページを書いていますが、よろしくご利用のほどお願い申し上げまして、今日のページは筆を閉じます。当座ー意、トーざーイ。水戸黄門の文さん。


                        

草谷山荘の昔の歴史。
 永正年間八木但馬守の臣にも奈良尾眼人盛貞と言う者がいて、藤原の祖になったとも言う、永正年間とは戦国争乱の足利時代から室町時代の頃である、八木但馬守は秀吉の但馬攻めで滅びている。 天明年中には、藤原三平貞長代官となり、天保年中には藤原三四郎祐筆にて山名家定府士となりその子孫が住せりと書いてある、参考文献は『美方郡史、関宮資料集、兵庫地名辞典、但馬世継記』何れにしても奈良尾の村は旧村であり藤原一族の祖は家の上の墓である。奈良尾の村は日当たりの良い旧村である。丹戸村は奈良尾の出村であり、梨ケ原、草出はその出村であるといわれている。神社は荒御霊社で祭神は素盞鳴命天文十四年勸請寛永四年再建といわれる。

 民宿、草谷山荘の創業は昭和30年であるが、藤原家の創立は祖父藤原文次郎、明治12年である。が、詳しくは下記の文書による。草谷山荘上の藤原家の墓に祭られている。久空智光信士(1670-1730死)享保15年死。が現存する墓としての歴史上の遺跡である。昔の文書など記録に残るものは少ないが、墓や諸々の歴史書を調査し記録しておく。

 久空智光信士(1670-1730死)享保15年死。久空智光信士、享保十五年死『千七百三十年死』である、従って推定千六百七十年生まれ徳川吉宗の治世である。善林信女文化2年死。篤養自現信士源兵衛(安政3年死)市郎左衛門五岳平定信士(別名五平1814生まれ、天保五年五月二十日相続。文化14年-明治16年3月16日隠居死亡日時不祥)三男藤原文次郎(安政元年生まれー昭和11年12月4日死)明治13年3月31日独立藤原喜三郎ー藤原文男ー藤原睦幸

  五平、子、兄藤三郎家出につき家督を次男伊七継ぐ別名常太郎。其の子小一郎。三郎、光男で家督消滅。
源兵衛弟初衛門-弥助は五平の弟で初衛門別名五郎兵衛の養子となる。其の子源太郎、判造。美代志
 寿彦平成24年死亡。妻のこるが子が生まれず、藤原系統は継嗣が滅亡。藤原系統はなくなる。
従って久空智光信士。一族の後継者は藤原睦幸となります。この記録は藤原文男。調査記録します。

 民宿草谷山荘は明治12年に建てられている。その中心になる建物を真ん中に、昭和30年民宿開業以来、増築などして現在も民宿として利用しています。一度立てた建物は補強はしても一度も立替していません。昭和47年最後の建築が行われた木造建築です。体育館以外は、古い木造の建物を改増し、補強して今も利用しています。材料の柱材はクリです。ケタなどはケヤキを使用しています。増築も心材はクリとヒノキを使用、土台は全部クリです。外材は一部でなるだけ使わず、タルキ、は殆ど日本材です。一本一本山からノコギリと斧で切り、ハナグリで引き出し、家の構造設計はおじさんたちが致しました。

 近くの製材所で製材しています。家の周囲は土の壁ですが壁下の竹は秋から冬、山から切り出し、おじさんたちが竹や板を打ちつけ壁を付けて上塗りしています。建築用の木材や竹は秋から冬、寒いときに切り出します。春から夏切った木材や竹には虫が入りやすく長持ちしません。一本一本の家の柱や木は山から切り出す時、吟味しています。従って民宿全体が木造と土の壁です。家に段差が多く不便ですが、人間の自然、生活環境としては最高だと自負しています。

           

 氷の山奈良尾村、藤原一族の先祖は少なくとも三百三十年前に生まれた藤原三平貞長、即ち山名家の江戸詰め定府士の子孫である事が歴史上証明されている。『但馬世継記』によれば氷の山の村は鳴尾のましらが住んでいたことにちなむとするが、風の鳴る尾根、平尾、『なるお』から変化したものか、元弘年間、奈良尾眼人というものがいたという、後醍醐天皇の時代、元弘年間には楠正成が挙兵した頃である。      氷の山の村の藤原一族は美方郡史によれば天明年中藤原三平貞長代官となり、天明年中藤原三四郎祐筆にて山名家定府『江戸詰め』となる。藤原家の家の上に墓がある。 久空智光信士享保十五年死『千七百三十年死』である、従って推定千六百七十年生まれ徳川吉宗の治世である。 後世のために藤原家の家系図をここに記録しておく。草谷山荘上の藤原家の墓に祭られている。久空智光信士(1670-1730死)享保15年死。善林信女文化2年死。篤養自現信士源兵衛(安政3年死)市郎左衛門五岳平定信士(別名五平1814生まれ、天保五年五月二十日相続。文化14年-明治16年3月16日隠居死亡日時不祥)兄藤三郎は明治元年三月十六日相続したが家出、祖父文次郎、安政元年7月17日に藤原家三男として生まれた。三男藤原文次郎(安政元年生まれー昭和11年12月4日死)明治13年3月31日独立。藤原喜三郎ー藤原文男ー藤原睦幸。久空智光信士。一族の後継者は藤原睦幸となります。この記録は藤原文男。調査記録します。

五平、子、兄藤三郎家出につき家督を次男伊七継ぐ別名常太郎。其の子小一郎。三郎、光男で家督消滅。
源兵衛弟初衛門-弥助は五平の弟で初衛門別名五郎兵衛の養子となる。其の子源太郎、判造。美代志
 寿彦
寿彦平成24年死亡。妻のこるが子が生まれず、藤原系統は継嗣が滅亡。藤原系統はなくなる。
従って久空智光信士。一族の後継者は藤原睦幸となります。この記録は藤原文男。調査記録します。

 

index.htm へのリンク