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  舞鶴銘菓『ひな鶴』 舞鶴城築城物語


  西暦1580年、戦国時代、
  織田信長が丹後の国の国主に細川藤孝(のちの幽斎)を任命しました。
  藤孝は、丹後の国の主城は宮津に構えましたが、
  若狭と京、山陰の要衝として
  この田辺(のちの舞鶴市)に城を築こうとしました。

  平地を見渡そうと山に登ったところ
  北は海に面し、三方は山に囲まれ、
  二つの川の間に湿地が広がっていました。
  これを見た藤孝は、「われ、天然の要塞を得たり!」
  雲間から陽が差し込み湿地を照らし始めた時、
  その地より鶴が二羽飛び立ちました。
  藤孝は、「鶴が飛び立ったあの地に城を築け」と部下に命じました。

  部下がその地に立ちますとまだ生まれたばかりの「鶴のひな」がいました。
  部下の報せを聞いた藤孝は、
  「城の守り神となる鶴でござろう。巣立ちまで城普請は待とではないか。」と

  巣立ちの日がやってきました。
  まだ幼い鶴ではありましたが、翼を思いっきり広げたかとおもうと
  一声「くお〜」と鳴き力強く飛び立ったのです。
  藤孝は、上空を舞う鶴をみて
  「縁起の良い城になろうぞ。
  鶴は、我ら武士のように戦うことをいとわん武神ともいわれる故、
  『武鶴城(ブカクジョウ)』と名付けようと思っておったが、
  あの優雅に舞う姿を見ると同じ読み名の『舞鶴城』の方が風流じゃわい。」
  といわれたとか。

  勇猛果敢な武人であった細川藤孝(幽斎)の
  和歌の奥義を伝える古今伝授の唯一伝承者でもあるなど
  文化人の一面をかいま見せた一コマです。

  この『舞鶴城(田辺城)』は、西暦1600年慶長5年7月、
  石田三成方西軍15000の兵に囲まれ
  500余名で関ヶ原の戦いがある二ヶ月間籠城します。
  いろんな策を弄し、この包囲軍を悩まし、
  とうとうこの城に15000の兵を釘付けにしました。
  関ヶ原の戦いにこの15000の兵が西軍に加わっていたなら
  歴史は大きく変わっていたかもしれません。

                                  文:米山隆一朗
〒624−0855 京都府舞鶴市北田辺127     京都丹後菓子匠 双鶴庵